12/31の夕方のことです。
宿で受け取った、上司S氏のアドレスで届いたそのメールは、まさに青天の霹靂といっていいでしょう。
その人の家族からでした。
緊急入院の知らせ、だったのです。
脳梗塞でした。
年末最後の仕事納めの日
来年も宜しくと、笑顔でお別れしたその方が。
健康状態もさることながら
社内のどのセクションからも突き上げを食らう日々
そして、その物言いの激しさゆえ7年越しで勤務していた他現場をついにNGされて追放され、表面上人事異動の形でやむなく次期主任としてS氏補佐の立場で入ってきた
あの人
あのとき結婚した彼
とどめになったのは、彼…K君だと思っています。
悪気は全くないのです。人の足払いをして自分を持ち上げるような悪人ではない。実直な青年です。
ただ、先述のように物言いが非常に棘がある。
業務上、つまらない不手際があれば、それこそ刺すような物言いが飛んでくる。
彼の基準に合致していなければ、容赦なく。
それは業務限定のことと解っていても、あまり業務と私情の区別が付けられない私や上司S氏には
耐え難い人格攻撃としか取れない。
その矢面に立ち続け、ここ2~3か月のK君との険悪な…というか一方的に一挙手一投足を責められるばかりの様子
そして、ギョーカイの他のだれが見ても「様子が変わった、おかしい」と言われていた上司S氏の様子
たぶん鬱病だったと思います。
K君は、あまり「うっかり」していません。隙がないのです。
なので、所謂、大雑把なうっかり者の典型であるS氏や私のようなタイプを、実感として理解することはできません。
言われた事、注意された事、伝達事項などを「うっかり」忘れたりすることが理解できない。
人間は、自分の思考回路にないものを身をもって理解することは出来ないのです。
すると、その整合性をどのように取るか。
推測ですが…
言われた事を守らないのは、自分への反感や不義理、不服。
あるいはそもそも聞く気がないほど自分自身を軽んじている、舐めている。不誠実の発現。
…このように理解してしまうのでしょう。
すると、些細な事であっても目に付き、鼻持ちならなくなってくるのは自明です。
短期間で急激にK君の態度が硬化していったのは、これが原因ではないかと思うのです。最後には人格そのものを突き刺してしまっていたから。そこまで拗れてしまったのです。
その人が主任をしていた会場、ほかにも担当していた責任業務の数々
すべてを社内のほかの人間で代行してゆかねばなりません。
そして私は今後、S氏に代わる新主任として確定したK君の矢面に毎日立つこととなります。
それは、本来の自分の能力値以上の過負荷状態を、永続的に「演じ続け」なければならないという事
出来なければ次は私の番です。オフの時間ですら油断はできないのです。
そして、そのような状況の中
自分にとっての「生きた活動」が、現役期間中、今後何度持てることなのか
日帰りレベルはともかく、
おそらくこのような大規模、10回は無いでしょう。
現役を続けるかぎり、「この先の人生のなかで」というスパンです。
ついに先が見えてしまいました。
一瞬にして
生き甲斐や楽しみ以前に、このさき生き延びることを考えてゆかねばならなくなったわけです。
倒れた人の心配以前の問題として。
…無論、その人が倒れたという事実自体、ショックも甚だしいのは当然のこと。
何しろ、いろいろと世話を焼いて下さった上司です。ずっと助け合ってやってきたのです。
その人がいなければ、2~3回辞めてるところだったと思います。
私の、生きる道は。
私は、どこまで持つだろうか。
薬はいつまできちんと効いてくれるのか。
翌日、一睡も出来ぬまま
心の火の消えたような新年1日目。
緊急呼び戻しも当然ありうるものと心構えしていなければなりませんが
もう現地に居る以上、所定の活動もせずにただ居るわけにもいきません。
ホテルもチェックアウトしなければならんし。
いつもなら。
旅用のBGMでも聴きながら日々の憂さを開放してる時間なのですが
そんなもん聴いてる気になど、なれるわけもなく
思考は完全に上の空。

それでも写真だけは完璧に残りました。
結果を見るに昨日までの場所を焼き直しするのが精一杯だったようでしたが
それはもう
半ば「本能」でやってた気がします。

撮影の合間、手洗いと食事確保を兼ねてコンビニへ向かうため
何ということのない、うらぶれた田園風景の中を歩きます。
ここは房総の最果て。
まばらに見かける人は年寄りばかり。
国道沿いにずらり並ぶ、二度と開かない店。
大きな家には、主を喪ったものも少なくない。
この街…この沿線にも
かつての賑わいが戻ることは、もう、ないのでしょう。
国鉄木原線時代は
通勤通学の要として、その任を全うしていたと聞きます。
いすみ鉄道 社長ブログより
http://isumi.rail.shop-pro.jp/?eid=2247
『上総中野から早朝に3本もの列車が上り方面へ設定されていて、そのために乗務員を6人も泊まり込みさせているということは、それだけ需要が多かったということが時刻表を見るだけで理解できますね。』
いまは、好き者の社長に交代した結果
こうして昭和レトロの観光型路線として、どうにか活路を繋いでいるものの
当時の賑わいは、もはや見る影もありません。
既に、地域が、寿命を迎え始めているわけですから。
平穏も、繁栄も、いつかは終わりが来るものです。
人の営みの儚さを、感じずには居られません。
撮影は、斯様に昨日の焼き直し感が拭えないものの、成功裏に終了。
昨日までの意気があれば、さらに違う結果があったのかもしれませんが。

やや早めに切り上げ
それでもここから20時前後まで掛かる、弟家族の家に向かう。

都心の夕暮れの空は、相変わらず綺麗で。
翌2日は、弟家族…というか
弟と甥っ子とともに多摩湖線沿線ドライブ
とうとう西武の赤電とは逢えなかったけれど
甥っ子がすごく楽しそうにしてたのが、心の癒しでした。
何をするでもないのに、いつもと違う親戚がいるだけでワクワクしてはしゃぐ年頃。
自分自身の同年代の頃を思い返せば、おのずとその心境が理解できました。

暗澹とした年明けの、一服の清涼剤です。
そして一家とともに夕食を終え、バスの時間になるまで
弟の家で、のんびりと
社交辞令な世間話をするでもなく、みんなでテレビを囲んで
寝正月の一員に。
心穏やかなひと時。いつまでも皆でぐうたらしていたいような。
何事もなければ、そのままもう一泊の予定で既に話は通っていました。
でも、それは彼の家庭の「いちばん平和で、心地よい時間帯」の一部を垣間見ているに過ぎない。
この家族だって、波乱万丈とは言わないまでも、平穏ならざる現実に直面してゆく
「日常」が殆どを占めるはず。
今は癒しの空間であっても、決して「安住の地」などではないのです。
いよいよ、バスの時間も迫る。
弟に送られながら、
そんなこんなの状況の中であっても、来年も日が合うなら短期でも絶対行こうなと約束し、小田急の駅へ。
弟のセルボを、手を振り合って見送り
──独りに、戻りました。
ホームのベンチに、大きなため息とともに
どっかと腰掛ける。
…これほど心細く、かつまた
切実に「帰りたくない」と思うのは、今まででも初めてのことです。
でも、ここは私の常在すべき場所ではない。
蹌踉とした足取りで、渋谷のバスターミナルを目指す。
来年冬か、3年後か…
次はいつお目に掛かるか解らない、東京の夜景を眺めているうち
私を現実へと連れ帰ってくれる深夜バスが来た。
ここで、しっかりと睡眠をとり
翌3日はまだ休みのままとなっているが、むろん有事待機として、
また翌日からの波乱に備え、心の衛りを固める時間とせねばなりません。
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…目が覚めた時は、いきなり鳴門海峡を過ぎていました。
やはり脳を酷使してたんだなぁ、と痛感しました。
バスを後に、この南国にして霜の降りる寒さの中、私を待つ蒼莱号の許へ帰り着く。
家まで、残り5分。
プレーヤーの選曲は
TM Network
『Still Love Her』
─冬の日差しを受ける
公園を横切って
毎日の生活が始まる
枯れ葉舞う北風は
厳しさを 増すけれど
僕は ここで生きてゆける─
夢は、終わりました。
Posted at 2018/02/01 15:06:32 | |
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