【序】
さて、最終章である。
接触編(前)編、逆襲(中)編と、纏めもせずにダラダラ綴ってきたが、これで終わりだ。
竹中平蔵なる者、いまの日本にとって、有益な人材であるかどうか?
ここまでの修辞でもう、お解かりいただけたと思う。
【公僕と為政者】
保守の火を燈し続けるためならば、大前提としてまず、経済成長を止めてはならない。国民に寛容さを求めるならば、経済指標数値の輝きを失ってはならない。
それは保守だろうがリベラルだろうが、自由主義経済を標榜する民主政治国家共通の大義である。
大義を標榜(政治学では権威の正統性という)するためには、日本には産業構造の転換が必要である―それはいい。
限られた時間と資源という条件下でこれを実現するに、即ち大を活かす為に小を見捨てる―マキャベリズムとしては、これは正しい。
新自由主義、グローバル化、そしてコーポレートランド(※1)…これも時代の流れだろう。
しかし、それだけでいいのだろうか?
そうではない。
経済指標の改善だけでは、この国は守れない。
だからこそ安倍政権下において、竹中平蔵は大臣として入閣できなかったのだ。
何故ならば、安部政権は保守政権であり、
“美しい国”を取り戻すための政権だからだ。そこにおいて、安倍政権における公僕とは、経済指標のためにすべてを飲み込むことを是とする者であってはならないはずだ。小泉政権とは違うのだ。
前々エントリでも述べたが、『安倍先生(実務では甘利先生)は、この者の意見をすべて聞くわけでなく、
国益に沿うものだけを聞き入れ、そうでないものは却下ないし適当にお茶を濁している観がある』
私は、そう信じたい。
(※1)コーポレートランド→『世界中の国をビジネスの舞台にする大企業が、あたかも他国を自分たちの領土(ランド)であるかのように振る舞う意識と業態を指す。(2011年9月30日付 JBPRESSより)』そこでは、進出先における文化風習経済制度よりも、所属する企業の価値や文化が優先される。
【国民国家と経済と】
竹中平蔵。
確かに彼の者は、マクロ経済“指標”を向上させるに異才をもち、有能であることはわかる。
だが、
有能であることと有益であることは、違う。
竹中平蔵。
私にはこの者が、
経済指標数値の向上を社会の豊かさと取り違えているように思えてならない。
言うまでもなく、国民国家の役割とは社会の豊かさを担保することではある。
しかしその豊かさとは、経済指標とイーブンな代物ではない。
少なくとも先進国においては社会の豊かさを語るに、単に富の偏在をならしたり、富全体の蓄積を示すことで可能と言えるほど、単純なものではなかろう。
そう、
国の豊かさとは単に経済指標だけで語られるべきではないのだ。
或いは幸福度指数(※2)やジニ係数(※3)といった指標でさえ、(これらが社会学という経済学の産物を出自とするが故に)そこまでの蓋然性を持っているとは思えない。
“最大多数の最大幸福”を追求するに当たり“経済指標”にその帰着点を求める、という思考は、正しいのだろうか?
それはあまりに古典的な功利主義者(※4)のドグマであり、西欧キリスト教思想に囚われ過ぎの論法である。これに囚われた往年の為政者或いは歴史家、社会科学者たちは、結果としてマルクス・エンゲルス主義に辿り着き、レーニンや毛沢東のような怪物を産み出すに至った。
経済指標の原理主義を、我が国に適用することは是とすべきではない。
私は、
国民国家の課題とは、その構成員たる国民が、その個々の富(※5)を追及しうる環境を整えること、と考える。
勿論ここで言う“富”とは、単に量的なものだけではなく、質的効用=満足そのものを示す。
量的効用とは即ち利潤の蓄積であり物質的な発展を示す。
質的効用とは教養や礼節、芸術、文化、社会貢献、レジャーや宗教活動など、精神的充足を示すのだ。
そして後者については、
決して経済指標で表すことは出来ない。
“富”は、法、治安維持や安全保障、文化や伝統、教育道徳、といった要素を高次元にバランスさせることで実現される。
それは対外的にはユニバーサルな多様性を認め、対内的には“最大多数の最大幸福”を追求する、という原則で規定されるべきである。
これこそが、
“美しい国”の雛形だ。
しかして彼の者の考え方はあまりにも功利主義的で、会話の端々には、これらに反するものが多く垣間見え過ぎるのだ。
繰り返すが、こと先進国たる日本にとって、その社会にとって有益であることと、経済指標を向上させることの意味は、必ずしもイーブンではない。
マクロ経済指標を追いかける、という行為は、社会の豊かさを追い求める行為の一端にしか過ぎないであろう。
寧ろこの日本においては、独自性という意味でのナショナリズムが、何処まで豊かに貫かれ、かつ国際社会と調和しているか、ということが重要ではないのか。
対内的には経済、伝統、文化…多神教国家ゆえの多様性…史観的かつ民族的要素をどこまで豊かにかつ発展させているか?
対外的には、自由主義経済・民主政治のルールを遵守しつつ、相互主義を以って国際社会と関わっているか?
このふたつの弁証法的矛盾を、いかに昇華させているか?
これが2675年という時間の流れのなかで、万世一系を保ってきた世界唯一の国が持つ、特有の課題であろう。
経済というものは、社会の豊かさを築く一便宜上の手段に過ぎない。
従って、
経済という利潤追求活動が、その根底にある“富”を、それが息づく社会基盤やそれ担保するための国防や治安を脅かすものであってはならない。
特に、平和とは程遠い現代国際社会においてそれは尚更のことである。
故に、私は竹中平蔵という者を、
“有能ではあるが有益ではない”
と考える。
彼は、マクロ経済という象限から国家を語る学者、という一点において唯一有能であるが、しかし公僕として国家運営に携わるには、有益な人物ではない。
以上が、当人よりは遥かに矮小にして当人には遠く及ばぬ、経済畑出身ナショナリストとしての、私の意見だ。
(※2)幸福度指数→別名GNH。「幸福は持ち物で図れるものではないこと、いかに今もっているもので満足するかが幸福の鍵である(ブータン国王)」…ま、そういうことだ。
(※3)ジニ係数→経済的な富の偏在性を表す数値。数値が小さいほど所得格差画小さいことを示す。横軸を世帯数累積、縦軸を所得額面累積でグラフ化(ローレンツ曲線という)したとき、1対1の比例線と現実の近似曲線との間に生じる差を指していう。言葉では上手くいえない。ググれ。
(※4)功利主義→ベンサム、というえらい人が、アダム・スミス論の延長で語った考え方。社会は人間の集団である。その人間は幸福を追い求めるから、社会の幸福とは、人間個々人の幸福の合計である。従って、出来る限り沢山の人が幸福である社会が理想の社会である。これを“国家が”積極的に推進するのが功利主義であり、スミスやケネーの提唱した“自由放任”とはちょっと違う。ちな、ここでいう幸福とは、すなわち“経済上の富”である(←重要)。
(※5)個々の富→ベンサムの功利主義と違って“富ってカネだけじゃないだろう?”と言ったのが、J.S.ミルという人。富に対する価値観はモノだけでははかれない、という概念。例えば、時間を大切にする人にとっては最高の時計は20000円くらいのセイコーの大量生産品。でも、時計に経済的な価値を求める人にとっての最高の時計は、IWCの機械巻き税別350万円。経済的富としては後者のほうが上だけど、それイコール万人共通の価値ではない。つまり、富とはひとそれぞれ、ということ。
ちな、私は時計なんて持ってない。携帯見れば時刻わかるじゃんw
【一片の光】
今回のこと、実はある人物のとりなしで実現した。
どのような方とは申し上げられないが、彼は国際経済研究を現場にて行う職に就いておられる方、とだけ言っておこう。ここでは仮に彼を、Aと呼ぶことにする。
晩秋の雨が、吐く息を白くする。
深夜のとば口、人影もまばらなコンコースを、私とAは帰路についていた。
タイル張りの床面に、革靴が規則正しく木霊を叩く。
コートの一枚でも用意すべきだったことを後悔するなか、私の足取りは重かった。
結局、何の解決策も見えなかった。
この先、この国はどうなってしまうのか―
A「確かに…」
まるで私の心を見透かすかのように突然、Aが呟いた。
A「確かに、現在の日本の少子化を考えると、移民という考え方は一見正しいように見えますね」
私「…」
A「しかしね、器さん。」
―まるで独白のように、Aは続けた。
A「私思うんですが、日本っていう国は、移民より前にまだできること、あると思うんですよ」
私「?」
A「
日本にはまだ、団塊世代以前の個人資産が800兆円ほどある。これと第三次、第四次産業のイノベーションを結びつければ、外資や移民の力を借りなくても、もう一花咲かせられるんじゃないか、と私は思ってるんですよ」
私「それは…」
A「
移民を考えるのは、その後でもいい!」
彼は私の問いかけには答えず、少しばかり自信を秘めた笑顔を最後に、Aはタクシーに乗り込んだ。
走り去った車の後を追うように、季節の変わり目を知らせる木枯らしが一陣、吹き抜けていく。
私はその時、淀んだ夜気が一気に拭い取られるのを、確かに感じた。
(おしまい)