【順風】
湾岸エリア、鉛色の空。
近付く台風を知らせる小雨は、残暑を一気に秋冷に染め上げてしまった。
肌寒ささえ覚えさせられる今朝の話だ。
都内某所に向け、その身を軋ませながら走る青い在来線。
乗車率は100%ちょいくらいか、座席は満席でも、それなりに何とか移動出来る程度の車両真ん中辺り。
私は、着座することもなく、スマートフォン片手に立ち乗車していた。
そこそこ空いているとは言え、いつもなら羽織ったスーツの上着が煩わしくなるほどの暑気と人熱れ、漂う化粧臭や整髪料の臭いににうんざりするところだが、幸いにも今朝の涼気はそれを上回るほどで、朝の通勤快速に乗車する煩わしさも、さして気になるほどではない。
晩夏、というよりも初秋。
8月末の出張で手に入れた思いがけない幸運に、ひそかな感謝の意を覚えつつ、私はディスプレイに流れる今朝のニュース一文字一文字を、眼で準えていた。
【予兆】
乗車してから3駅目を過ぎたあたりだろうか、窓外が密集気味の住宅地から錆び色の工業地帯に変わり始めた頃のこと。車両は緩い右カーブに差し掛かった。
軽い振動を帯びた横Gを覚えた私は、無意識に吊革に手を伸ばし、視線を窓外に向けた。
けたたましい社内の騒音とは裏腹に、窓越しに見える景色は相も変わらず無彩色で、それは然したる速度で流れ去るわけでもなく―些か大仰に過ぎる車両の躾の悪さにたたらを踏み、翻弄される老若男女の乗客たち。
心中舌打ちしつつ、その日初めて顔を出す、心の弱さ。
座りたい―そう思った。
幸いにして次駅はそこそこの分岐点、そこで停車すれば、空席も生まれる―そんな期待を胸に描きつつ、私は降車支度を始める乗客を眼で探り、自身の“移転先”に数点の目星をつけていた。
【急転】
程なくして、列車は駅に着いた。
小川を流れる笹舟のようにさらさらと流れ出る、数人の乗客たち。
そして―代わりに躍り混んできたのは、人の濁流!
出ていった乗客たちの十数倍のスピードと質量を以て雪崩れ込む、新たな客人たち!!
―冗談ではない!
それまで100%を多少超える程度だった乗車率は、ここで一気に250%を超えるレベルに達した。
押し寄せる肉と肉の圧力―身動きどころか、今や立っているのがやっと、という状態である。
今更ながら、都内23区に犇めく900万人という数字に、戦慄する。
最早そこには、秋冷の涼気などという風雅な言葉は見当たらなかった。そんなものはとうに、開いた乗車口から脱兎のごとく逃げ出してしまっていた。
代わって訪れたのは、暑気と人熱れ、漂う化粧臭や整髪料の臭い―そう、“いつもの夏の終わり”だ。
乗り換えで一瞬生まれた空席はあっという間に埋め尽くされ、私は車両中程から更にその奥、通路と車両連結部の中間辺りに押し込められてしまった。
咄嗟に右手でスマートフォンを胸ポケットに押し込み、書類ケースを抱え込む。左手はこれ以上人の奔流に弄ばれぬよう、吊り手を握りしめる。
列車は、再び動き出す。
【脱出】
どれくらいの時間が経っただろうか?
吊り手を握る指が白く変色し始めた頃―私は、あることに気づいた。
車両連結部の向こう、つまり隣の車両の、此方の車両に程近い辺りに、奇妙な空間が出来上がっていたのだ。
満員の更に満員、と言っても過言ではない通勤電車―その一画に生まれた、たかだか畳二つ分ほどの“不自然”な空間―そこには、数人分の空席さえ見受けられる。
―座りたい!
狭く、人と人がひしめき合う車内。
慣れぬ都内の通勤電車に翻弄され続け、疲れ果てた私。
そんな私にとって“そこ”はたった一ヶ所だけ、まるでスポットライトを当てられたように、この上なく魅力的な場所に見えた。
―あそこに行けば、助かる!
―あそこに行けば、この苦痛から解放される!!
或いは、砂漠でオアシスを見つけた旅人のように
或いは、絶海で大船を見つけた漂流者のように
或いは、緞帳の陰から銀幕の舞台を伺う、場末の道化師のように
私は、“そこ”に向けて幽鬼のように歩み始めた。
【栄光】
道なき道を歩むがごとく
或いは密林の獣道をかき分けるがごとく
人と人の間に挟まった書類ケースを半ば強引に引き抜き、這うように歩いた。
たった数メートルをゆくに十数秒―何度「すみません」の言葉を費やしただろうか?
人肉が蠢動し、吐き気を催すようなその圧力に抗いつつも、ようやく私は、“そこ”に辿り着いた。
それに要した時間と体力、その対価として
すり減らした心への、当然の報酬として
私は“そこ”へ、どっかりと腰を降ろした。
位置でいえば、立っている連中の頭は上にある、というのに
目線でいえば、私のほうが見上げる立場にあるというのに
―ざまあみろ!!!!!!!
私は心から、勝ち誇っていた。
勝者の気分を謳歌していた。
目の前の連中をみろ!
表情もなく、暗い目をして、無言で、この暑気と人熱れ、漂う化粧臭や整髪料の臭いにがんじがらめになって、古ぼけた電車のなかで揺すられ、掻き回され―まるでジューサーのなかのミンチじゃないか!!
冬のインフルエンザよろしくハンカチを握りしめ、マスクで顔を覆った輩さえいやがるwww
私を見ろ!
私は“座って”いるぞ!
優雅にスマートフォンを片手に、VIP板なんて覗いちゃってるぞ?
現在のお前らに、こんな真似が出来るか?
私は心から勝ち誇っていた―“それ”に気付くまでは…
【霹靂】
束の間の勝利だった。
たった数秒の美酒だった。
幾ばくかの時が過ぎた後、私は思い知らされたのだ。
私は何故“そこ”が空席であったのか、知らされることとなった。
私は何故“そこ”に人がいなかったのか、思い知らされることとなった。
それに気づいたのは、私が“そこ”に腰掛け、乗降口の上に掲げられた、路線図に目を遣った時だった。
列車の進行方向から見て左手前方、つまり腰かけた私から見て右手方向から、不意に吹いてきた、生暖かなそよ風。
それが私の運命を狂わせた。
閉めきった車内、空調もでしゃばらず、吹く風など起こるべくもない環境のなか、“それ”は突然、私の頭上から首もとをなぞり、胸元から足に向けて、ゆっくりと舞い降りてきたのだ。
生暖かなで、たっぷりとした湿り気を帯びたそれが、否応なしに私の触感を励起させ、脳髄を伝って思考を促す。
ああ、前の人が上着を脱いだのか。
冷房が効いているとはいえ、この込み具合だ。
立っていたら、暑いもんなあ―私は“座ってる”から平気だけどw
ティースプーン一杯程の同情と、大ジョッキ満タンの優越感。
再び勝ち誇りかけた、その時―
―激臭!!!!!!!!!!!!!!
そよ風が舞い降りた後、間髪置かずに訪れたのは、鼻が曲がるほどの臭気だった。
それはまるで雷撃のように私に打ち付けた。
思わず身を縮り込ませ、膝を抱え込み、無意識に顔面をガードする。
―“強烈な鉛筆+揚げ餃子臭”!!!!!!!!!!!!!!
咄嗟に鞄からハンカチを取り出し鼻を塞ぎ、呼吸を鼻から口に切り替えた。目から涙がにじみ出、臆面もなく、咳き込んだ。
【敗北】
嘗て味わったことのない、猛烈な臭い。
咳き込みながら、悟った。
何故“ここ”が空席であったのか?
何故“ここ”に人がいなかったのか?
残暑残る晩夏に何故、周りの連中がハンカチを手にし、マスクで顔面を覆っているのか?
立っている連中…奴等は気付いていたのだ。
乗客ひしめく通勤電車にあって、奴等が敢えて遠巻きにするこの一画―私の眼前のこの空間の脅威、この“ワキガ野郎”の存在を!!
見るがいい。
涙を流しながら咳き込み悶絶する私とは裏腹に、周りの連中は既にハンカチで鼻と口を抑え、マスクをつけた奴等は、その上を更に片手で覆っている。
目の前のワキガ野郎は、広々とした空間に仁王立ちし、涼しい顔でスマートフォンを取り出し、何やらメールでも打っている。
その間もモワモワと絶え間なく降り注ぐ、激臭の粒子。
遠退いていく意識のなか私は、“ワキガ野郎の人権”について思いを寄せる間もなく…敗北者たる我が身を呪い続けた。
せめて諸氏にはお伝えしたい。
満員電車のなか、不自然な空き地があっても、不用意に近づいてはならない。そこにはきっと、“ヤツ”がいるからだ。
そして、満員電車を利用するワキガ野郎たちよ。乗る前には頼むから、事前策をとってくれ。
君にも人権があるように、私にも人権があるのだ。
どんとはれ