
このところ連日世間を騒がしている某タレントの方々の「あの」ニュース。聞けば聞くほど同情の余地はないけれど、こんなのは単なる氷山の一角に過ぎないでしょうなぁ。
あくまでもテレビを見ている側の視聴者として、他にも「あ、こいつやってるだろうな…」と思うのも少なくないけれど、それはさておき。。。
それに関連したモノで私個人的にとっても思い出すコトがあります。
昨日のブログにもあるように、子供の頃からガンダムなどには見向きもせず、クルマの書籍や雑誌を図書館から借りてきては読みふけっていたコトを書きましたが、その中で想い出の1冊として
栄光への5000キロがあります。
この本は後のNISMO社長になる難波靖治さんをはじめとした
日産自動車 車両実験開発部のテストドライバー自らが
世界一過酷なラリーとして知られるサファリラリーの舞台へ
410や510ブルーバードを持ち込み、クラス優勝を成し遂げたドキュメント本です。
石原裕次郎が演じた映画版はこの本が原作となったもので、
ご存知の方も多いかと思います。
で、この栄光への5000キロ、読み進んでいくと
小学生ながらに、おやっ!? という記述がありました。
それが「覚せい剤を打って走っていた」と。
図書館から借りてきた本はすでにボロボロだったから、
おそらく初版本に近かったのでしょう。
のちに新しい本に入れ替えたものは重版だったようで、
改めて読み返した時には、その問題の部分は削除されており、
子供ながらにやっぱりマズかったんだろうな…と思ったのでした。
1960年代の日本車は世界に対してまだ弱小と見られがちであった時代。
日産自動車も例外ではなく、海外のプロのラリードライバーと契約できないばかりか、
少ない予算をやりくりするため、自社のテストドライバー自らが走っていた
というのは今では信じられないことであります。
サファリラリーは5日間で5000kmを走り抜けるという大変過酷なもので
単純に1日に1000kmをこなすコトになります。
日本国内でいえば東京〜広島間に匹敵するほどの距離であり、当然路面は未舗装。
現在もっとも過酷なデザートレースといわれる「BAJA1000」でさえ、
3日間で1000マイル=1600kmだから、当時のサファリラリーは
人もクルマもシゴキを受けていた状態とも言えるでしょう。
しかも競技区間を走り切ったとしてもそれで終わりではなく、
夜遅くに到着するため、そこから翌日に備えて整備が始まるワケで、
少数精鋭チームとなるとメカもドライバーも関係なく
一緒になって壊れた場所を直していたのだそうだ。
当然寝ている時間などない不眠不休が続き「疲労回復剤」として
覚せい剤に頼らざるを得ない状況にあったようなのです。
いくらなんでもその当時の日本でも覚せい剤取締法が制定されてた時代だし、
海外で使ったとはいえ、今よりは規制そのものが緩かったのかもしれませんねぇ。
今なお伝説として語り継がれる初期の日産の海外ラリーワークスの裏にもヤクの陰アリ。
戦中戦後を通して日本人の身近なところには、その副作用などの危険性を二の次にした
キケンな薬がいつもそばにあって、それに頼っていたのは今に始まったことではなく、
いや、むしろ多かったことだけは確かなようです。
当たり前の話しですけど、くれぐれもお世話にならないようにしましょうネ。
Posted at 2009/08/13 12:26:00 | |
トラックバック(0) |
クルマ関連 | クルマ