Apr.16 近江の名城 <国宝・彦根城、長浜城 >
投稿日 : 2011年04月16日
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彦根藩初代藩主井伊直政(1561-1602)は、徳川家康譜代家臣団のひとりで、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、東軍指揮の中心的存在となりました。
関ヶ原の戦いの後は論功行賞によって、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。
ところが慶長7年(1602年)2月1日、関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま、破傷風が元で死去しました。
その後直継が家督を継ぎましたが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、慶長8年(1603)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始、元和8年(1622)に完成しました。
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天守閣の下にある公園です。
ちょうどソメイヨシノが満開です。
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内濠の大手門付近です。
桜見物のお客さんで、もの凄いクルマの行列でした。
やはりこの時期にしか見られない彦根城のソメイヨシノは、お金を払ってでも見る価値はあると思います。
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彦根城天守閣は現存天守といい、日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことを指します。
現存天守は必ずしも創建当時の建物をそのまま保存されているものということではなく、修復などを繰り返しつつ、ほぼ創建当時のままを維持してきたものをいいます。
城の象徴である天守は織田信長に始まったともいわれ、関ヶ原の合戦前後に築城の最盛期を迎えましたが、江戸幕府の一国一城令による破却で城郭の数は減少するとともに、武家諸法度により新たな築城や増改築は禁止されました。また、江戸時代を通じて災害などによる焼失や倒壊によって、その後は再建されなかった天守もあったため(江戸城・大坂城など)、その数は減少の一途でありました。しかも、幕末から明治にかけての戦乱や明治政府の廃城令に伴う撤去、また天災や第二次世界大戦(太平洋戦争)での戦災などにより、更に失われていきました。
昭和20年(1945)頃までは20城の現存天守が存在していました。このうち太平洋戦争の戦災によって7城(水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城)が焼失し、戦後の失火によって松前城が焼失しました。このため現在、文化財として見ることができるのは主に12城のみであり、これら12か所に残る天守を総称して現存12天守といいます。
現存12天守は、弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、松山城、宇和島城、丸亀城、高知城の各天守閣です。
彦根城は以上のことから、天守が国宝に指定されています。
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長浜市にある豊公園です。
ここも彦根城と同じく、滋賀県を代表する桜の名所です。
日本さくら名所100選に選定されています。
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戦国時代の長浜城は、ここから数kmほど北にあった小谷城の浅井長政との戦いによって、その旧領を拝領した羽柴秀吉が築城しました。
もともとの地名を今浜といいましたが、織田信長の名から秀吉が長浜と改名しました。
長浜城は天正3~4年(1575~1576)頃、完成しました。
湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていました。
城下町は小谷城から移し、秀吉が最初に築いた居城でした。
その後、柴田勝家の甥柴田勝豊、山内一豊が6年間在城し、関ヶ原の合戦後には内藤信成・信正が城主になりましたが、元和元年(1615)に廃城となり、資材の大半は彦根城に流用されました。
現在の天守は、1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
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豊公園は日本さくら名所100選に選定されているだけあって、素晴らしい桜の光景を演出しています。
桜のトンネルです。
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今日の滋賀県長浜地方は昼過ぎでしたが気温が13℃ほどしかなく、また比叡山方面からの冷たい強風で肌寒い一日でした。
面白いもので、名神高速で岐阜県内まではだいたい20℃を超えていたのですが、滋賀県に入るやいなや気温がグッと下りました。
桜の開花でいうと、東京に比べると約1週間近く遅い開花でした。
ただ、その“時差”があって2週間連続で綺麗な桜を見れたということがいえるのですが。
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