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くろまめたろうのブログ一覧

2015年12月28日 イイね!

ロングイェールビーン

ロングイェールビーンロングイェールビーン(ノルウェー語: Longyearbyen)は、ノルウェー領スヴァールバル諸島にある町。スピッツベルゲン島西部のイース・フィヨルド南岸に面している。人口は2040人(2008年)でスヴァールバル諸島人口の大半を占め、1000人以上の人口を有する町の中では、世界で最も北にある。かつては炭鉱町だったが、現在では観光・教育・研究にも重点が置かれている。長らくスヴァールバル総督府を通した政府直轄管理が行われていたが、2002年に基礎自治体に相当する地域行政府(lokalstyre)が成立した。ロングイールビュエンとも呼ばれる。また、スカンジナビア航空の日本語サイトではロングヤービーエンと表記されている。

町の名は「ロングイェールの町」の意。ロングイェールとはスヴァールバル諸島で炭鉱経営を行ったアメリカ人実業家ジョン・マンロー・ロングイェール(en)のことである。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/57/Longyearbyen_main_street.JPG/1280px-Longyearbyen_main_street.JPG]
Posted at 2015/12/28 10:19:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年12月24日 イイね!

篠山市

篠山市兵庫県中東部に位置し、東西30km、南北20kmのやや長方形で、広さは377.61km2で県内第8位、兵庫県域の約4.5%を占めており自然環境の豊かな地域である。地目別にみると農地48.8km2、宅地8.36km2、山林207.63km2となっており、四方を山に囲まれ篠山盆地を形成し、市の中心部は盆地内に位置する。古来京都への交通の要として栄えてきた歴史があり、町並みや祭りなどに京文化の影響を色濃く残している。兵庫県でも旧丹波国に当たるため神戸より京都との方が結びつきが強い。気候は盆地特有の寒暖差が顕著で冬季の寒さは比較的厳しく、夏は高温・高湿であり、いわゆる内陸性気候に属する。主な産業は、農業、観光業が中心となっているが、少子高齢化の影響により他の地域と同様に農業の衰退が顕著であり、産業面において構造転換を迫られている。現在では観光と農業を組み合わせた観光農業(グリーンツーリズムの類)や、気候の寒暖差を活かした特産物の農業生産に移行しつつある。例えば、盆地特有の寒暖差を生かした丹波黒大豆の生産が全国的にも有名となっている。一方で山林の多くは杉・檜などの植林となっているが、木材価格の低迷や後継者難から主要な産業とはなっていない。また、秋から冬にかけては盆地特有の濃い霧が発生する日が多く、低い山(盃ヶ岳など)からでも眺められる雲海は「丹波霧」とも呼ばれ名物にもなっている。

アクセス面においては市内西部を縦貫するJR福知山線(宝塚線)の複線電化、舞鶴若狭自動車道(開通時は「舞鶴自動車道」)の開通により、大阪や阪神間へのアクセスは良くなっており、宝塚、伊丹へは片道40?50分、大阪へは1時間程度といった通勤圏となっている。このことからも経済的には、舞鶴や福知山をはじめとする北近畿経済圏というよりは大阪経済圏といった方がよい。しかし人口はここ近年減少傾向にあり、地価の下落も著しい。
[篠山市位置図]
Posted at 2015/12/24 10:20:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年12月21日 イイね!

水ヶ峯

水ヶ峯高野山内から小辺路へのとりかかりは金剛三昧院の入り口右手にある坂道である。林道を道沿いに登りきると、ろくろ峠である。高野七口のひとつでもあったろくろ峠からは平坦な尾根沿いの林道を進み、薄峠(すすきとうげ)手前の切り通しから御殿川(おどがわ)へと下る。下り道の途中には町石一基がある。御殿川にかかる橋を渡ってからは急な坂を上って大滝集落に入る。集落最奥の民家の脇から林道を通り、高野龍神スカイラインに合流する。1キロメートルほど歩いて水ヶ峯の尾根道に達するまでに、立里荒神社を山頂に祀る荒神岳への遥拝所の鳥居がある[102]ものの、高野龍神スカイラインの整備により古道は失われている[99]

高野龍神スカイラインから左手の尾根道に上るとそこが水ヶ峯である。水ヶ峯は近世には宿場を営む集落で、杉の防風林が残されている。水ヶ峯を過ぎ広葉樹林がしばらく続いたあと、尾根上の林道タイノ原線に合流する。前述のようにタイノ原線の建設により尾根上の古道はほぼ完全に失われている。高野山から大股までの区間は、「大半が高野龍神スカイラインと水ケ峰 ? 大股間の林道タイノ原線によって破壊されている」[103] のである。

タイノ原林道が通る尾根道には、麓の集落への分岐点であった檜股辻・今西辻・平辻が続く。平辻のそばには旅籠跡とみられるわずかな平坦地がある[104]。この辺りの小辺路は尾根道を通り、所々でふもとの集落への枝道を分岐させている。ふもとの集落にとっての小辺路は、物資集散地であった高野山への幹線道路として重要なものであった[105]。平辻からはスギ植林地の中の地道を進んで県道川津高野線に降り立ち、川原樋川(かわらびがわ)のほとりの大股集落に至る。

大股集落は『清良記』にも名があることから、室町初期には街道集落として成立していたものと見られ、『めぐり』にも伯母子峠越えを控えた宿場として機能していたようすが記されており[106]、津田屋・坂口屋等の旅籠の名が伝えられている[107]。大股は、高野山と十津川村神納川などとの間の物流中継地でもあり、馬方の親方として活躍した池尾馬之介という人物の名が今日に伝えられている[108]
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/22/Rokuro_pass%2C_Koyasan.JPG]
Posted at 2015/12/21 10:29:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年12月17日 イイね!

梁山泊

梁山泊梁山泊のあった場所(現在の山東省西部)は、黄河によって形成された海抜ゼロメートル以下の内陸低地であり、一帯は古くから黄河の氾濫が繰り返されることによって無数の水路と沼沢が生まれた。特に五代十国時代の944年の黄河の氾濫のとき堤防が決壊して河水が流れ込み、この地には大沼沢が生まれた。梁山泊の名があらわれるのは五代から北宋の頃で、近くに梁山という名の山があったことから梁山泊と呼ばれた。

梁山泊の上流にあたる現在の河南省東部では黄河の大氾濫が北宋の時代にも1019年、1077年と相次ぎ、梁山泊はさらに規模を大きくした。やがて11世紀の末頃から、水路とかつては小丘陵だった島が入り組んだ梁山泊は盗賊や政府に反抗する者たちの巣窟となり、宋王朝を大いに悩ませた。

北宋にかわってこの地を支配した金の時代の1194年には黄河の大氾濫が起こって河はこの地域で南北に分かれ、山東半島の南、淮河の方面に流れる南流が1855年まで700年にわたって本流となるが、その当初は黄河は梁山泊に注いで分かれていたという。その後、頻繁な河道の変遷を経てやがて干上がり始め消失した。

梁山泊近辺に横行した反抗者の中でも、北宋末期の12世紀初頭に河北で蜂起し山東一帯で10郡を制圧した宋江の反乱軍は猛威をふるった。14世紀の元の時代に編纂された『宋史』侯蒙伝には、「宋江 京東に寇す」「(宋)江 三十六人を以(ひきい)て斉・魏に横行し、官軍 数万なるも敢えて抗する者無し」とある。まもなく宋江の反乱は鎮圧されるが、やがてこの史実をもとに、梁山泊に宋江以下36人の好漢たちが立てこもる物語が生み出され、明の初め頃に、梁山泊に集う108人の好漢を主人公とする小説『水滸伝』へとまとめられた。

現在の梁山泊は、沼沢の面影を全く残していないが、小説中の山塞を復元した観光施設がある。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c2/Porcelaine_chinoise_Guimet_281106.jpg/1024px-Porcelaine_chinoise_Guimet_281106.jpg]
Posted at 2015/12/17 10:22:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年12月15日 イイね!

国家神道

国家神道「国家神道」は広義には神道的な実践を国民統合の支柱とするもの、狭義には「宗教」とされた「教派神道」に対して内務省神社局によって統制されたものをいう。国家神道の定義によっては、内務省が神社を管掌する以前の神祇官、教部省による神社行政も含まれる。

大日本帝国憲法では文面上は信教の自由が明記されていた[1]。しかし、政府は「神道は宗教ではない[2]」(神社非宗教論)という公権法解釈[3]に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示し、また自由権も一元的外在制約論で「法律及び臣民の義務に背かぬ限り」という留保がされていた。宗教的な信仰と、神社と神社で行われる祭祀への敬礼は区分されたが、他宗教への礼拝を一切否定した完全一神教の視点を持つキリスト教徒や、厳格な政教分離を主張した浄土真宗との間に軋轢を生んだ面もある[4]

大日本帝国憲法第28条の条文では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となっていたが[1]、この「臣民タルノ義務」の範囲は立法段階で議論の対象となっており、起草者である伊藤博文・井上毅は神社への崇敬は臣民の義務に含まれないという見解を持っていた[5]。昭和に入ってから美濃部達吉[6]や神社局 [7]には神社崇敬を憲法上の臣民の義務ととらえる姿勢があったが、内務省の公式見解として示されることはなかった。

1889年の勅令第12号によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止され、「宗教ではない」とされた国家神道は宗教を超越した教育の基礎とされた。翌1890年には教育勅語が発布され、国民道徳の基本が示され、国家神道は宗教・政治・教育を一体のものとした。

時代により、政府による国民への「神社崇拝」の奨励の度合いは異なった。官国幣社は内務省神社局が所管し、新たな官国幣社の造営には公金が投入された。万世一系・神聖不可侵の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い絆があることを前提に、全国の神社は神祇官の元に組織化され、諸制度が整備された。当初、全国の神社は全て官有となり、全神職は官吏(神官)となった。だが、制度に未成熟な部分があり、神官と呼ばれる官吏としての神職は伊勢神宮に奉仕する者のみとなった。官国幣社の神職には官等を配し、位階、勲等を付与した。その多くは判任待遇としたが、一部は奏任官待遇(高等官)とし、叙位の恩典も与え、退職後の恩給制度も整備した。村社以上の社格の神社の例祭には地方官の奉幣が行われ、上級神職による神葬祭等の「宗教的な活動」を政府が厳禁し、一種の国教的な制度であったとされる[8]

第二次世界大戦後、GHQにより「神道指令」(後述)が出され、国家神道は解体へ向かったが[9]、国家と神道を巡る政教関係については論争が続いている(日本国憲法第20条、信教の自由、政教分離原則、津地鎮祭訴訟、靖国神社問題参照)。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Empire_of_Japan_50_sen_banknote_with_Yasukuni_Shrine.jpg]
Posted at 2015/12/15 10:18:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ

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