最近
夜がだいぶ涼しくなり、過ごしやすくなりました。
確かにもう9月も終わり。
秋がすぐそこまで来て、雨の降る日が多くなってきました。
最近
保護猫カフェに行くことが多くなりました。
新しい新築にしたら、猫をあと2匹くらい増やしたいと考えています。
「商品」として売られているものではなく、
何らかの理由で保護された猫を引き取るのです。
昨日、とある猫の写真展示ギャラリーを見に役所へ行きました。
毎日、かわいいとか猫の世話を旦那にほとんど押し付けていた自分ですが、
その展示会に行くと、衝撃的な写真が待っていました。
「5万5千」
とは、年間に殺処分される動物の数です。
その写真の展示会には実際に保健所が猫や犬をどうやって殺処分するかを細かく
写真に撮り、最後は焼却炉で燃やして骨にするまでを細かく写真に撮っているものです。
その殺処分の一部始終を写真で生々しく展示していました。
子供らにはまだわかりませんが、
身近にこうゆうことが起きていることが知っていてもその写真は
言葉を失うほど衝撃的すぎでした。
そのほかに、写真家が野良猫をありのままに撮っている写真も展示されていました。
目がつぶれていたり、両目がつぶれてよだれをダラダラしている重症な猫の姿が、
沢山写真にて展示されていて、目を背けたくなるような、涙が何度もこみあげてきましたが
子供がいたので我慢しました。
私は、実家で犬ばかり飼っていたので、
旦那と一緒になるまで猫とは疎遠で、
逆に猫は嫌いでした。
野良猫にしても、人に寄り付かないし、餌をあげるとしつこくもらいに来るし、
その割には触らせてくれないし・・。
逆に犬は常に飼い主に忠実で尻尾を振って喜びを大いに表し飼い主を居心地良くさせてくれます。
猫はツンデレもいいいとこ、懐かないし、引っ掻くしと印象が悪くて、
野良猫を見つければ、シーっと言っては、何かを投げるようなそぶりを見せては、
すぐ追い払っていました。
転機が訪れたのは、旦那が大阪から関東に越してきたときに、
連れてきた今のチャトラの猫。「とら」
私の住まいではペット禁止なので、面倒はごめんだから、
こっちに来る前に誰かに譲渡してねと言いました。
それで、譲渡先が決まってはいたのですが、その新しい飼い主が高齢の方らしく、
旦那が出発寸前に体調を崩し、譲渡できず、そのまま大阪から関東に連れてきました。
旦那は「にゃん太郎」と呼んでいましたが、
私がしばらくしてからトラと名前を変えました。
トラはあばら骨が見えるくらい痩せていました。
餌は普通にあげていたとは言っていましたが・・。
とにかく威嚇がすごくて、もちろん私が近づくと「う~~~」と低く唸り、
無理に触ろうとすると噛み付き引っ掻きました。
それに私も逆上し、最初はモノを投げて「出てけ~」と、
虐待まがいのことをしていました。
今思えば、知らないところに来て、知らない私をいきなり受け入れられる訳もないです。
そんな事も理解できなかった自分が本当に恥ずかしい。
トラはあちこちでマーキングとばかりにお漏らしをして、特に寝室にしていた部屋では、
枕に何度もお漏らしをし、しかもその匂いが半端なく臭く、
私もなかなかそんなトラを受け入れられませんでした。
去勢してなかったこともあり、去勢してしばらく様子を見ることになりました。
去勢後は臭いにおいのおしっこはしなくなり、ずいぶん匂いもなくなりました。
でも目やにが頻繁に出るようになり、目薬したり、餌も色々変えたり、
何度か病院にも連れてゆきました。
そして気づいたら、私が一人でPCと仕事をしていると、そばにきて座るようになりました。
多少距離を保って・・・・。
深夜は遊んでもらおうと私の腕を噛むけれど、
それにももう慣れました。
私たちが寝てしまうと、おとなしくそばで寝ます。
今になって、猫の生き方をやっと理解して、猫を飼ってよかったと思うようになりました。
トラは雄でとにかく気が強いし、子供は嫌いで「シャーシャー」言うし、
でも、今では私が触ろうとすると嫌がることなく触らせてくれます。
いつからそうゆう関係になったかはわからない。
でも気づいたら、ぐっと近い距離になってました。
犬の飼い方の影響があって、なかなか猫とゆう動物の飼い方が理解できなくて、
苦労はしたけれど、今日、トラが居て本当に良かったなと思います。
トラはキャリア(病気)を偶然持っていなかったのですが、
猫カフェには猫エイズを持つ者もいます。
その猫たちをもらう勇気がなく、いつも訪れるたびに「あっちへ行け」と言わんばかりに
「シャーシャー」言われて触ることもできず部屋から出ます。
まるで私の心を読んでいるような感じです。
病気になりたくてなったわけじゃない。
でもその病気のせいで人にもらわれず、病気のせいで早く死んでしまう。
そうゆう猫を引き取りたいと思う反面、自分は仕事で家を空けてしまうことがほとんどだし、
何かあっても看取ってあげられない可能性もある。
何よりもゴタゴタ書いているけれど、本当は怖い。
自分も病気になるのではとか、その命に見合うお世話を責任をもってしてあげられるのかって、
勇気がないだけです。そして怖い。率直に、人間より短い命を持つ猫だけれど、
その死を受け止めてあげられるのかなって。
意味もなく、毎年数万単位で殺処分されてしまう動物。
最後のごはんをもらい、冷たい廊下を歩き、おびえながら部屋に入り、
ガスで充満にされ、苦しいと最後に精いっぱいもがいで叫んで死んでしまう。
そんな「死の選択」を誰が決めるのでしょう。
殺処分ゼロの国もある一方で、日本では動物愛護法の法律改正もまともにならない。
「週刊金曜日」に書かれていた裏話を読めば、いかに政治家が、
自分勝手な政治資金の都合で知らぬ存ぜぬをしているか。
救えない命、救える命、
その境界線を作ってしまったのは誰。
高齢者や貧困者が増えることで、犠牲になる動物たち。
これから多頭飼育の崩壊した現場がもっともっと生まれるでしょう。
猫の耳がかじられているような先端が切られているような傷を
見たことはありますか?
沢山の人があの意味を知るべきでしょう。
猫に同情したところでなんにも変わらないかもしれない。
私にもできることは限界がある。
それでも多くの命を救おうと猫を保護する施設は頑張っている。
そこにいる猫たちは誰も喧嘩もしてない。
いのちの境界線。
猫にとっての、動物にとっての生きる場所・意味を考えさせられた日だった。