今回のメインディッシュ箕輪城です。
写真が随分と多くなってしまったので、2回に分けさせてもらいます。
前半は、城址の外回りを紹介します。
箕輪城
明応・永正年間(1492〜1521)に長野業尚によって築かれたと云う。
関東管領上杉憲政が、越後に落ち延びた後も城主
長野業正は上野の中心として、武田信玄の侵攻を数回に渡り死守。
併し長野業正没後、支城を落とされ箕輪城は孤立していき、永禄9年(1566)城主長野業盛は家臣70数名と自害して果て、箕輪城は落城した。
其の後、武田氏、滝川氏、北条氏の手に渡り、徳川家康の関東移封に伴い、井伊直政が城主となったが、高崎城の築城により廃城となった。
大手虎韜(ことう)門
井伊氏時代の大手門。長野氏の時は搦手だったそうです。
現存している石垣、堀切、その他の遺構は井伊氏時代の物です。
白川口埋門
埋門とは、虎口の両側に石垣を積み、其の上に土手を作り、トンネル状にした門のことを云いますが、初めて見ました。感激!
此の先には、鷹留城があるので、秘密の通路として使われていたそうです。
法峯寺(水の手曲輪)
城で使う水が此処から湧き出ていたそうです。
周囲の地形が「箕」の形に似ていたので、箕輪と呼ばれるようになったとか。
法峯寺は、廃城後に此処に移って来ました。
椿山の砦
城址から一寸離れた県道向かいには、古墳を利用した出丸が築かれていました。
搦手口
長野氏時代は此処が大手口でした。今回僕は此処から登城しました。
新曲輪
長野業正が築いたと云われる新曲輪。段が付いているのが分かります。
城の中核は平山城ですが、此の辺りは平城になってます。
御前曲輪北堀
此処で三つの曲輪、五つの堀切が交差する重要箇所。
此んな感じで堀底を歩いて見学出来ますが、実際に堀切は通常は通路として使われていたようです。
蔵屋敷
其の名の通り食物保管用の蔵があった所。
一説によると辻馬出しの機能を伏せ持ち、此処が出撃の拠点になったとか。
北部の曲輪は、あまり管理されておらず薮と化してます。
橋台
堀は此処で狭くなっており、本丸(画面右)の西虎口と蔵屋敷(画面左)を繋ぐ木橋が架かっていました。
橋の規模は、幅5.9m、高さ7.4m、長さ27mであったと推定されるそうです。
本丸側に石垣があると、案内板には書いてありましたが、崩れ防止の為か土嚢が随分と盛ってあって確認出来ませんでした。
鍛冶曲輪
鍛冶場があり、此処で武具の作成や修理を行っていたそうです。
木俣
通路が二俣、三俣に分かれる所を木俣と云い、其処に似ている為、または井伊氏の家臣の木俣氏の屋敷があった為名付けられたとか。
発掘調査で掘立柱建物の一部が確認されたそうです。
赤城山
木俣の東側から赤城山が見えました。長野業正や業盛も見ていた事でしょう。国破れて山河在り…
三の丸 鍛冶場跡
三の丸では、鍛冶炉、建物の柱跡が多数確認出来たそうです。炉の周辺からは鉄かすや火打石、釘、ふいごも出土したそうですが、麓に資料館でも造って展示してくれないかなあ。
三の丸 石垣
三の丸には石垣が良く残っており、一番高い所で4m積まれているそうです。
こう云う如何にも戦国時代的な荒々しさがある石垣大好き♡
後半は、城の中心を紹介したいと思います。
参考文献:日本城郭大系4、群馬の古城、現地案内板
本日は此れ切り。
Posted at 2009/12/26 22:32:30 | |
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