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りょうさいのブログ一覧

2009年12月28日 イイね!

上州長野盛衰記 其の七 保渡田城(付内藤塚)

ついでなので、箕輪城落城後の武田の上州支配も追ってみましょう。

保渡田城
箕輪城落城後、武田信玄は内藤修理亮昌秀(昌豊、最近の研究では昌秀が正しいらしい)を箕輪城に置いたが、昌秀は在城せず、新たに保渡田城を築き、西上州七郡を支配した。
昌秀が長篠の戦いで戦死後は、息子の大和守昌月(まさあき)が跡を継ぎ、武田滅亡後は、滝川氏、北条氏と主を変えたと云う。

本丸

本丸は保渡田北部公会堂と云う公民館、及びアパートになってます。
案内板すら置いてないので、此処が城址だと知っている人は少ないのではないでしょうか。
本丸は方形になっており、平城なので城と云うよりも城館と云う感じがします。

櫓台(天守台)

天子塚古墳を利用して、本丸南虎口には櫓台(天守台)がありました。
高さは5mあり、現在は百庚申が建ってます。
古墳を利用した砦や陣城って結構あるみたいですね。

本丸 堀

本丸の東側の堀は、今は用水路と化してます。
当時も水堀だったんでしょうか。

北城 堀

二の丸の一部分は北城と呼ばれ、大部分が宅地、畑化している中でよく見れば、遺構が確認出来ます。
此処はU字溝が埋まってますが、元々は北城の西側の堀です。

北城 土塁

北城の北虎口から見た土塁(画面左)。
今は民家の一部で竹薮になってますが、明らかに土塁と云うのが分かります。
二の丸は、本丸をぐるりと螺旋状に構えられています。

最後は善龍寺の内藤塚を見て来ました。

善龍寺の内藤塚
箕輪城落城によって戦災を受けた善龍寺を内藤昌秀(昌豊)が満行山と改号させて再建させた。
昌秀が長篠の戦いで戦死した為、跡を継いだ昌月が此処に昌秀の遺骸を葬った。
其の後昌月が亡くなり、一緒に葬られ内藤塚と呼ばれる様になったと云う。

善龍寺

所で、箕輪城周辺で武田信玄の人気ってどんなもんなんでしょ?
やっぱり長野業正引贔屓で、武田は悪者なのかな。

内藤塚

善龍寺から一寸南に離れた所に建つ内藤塚。
内藤昌秀は良いとして、息子の昌月が今イチ不明なようです。
書物によって名前も違うし、没年も様々。

久しぶりに一人で史跡巡りが出来て楽しかったです(^_^)
子供連れだと流石に、鷹留城、箕輪城は厳しいですから。

参考文献:日本城郭大系4、群馬の古城、現地案内板

本日は此れ切り。
Posted at 2009/12/29 00:13:16 | コメント(3) | トラックバック(0) | 上州長野盛衰記 | 旅行/地域
2009年12月27日 イイね!

上州長野盛衰記 其の六 箕輪城後編

箕輪城後半は、城の中心部を紹介します。

郭馬出

此処の西虎口には、二階建ての屋根付き城門の礎石が確認されたそうです。
説明はありませんでしたが、矢張り井伊氏時代の物なのかな。

大堀切

城を南北に分断し、一城別郭をを構成している大堀切。
鷹留城にも見られましたが、箕輪城の物は幅30m、深さ15mの大規模。
箕輪城の最大の見所!もうビンビンです!(何が?)

土橋

大堀切で南北に分断された城郭を移動する唯一の場所が此の土橋。
手前が二の丸で、大堀切の向こうが郭馬出。
土橋には石垣が積まれており、6m埋まっていたそうです。

二の丸

二の丸は出撃の起点となる場所で、東西南北何れへも向かえる様になってます。

本丸門馬出し

東から南へ鍵型の土居があり、搦手口、二の丸へ出撃出来る様になってます。

堀切

本丸門馬出しの西、本丸と二の丸の間の堀切です。
大堀切も凄いですが、此れも見事な物。

本丸南虎口

東側(画面右)に土塁があるのが分かりますね。
此処には門まで石畳があったそうです。

犬走り

上記の堀切沿いに本丸には土塁があり、石垣が積まれていました。
此の石垣は犬走りとして、通路にも使われていました。

本丸

城の中心部であり、出土品の状況から城主の住む館があったと推察されるそうです。

本丸土塁

南虎口から御前曲輪まで高さ2mの土塁が続いています。

御前曲輪

本丸と高さが同一で、本丸の一部分と考えられています。
箕輪城の精神的な中枢部分で、此処に持仏堂があり、箕輪城落城の際、若き城主長野業盛は此処で自害しました。
一番最後に訪れた場所で、遺構の凄さに興奮した気分も吹き飛び、落城の哀しさが胸をよぎりました。

御前曲輪石垣

写真を整理していてふと気付いたのが、石垣があるのは大堀切で区切られている北側だけと云う事。
堀の深さも南北で違うようです。(北側の方が改修された為深い)

井戸

御前曲輪にある井戸。昭和二年(1927)に豪雨による地盤沈下がきっかけで発見されたそうです。
井戸の底から長野氏の墓石が出て来たそうですが、一体誰が埋めたんだろ?
長野業盛が自分で埋めたのか、其れとも武田あたりが攻略に手こずった憂さ晴らしに埋めたのか?

早歩きで1時間半かけて見て回りましたけど、大満足の城址でした(^_^)
ブログ書くのにもう一度資料を見直すと、行ってない箇所も幾つかあり、もう一度行ってみたいですね。

参考文献:日本城郭大系4、群馬の古城、現地案内板

本日は此れ切り。

Posted at 2009/12/27 18:21:14 | コメント(2) | トラックバック(0) | 上州長野盛衰記 | 旅行/地域
2009年12月26日 イイね!

上州長野盛衰記 其の伍 箕輪城前編

今回のメインディッシュ箕輪城です。
写真が随分と多くなってしまったので、2回に分けさせてもらいます。
前半は、城址の外回りを紹介します。

箕輪城
明応・永正年間(1492〜1521)に長野業尚によって築かれたと云う。
関東管領上杉憲政が、越後に落ち延びた後も城主長野業正は上野の中心として、武田信玄の侵攻を数回に渡り死守。
併し長野業正没後、支城を落とされ箕輪城は孤立していき、永禄9年(1566)城主長野業盛は家臣70数名と自害して果て、箕輪城は落城した。
其の後、武田氏、滝川氏、北条氏の手に渡り、徳川家康の関東移封に伴い、井伊直政が城主となったが、高崎城の築城により廃城となった。

大手虎韜(ことう)門

井伊氏時代の大手門。長野氏の時は搦手だったそうです。
現存している石垣、堀切、その他の遺構は井伊氏時代の物です。

白川口埋門

埋門とは、虎口の両側に石垣を積み、其の上に土手を作り、トンネル状にした門のことを云いますが、初めて見ました。感激!
此の先には、鷹留城があるので、秘密の通路として使われていたそうです。

法峯寺(水の手曲輪)

城で使う水が此処から湧き出ていたそうです。
周囲の地形が「箕」の形に似ていたので、箕輪と呼ばれるようになったとか。
法峯寺は、廃城後に此処に移って来ました。

椿山の砦

城址から一寸離れた県道向かいには、古墳を利用した出丸が築かれていました。

搦手口

長野氏時代は此処が大手口でした。今回僕は此処から登城しました。

新曲輪

長野業正が築いたと云われる新曲輪。段が付いているのが分かります。
城の中核は平山城ですが、此の辺りは平城になってます。

御前曲輪北堀

此処で三つの曲輪、五つの堀切が交差する重要箇所。
此んな感じで堀底を歩いて見学出来ますが、実際に堀切は通常は通路として使われていたようです。

蔵屋敷

其の名の通り食物保管用の蔵があった所。
一説によると辻馬出しの機能を伏せ持ち、此処が出撃の拠点になったとか。
北部の曲輪は、あまり管理されておらず薮と化してます。

橋台

堀は此処で狭くなっており、本丸(画面右)の西虎口と蔵屋敷(画面左)を繋ぐ木橋が架かっていました。
橋の規模は、幅5.9m、高さ7.4m、長さ27mであったと推定されるそうです。
本丸側に石垣があると、案内板には書いてありましたが、崩れ防止の為か土嚢が随分と盛ってあって確認出来ませんでした。

鍛冶曲輪

鍛冶場があり、此処で武具の作成や修理を行っていたそうです。

木俣

通路が二俣、三俣に分かれる所を木俣と云い、其処に似ている為、または井伊氏の家臣の木俣氏の屋敷があった為名付けられたとか。
発掘調査で掘立柱建物の一部が確認されたそうです。

赤城山

木俣の東側から赤城山が見えました。長野業正や業盛も見ていた事でしょう。国破れて山河在り…

三の丸 鍛冶場跡

三の丸では、鍛冶炉、建物の柱跡が多数確認出来たそうです。炉の周辺からは鉄かすや火打石、釘、ふいごも出土したそうですが、麓に資料館でも造って展示してくれないかなあ。

三の丸 石垣

三の丸には石垣が良く残っており、一番高い所で4m積まれているそうです。
こう云う如何にも戦国時代的な荒々しさがある石垣大好き♡

後半は、城の中心を紹介したいと思います。

参考文献:日本城郭大系4、群馬の古城、現地案内板
 
本日は此れ切り。


Posted at 2009/12/26 22:32:30 | コメント(3) | トラックバック(0) | 上州長野盛衰記 | 旅行/地域
2009年12月25日 イイね!

上州長野盛衰記 其の四 郷見神社

郷見神社
境内にある諏訪山古墳を、里見氏の祖里見義俊が源氏の氏神である八幡神を祀ったのが始まりとされる。
中世は諏訪神社と呼ばれていたが、明治になり下里見地域の四社を合祀して現在の郷見(さとみ)神社となった。

拝殿

此の神社の事をwebで調べていたら、此処も城址だと紹介されていた個人のブログがありました。
手元にある資料にも無いし、他のサイトでも其の様に紹介されていた所も無かったので、何を根拠とされているかは不明ですが、城址と云われてみれば、そうにも見えて来ます。
城址だと仮定すれば、此の辺りが本丸となるのでしょう。

里見八幡宮

諏訪山古墳が里見八幡宮となってます。
此の上に櫓でも建っていたんでしょうか。

遠景

地元では、新田義重は元々里見家の出身で若い頃は此の地で育ち、新田本家へ養子に入ったと云う伝説があるそうです。
幼少の頃は里見小五郎と云い、小五郎谷戸、小五郎橋等の地名が残っているそうですが、僕は此の手の伝説はあまり信じません。

氏子の名前が書かれた石碑を見たら、里見さんの名が。今でも子孫の方が残っていらっしゃるんですね。

参考文献:現地案内板

本日は此れ切り。
Posted at 2009/12/25 22:19:13 | コメント(1) | トラックバック(0) | 上州長野盛衰記 | 旅行/地域
2009年12月24日 イイね!

上州長野盛衰記 其の参 里見城

本日はクリスマスイブですが、それがしは切支丹ではないので、歴史ネタをば(^_^)

里見城
新田義重の三男里見義俊の居城と現地には伝わるそうだが、学会では否定されているようだ。
戦国時代、城主里見河内は長野業正に従っていたが、永禄9年(1566)武田信玄に攻められ落城。
其の後、里見城は廃城となった。

城山稲荷神社

里見城に行くには、城山稲荷神社の大鳥居が目印です。鳥居の手前に駐車スペースがあります。
此の城山稲荷神社は里見城の鬼門除として建てられました。

外郭

外郭は現在、梅林や墓地、薮と化してます。

本城

本城は一辺80mの方形です。
奥に民家が一軒建ってますが、人が住んでいるかは不明。

土塁

本城は土塁に囲まれていますが、篠がボウボウに生えてます。

堀切

本城と外郭の間には、長さ100mの堀切があります。
画面左が本城で、右が外郭ですが、こんな所にもお墓が。

虎口

本城の虎口には土橋が確認出来ますが、う〜ん、写真では分からないですねえ(^▽^;)
喰い違いになっており、画面右の北側の土塁が土橋を守ります。

腰郭

本城西南の腰郭は、完璧に薮です。

本城の草は刈られていましたが、全体的に薮が凄いσ(^_^;)
夏に来ると大変そう。

参考文献:日本城郭大系4、群馬の古城

本日は此れ切り。





Posted at 2009/12/24 23:13:19 | コメント(3) | トラックバック(0) | 上州長野盛衰記 | 旅行/地域

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「最近、みん友の皆さんにコメント出来なくてごめんなさいm(_ _)m」
何シテル?   07/21 22:46
車のサイトなのに、車ネタはあんまりありません(^▽^;) 最近は、中世城郭(江戸時代の城は其れほど興味ない)を中心とした史跡巡りのブログがメインになりつつあり...
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