立花隆が亡くなりました。
間違ってもあの元N国党党首の立花孝と間違えないでくださいよ。あんなくだらない男と一緒にしてほしくない。あいつはまだ生きてるし。
ネットのニュースしか見ていませんが「知の巨人」と評している記事が多いですね。蔵書は何と10万冊だとか。
私も何冊か読んでます。
彼を一躍有名にしたのは文芸春秋に載った「田中角栄研究」(1974年)だと言われていますが、私が一番印象に残っているのは「脳死」(1986年)。
何でこの本を読もうと思ったのか思い出せません。ひょっとしたら、この映画のことが頭の片隅にあったのかも知れません。若い人は知らないだろうなぁ。
「ジョニーは戦場に行った」(1971年)です。
主人公のジョニーは上官の命令で敵兵の遺体を処理するために塹壕を出るのですが、そこに砲弾が・・・。
ベッドの上でジョニーは意識が戻りますが、手足をすべて失い、呼吸はできるものの目も口も耳も機能しない。コミュニケーションの手段は全て失ってしまった。だけど意識は残っている。
ひょっとすると意識はあるんじゃないかと疑った看護婦が胸にChristmasと綴ると、彼は首を動かしてそれに反応するという場面で映画は終わります。
当時、何で脳死が語られる機会が増えたかと言うと、移植医療の可能性が広がりドナーとして脳死者に注目が集まったためですね。
厚い本ですが決して難解な本ではありません。立花隆の「脳死」はこの脳死の定義から優しく解説してくれます。脳死と混同されやすいのが植物状態ですね。上のジョニーの例は植物状態ですらありません。
ただ、この本が出版された1986年頃はまだ脳死も珍しい病態だったようで、脳死と植物状態を混同したり、脳死者を一度も見たことがない医師も多くいたようです。医療機器の進歩で末期患者の生命維持が容易になったことにより脳死者が増加した。脳死とは意識を取り戻すには既に不可逆的な状態であり、(言い方は悪いですが)それによって臓器ドナーとしての脳死者に期待が集まったってことです。
「脳死」は意識があるのにそれを表現できなくなってしまった人を脳死判定してドナーにしてしまったり、生命維持機器を外してしまう、つまり死なせてしまう(殺してしまう)ことの懸念を回避する手段についても丁寧に解説しています。
で、この本が面白かったんでしょうね。続編ともいえる「脳死 再論」も読んでます。内容は「脳死」の蒸し返しだったような?
こんな本も読んでました。
「ぼくはこんな本を読んできた」(1995年)
これから読む本の参考にさせてもらおうと読んだような・・・。
私が読んだ本も1,2冊はあったかな? 被る本があると嬉しかった思い出が・・・。
そしてこんな本も。
「精神と物質」(1996年)
ノーベル生理学医学賞を受賞した利根川氏との対談ですが、難しい本読んでたなぁ、過去の俺。今だったら絶対に手に取らない自信がある。
この後だったかな、彼は臨死体験だとかオカルティックな方面にまで向かうんですよ。私はそういうの嫌いですから、彼とは離れて今日に至り、訃報に接したってところですかな。
でもやはり凄い人です。統一感のないような様々なジャンルに首を突っ込んで、それを深堀りして解説してくれる、まさに「知の巨人」でした。
当時の教育テレビでだったかな、その直前に亡くなった音楽家の武満徹のことを解説している最中に、言葉がつまって涙ぐんでしまった場面も忘れられません。
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Posted at
2021/06/23 22:24:48