2011年08月04日
それぞれの視点
基本的に、公平な視点などはありえないという話です、なんですが。
いくら公平な視点がありえないことだとはしても、あからさまに一方的な視点の肩を持つのもいかがなものかとは思います。まあ、最近はテレビもろくすっぽ見ないのでなんですけど、フジや日テレあたりで見られるらしい「韓国寄り」の画面構成や現政権与党に妙に優しい報道姿勢に関する印象です。
たとえば、台風に関する気象情報。アレって間違いなく地域的には東京視点報道ですよね。
日本接近、という段階で沖縄近隣の模様を放送するのはともかくとして。そこを過ぎるとわりあいありがちなのが、既に通過点扱いに格下げ扱いになる台風直近の沿岸部情報です。しかも大概がいつもの定点映像。静岡近辺で言うと用宗海岸とかさ。
私的には浜松・浜名湖沿岸部在住なので、今切口とか舞阪漁港・遠州灘海岸・潮見坂近辺とか、その辺の映像の方が良いんだけどね。
でも、悲しいかな県庁所在地にそうした報道機関の本社が集中する傾向にある(FM静岡・現K-MIX本社は浜松だけど)ので静岡市近辺のわかりやすい海岸端ということで用宗海岸なんでしょうねえ。
で、話を戻して台風報道。
やはり東京視点なんで、紀伊半島沖合いとか、遠州灘・駿河湾近海とかその辺で上陸、という時点の報道はヒートアップするんですよねえ。でも台風って過ぎちゃうとドピーカンになっちゃうので「神奈川・東京に接近中」なんて言ってる頃には浜松的には「どうでもいい感」満載で「ええ?まだ台風報道やってるの?」って思っちゃって。
でも、やはり東京のピークが過ぎると台風情報も過ぎ去った過去になってしまうんですよねえ。もう「どうでもいいや」みたいな。明らかに露出度数が減る。茨城以北の地方的には、これからだってのにね。あからさまに東京在住の人間にとっての視野ですよね。イコール東京に集中しているTVのキー局の人間にとっての、という視点。
「みんカラ」の世界ってのは、「みんカラ+」には業者側の言いたいことがぎっしり入っているのかもしれませんが、基本個人のブログの集合体でしょうから、やはりユーザー視点の記事が主体を成しているのだろうと思います。それはそれで参考にもなり、拝見もさせてもらってはいます。
ただ、業者として、販売の側にあった(今もある)人間として、わりあいそうした側からの発信が少ないような感じは受けます。
それは商売上、「書く」という行為で自身の意見をまとめるということをほとんど日常的にしていない人が大勢を占めるからでしょうし、考えてもいないような感じも受けます。もしくはそれを発表しようとする好意もほとんど目にしない印象で。まあ、私が発掘しようとするのをサボっているだけなのかも知れませんが。
そういう状況が大勢ならば、私のようなへんてこりんな視点からの文章も、ちょこっとの面白味や意味も出てくるのかもしれません。
基本的に人は目先の状況に振り回されるものです。
たとえば報道の現場からすれば、私の想像するに、それは視聴率が取れるのか?ということであったり、予算の範囲内で製作可能な番組なのか、であったりなんでしょう、たぶん。で、そうしたことが彼らにとっての身近な正義にもなる。
社内の上下関係や製作会社との力関係。スタッフと出演者の間にある微妙な力関係の錯綜も、それはそれで関係者たちにとっての正義であり切実な事情であり、正解であるわけです。
以前「機械としての効率と日常の運転感覚に適うシステム」という2つの要素は両立しないのか?といった感じの内容を書いたことがありました。そのとき頂いたコメントの中に、私の受け取ったニュアンスでは「CVTは、アレはアレで全体の中の一要素としてみた場合、効率は良いのだ」的なものがあったと記憶しています。当時は、そうした意識はありませんでしたから、「ほう。CVTには、そうした一側面があるもんなのか」と感心したわけですが。
でもまあ、それはそれとしても、やはりあまり運転感覚のよろしくない機械であることもこれまた現実だよなあ、と。ずいぶんと違和感は少なくはなりましたけどね。昔のことを思えば。
CVTは一方で、非現実的な燃費数字を叩き出すための必須デバイスにもなっているようですから、それはそれで現実のユーザーが目にする実燃費とはますます乖離していくことも少なくないようです。
ちなみにフィットハイブリッドもひとつの選択肢かな、と以前書いてしまいましたが、小耳に挟んだところで言うと、あれ、実燃費は16km/ℓ程度なんて話も聞きますからね。燃費を計ろうかと思えば、そのときは慎重に運転しますから20kmなんて数字も出るのでしょうけど、少々ラフな走り方にでもなれば、そのへんが現実なのかもしれません。
ちょっと話は変わりますが、先日下書きとして保存したまま、そのままになってしまった記事がありました。いろんなことを含んだ内容でもあったのでまとまりきらなかったということもあるんですが、今回のお話にも通じることです。タイトルは「多数決の限界」。
結論をかいつまんでしまうと「多数決って本当に万能な意思決定過程と言えるのか?」と言う事で「時にはそのシステムに疑問を持つことも必要なんじゃあないの?」という内容です。理論はともかく、そのシステムの運用課程に齟齬があるようでは、どっかの新幹線になりまねませんからね。
まあ、同様にどっかのアイドルのように多数決のフライングスタートを公然と認めるようでは結果もくそもあったもんではないと思いますが。
で、こうした多数決システムの渦中にあって、特に近視点な人などは、それ以外の世界に気がつかないし、「それ以外の視点も存在しうる」という可能性にすら気がつかないことも往々にしてあるだろうなあ、と。
「嫌なら見なきゃいい」と言ってのける人もありましたが、既に「誰にもソコまで気にされてもいないかも?」という自身の「裸の大様」化の可能性には気がつかないんでしょうねえ。
今日目にした記事で「TV番組のネット上での有料配信」という記事を目にもしました。
「これを見ようかな」といってお金を払うレンタルビデオ屋さんですら一本100円を回収するのがやっとというご時勢に、そんな商売がどこまで通用すると本気で思っているんでしょうかね?「TV放映というシステム」の夏の時代はもはや過ぎ去っているかと思うのですが、原発と同じで、それで飯を食っている連中は、やはり尚もしがみつこうと必死になるのもわからなくはありませんが。
でも、彼らの拠り所としているのであろう視聴率という数字も、「テレビを視聴していそうな層」の質(早い話宣伝効果という、スポンサーにとっての「実」につながるのか否か)を考えると、数字そのものの質感といったらいいんでしょうか、実態把握になっているのか?ということを真剣に問い直す時期なんじゃあないのかなあ?まあ、怖くって手がつけられない、ということもあるでしょうけど。
やはり「世界の中心に自分しか居ない」様にしか見えないという世間の狭さは拙いと思うんですけどね。
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Posted at
2011/08/04 09:31:07
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