【プジョーの歴史】世界最古の量産自動車メーカーはフランスで生まれていた

2019年7月3日

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19世紀初頭にはすでに工業を興していたプジョー家は、製粉業から繊維業、そして製鋼所へとその姿を変えていきました。時代を経るに従いさまざまな製品の製造に関わるようになります。やがて、自転車製造を経て、1889年には初の自動車を製造するに至ります。1891年に発表されたタイプ3と呼ばれたモデルを64台製造するなど初期から量産に力を入れていました。

自動車以前から工業に積極的に取り組んだプジョー家

フランスの地方で町長を務めることもあったプジョー家は、19世紀初頭から工業に積極的に取り組むようになります。1810年には製粉工場を製鋼所へと変えていて、この出来事がプジョー工業化への第一歩と言っていいでしょう。1840年から1850年にかけては帯鋸、スプリング、コルセット用ボーン、傘のフレーム、コーヒーミル、工具などさまざまな製品を製造しています。

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1882年には自転車製造に関わり、1901年には原動機付き自転車を発売します。日本ではあまり知られていませんがプジョーは現在もスクーターの製造を行っていて、世界でもっとも歴史のあるオートバイメーカーでもあるのです。

第一次世界大戦では軍需産業として物資を供給

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1889年に登場した最初のプジョー車は蒸気機関を採用していましたが、すぐに蒸気機関には見切りをつけてダイムラーからエンジンを購入して搭載するようになります。その後、生産体制はどんどん拡大し、1900年には年間500台を達成、累積台数で1296台を達成しました。11年で1296台のうち500台を1年で達成してしまっているのですからその伸び率はじつに急激です。1913年には生産台数は年間9338台となります。この数字は当時のフランス国内での生産台数の50%、国内販売台数の20%に相当しました。第一次世界大戦では軍需産業となったプジョーは、軍事物資としてオートバイ1000台、自転車63000台、自動車3000台、トラック6000台、戦車用エンジン1400台、飛行機用エンジン1万台、爆弾・砲弾600万発などを供給しています。

復興、そして二回目の大戦、そして復興へ

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第一次世界大戦が終結するとプジョーは次々にモデルを発表。1923年~25年の間に年間生産台数を1万台から2万台に増加。1932年の世界恐慌では4万3000台(1930年)だった生産台数が2万8000台(1932年)へと激減しますが、201と301という2台の新型車がヒット、1933年には3万6000台にまで復活します。

1939年、第二次世界大戦が勃発。ソショーの工場は1940年にドイツ軍に占領され、1943年にはイギリス空軍に爆撃されるなど戦渦に巻き込まれます。この際、レジスタンス活動を支持した関係者がドイツに強制送還されるなどしています。ソショー工場は1944年11月に解放されましたが、工場は破壊された状態でした。しかし、1946年、商用車DMAとプジョーの基本モデルである202の生産が再開され、1万4000台がソショー工場で生産されました。

戦後、プジョーは次々に新型を発表。1965年にはプジョー初のFF車が登場、翌年にはプジョーS.A.という持ち株会社が発足、プジョー傘下のすべての企業が管理下に置かれます。1976年にはシトロエン社を吸収、持ち株会社はPSAプジョー・シトロエンと名前を変え現在に至ります。

諸星陽一
  • 諸星陽一
  • 日本自動車ジャーナリスト協会(外部リンク)
  • 自動車ジャーナリストとして専門誌やライフ誌での執筆活動をはじめ、安全運転のインストラクターも務める。1992年~99年まで富士スピードウェイにてRX-7のレースに参戦。セルフメンテナンス記事も得意分野。福祉車両の数少ない専門家の一人でもある。

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