2018年11月14日
LLC交換終わった・
・LLC交換二日目、ドレンしたLLCはまだ若干色があるので廃液に。再び水を入れてクエン酸さらフラッシングしようとしたが、これもエア抜きしないとうまく回ってない事が判明した。ほんとサンバーは繊細すぎない?エア抜きして再び走ってドレン。その間に途中水温センサーを取り付けたが、これもまあいろいろと問題があった。バンドが締める側はいいのだが広げる側が効かず手間。なんとか開いて取り付けたが、ホースの周囲のスペースが小さく差し込むのに手間取った。またセンサーからの配線が短いので結線にまたバッテリーおろし。毎度思うのだが、TTサンバーはトラックがあくまでベースでバンや派生なんだろうなぁと思う。そうでなきゃこんな配置しないだろう(それで問題ないならトラックで同じ配置してるはずだし)。LLCは古河の買い置きを40%で作ったが、内部に残っている分があるので実質30%らへんかも知れない。もう少し濃く作っても良かったかも。
さて、バッテリーは外してパルサーかけて多少復活しているが、毎度学習が飛ぶのが痛い。特にオーディオは社外品は何も考えて作られてないよね、そこらへん。どうしてこんな複雑な階層に時計設定入れるかなぁ。まあサンバーバンは後大きいのはブレーキOHが残っているぐらい。ディスクは簡単な構造だからいいとして、リアのOHが自分に出来るかどうかだ。ドラム自体はいくらでも触ってるんだけどさ。
・爺さんのカブの壊れていたパーツをPLで割り出し・リテーナー・クラッチボールだそうだ。一体部品なのでボール込みは間違いないのだが、なんか名称がリテーナーだけみたいだな。価格は当時で205円なので高いパーツではないみたい。
・仕事は乗用モアを出して草刈りをして回ったのだが、夏場は多少負荷が大きくてもスロットルあけてがんがん回っちゃうのを丁寧に回ってたらオイル消費があまりなかった。秋草は繊維質で硬いので見た目よりパワーを食う。日没ギリ前にB園の通路とA園は刈れたので、明日はG園とI園Z園かな。また袋を先に回収しないといけない。モアもエア圧チェックや刃を研ぐ作業やって終わったら冬眠だな。
・冬用タイヤのホイールも手配した。なんがグダグダ悩んであまり面白くない結論に落ち着いた気がする。
・陳舜臣の続・中国任侠伝を読み終わり、続じゃない方をネットで注文した。伴野朗(とものろう、だそうだ)の後書きが明快にまとめてくれてあって感心する。後書きというと作者本人の制作話や私生活近況が最近は主だろうが、昔はこうやって作家同士でエールの送り合い(と言うとなれ合いとの批判もあるのだが)みたいなのがあって、伴野氏は元新聞記者らしい読みやすく要点を捉えた解説で作品に対する読者の感想の答え合わせをしてくれる。下手な解説は逆に「あれなんだったんだ」みたいになるけれど(私がすぐ思い出すのは藤岡周平の「秘太刀 馬の骨」に対する出久根達郎氏の解説である。ただし、これは問題提起としてちゃんと解釈されうる話である)。
で、伴野氏が『誇り高き男達の物語である。潔く、勇ましく、なにより義と信を重んじて生きている男達の列伝なのだ。言葉を代えれば、男の生きざまの本質を追究しているともいえる。』というのは過不足なくまさにこの本や中国の任侠をとらえている。逆にここまで率直で直裁な要約が読者に出来ないのは、あまりに気恥ずかしいというか、当世に流行らない思想だからではないかとも思う。まあ時を問わずこんなのが流行ったら世が荒れる気もするし、あるいは中東紛争地ではごろごろしている話かも知れない。
伴野氏の解説は陳氏の指摘である司馬遷以降の歴史家は「侠のこころ」を軽視黙殺しているという事も書き記している。任侠自体が廃れたという訳ではない、のだろう。ただ司馬遷以前の歴史書が侠客を積極的に取り上げていたのか私には良く分からず、そもそも漢以前の王朝の歴史書の信憑性もあんまりないので、これはもう司馬遷が特殊だったと思った方がいいような気もする。つまり、「史書」の中で任侠として終われた人物は外伝で語る価値がない、と言う判断ではないか。それは何故だろうか?行為としての刺客列伝みたいな分類の方がいいからか、王朝の編纂する内容として「こういう任侠がいました」みたいなのは価値が低い、あるいは民衆娯楽として軽んじられたのか、あるいは義信という観念が広がる事を危ぶんだのか。
私は宮廷の史書たる司馬達がその対極にあったからではないか?と思う。ちょうど本の最後から一つ前に班超という西域制圧の将軍の話が出てくるが、これを最後に置いた所に陳舜臣の気持ちが出ている気がする。彼は文筆家の名門一族の生まれの文官だったが、その家風になじめず40を越えてから武官として出征、次々と武勲を立て理想とした「漢民族至上主義」を体現していく。正直、一番やっかいなタイプの国粋主義者で褒められる所はほとんどない。しかし、文官の保身や奸臣ばかりの中で武断である事、そこのみに陳氏は侠を見いだしたのではないか。逆に後の史書からすれば理解不能だったかも知れない。
では中国の任侠は儒教的道徳観の反対だったのか?もちろん違う。知行合一から見て仁の体現者は科挙で満点を取る事ではなく、仁を行う事である。しかるに文サイドのみ複雑高度化して、そうでない者を見下してきた。それに対する異論として「剛毅木訥仁に近し」の実例として「侠」があるのではないか。であれば史書ではなく民間信仰に近い形である事はむしろ自然とすら思える。
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Posted at
2018/11/14 23:57:40
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