今日は休日。
リュックサックに観光の本、関ケ原マップ、タオルに水筒。
首にカメラをぶら下げ、ジャージを履き、運動靴を履き、自宅を出発しました。
関ケ原駅前には、たくさんの観光客がきていました。
駅前の観光案内ボランティアセンターの前に、人だかりができていたので、私もなにげにその中に入っていきました。
まずとりあえず、東首塚へ行くことにしました。
駅を出て長い長い坂道を登っていくと、JRの線路の上に橋につながり、それを渡ると、すぐ左側に『東首塚』があります。
1600年にはもちろん、JRの線路は無かったから、そうとうココの土地を掘ったんだなぁと思いました。
関ケ原では、町で定められている『掘っていはいけない土地』というのがあるそうです。
理由はおそらく、皆さんの推測するとおり・・・。
≪関ケ原合戦絵巻の塔≫
役場の前にあります。
結構大きく、迫力があります。
関ケ原合戦絵巻の一部分、石田光成を主に描いています。
この絵からも、関ケ原町は、東軍よりも西軍に愛着を持っているという事が、うかがえます。
≪井伊直政・松平忠吉の陣跡≫
東首塚の中にあります。
ここでちょっと、彼らについてまとめてみましょう。
『井伊直政とは、どんな人物か?』
直政は、東軍で、家康の忠実な家臣の一人です。今の彦根の礎を築いた人物で、美男子だったそうです。家康にも可愛がられていました。
大変厳しい性格で、少しのミスも許さず、すぐに打ち首にしたので、恐れて、他の武将の下へ逃げた部下も、少なくなかったそうです。
外様大名であるにもかかわらず、家康に大切にされていたので、そのひいきの目を隠すため、人一倍、仕事に励んだそうです。
井伊直政の赤揃いの部隊はとても強く、徳川軍最強・精鋭揃いと言われていたそうです。赤くしたのには、合戦で見分けがつきやすいとの理由もあったそうです。
『関ケ原の戦いでの井伊直政は?』
東軍の中心的な指揮を行い、先鋒を努めました。
薩摩の島津義弘を追撃していた時、甥の義久を討ち取りました。しかしこの時、敵の鉄砲の弾が着弾し、1602年に、過労と着弾による破傷風が原因で、この世をさりました。
関ケ原の戦いのあとは、徳川家と島津家との仲の取り持ちなどを、行っていたそうです。
『松平忠吉とは、どんな人物か?』
井伊直政の娘婿で、徳川家康の4男でした。
徳川四天王の一人です。
『合戦での松平忠吉は?』
合戦当時、若干21歳でした。
福島正則と争い、直政と共に、先方を務めました。
直政と共に、島津豊久を討ち取り、その褒美として、尾張清洲に52万石を与えられました。
しかし、1607年に、この戦いでの傷が原因で、28歳の若さで、この世を去りました。
≪入り口の門≫
朱塗りで真っ赤です。
その門の横のお堂を修復していました。
歴史的な文化財にかかわる仕事って、かっこいいですよね。^^
≪首洗いの井戸≫
合戦で取ってきた武将の首は、この井戸の水を使って、洗われたそうです。
秋の初めには町の花火大会が行われ、ここから見る花火は、とてもきれいです。
観光に来た人にとっては、ただの気味悪い怖い場所で終わってしまうかもしれませんが、花火大会の時には、この首塚の周りにたくさんの大人や子供たちが集まってきて、みな、腰をすえて花火を眺めています。
この恐ろしい伝説のある東首塚も、町民とともにありき、町民に守られている、または、町民を見守っている という感じがして、親しみさえ感じてしまいます。
余談ですが、私はお化けとか幽霊とかは一切まったく信じない性格なので、こんな場所でも平気で写真を取れまし、一人で訪れます。
そのくせ、ホラー映画や心霊写真は、怖くてよう見れませんが。
(笑)
≪関ケ原歴史民族資料館≫
関ケ原の合戦屏風や、大パネルで合戦シュミレーションを楽しめます。
その他、関ケ原町の祭りの模型などもあります。
入場料も300円ととても安く、かなり楽しめます。
関ケ原観光には、外す事のできない場所です。
ちなみに、多くの観光客は、ここの土産物やでお金を落としていくそうです。
最近では、売れ筋を狙ってか、『愛』の文字が入ったグッズも売れているそうです。
・・・それ、関ケ原に関係ねーんじゃねぇのか??
まぁ、どうでもいい事ですが。買った本人が満足ならば。(笑)
≪御霊神社≫
関ケ原の戦いで亡くなった、多くの兵士やどこの誰かも分からない、何千、何万とも言われる屍の霊を弔っています。
関ケ原町がいろいろなところに呼びかけて寄付金を募り、この神社を建立しました。
最近改造したらしく、とてもきれいになっています。
ちなみに余談ですが、関ケ原ウォーランドの近くのお寺では、鎮霊祭をやっています。
どうしてわざわざ、2箇所で供養するのだろう・・・と、疑問がつきません。
ひねくれた私は、お金になるから・・・などと、考えてしまいます。坊主丸儲け。(--;)
≪決戦地≫
最大の戦が行われた場所です。
光成の陣取っていた笹尾山は、写真の少し左で、ここから約150メートル・・・というところでしょうか。
かなり近くまで東軍が迫ってきていたことが、容易に伺えます。
おそらく、関ケ原で一番見ごたえのある、歴史を感じさせられる、きれいな風景は、ここでしょう。
周りが全て田んぼというのが、幸いなところです。
天気がいい日もいいですが、やはり薄暗くどんよりした日のほうが、趣があります。
私はここに、数年ぶりにやってきました。
少し手前から、大雨が降り、どうしようもなく動けなくなり、木々の下で雨宿りをしました。私と同様に、雨宿りをしている、一人できている20代位の青年もいました。
標識の右上にある林の下で雨宿りをしました。
雨がやんで少し西に進むと、生い茂るススキの原っぱの向こうに、巨大な決戦地の石碑とその後ろに笹尾山展望台が見えました。
今もココで関ケ原の戦いという、石田光成と徳川家康の戦い が眠り続けているんだなあと、固唾を呑んでその景色を眺めていました。
私も今まで、いろいろな歴史的な場所を訪れてきましたが、これほど、歴史の趣を感じた場所は、二条城(大政奉還を行った場所)以来でした。

後ろにあるのが、関ケ原小学校。少し前に廃校になって今は働く人の応援の場所として、提供されています。ここで、甲冑などを作っています。学校で育てていたヤギなども、今もここで飼育されています。
そのヤギですが、ここだけでは土地がたりないのか、島津陣跡の前の空き地でも、放し飼いされています。近寄ると、えさをくれると勘違いするのか、よってきます。w
石碑の近くまで行くと、自転車を止めて、石碑の周りをぐるぐるしている30代~40代ぐらいの男性がいました。近寄ると、写真をとって欲しいと頼まれたので、快く引き受け、少し会話をしました。
なんとこの男性、静岡から来たそうです。遠いところから、本当に歴史が好きな人なんでしょうね。w
関ケ原はこのように、一人でやってくる男性が非常に多い町です。w
≪蒲生隊の陣跡≫

決戦地の次に、笹尾山へ行きました。
数年前ここに来たときは、関ケ原についてあまり知識も興味も無かったので、登りもせずに帰ったのですが、今はとても興味があるので、舐めるように見て周りました。(笑)
笹尾山に向かって右には、島左近の陣跡が、そして左側には、蒲生隊の陣跡があります。
正確には、最前列に島隊、そして中間の列に、蒲生隊だったそうです。
島左近は大変人気のある武将なので、みんな関心深そうに、陣跡に集まっていましたが、悲しいかな、すぐ近くにあるのに、蒲生さんの陣跡に行く人は、あまりいなかったように思います。まぁ、そのすぐ横は竹やぶだったので、島左近さんに比べると扱いが悪いような気もしましたが。w
笹尾山にたどり着くと、さきほどの男性が、しんどそうに自転車を押しながら、坂道を上がっていました。w
島左近の陣跡に行くと、その周りに、数人の観光客がむらがっていました。
≪笹尾山展望台≫
笹尾山の階段は、なかなかの大きな段差で、足の悪い人には、ちょっと苦しいのでは?と思ってしまいました。途中、栗がたくさん落ちており、『来年来るときは、金バサミを持ってこなければ!!』と、思いました。
笹尾山は小さな山で、少し登ると、すぐ山頂になります。ちょうど、21号バイパスに、笹尾山トンネルというのがあり、その真上となります。400年も経てば、自分が陣取った後に、トンネルができ、自動車なる奇怪な乗り物が、猛スピードで走り回っている・・・。
いったい誰が想像できたことでしょうか。光成もびっくりでしょう。(笑)
光成の陣跡の石碑は新しいものと古いものと二つありました。

山には、たくさんの人がいました。ざっと見渡しても、20人ぐらいはいたでしょうか。w
おじさん、おばさん、子ずれの親子から、私みたいな一人旅の男などなど。
地元の人でココに来る人はおそらく、戦国時代ブームにのっかってやってきた、実はあまり興味の無い人たちでしょう。
あと、無料というのも、大きいと思われます。今は、歴女だなんだと騒がれていますが、ブームが去った後、いったいどれぐらいの人がここに来てくれるのかと、疑問に思いますが、それはそれで、よしとしましょう。w
≪展望台からの景色≫

関ケ原は南半分は、結構な町です。店はあまりありませんが、住宅が密集しています。w
人や車の往来は多く、活気があります。JRの電車が走り、高速道路が走り、新幹線も走っています。w
関ケ原は、はらっぱばかりのど田舎だと思っていたそこのあなた!!
それは、大きな間違いです。(笑)
展望台には、地図があり、ボタンを押すと、音楽と一緒に、合戦の解説が流れる仕組みになっています。
さきほどの男性が、恥ずかしいのか、ボタンを押さずに地図と景色をちらちらと見ていたので、横からポチッとボタンを押してあげました。(笑)
すると、その周りにわらわらと人が集まってきて、みんなで一緒に、解説を聞きました。
解説が終わったので、山を降りることにしました。先ほどの男性は、展望台の下にある小さな丘の上の机に、どこで買ったのかコンビニの弁当を広げて、お昼ご飯を始めました。
歴史に思いをはせながら、ご飯を食べるのでしょうか。
こういう食事の楽しみ方ができるって、素敵だなと思いました。^^
笹尾山を後にし、再び歴史民族資料館のところまで戻ってきました。その横には、徳川家康の最終陣跡があります。
ここでも、若い男性が一人でうろうろしていました。この彼は、どこから来たのでしょうか。
(笑)

ここは、首実験場といい、家臣が取ってきた首の確認をしたそうです。入り口の傍らには、家康が生首を確認している恐ろしい絵がかかれています。
ちなみに私はこの絵の前で、記念写真を撮りました。
不謹慎にも、ブイサインをしながら・・・。
バチが当たりますよね、ホントに。
(笑)
最後に、田中吉政の陣跡です。
田中吉政は、東軍の武将で、彼の家来が、合戦で逃げ延びていた石田光成を捕らえました。
光成は、『お主に捕らえられるのならば本望』と、吉政への配慮ある対応などに感謝し、豊臣秀吉からもらった豪華な太刀をプレゼントしたそうです。
ちなみに、光成は、自主的に捕まったそうです。
長い長い関ケ原の史跡めぐりでしたが、これで終わりではありません。
まだまだ続きます。
いろいろな場所を訪れ、物語を知る度に、今までとぎれとぎれで知っていた物語が、まるで一本の糸のようにつながっていくのが感じ取られました。
本当に、知れば知るほど、興味深い町です。w