
『王が誠意を持って誠実に生きることは、どれほど賞賛に値するというのだろう?(マキャベリ『君主論』より)』
【第4の権力】
テレビはじめ既存のメディアというものは、その発信が一方的であるがゆえに、視覚から聴覚に至るまで、情報を送り手側が体系化し、一本の論理につくりあげることを容易にする。
そのロジックは、送信者を“神”に変容させる。
そのロジックは、送信者たる“神“の手の上にあるが故に、外部からの弁証法的昇華への試みも、ブレーンストーミングによる洗練をも拒絶する。或いはそれらを装った、送り手側からの意図的演出を受けて、いよいよそれは、(傍から見たら滑稽でさえあるが)しかし受信者には絶大な巧妙さをもって、ユニディレクショナルに作用する。
結果そこに存在するものといえば、送り手側が作り上げた、一方的かつ筋書き通りの、偏見に満ちた三文芝居だけだ。
しかしそれは、ひとつの時代の終焉期…社会不安や不満の捌け口がなくなり、フロンティアが失われた頃になると、見事な抒情の花となって開花することがある。
それは大輪とは程遠く、それは喧伝されるよりはずっと貧弱で、それは時に矮小な色彩さえ取り込んで…大いなる実りさえ犠牲にして咲く、裏切りの仇花。
既存メディアは、受信者に想像力を要求しない。
故に、現在の社会がいたって安全で、5年の時を経、暮らしは明らかに良くなってきているというのに…何故そうなったのか、彼等に彼女等に、それを振り返ることさえ求めない。
故に、抒情詩に酔い、仇花にせっせと水をやる観客…宿命を放棄したプレイヤーたち…彼等彼女等は、安全な社会を維持するため或いは良質な暮らしを実現するため、公に報い、実績を積み重ねた人たちが、三文芝居のなかでいかにこき下ろされても、平然としていられるようになる。
立ち止まって考えることもなく、実績にさえ思いを馳せず、捏造されたスキャンダルに疑問一つ持たないまま…やがてプレイヤーを放棄した観客=受信者は、受容者となっていく。
プレイヤーたる宿命からは逃げられぬ、そんなことにさえ気かづかぬまま。
想像力の喪失…
「テレビばかり見ているとバカになる」
これはおそらく、正しいのだ。
【偽善症候群】
『選挙一つとっても、日本は日本でポピュリズムのもたらす偽善症候群に陥っているのではないかと心配になる。選挙のときにこそ国家経営、国家防衛を、自治体経営の形をいかに構築するか-など、基本的問題を自力で考える努力の凝縮した議論がもう一寸(ちょっと)でもあって然(しか)るべきだろう。
「政策」ではなく、「気分」で行われる選挙は諸課題の優先順位付けという最も難しいプロセスを回避し、一夜明けてみれば結局「先送り」「硬直化」「官僚化」に回帰する望ましからざる危険な途(みち)である。』―7月26日付産経新聞 元駐米大使・加藤良三氏 『トランプ氏は「有害」な抗生剤か 耐性強めるポピュリズムの生み出す偽善』からの引用。
その背後には中国共産党の中華思想、或いはその出先機関たる朝鮮民主主義人民共和国の主体思想、或いは大韓民国の小中華思想、そして大ロシア思想さえもが横たわっているというのに…この70年弱の間、ポピュリズム―正確には西部邁先生の言葉…ポピュラリズム=人気主義、というのが正しいのだろう―は延々と“惰性的偽善”という圧力をもって、我々の社会に浸透し続けてきた。
もう言うまでもないだろうが、この“惰性的偽善”の実行機関こそが、テレビを中心とした既存メディアなのである。
そして今回の内閣改造こそ、ポピュラリズムのもたらす“偽善症候群”、第二次安倍政権下における、連中にとって最初の成果物ではないのか?
国家経営よりも、森友。
国家防衛よりも、加計。
自治体経営の形よりも、築地。
ロフテッド軌道で落ちてきた弾頭、それが着弾可能な状態であることを知っていても、確信犯で日報問題。
政治家ハ、聖人君子デナケレバナリマセン。
国ガ滅ボウガ、財政ガ破綻シヨウガ、経済ガどん底ニナロウガ、一番大切ナノハ、
“人間として信頼できるかどうか?”ナノデス。
“人間として信頼”…なんと耳障りのよい!
導かれたのが、安倍降ろし。
特定アジアの、覇権志向国の意を酌んだ既存メディアの意思を“受容”した、“気分”で動く観客気取りのプレイヤーたち…これに応えるべく、安倍晋三というリーダーが落とした“果実”=第三次内閣改造…日和ったものだ。
すべては選挙のため―メディアに酔い、“気分”で動くプレイヤーたちに向け放られた、エサ。
偽善を謳うことで、深い海の底へ。
【危惧していること~政治からの脱走~】
『君主は狐と獅子を選ぶべきである。獅子は陥し穴に対してみずから防ぐことはできないし、狐は狼に対して防ぐことができない。したがって、わなを知るためには狐となり、狼を走らせるためには獅子とならねばならない』
再び、『君主論』から著名な一節。
今回の内閣改造、安倍晋三氏は人選にあたり、これを地でいっているようにみえる。
しかし・・・それだけの解釈でいいのだろうか?
我々はそんな解釈に、ただ怒りを向けているだけでいいのだろうか?
我々は、忘れてはいないか?
安倍晋三氏もまた、我々と同じ“こころ”をもった人間である、ということを!
ここに至るまでのことを思い出して欲しい。
捏造された疑惑、メディアスクラム、獅子身中の虫、なにより“受容者に成り果てたプレイヤー”たち。
―結局、人は変わらない―
私は、安倍晋三という人物の心中に芽生えはじめるやもしれぬ、絶望の萌芽に思いを馳せないではいられない。
今彼を支えているもの、それはとうに(いつか判ってくれる、という)国民への信頼ではなく、己が信念の昇華―ただそれだけではないのだろうか?
今の彼の心中からは、あの怒涛のような情熱-2012年の冬、我々と共有した―あの熱情は、とうに無くなっているのではないか?
今回の内閣改造を見ていると、私にはそう思えてならない。
私は、大いに危惧している。
―彼の“こころ”は、いつまで耐えることができるのだろうか?、と。
耐えられなくなったとき、抒情詩に酔った観客―プレイヤーたちは、何を見、何を思うことになるのだろう?
彼が絶望し、復讐の念に囚われぬことを、心より願う。
そうならぬために、“我々”は存在しているのだ。
金美齢さんが、ヒントをくれた。
次編でやっと、それを綴る。
あきらめるな。
【追記】
↓関連情報の05:30~を聴くとよい
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任務 | 暮らし/家族
Posted at
2017/08/06 00:33:27