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まとめ記事

三菱 4人のデザイナー

徳小寺 無恒さん
2020/11/29
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三菱重工から派生した三菱自動車は、戦後も財閥解体の影響から、水島と名古屋・京都で作られたコルトで市場に臨んでいたが、1964年に再度3社が合併して「三菱重工業」のひとつの部門として再出発する事となった。そして、その新生「三菱重工業」としての乗用車として「デボネア」が発売された。デボネアのデザインは元GMのデザイナーだった「ハンス・ブレッツナー」によって編み出された。その後も三菱は時代によって海外のデザイナーが三菱のデザインを形作っていった。そのデザイナーたちとは。
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三菱は早くからデザインを海外のデザイナーに託していた。過去から現代まで、大きく言って4人の外国人のデザイナーによって、三菱のエクステリアは影響を受け、実際に形になったのだが、 有名なのはやはり初代デボネアだろう。 初代デボネアは、当初はフィアットのOEMも考えたらしいのだが、紆余曲折があって自社開発することになった。1964年昭和39年から販売を開始するのだが、それまでの国産2Lクラスのセドリックやクラウンに対抗するクルマとしてデザインも重視され、元GMのデザイナーであった「ハンス・ブレッツナー」によって米国車で主流であった角ばったデザインで登場した。 5ナンバーサイズいっぱいにデザインされた初代デボネア。限られた寸法の中で如何にアメリカンなデザインを成立させるか苦心した。初期型にはリヤフェンダーに「ロケット・ウィンカー」が・・ 「ハンス・ブレッツナー」のアイコンとして現代でも語られる「ロケット・ウインカー」と呼ばれる流線形のウインカーが1969年昭和44年までもモデルにはリヤフェンダーに設けられていた。 確かに「ハンス・ブレッツナー」と言えば「ロケット・ウイ ...出典:徳小寺 無恒さん
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質実剛健だけど「華」が無い。高度経済成長時代の日本人には、もはやクルマは単なる移動手段ではなく、所有する事の喜びを感じるモノ、所有する事によるステータスのひとつの形となっていた。 そうなると、趣味性や感性の部分でのクルマへの要求も高まり、デザインも購入する大きなポイントとなった。 さらに、メーカーも日本だけではなく輸出に打って出なければならず、デザイン力の向上が急務となっていた。その要求をできるだけ早くかなえるには・・・・1960年代は多くのメーカーが海外のデザイナーやカロッツェリアへクルマのデザインを依頼するようになっていた。 デザインの流れは、あのメルチェデスでさえ、アメリカのデザインに押されて、テールフィン付のモデルを出していたくらいだったのだが、 えっ!あのメルチェデスがテールフィンを!Mercedes-Benz 300c Berlina。ちなみにデザインはギアだ。 デザインの潮流は欧州へと軸足を変えて行っていたのだ。その流れに沿うように日本のメーカーはこぞって欧州のカロッツェリアへと流れた。 有名な所では、プリンスが初代グロリアのシャーシをベー ...出典:徳小寺 無恒さん
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1960年代は国産車にとって飛躍の世紀であった。 それまでは国策として自動車産業は守られていたが、1965年には輸入の自由化が図られ、国産車のメーカーは多過ぎるのではないかと言う声さえも囁かれる様になった、日産、トヨタという二つのメーカーに集約してはと言う、いささか早急な声もあった。 そうした中、三菱、東洋工業、本田と言った二位以下のメーカーは生き残りをかけて個性と技術をより磨く必要があった。 1966年、プリンスが日産に実質的に吸収合併されると、国産車メーカーの集約と言う声が現実をもって感じられるようになった。 輸入自由化の中、逆に国産車の輸出も重要な課題となり、国際的にデザインも洗練されたものにならなくてはと言う思いから、各社、海外の特に欧州のカロッチェリアの扉をたたくこととなった。 日産は主力車種であるブルーバードとセドリックを ピニンファリーナ に託し、 ルーフ後端まで回り込んだドリットプモールや、フロントからリヤへ弧を描くように下がってゆくプレスラインが当時の欧州のデザイントレンドだった。 マツダはベルトーネに、新型車である 「ルーチェ」 ...出典:徳小寺 無恒さん
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1965年にクルマ輸入の自由化が始まり、1966年にはプリンスが実質、日産に吸収合併されてしまった。 そうした時代の急激な流れの中、三菱も社運をかけてつぎつぎと施策を打って出た。新しいコルトのデザインのアイディアを 「ジョルジェット・ジュジャーロ」 に依頼し、ウエッヂシエイプの精悍なデザインがやって来た。 そのデザインをベースに社内デザイナー 三橋慎一 氏 を中心にして、三菱の航空機部門にクレイモデルを持ち込んで風洞実験を繰り返し、さらにシャープで躍動感あふれるデザインが完成した。 その名は 「コルト・キャラン」 。 ジュジャーロ のシャープな造形をベースにウエッヂの効いた躍動感あふれるデザインが完成した! そのシャープで直線と張りのある面構成は日本人の琴線触れ、「コルトギャラン」の登場で、何と三菱の生産台数は二倍以上に膨れ上がったと言われている。 その優れたデザインは、さらにデザイナーのインスピレーションを励振し、さらに優れたデザインのクルマが生み出された。そう Hip up coupe と呼ばれた 「コルトギャランGTO」の鮮烈なデヴューだ。 ...出典:徳小寺 無恒さん
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三菱自動車の歴史を辿る旅も大詰めを迎えようとしている。 デザインの面から四人のデザイナーがキーという事で、二人目までご紹介したが、ここで三菱、いや、日本のインダストリアルデザインに大いなる影響を与えた三人目のデザイナーをご紹介しよう。 ここで紹介するクルマたちを見れば、如何に、これ以降の三菱車、国産車に大きな影響を与えたかが分かる筈である。 しかし、ここで毎回デザイン論について書くのは非常に気を遣うものである。なんたって、日産系の会社のデザインの本職も見ているらしいので、そんな玄人に前であやふやな事を書いてしまうと、あっという間に指摘されてしまうからだ・・・・結構気を遣うものである。(閑話休題) さて気を取り直して、三菱のデザインの三人目の刺客とは 「アルド・セッサーノ( Aldo Sessano )」 だ。 1970年代から欧州で、地味ではあるが存在感を増していた「セッサーノ」は三菱のデザインの救世主として迎えられた。 それまでの彼の作品としては、セッサーノ・ラインという直線をベースにした躍動感のある造形で、1970年の「NSU Nergal」や、その集大 ...出典:徳小寺 無恒さん
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三菱の、いや日本のカースタイリングにも大きな影響を与えた アルド・セッサーノ だが、ミラージュ以降は大きなウェーブを起こすことはなかった。 基本的に直線と平面を巧みに駆使したデザインは当初は新鮮であったが、それ以上のものは残念ながら創生されなかったからである。 例えば、日本のカーデザインに衝撃を与えた「ミラージュ」のその後を見てみよう。 一つ一つの線と面が吟味され、どこを見ても破綻がない熟成されたデザインになった。 初代に比べ面が整理され実にクリーンなエクステリアデザインになったが、どこかで見たぞという感じでインパクトという点では希薄なってしまった。 かの日産のデザイナーだった「前澤義雄」氏曰く、 「質の高いデザインになったが、人を立ち止まらせるハッと思わせるデザイン、人を惹きつける訴求力は低下してしまった。」 とコメントしている事からも伺う事ができるだろう。 その最たるものが「トレディア」と「コルディア」ではないだろうか。 国際的なFWD化の流れの中、三菱は従来からの主力車種「ランサー」がFRである中、熾烈な販売競争を闘っていたが、そのランサーに替えて ...出典:徳小寺 無恒さん
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