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- 名車の挑発。ブルーバード510の魅力に迫る。
- 挑発 その一言で名車は生まれた510誕生秘話
まとめ記事(コンテンツ)
徳小寺 無恒さん
2006/04/09
挑発 その一言で名車は生まれた510誕生秘話
310ブルーバードの予想外のヒットで、日産はこれからのクルマ造りの礎とする為に410では、あえてピニンファリナにデザインを依頼した。
しかし発売前に、余りにも410ブルーバードに似たアルファロメオの新型が出た為に、ピニンファリナの申し入れによって特にリヤのセクションのデザインがやり直された。
彼の地では似ている・・と言われる事くらい屈辱はないからだ・・・しかし、それが例の「尻下がり」のデザインとなり、410ブルの運命を左右してしまったのだった。

さらに当時のタクシーの小型車の枠に収める為に、寸法的に色々と制約を加えた事もオリジナルのデザインを崩してしまい、ますます410ブルのデザインを混沌としたものにした。
(注釈)
しかし基本がしっかりとしていたので、デザイナーの主張が明確であり、面の構成や張りなどは、今改めて見ると美しいと思うのだ。
何を作りたい、新しいモノを作り出したい・・という意欲が410ブルのデザインからはフツフツと伝わってくる。
販売的に410は失敗に終わった!そこで失敗が許されないモデルとして510の開発がスタートしたのだった。
意外と知られていないが、510のデザインは、必要寸法を求めそこから逆算的にデザインされたクルマだったのだ。
当時も小型車の外寸は大きくなる一方で、欧州でのライヴァル「オペル・カデット」や「フォード・コルチナ」などが続々とボディを大きくしてリリースしていたが、日産は無闇に外寸は大きくしない。必要最小限度の拡大で、最大の居住性を確保する・・・という方向性で510を開発する事にした。
エンジンルームの広さはどれだけ必要か?寒冷地仕様、右ハンドル左ハンドル、クーラーを付ける事も考える・・などこれだけで300~400近い仕様が考えられ、それが全て考慮された。
さらに欧米の体格の良い人が乗っても十分なスペースを確保するには・・と、その頃始まった海外展開で開設された営業所や駐在所から、それぞれの国の標準的な身長などのデータを取り寄せ、室内空間の煮詰めをおこなった。
室内空間の創造には、側面のカーブドグラスが有効だと判断してそれも採用する事にした。。

そこから生まれてきたスケッチがこれである。
まだ三角窓は存在するが、これが510デザインの源流となる貴重な画像である。
この後は割愛するが、三角窓是非の大論争があり、そして三角窓が取り除かれて再度デザインがなされ、クレイモデル(粘土)が造られたのだった。

このデザインが出来上がった頃、「ブルーバード」命名の主であり、当時の日産社長だった川又克二がひょっこりとデザインルームにやって来た。
「おい!水津(デザイン担当次長)。もっとボディを大きくしろ」
ここまで開発が進んでいるのに、社長のこの一言には、さすがに一同騒然となった。。。
しかし、それを聞いた全体の開発担当課長であった太田氏が妙案を捻り出したのだ!
なんとフロントとリヤのフェンダーのタイヤの縁の部分の張り出しを若干大きく広げて、数値的にあたかもボディを広くしたように見せかけ、川又社長には数字だけ報告したのだった。。

川又の意図とは異なるかもしれないが、言葉的には間違いなくボディは大きくなった・・という訳である。
これが後に510のデザインが幅広く見え、安定感あるものとしたのは不幸中の幸いか!??(閑話休題)
これで大丈夫・・・と510開発のチーム内には安堵の空気が流れたが、その安堵の空気もつかの間、今度は設計室に川又がやって来て太田ら設計の一堂に、わざと聞えるように独り言を言って設計室を出て行ったのだった。。
「いすゞに四輪独立懸架ができて、ウチではできんのか!?
情けない・・・」
当時いすゞが510のライヴァルとなる「ベレット」を出し、それが「ヨンドク」を採用していたのだ。。

それを聞いた技術者達は、ハラワタが煮えくり返るほど怒りかえったという・・・
「何言ってだ!ベレットのヨンドクなんて完全なヨンドクじゃないではないか。ウチのローレルのヨンドクが良い事ぐらい知っていろよ・・」
しかし510は、410の販売的な失敗から、メカニズム的にはオーソドックスに纏められており、リヤは板ばねによるリジットであったのだ。
すると・・・誰言うとも無く、「ローレルのヨンドクを縮めて510に載せてしまえ!」という事で、突貫工事で510のリヤは「セミトレーリング・アーム」による四輪独立懸架が搭載される事になったのだ。。。
しかし後日、510の設計担当課長だった太田はしてやられた!と思ったと言う・・・
ボディの拡大の件では、こっちが「シテヤッタリ」と思っていたのだが、この「ヨンドク」に関しては、完全に負けず嫌いの技術者の性格を読んだ「川又」の作戦勝ち・・だったと。。。
たしかに510は、あのままでも完成度の高いクルマに違いなかったが、さらに一歩前を行くには、何かが足りなかった事も事実だったと。
このリヤの大改造がなくて、「セミトレ」の採用が無かったら・・果して510は今に言われ続けられるような名車であったかと・・
しかし、それからが設計や試作、試走のセクションの地獄の始まりだった。。。
開発時間は無きに等しい・・・発売の日は延ばせないのだ!!
北米の排気ガス対策を受けるには、まず8万キロの耐久走行テストが必要だったのだが、それをクリアーするには、決められた速度モードで昼夜連続四ヵ月半が必要だったのだが、すでにその四ヶ月半ギリギリの段階であったのだ。
万一、事故や不良が出たら・・・

そんな中、技術者たちも繰り出されて耐久走行テストは続けられた・・・
そして運命の昭和42年5月・・・
間に合った・・・
昭和42年8月9日、原爆の日と仏滅が重なるという印象的な日に510はリリースされたのだ!
「変更になったモノをあげる方が分かり易い・・」と言われるくらい全てを一新して登場した510ブルーバード。
それからの活躍は皆さんの方が、良くご存知だろう・・・
しかし、あの時、川又の一言が無かったら。。。
ここでも歴史の「IF」を唱えてしまうが、ここまでの510の名声はあっただろうか?
大きくなった日産や、日本の企業・・・
社員とトップとの繋がりが希薄になった現代。
単純に510の、このハナシは「現代のおとぎ話」で済まされるハナシだろうか?
そういえば技術者達の奮闘と言えば、ライヴァルにこけ落とされて、910を生んだ810の新聞記事を思い出す。。
苦難 人が犬を噛むとニュースに・・・
http://carlife.carview.co.jp/User.asp?UserDiaryID=137433
僕は510を見るに付け、510の開発での一言と、810の新聞記事のハナシを自分に言い聞かせるように何度も思い出しているのだった。。
しかし発売前に、余りにも410ブルーバードに似たアルファロメオの新型が出た為に、ピニンファリナの申し入れによって特にリヤのセクションのデザインがやり直された。
彼の地では似ている・・と言われる事くらい屈辱はないからだ・・・しかし、それが例の「尻下がり」のデザインとなり、410ブルの運命を左右してしまったのだった。

さらに当時のタクシーの小型車の枠に収める為に、寸法的に色々と制約を加えた事もオリジナルのデザインを崩してしまい、ますます410ブルのデザインを混沌としたものにした。
(注釈)
しかし基本がしっかりとしていたので、デザイナーの主張が明確であり、面の構成や張りなどは、今改めて見ると美しいと思うのだ。
何を作りたい、新しいモノを作り出したい・・という意欲が410ブルのデザインからはフツフツと伝わってくる。
販売的に410は失敗に終わった!そこで失敗が許されないモデルとして510の開発がスタートしたのだった。
意外と知られていないが、510のデザインは、必要寸法を求めそこから逆算的にデザインされたクルマだったのだ。
当時も小型車の外寸は大きくなる一方で、欧州でのライヴァル「オペル・カデット」や「フォード・コルチナ」などが続々とボディを大きくしてリリースしていたが、日産は無闇に外寸は大きくしない。必要最小限度の拡大で、最大の居住性を確保する・・・という方向性で510を開発する事にした。
エンジンルームの広さはどれだけ必要か?寒冷地仕様、右ハンドル左ハンドル、クーラーを付ける事も考える・・などこれだけで300~400近い仕様が考えられ、それが全て考慮された。
さらに欧米の体格の良い人が乗っても十分なスペースを確保するには・・と、その頃始まった海外展開で開設された営業所や駐在所から、それぞれの国の標準的な身長などのデータを取り寄せ、室内空間の煮詰めをおこなった。
室内空間の創造には、側面のカーブドグラスが有効だと判断してそれも採用する事にした。。

そこから生まれてきたスケッチがこれである。
まだ三角窓は存在するが、これが510デザインの源流となる貴重な画像である。
この後は割愛するが、三角窓是非の大論争があり、そして三角窓が取り除かれて再度デザインがなされ、クレイモデル(粘土)が造られたのだった。

このデザインが出来上がった頃、「ブルーバード」命名の主であり、当時の日産社長だった川又克二がひょっこりとデザインルームにやって来た。
「おい!水津(デザイン担当次長)。もっとボディを大きくしろ」
ここまで開発が進んでいるのに、社長のこの一言には、さすがに一同騒然となった。。。
しかし、それを聞いた全体の開発担当課長であった太田氏が妙案を捻り出したのだ!
なんとフロントとリヤのフェンダーのタイヤの縁の部分の張り出しを若干大きく広げて、数値的にあたかもボディを広くしたように見せかけ、川又社長には数字だけ報告したのだった。。

川又の意図とは異なるかもしれないが、言葉的には間違いなくボディは大きくなった・・という訳である。
これが後に510のデザインが幅広く見え、安定感あるものとしたのは不幸中の幸いか!??(閑話休題)
これで大丈夫・・・と510開発のチーム内には安堵の空気が流れたが、その安堵の空気もつかの間、今度は設計室に川又がやって来て太田ら設計の一堂に、わざと聞えるように独り言を言って設計室を出て行ったのだった。。
「いすゞに四輪独立懸架ができて、ウチではできんのか!?
情けない・・・」
当時いすゞが510のライヴァルとなる「ベレット」を出し、それが「ヨンドク」を採用していたのだ。。

それを聞いた技術者達は、ハラワタが煮えくり返るほど怒りかえったという・・・
「何言ってだ!ベレットのヨンドクなんて完全なヨンドクじゃないではないか。ウチのローレルのヨンドクが良い事ぐらい知っていろよ・・」
しかし510は、410の販売的な失敗から、メカニズム的にはオーソドックスに纏められており、リヤは板ばねによるリジットであったのだ。
すると・・・誰言うとも無く、「ローレルのヨンドクを縮めて510に載せてしまえ!」という事で、突貫工事で510のリヤは「セミトレーリング・アーム」による四輪独立懸架が搭載される事になったのだ。。。
しかし後日、510の設計担当課長だった太田はしてやられた!と思ったと言う・・・
ボディの拡大の件では、こっちが「シテヤッタリ」と思っていたのだが、この「ヨンドク」に関しては、完全に負けず嫌いの技術者の性格を読んだ「川又」の作戦勝ち・・だったと。。。
たしかに510は、あのままでも完成度の高いクルマに違いなかったが、さらに一歩前を行くには、何かが足りなかった事も事実だったと。
このリヤの大改造がなくて、「セミトレ」の採用が無かったら・・果して510は今に言われ続けられるような名車であったかと・・
しかし、それからが設計や試作、試走のセクションの地獄の始まりだった。。。
開発時間は無きに等しい・・・発売の日は延ばせないのだ!!
北米の排気ガス対策を受けるには、まず8万キロの耐久走行テストが必要だったのだが、それをクリアーするには、決められた速度モードで昼夜連続四ヵ月半が必要だったのだが、すでにその四ヶ月半ギリギリの段階であったのだ。
万一、事故や不良が出たら・・・

そんな中、技術者たちも繰り出されて耐久走行テストは続けられた・・・
そして運命の昭和42年5月・・・
間に合った・・・
昭和42年8月9日、原爆の日と仏滅が重なるという印象的な日に510はリリースされたのだ!
「変更になったモノをあげる方が分かり易い・・」と言われるくらい全てを一新して登場した510ブルーバード。
それからの活躍は皆さんの方が、良くご存知だろう・・・
しかし、あの時、川又の一言が無かったら。。。
ここでも歴史の「IF」を唱えてしまうが、ここまでの510の名声はあっただろうか?
大きくなった日産や、日本の企業・・・
社員とトップとの繋がりが希薄になった現代。
単純に510の、このハナシは「現代のおとぎ話」で済まされるハナシだろうか?
そういえば技術者達の奮闘と言えば、ライヴァルにこけ落とされて、910を生んだ810の新聞記事を思い出す。。
苦難 人が犬を噛むとニュースに・・・
http://carlife.carview.co.jp/User.asp?UserDiaryID=137433
僕は510を見るに付け、510の開発での一言と、810の新聞記事のハナシを自分に言い聞かせるように何度も思い出しているのだった。。
Posted at 2006/04/09 23:05:10
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