
12月5日(月)、広島の朝は曇り。ソリオのガラス面も全て曇っていました。
国道31号線に合流するとあたり一面霧、JR坂駅を通り過ぎ、水尻付近まで。
それが瀬戸内海が見えるとまるで嘘のように霧がはれました。
霧を見るのは年に3回あるかどうかです。
さて、本日は一番下の弟が休み、父も午前と午後に母に会いに行ってくれました。
午前、
母は右側を上にしてベッドで寝ており、右手を柵に掴んだ。
小さな声で「書くモノ」と言い、弟がマジックを渡すと右手で文字を書いた。
タイトル画像が母が実際に書いたものです。
午後、
弟は補聴器を持って行き、母の耳に取り付け、
弟が話しかけると、「うん。」とうなずいた。
滞在時間は15分なのでこれ以上は判らないのですが、
私の想定外の回復ぶりです。
一般病室に移動になるのも近いのでは。
本当に嬉しい誤算です。
明日は直ぐ下の弟が午後からマツダ病院へ寄れるらしい。
次にこの2年ぐらいの母の変化を記録したいと思います。
尚、母は倒れた当日の朝までは家事全般(食事の準備・掃除・洗濯・家計・ボタンつけ・父の薬の管理)を普通にしていました。
少しずつですが、
・田舎の坂道を登ったり下ったりするのが危なく感じる。
(祖母・祖父のお墓参りがきつそうで今年が最後かと思うほど。)
・車に乗っているのが苦しそう。
(蒲刈までの距離を3回程度休憩しなければならない。)
・どこかへ連れて行こうとしても、「もう、何処にも行きたくない。」と言いだす。
・徒歩3分程度のスーパーにはどうにか行けるが、しんどそう。
軽い物は自分で持つが、重たいお米などは私、弟に頼んでいた。
(ほんの3年前は平気で自分で持って帰っていたのです。)
・昼ん寝の時間が長くなり、時々、夕食の準備が遅れることがあった。
・ボケ防止だと良い、日記帳をつけ始めた。
・同様にクロスワードパズルをして、答えを三男に渡して見てもらっていた。
三男は次の週の日曜日に答えを持って来ていたのです。
・私の朝の見送りが玄関までだったのが、道路に出て、その先の交差点(約50歩)まで行き、
私のソリオが通り過ぎるのを確認していた。
ごく最近では、
・姪っ子(小6)が遊びに来た時、
「おばあちゃんが倒れた時、介護してくれる?」と尋ねた。
姪っ子が快く「うん。」と答えると、
母は「本当に?」と数回尋ねた。

母が見送ってくれていた交差点。
11月30日、
母はいつも通り、私にお弁当を持たせ、玄関の手前で
「行って帰り。」と言いました。
私が駐車場に置かれているソリオに乗り、この交差点を通り過ぎようとしたら
母は居ませんでした。いつもこの交差点で私を見送る母が居ない。
「あれ?何かおかしい」と感じたのですが、そのまま会社へ行ったのです。
もし、あの時、一旦自宅に戻り、母の様子を確りと見ていれば、
こんな事にはならずに済んだのではと後悔の念が。
わずかな変化にどうして応えなかったのか。
今は、もっと回復している事を祈るばかりです。
Posted at 2016/12/05 22:52:45 | |
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