吉村虎太郎庄屋屋敷跡・旧掛橋和泉邸(檮原町)
吉村虎太郎庄屋屋敷跡に移築された旧掛橋和泉邸
2011年11月07日
現在旧掛橋和泉邸がある地は、藩政時代に津野三郷の大庄屋が置かれた地で、古く宝暦年間には百姓一揆の総大将である中平善之進も大庄屋としてこの地に住し、また明治維新の志士・吉村虎太郎も安政6(1859)年より番人大庄屋を勤めていました。明治以降は西津野村役場、孝山塾青年学校、民具資料館敷地として利用されていました。
現在は明治維新の志士、旧掛橋和泉邸が移築されています。
茅屋根の母屋は幕末の建築で梁行4間半(約8.18m)桁行9間(約16.36m)、大黒柱は1尺2寸7分(約38.5cm)と1尺2寸(約36.4cm)角、間取りは神殿前客間10畳、玄関の間6畳、中の間、奥の間角8畳、茶の間10畳(現在は6畳、4畳半に分割)の6部屋からなり、奥の間は天井が低く危難の際を考慮して階上に「姫隠しの間」がある。幕末には遠近の同志がよく立ち寄り時局を談じたと伝えられています。
掛橋和泉吉長は、通称を順次といい、掛橋家の養子となり神職をつとめました。那須俊平の門人となって剣と読書を学び、勤王の志あつく、文久2年(1862)尊皇攘夷の声高まり同志は次々と脱藩して国事に尽くしましたが、掛橋家は裕福であったので志士たちの資金援助を行いました。
義母はこれを知りきつく叱責し、和泉は事実を語ると同志の秘密を知らせることになり、それかといって義母をあざむくことはできないため、苦悶の末死を決し、同志玉川壮吉を訪ね意中を語り死後を託しました。玉川は酒を飲み慰め脱藩をすすめましたが和泉はその夜、玉川の家を忍び出て先祖の墓地に行き銃をあて自殺しました。文久2(1862)年6月2日、27歳の若さでした。
(説明看板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.10.9
住所: 高知県高岡郡梼原町梼原1532
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