2019年9月7日追記
おめでとうございます。ついでに、記事内を一部整理しました。
かんがい(灌漑)とは、一言でいうと、農業の為に水を引く事を意味します。
追記終
ふと北茨城市中郷町の地図を見ていると気になるマークがありました。
この2本の棒は何だろう。
道路からは離れているようです。
衛星写真を見てみると…
何かはありますが、よくわかりません。
ということで、行ってみましょう。
現場最寄りの、十石堀親水公園に到着しました。
後付けで作られた公園で、結構な坂カーブがあります。
正直擦る覚悟でしたが、うまく外角いっぱいを使えたのか、助かりました。
道中、立派な水路。
人家は殆どありませんが、人の往来がよくあるのか整備されています。
水が非常にきれいです。
水路の改修記念碑。
豊田市長は、収賄容疑で逮捕されても市長職に復活し、ずーーっと北茨城市長をやってるツワモノです。
2010年10月から2011年2月の間に、770mを改修しています。
震災の直前ですね。
この十石堀という名前、憶えておきましょう。
この付近より、現場へ近づきます。
…。
……。
GPSを見ると、だいぶ近づいてきたようです。
水の流れる音がします。
その正体は、水路橋でした。
先ほどの水路が山の向こう側まで伝っているようです。
木の枝が切られている。
これの意味するところは、これを渡るのに邪魔だからだろう。
って事は渡れるんだ。
そこそこ高いですが、このくらいなら行けるでしょう。
手すりがでかいね~。手すりなかったらちょっと迷ったな~。
向こう岸に近づていきました。
影。
地図だと2本に書かれているのは、この蛇篭近くにも側溝がある為か。
こちらは使われてないのか、埋もれて殆ど見えなかった。
向こう岸に到着。
っても何もない。
奥まで進んだが、特に面白そうな展開はなさそうだったので途中で、引き返しました。
橋に特に名前はなさそう。
ただただ、水がきれい。
さて、帰りましょう。
自分でこういうのを見つけると楽しいね~。
帰る途中、水路を辿っていると、かなり勢いの強い水路がありました。
そして、分岐していきます。
右側に分岐した方が、先ほどの橋へ行くようです。
分岐の左側。
階段のように下っていきます。
どこへ行くのかは定かではありません。
さて、一度公園に戻りました。
この公園も眉唾で、入り口にさも案内図のように看板が立っています。
現在地は、右側の車のある辺りです。
今いる場所を見る限り、右側1/3の絵はそこそこ正確ですが、残りの2/3はどうなってるんでしょうか。
川も描かれています。
今、私は南のSカーブを歩こうとしており、案内図の一番左端にいる赤い車が通ってくる道となります。
車を通す気ないでしょ。
というか、車はここまで来られません。
歴史を感じる。
あの案内図は何なのかというくらい、実情とかけ離れている。
理想の姿を描いたが、現実がついてこられなかった様子。
GoogleMapのクチコミでも「案内図がめちゃめちゃ面白かった」「あたかも色々遊べるかのように書いてあるが全然そんな事は無い」等、やはり皆さん突っ込まずにいられないようです。
最近、茨城県はメガソーラーばかり施工している。
酷いところは、空きテナントの元車屋の敷地にソーラーを敷き詰めてる。店舗はまだあるのに…。
このソーラーがあるところは全て、元々の炭鉱跡です。私が赴任した頃は、まだソーラーがなかったのですが…。
もっと見ておけばよかった。
生き残った遺構。
寂しいなぁ。
相当歩きました。
ここまでずっと水路と一緒です。
道がいくつか分かれています。
せっかくなので水路を追っかけます。
水路の上にフタがしてあり、延々と水路の上を歩くスタイル。
スズメバチの巣が壊れています。
夏には来たくありませんね。
さて、ゴールに来ました。
え?これだけ?
と思いましたが…。
調べてみると、ここは滝ノ沢水門という場所です。
江戸時代初期(1669年)に、沼田惣左衛門氏が、水田の水不足に悩んでいる松井村を代表して、大北川の支流である加露川から水路を引く計画を松岡藩に提出しました。
あまりに困難な計画であった為になかなか許可が下りませんでしたが、1668年に許可が下り、翌年には完成しました。
13kmにも及ぶ水路は村に豊かな水をもたらし、松岡藩は沼田氏に「主計(かずえ)」の名前と、十石の褒美を与えました。
ちなみに、1石はお米の量を表す単位で、1,000合分に相当します。
江戸時代当時、1合×3回を1日分としていたという事で、十石とは、お米10年分の褒美という事ですね。
先ほどまでに登場した水路は全て、この沼田氏が引いたものを改修したりして、現在も使っています。中には、常磐道の上を通っているものもあります。
※GoogleMap
十石堀水路橋。
歩く事も可能です。
ここは沼田氏が加露川から水を取り込むために作った取水口のようですね。もちろん、昔と同じ形ではないですが。
ここまでは小学校の社会見学でも来るようです。
ええ…結構遠いし、こんなところまで小学生も来るの…。
ちなみに、十石堀親水公園のすぐ近くに、御岩神社という神社がありました。
日立鉱山付近にある、著名なパワースポットである御岩神社とは、同名ですが別物です。
十石堀を成し遂げた庄屋の沼田主計氏が、松岡藩に水路工事許可を申請するも、難工事である為に許可が降りませんでした。
沼田氏はこの御岩神社の境内に磔柱を立て、命を懸けてやり通す覚悟である事を伝えた結果、着工許可を得る事が出来たと言われています。
現在は神社自体は無く、御岩神社と彫られた石と小さな祠があるのみとなっています。
という事で、水路橋を追いかけていたら意外な物と人物を知る事が出来ました。
以前紹介した
十石トンネルも、同じ由来なのでしょう。
ついでに他のルートも探索しましたが、目ぼしいものはありませんでした。
本当は水路橋が終わったら、日立市の日立鉱山付近へ探索予定でしたが、時間の都合で諦めました。
(1年後に訪問した際、駐車場の段差でリアバンパーを破壊しました😅)
・まとめ
1.地図に載っていた記号は、水路橋だった
2.北茨城市の十石堀親水公園の中にある水路は、江戸時代(1669年)に、沼田氏を中心とした地元の思いを実現した水路だった
3.この水路は今でも改修をされ、使用され続けている
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2018/02/12 02:10:00