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2012年07月11日

或る「小倉日記」伝。

或る「小倉日記」伝。 きょうは少し、思い出めいた記述を綴ってみたい。
46年前の1966年春、私は父の仕事に伴い、産声挙げて
まもない北九州市と言うところに転入した。

この全国で7番目の政令指定都市になった100万都市は
小倉、八幡に門司、戸畑、若松の隣接する5都市が合併。
川崎や、千葉と言った都市圏の従属型や、札幌、博多に
仙台、広島と言った地方の雄らが仲間入りするより先陣
を切って、産業の勃興と上昇の機運を背景に戦後初に
誕生した新興都市だったのである。

4大工業地帯の一つとも言われた工業+経済力を背景に、
全国に名の通った大企業の本社があり、多くの新聞社が
九州本社を設置。新設のテレビ局も当時は開設されたのである。

福岡(博多)より北九州の方が、何年間か経済力が大きかった、
そのプライドは、瞬間風速みたいなものであっても、地元に
生き続ける人々には、大きな誇りと勇気、そして活力となったものである。

実際、転入間もない頃、私は小学校に入ったばかりであったが
八幡の中心地である中央町や春の町に、母に手を引かれて買い物に
よく通った。その頃はお昼休みでも3交替の工員(労働者)が
町に溢れ、今と違って彼らも決して低賃金でなくすごく元気があった。
経済水準や、町に勢いが有った頃と言うのは、どこの町でも
3丁目の夕陽のように、家庭のひとつひとつに大きな希望があった
のである。私はその街角で、母と姉と子犬と暮らし、近所のお婆さんや
奥さんたちに可愛がられた。父親は夜遅く、酔っぱらって帰るのが
普通で、朝早くから製鉄所関連の会社に出かけていた。



そんな北九州の思い出は、昭和41ー44の槻田小時代、前半は清田町
の古い家屋、後半は到津(いとうづ)にあった戦前の社宅で母が
「庭付きの戸建てに住む奥様」にやっとなれた今でいう「リア充」
な期間にとどめを刺す。
我家に初めて、「ステレオ装置」が来て、ついに姉のためにピアノが
購入されて、ピアノを弾く娘の横で、母は中流上流の夢を見ながら、
趣味の洋裁で作った変な服ばかり私たちに着させて、せっせと家庭料理
から、洋菓子作りと、目まぐるしいホームドラマのようであった。
でも子供心にも、実に面白い時代であったのだよ。



昭和44年、父に初の海外出張の命令が出て、私たちは板付(福岡空港、
当時は博多からかなり離れた草っぱらの中に存在した)まで見送りに
行き、部下や同僚たちと壮行したのである。
「頭の良い『坊ちゃん』」と呼ばれた私は、さぞかし母の自慢であった
のかもしれないが、厳し過ぎないくらいに、自由に、ただ玩具などは
与えられすぎずに育った。武家の家風というものが、禁欲的だが能力は
自分で伸ばすというふうに決められていた。私は本を読むのと、外の野原
を歩いて動植物の名を覚え、特性を知るのに没頭した。「もやしくん」
だったのかもしれないが、行動力は次第に身に付けて行ったのである。




話は全く転回する。
小倉の町に奈良崎産婦人科と言う医院がある。
そこのドクターは日本中に名の知られた、鉄道マニアであった。
奈良崎博保さん、この名前を鉄道趣味に明け暮れた、中学高校の頃、
頭に意識しない日は、少なかった。そのくらい枕元に置いている
鉄道雑誌に、古くから奈良崎さんの名前は載っていたのである。

つい先日、奈良崎さんが亡くなった報を聞いた。実は私に取り、
趣味界の泰斗でもあるが、ある時に出身高校の大先輩に
当たることを知った。思いを重ねて数十年、面会面識のチャンスも
自分で動かなければ、故郷を遠く離れてしまい、叶わないだろうと、
思い切って数年前に手紙を書いてみた。

まだ仕事が忙しい頃であったので、妻が電話があったことを伝えて
くれたがかけられない。半月後くらいの日曜日朝に電話が有り、
恐縮しながら自己紹介しつつお話しさせていただいた。次に小倉に
帰る際は、お会いさせてくださいと。しかし面会は叶わなかった。
私の忙しさもあったが、やがて加齢のために体調を崩され、一度だけ
こちらから掛けてみたが、もう気配的に失礼だろうと察し諦めた。
それ以来数年になる。

私はいろんな幸運をつかんできた。もちろんその中には自助努力で
念願を達した物もいくつも有るが、今回のように叶わなかった夢の
方が数多いかもしれない。



青春のリグレットというユーミンの詞曲になるうたがある。
あれは恋愛の歌と言ってしまえばそこまでだが、憧れという若い夢を
折ってしまわずに、育てて行ければ、人生は面白いことがあとから
きっと付いて来る。
あの頃の九州の混雑した熱気の中で、一人の者はギターをかき鳴らし
東京へ出て行っただろうし、普通に都会の大学に行ってサラリーマンの
生き方を歩んだ者もたくさんいただろう。
その夢を運んできたのは、電波や文化もあったが、実際に人を動かしたのは
鉄道が大きい。

今は新幹線がトンネルを抜けたら小倉に到着するが、かつては下関で
機関車を「関門トンネル専用機」に付け替え、出た場所の門司でさらに
「九州島内用」に付け替えてわずか5分走ると、北九州の首都、小倉に
停車したものである。
2004年にイスタンブールからパリまで列車を乗り継いで4日間の旅を
したことがあった。国境に付く度に、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーの
検問を通らねばならない。
機関車もその度に付け替わるが、乗っている客車は“スルーで”運転される。
私は何だか懐かしい気分で遠い日の夢を見ていた。

小倉と言う、ありふれた町の思い出を書いてみた。
そんな気になったのも、一人の方が亡くなったことへのレクイエムと
私の心の中にうずくまる、去りやらぬメランコリーのようなものが
いつまでも引き摺っているのかもしれないと、思った。








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Posted at 2012/07/11 09:21:27

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