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kotaroのブログ一覧

2025年03月25日 イイね!

技術系企業の悩み

技術系企業の悩み今はテック企業という言い方もあるが、日本の会社には世界を舞台に通用した会社も多くあった。

中でもソニーの存在は日本が産んだ世界に通用する(した)スター企業だったと歴史を振り返る。

ソニーはテープレコーダー技術で、世界に飛び出して、映像を記録する装置の方式で、ベータ規格を押し出してその優位性を謳い、VHS方式と雌雄を決する戦いに長く挑んでいたことを、覚えている人はいるだろう。

最近、ソニーはMDミニディスクから、完全に撤退を決めた。
私は2000年頃からデッキを買って、カセットデッキの代わりによく録音して、自動車の中で再生するのにちょうど良いと思い、実は最近、自動車の音源をMDデッキに戻した。

レコードや、カセットテープの音をMDに録音し、自分の好みのやや旧い
音源を聴くのにちょうど良い。

しかしこのMDで聴いている音楽ソースを、年配の人が再生装置で聴きたいというと
CDに入れ直したりしないといけない。MDは普及しなかったから、そこは一つの
障壁である。

さらにパソコンで取り込むのに、実はMDはWindows系の昔のパソコンだけが
対応で、Mac派の私は今頃になって、付属ソフトの不対応に驚いて呆れた。

おそらく想像だが、MDは出た時は優位性のある方式であったが、どうやらApple社のiTuneの出現を快く思っていなかったように思える。

パソコンの普及の30年間で、最初の頃の単機能からアプリケーションの発想が広がって、写真や音楽をこの箱に取り込めるように変わっていき、今はインターネットを介在して、音楽や動画、写真を世界に発信できるように変わっていった。


そういう時代の移り変わりの中で、パソコンはWindows系とMac系の併立が悩ましかった時代もあったが、今では穏やかに共生できているように思える。


そのパソコンが社会を変える以前の1980年代にソニーはウオークマンで社会を変えてしまった。
今から見ればアナログ方式のカセットテープを小型の再生装置で、持ち歩けるようにしただけのものだったが、瞬く間にこれは世界の人の心を掴んだ。

私はあれを嫌って最初から持たなかった一人である。偏屈でなんでもアンチだった。

ソニーの80年代の成功は、80年代後半にアメリカの大手の映像産業の本体まで買収できるくらいの時価総額になり、あの頃の日本は凄い力を蓄えていた。

その日本は40年弱でこれほど冴えない状況になった話は前回書いた。

私はこんな今、もしソニーがiTuneを受け入れて、MDにも簡単にデジタルインターフェースしていたら、今でも世界のAppleショップの横にソニー製品が並んでいて、MDはCDより先に廃れずに済んだのでは、それか、次のステージの機器をソニーが共同開発したかもしれないと思った。ここは個人的な頭の想像で、テック系にもっと詳しい人は即座に否定されても構わない。

ソニーはmoraという日本独自の音楽サービスを始めて、何年維持しただろう。

私はもうMac愛用者になっていたので2000年代はソニーから離れた。
最初のプロバイダーはSo-netにするくらいソニーが好きだった。
だがCEOが技術系の人物から変わって、会社の体臭が「あれっ」と違ってきて、
当時は命の次に大事だったメールアドレスとホームページのうち、ホームページの
URLを利用者殺到でいきなり桁数字変更されてしまった。

今から見るとその程度のことであるが、私は年賀状の印刷も終えていたので
厳重に抗議した。回答が出るまで何回もメールで、いかがなものかと問い糺し
結局So-netを解約した。
その頃のCEOは最近亡くなった出井氏でGEのジャックウエルチを参考にしたのか
ソニーが保険代理業、続いて今も続けてる銀行業と言っても店舗を持たない
金融業に参入したから「あれー」そんなことよりも本体の電器の新製品や
ソニーレコードの方は?という裏切られた気分の方が強かった。



テック系企業は大半がアメリカ。後は中国という今の世界地図。台湾も頑張ってる。
日本はトランジスタ技術、次のIC、その次のLSI時代まで、もの凄く躍進を続けた。

80年代の優位から、ここまで転落した原因や理由は、いろんな記事と本を読んだ。

アメリカがソ連の崩壊で、東西対立が終わる前に、次は日本をやっつける国の方針に
なって、そこからの国際競争社会の変化。これは当たっている。
しかし武力で侵攻されたり、イラクやアフガンのようなことは無かった。

日本は技術力ともの作りで、戦後のカメラからテレビ、オーディオ、そして自動車と
何でも一時期は優位に立てたが、次の時代をゼロから考える力が乏しかったように思える。

日産がブルーバードP510と、初代のフェアレディ240Zを出した頃、特に後者は、当時のスポーツカー、ジャガーEタイプ、それと高価なポルシェ911(901)に比べて、驚くような廉価で高性能で、品質が良く壊れなかった。


ここまで書いてきて日本は凡庸なのか悩む。
ジョブズのようなゼロから家庭用パソコンに挑むとか、携帯電話の次、今は当たり前のスマホという日本語になったガジェットとか、それに近かったのがウオークマンだが、プリミティブな機械である。
私はあと、オートフォーカスのカメラも「日本的発想」と小馬鹿にして手を出さなかった。目先目的過ぎるのである。

その最初に出したMDがなぜ好きかというと、カセットテープに近い使用感と
CDの盤面傷が起きないから、私はアナログな自動車運転が得意なので、非常に
マッチングが良いと今も見直して、思った。
最近は老後になり時間もたっぷりあるので、レコードを日常的に聴いて録音し
クルマでも聴いている。

日本は世界をリードするようなテック国家になれなかったのは、当然のような気がするが、私のような好奇心型の人間のために、中間的なメディア方式の維持や、開発を継続して欲しい。自分は技術者になれなかったが、子供の頃から模型工作、今でも家庭内の機械を修理や日常的にやっている。
日本が立ち直るのは、少年とかの好奇心の涵養じゃないか。数十年かかるけれど
そう思う。

Posted at 2025/03/25 04:20:22 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2025年03月23日 イイね!

日産ショックから見る日本凋落の歴史の流れ

日産ショックから見る日本凋落の歴史の流れ日産の合併騒動からホンダとの破談となりあれよあれよのうちに年度末の3月である。
日本の国内の景気がさっぱりになって長い。従来メディアはタワマンや人の集中する東京の話題ばかり書いて誤魔化して来たが、今、昔は交通の拠点だった国鉄時代にデパートが建ったような駅前に行くと、地方の衰退は現実を通り越して住む人が、未来に絶望したくなるほど、寂れきっている。
そういった現実は2000年からの四半世紀の間に顕著になった、現在の国土の姿なのである。

日本の舵取りの失敗は、政治と行政の二重構造的に計画がうまくいかなかったことが長い。

私は今年66歳になるが、30代だった1990年代にバブル経済の過熱が途切れて、そこからポッカリと日本の未来にブラックホールが出来て広がったように記憶する。

その90年代の10年に子供を3人作って育てた。
本題と違う話だが、少子化社会はなんとなく空気で予想したが、私は父親より子供の数が多い。これはある頃から生涯賃金は父親に負けるだろうから、子供の数くらい勝っても面白いとやってみた。
老後の今は年金でも全く負けて、とても貧乏だが、息子が時どき心配して、釣りで釣った魚を片手に遊びに来てくれる。それでも子供がいないよりいいやと自分を慰めている。



90年代途中からは日本がバブル経済の反省と言って、不良債権の存在を目の敵にし、バブル時代に乱脈経営だった企業潰しを奔走した。これは今に至る自己責任の発想で、そのときに日本を代表するような山一證券や、長銀、日債銀といった国の政策で作った金融機関も潰した。今から考えると日産のような状態と異なるが、金融経済が乱高下したのは、1985年のプラザ合意を日本政府が受け入れて、為替が暴騰して日本に大量のマネーが流入して、日本企業の時価評価額が軒並み世界のトップにいきなりなった。

競争力がついていない時代にいきなりそんな「現象」が起きて、ネットもまだ無いような時代に、国も国民も現実を理解できず、お金が湯水のようにあるので、会社の経費で高級輸入車を買いまくったような伝説が一人歩きしただけである。

それが一部の人や会社が踊ったバブルの正体である。
バブル退治と当時は言われ、本来は「退治」するような化け物ではなく、経済の急性病への対処が解っていなかった。
そのバブルがいきなり弾けたのでなく、1995年1月、関西の神戸で関東大震災以来の大地震が起きて、国民は「何かが終わった」ような気持ちになった。
同じ年の春先の今頃にオウム真理教が地下鉄で毒物テロを行った。これは流行作家の村上春樹が「アンダーグラウンド」という小説を書き、人々の心の中に急速に未来に対する不安が黒雲のように広がって行ったのである。ちょうど30年前の春はとても不安な日本の春であった。

そして1997年後半になると企業経済の破綻が顕著になり、北海道の拓銀や、山一證券などが、救済しきれなくなり潰れて行ったが、庶民の人々は、平家物語のように栄華の終わった企業は「自業自得」と感じていたのではなかったか。



所で私は個人的な見解であるが、日本の経済が段階的に悪くなった主因は、消費税制度の段階的導入の結果で、その結果が、これほど大きいのは、日本人の国民性と真逆だからと、ずっと考えている。


まずバブルが崩壊目前のピーク、1989年は平成元年に4月から3%の消費税が加算された。
この話をするとすぐに昔は高額な買い物に物品税が付いていたじゃないかと反論される。しかし庶民や国民は、昭和の時代は高度成長期が終わった昭和50年代でも、旺盛な消費意欲があり、要らないものでも新製品に敏感に反応して、国内経済は成長の一途だった。石油ショックが1973(昭和48)年秋にあった。

自動車の値段もガソリン価格も1975(昭和50)年までに大幅に上昇したが、日本の自動車産業は魅力的な新車を開発して、1981年のトヨタソアラの登場で高級車市場のブームが起きて、黄金時代が始まる。



消費税の税率改定、アップは第2弾が1997年4月であった。
山一倒産、北拓の消滅は今に至る北海道の経済の運命を暗示したのであるが、消費税を春に上げると秋の頃から資金繰りに苦しむ企業が表面化して、97年は金融恐慌の年と言われる。私も新聞社時代の暗鬱な記憶が残っている。

ここで日産の危機と苦悩に付いて再録すれば、”コストカッター”、ゴーンが来たのは日産の業績の急速に悪化した後の1999年春である。
日産を大甘で救済すれば良いという記事を書くのが真意でないので、順を追って説明すれば、日産は1960年代、70年代、トヨタに比肩できる会社であった。
特に北米輸出で大きく売上を伸ばして、日本の商社マンのように、日産はイメージ戦略でも国際ラリーでブルーバード、フェアレディZが活躍して「技術の日産」という企業イメージも定着した。

しかし日産は民業ながらここまで大きくなったトヨタとは対照的な、組合トップが天皇と呼ばれたり、社内の抗争が本業の製品開発に影響しやすい、アキレス腱の多い会社であった。
魅力的な商品が生まれると息を吹き返す。これは自動車に限らず、1億人の国民を抱える国内市場でものが売れると、大きく儲けを伸ばすことができる、大国の長所でもある。今の中国が羨ましいのは、10倍の市場で、制限付き国家でありながら、消費をコントロールできたから、あっという間に日本を追い抜けた。これはアンチの人も解ると思う。

日本が景気が悪くなったのは、国内消費経済の動向に冷水を浴びせ続けた消費税の改定である。3%が5%になった1997年に金融恐慌が起きた。今から見るとたった2%の上昇でも国民は「ノー」と言って財布の口を固く閉ざした。

5%ショックの記憶は強烈で、その後の総理内閣は消費税アップは封印した。
しかし2回も消費税をアップしてしまったのは、安倍一強と言われた第2期安倍晋三時代である。2014年と2019年に引き上げを行なっている。
総理の支持率の高さに税率を決める国の中の財務省が、上手に一体化を演じて5年間で2度も消費税を上げた結果は、財務省解体デモまで起きるような今の社会状況と冷え込んだ消費経済である。



財務省を「解体」したって何も良いことはないが、この消費税と一緒になって国民負担の増えた、保険料や年金等の色々な問題は、みんな地下で繋がっており、問題の本質は、政府が官僚をコントロールしているように見えるのだが、どうしたらこの重苦しい空気を変えられるかである。
「官邸主導」で安倍政権時代は、目覚ましい国際的なプレゼンスを成し遂げたという言論や評価は多い。
しかしそれは参謀の存在とシナリオを書いたのを演じ切ったように私は見る。
消費税は安倍政権以前から始まっているのだし、それを廃止や別税にすることは勇気がなかったら、上げる方をことある度に言ってくる官僚の意見に耳を貸したまでである。
2度消費税を上げた総理は泉下の人になった。
戦前なら例があったが、戦後総理経験者が狙撃で死んだ例は初だと思う。
そして2020年代は半ばになって、沈み切った国内の国民消費力は、重税の前にただ喘ぎ、ものが売れない時代はまだ当分続きそうである。
Posted at 2025/03/24 03:27:53 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2025年02月13日 イイね!

日産と松下パナソニックの危機に思う

日産と松下パナソニックの危機に思う
昨日の朝に別の場所に書いたが、日産や松下が潰れかける時代が来るとは思わなかった。これを基に独自で書いてみようと思う。それがジャーナリストの仕事だと思うので。


世間の空気の趨勢というものを作っていくのは、一方で政府や国家が。一方で大新聞や全国キー局のテレビの仕事だった。昔からと言っても戦後の昭和の40年代以降だと思う。テレビの方は。

最近ではネットがこれらの地位を揺るがせるようになった。だからさっきの空気のことを作るのが醸成と呼ばれるまで、市民が冷静になってきたと思う。
日本国内の消費経済の平均購買力が落ちに落ちて、日産もパナソニックも1億2000万も人口がいる国民の国内需要で食っていけなくなった。私がトッドやピケティならそう分析をするであろう。


なんとなく、このトップ企業2社の落日は自己責任で仕方がないって、多くの国民は思わされて、思い込んでしまっていないであろうか。これは完全に政府の政治のミスである。消費税を上げ続けて、今や10% 1割昭和の時代より余計に取られる。
また会社員や働いて暮らしている人の保険料、税金、公的年金等の負担が、昭和末期の景気の良かった頃に比べて、正確なデータをとっていないが2倍以上だと思う。老人医療が無料でやっていけたから当時は。それが社会福祉と堂々と謳われて、厚生省は「いい仕事をやってくれるいい官庁」の代表みたいな顔をしていた。


今泡を食っているのは、政府の税調と、税金をセッティングして取り立ててきた大蔵省や後裔の財務省であろう。まさか国内消費がここまで冷え込んで、松下や日産が潰れるなんて。彼らにとっても大量の税収入が見込める日本の一番上にあった巨大民間企業である。その影響たるや大変な恐慌が出現するかもしれない。


ではなぜここまで国内消費が冷え込んだのか。それは匙加減のミスである。
一方でマスコミの大罪は、なんでもかんでもバブル経済の破綻やそのツケと、嘘を言い過ぎてきた。実際はバブルの反動は10年もない。その後の不況は、政府の金融ミスや、政治上の舵取りで、日本はミスをし続けて繰り返したからである。特に特定世代を放置した、就職氷河期世代問題の長年の置き去りで、少子化が進み、老後の希望も持てない大量の国民を産み、ライフプランを全く無策にしてきたことは、政治の大ミス以外に他ならない。


高齢者が激増する、団塊世代の60歳到達や75歳到達が、どれだけ喧伝されてきただろう。マスコミも罪が重い。

これだけ国債を発行して一時調達して国家を維持でき、新幹線も3、4本で終わりにしなくても国が破綻してないのなら、団塊世代対策は、国債発行と償還期間設定で乗り切れた筈である。
消費経済が低迷していなかったなら。


とにかく今の財務省のお粗末に尽きるのではないか。国の活力を奪い続けた結果は。
団塊世代のうねり、ショックは、彼らがもうすぐ死に絶えたら、それを収斂したら良いだけである。しかし団塊世代、と言っても10歳下の僕らの1.5倍程度の人口が多い人たちのことで、政府はずっと危機が来ると言い続けて、消費税を導入しパーセンテージを上げ続けてきた。1987年から安倍政権時代に2度も。
その結果がどうなったであろう。この生活苦である。

で、悪い事がチエーンリアクションになって、保険料も、各種の税金も増え続けたのは、うまくいっていた昭和戦後の逆進に完全になっている。政府と自民党政治の無能は、もう誰の目にも明らかになった。
今日はこういうことをみんなに気づいてもらいたくて、どうやったら、口先だけでない良い政府や良い国家になれるだろうか、考えて欲しくて書いた。野党のどこかが政権奪ったらなんてレベルの話題ではありません。
日産や松下が消えるって「国家的危機」だということを、見逃して欲しくないのである。兵庫県の知事やフジテレビと芸能人の話題なんか、全くどうでもいいと私は思っている。


Posted at 2025/02/13 07:14:09 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2025年01月21日 イイね!

鉄道ジャーナルの休刊情報に思うこと

鉄道ジャーナルの休刊情報に思うこと自動車雑誌の現状について、特にコメントをすることは避けている。
一方、自動車趣味とは、観点が違うのだが、鉄道趣味のことは無関心ではないのだが、自分が好きだった子供時代、半世紀前とアプローチが違って来て、自分のベクトルと乖離したので、鉄道雑誌は80年代の後半で新刊を買わなくなった。

その後の40年近い時間に、鉄道趣味の人口はずいぶん裾野が広がり、社会現象にもなっている。

しかし撮り鉄問題などの顕在化の陰で、老舗3誌の一角が、ついに撤退するという情報が出て、残念がっている人の多くは、私が買わなくなって以降の、90年代以降の「鉄道ジャーナル」関係者だと思われる。


なんで鉄道趣味はこういう市民権というより立ち位置になっていったのかを、自動車趣味の岸から考えてみたい。

1950年代前半創刊の「鉄道ピクトリアル」、60年代前半の「鉄道ファン」。
そして60年代の終わりに当該の「鉄道ジャーナル」は切り口を変えて登場した。
学生運動、市民運動の盛んだった時代に、SLブームど真ん中に「ジャーナリズム」の旗で直球を投げて当雑誌は登場した。

私は1973年に初めて買った鉄道雑誌が「鉄ジャ」である。
特集が参急2200の一生と引退迫る阪急の旧デイ100の特集で、関西私鉄の戦前の名車である。関西に縁の深い私は痺れた。両電車とも引退迫る前で、その頃はこういう切り口でスポットを当てるのかと、大変趣味の入り方として、中学生には参考になった。
難解なピクトリアル、ちょっと豪華なファンに対して、ジャーナルは参考書臭が当時はしたのである。



創刊編集者の竹島紀元さんが九州の出身ということも、後に知って、当時は島内にいた私は興味を持った。
今調べると1926年生まれらしい。創刊時は40代ということになる。

竹島さんは、今でいう自己中の鉄道ファンでなく、若い頃の投稿も、いっぽ引いた目線の鉄道愛好家であったが、自分の考える「雑誌とはこういうもの」をやりたくて夢を実現された。
自動車の雑誌で言うと、カーグラフィックを作った小林彰太郎氏とその辺の経緯、年齢は似ている。

私は雑誌が成功して、収益媒体になっていき、最後はスピリットがなくなり生活のための給料労働になって、解散や廃刊になった例は、山ほど記憶している。

それは講談社や集英社といった、巨大な出版社はサラリーマンと思うが、それでも本を出すと言うのは最初は志である。
そうやって考えると竹島さんの死後10年、RJ(ジャーナル誌)はよく続いたと思う。




参考書臭という言葉を使ったが、趣味雑誌というのは一種の啓蒙という言葉の活動である。
カーグラフィックも自動車趣味の黎明の時期に出て、ディレッタントと暮らしの手帖的な、自動車を実地に使ってのトライアル雑誌だった。
当時の若い読者は手にとって「おおっ」と声を上げて「そうだ」と共感や思うことが多かっただろう。それが趣味の雑誌の黄金時代である。

ロックとかの音楽趣味も何もかもが、20世紀の頃は若かった。
それには1945年に戦争が終わり、焼け跡から何が生まれて来たかというと、趣味である。
生活が大変でそれどころでない時代に、民衆はすぐに娯楽と趣味を求めた。
1950年から60年代の終わりまでの20年間が、揺籃期だったと思う。

小林彰太郎も、竹島紀元も、平和な時代の到来に「これからは好きなことをやる」という覚悟で臨んで戦後10年が終わってから始めたのである。

ここが今、21世紀が迷いの時代になって長いのだが、鶏と卵論みたいに、何がやりたいのか判らない人生の人が随分増えてしまったと思う。

そろそろ纏めていくが、やっぱり創刊編集者がいなくなり、薫陶を受けた世代も引退すると、本や雑誌はルーチンワークで作るだけのものになる。
特に今の時代はネットやパソコンの中が万能すぎて、生きることや働くことまで、方法論を手引きにしてしまい、迷うと「ここに書いてあるよ」と余計な親切な人が現れて、次の時代はAIがやってしまいそうである。



「鉄ジャ」の休刊、事実上の廃刊撤退は、趣味をテーマにした雑誌が、何をやりたいのかを、その目的行動する対象に、撮り鉄問題のような社会現象に対して、明確な処方箋が出せなかったことへの、リグレットがあると思われる。

要は「なんでもあり」の時代に、鉄道趣味を志す者はこうあるべきが、追いつけなくなった。自動車趣味の雑誌も、もう知識と情報はネットで十分の人が増えていき、カラーを打ち出せなくなった所から消えていった。

さて最後に、こういう時代になって、こういう時代を生きる我らは、何を参考書にしたら良いのであろうか。
もう雑誌もメディアも役目を終えてしまったように自信を無くして、会社は残っても空っぽになっている。
正月明けの年頭の投稿を書いている私も全く判らない。

しかし鉄ジャの創刊当時には、確固たる編集方針と、そこに集まってくる大衆に対するアピールややりたいことが、設計図に描かれていた筈である。

今年はやはり、自分はこれから何をしたいのかを、原点やスタート地点に立って考えて見るべきではないかと思う。
情報に踊らされて動く撮り鉄のような存在を、あなた自身がどう思うのかだけだと思う。
Posted at 2025/01/21 05:41:55 | トラックバック(0) | 鉄100% | 趣味
2024年11月29日 イイね!

走る”違和感”とオワコン交通機関の行方

走る”違和感”とオワコン交通機関の行方久しぶりにブログを書く。
クルマを久々に動かした。

11月の頭に、山陰の方のツーリングに参加して以来である。

あまり長く乗らないと老人なので、ボケが始まるのではないか。
今は冗談だがもうそんな歳になっており、滅多に開けないみんカラの蓋を開けたのである。





突然、話は40年前に戻る。
フェラーリテスタロッサが40周年のニュースが、外国の記事で出ていた。



1980年代に、このクルマと、その後のF40が出て、フェラーリのシンボルに、
若い自分らは幻のクルマに対する憧れや、それが非現実から現実に出た時の
衝撃に、一気に頭に血が昇って、可能になれば「死んでもいい」みたいな
興奮の時代に突入した、懐かしい記憶が蘇ってきたのである。

それで当時のことを、若い日のことを思い出して見た。
この漫画を知っている人もいるだろう。




この作者にすれば、いつも”描かされている”柔道漫画やネコの可愛い系漫画では
なく、人気が出だして、成功者になり、お金を得てからの日常の延長を
ちょっと面白い視点で描いた快作だったと思う。

バブルの戸惑いと空気を描いた、コメディコミックとして、私も強烈に覚えていた。

作者の思い入れと、ほぼ同世代なので、老後と言っても元気なうちにこんな
コンテンツを無料で公開してくれていたので、数分間を一気に上映して見た。

実に懐かしいし、ストーリに飛ぶと、秋田から出てきた若い女性が大学に進学するも
ちょっとアルバイトで、銀座のホステスになり、そこで見染められた各界の著名人
成功者から求愛されて、とんでもないプレゼントが、このピンク色のテスタロッサ
なのである。

ピンクの高級車は米プレイボーイ誌の、最高点ピンナップガールに贈られる
夢と憧れの象徴であることを、知っている人はニヤッとするであろう。

ぽっと出のハローちゃんがいきなり、故郷の秋田から、東京の銀座の世界に出現
して戸惑うギャップが面白いし、今の堅実な若者には、”信じられない”
シンデレラストーリが1980年代の東京には、これに近い話は実際にあったと思う。

私も今と40年前のタイムラグより、社会の空気のあまりの変わりように
ちょっと目眩がしそうになった。
主人公の故郷の秋田には、当時は新幹線も開通していない。

奥羽本線を走る特急や寝台列車に乗って、長時間の旅の後に着くのが
花の東京である。私も九州から東京の大学を目指したが、2年連続で受からなかった
から、関西に留まって45年になる。

その頃の秋田には地方の空気はもっと明るい、長閑な生活の空気が満ちていた。
今や日本でも、最も人口減少と過疎化が進み、沈みゆく故郷のことを
このハローちゃんの続編を描くなら、故郷のことを越後出身の漫画原作者は
どう描くであろう。



昨日のテスタロッサ40周年のニュースを読んでいると同時に、
国内ニュースで、青森の弘南鉄道大鰐線が27年度で廃線になる記事が、
千葉県のJR久留里線の鉄道事業を見切った話と一緒に飛び込んできた。

嗚呼という感傷はあれど、よくここまで持たせてくれたものだと思う。



大鰐線と一緒に1990年の12月の終わりに訪ねた秋田の大館から出ていた小坂鉄道の
シーンもお目にかける。



ハローちゃんが東京で”テスタ郎”を乗り回している同時代の秋田や青森は、
こんな世界だったのである。まあ今もあまり変わってないのは気の毒だが。



ところで、私も40年近く同じフィアットを乗り続けてきて、近年は
街を走るシーンもとても違和感が走ってるように見えるのでないかと、
外側から見た時のイメージをずっと考えている。

40年前のハローちゃんの漫画で、いきなりプレゼントされたテスタロッサで
街を走り出すシーンがとても面白い。動画で見てほしい。



私は2020年代になり年齢も60代になった。
1980年代には20代の若者で、初めてフィアットを走らせて街を行くときの
ソコ除けの痛快感は、今や一歩間違えると痛い老人の高齢車運転に近い。

漫画の女性がテスタロッサの操作を間違えて点灯状態で首都高を
ドドドドっと走り出すと、前方の車が一斉に道を開けるシーンは笑う。
今テスタロッサに乗っていたら、40年維持出るのは至難だろうが面白いだろう。

しかし地方の交通線が、限界に近い状態で走っているのと、我らが旧いものを
維持して走らせているのと、あんまり考えたら、大差はないのではないか。

みんカラをそんなにしょっ中、端端まで今は見ていない。

自動車のタイム、自動車のエイジは確実に終わりが近くなるような気がしているが
書くとこの場が荒れるので、私自身もそんなに毎日クルマのことを追いかけて
いないのと、ネットでは趣味の範囲のみ目で追う程度である。

40年前は自分も若かったし、楽しかったなあと今は思うだけである。
テスタロッサの夢は、一時期安かったけれど、また高騰してとても遠い縁になった。
しかしマンガの世界とはいえ、一時期は銀座のアルバイトホステスでも乗れそうな
ところにあった。
それと、この書き方と目線は、今はジェンダーの考え方で多分駄目だと思う。
小林まことのチャンネルは面白いと一瞬思ったが、個人的な回想の日記の範囲だと
私は思う。

そんなことを広い発想でまだ考えられるので、私は旧いクルマに乗りながら、
まだ未来に少し生きられているような気がする。
Posted at 2024/11/29 04:02:02 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ

プロフィール

「技術系企業の悩み http://cvw.jp/b/176891/48331664/
何シテル?   03/25 04:20
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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趣味とかその対象はどうなっていくのか 
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2020/04/01 18:15:22
タイ製L70ミラ・ピックアップのすべて 
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春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/05/11 05:49:46

愛車一覧

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中古のスーパーカブを買いました。 原付に乗るのは40年ぶりです。
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2016年10月、三年半かかった車体レストアが完了し戦列復帰、その後半年、また以前のよう ...
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