西洋から明治の初年以来、どっと文物が入り、日本は完全に
江戸以前の過去を棄てて、人心を一新した。
きのうの10月14日は明治5年に鉄道が150年前に開通した記念日である。
明治4年には日本は郵便制度を開業している。
それを司る逓信省は戦前に国家の重要機関として君臨したが、それを
引継いだ郵政省は3次に渡って解体されて跡形も無い。
逓信省の偉業を伝える
逓信博物館というテーマミュージアムが
郵便行政華やかりし頃の、昭和40年に都心の一等地、大手町の産業経済新聞社の
真横に作られた。
この博物館のレトロなのんびり感と、昔切手収集をしていたので、隣の新聞社に
出張で行った際に、無料の展示を何度か見たことが、若い日にあった。
その時は全く「逓信」の重要性を意識してなくて、何でこれが皇居と東京駅の
間にあるのかも、考えたことがなかった。
その考えを改めたのは、2013年8月にこのミュージアムが閉館になる際に
特別展示の数々を見て唸った。
郵便と放送を黎明期からつかさどる省庁として、どんなことをしてきたかというと
情報のプロで、機密を扱い、戦時体制には命を賭けて派遣される任務も
あったのである。
だから大手町の読売新聞、産経新聞両本社の前にこの情報博物館が出来た。
面白いことにこの2社は国よりのマスコミ機関であるし、毎日と朝日の
名門2社は国と対峙するためか、少し国家機関と距離を置いている。
郵政が切手の時代の衰退で弱って行き、最後は簡易保険と郵便貯金の
膨大な資産を狙ったアメリカの資本主義によって2000年代前半の小泉時代に
解体されたことは記憶に新しいが、もう15年以上前である。
逓信省時代は例えば長崎県佐世保に今も残る、
針尾の電信塔は海軍のもので
あったが実際にここを運営したのは国家機関であり軍部と帯同していた
逓信省の無線傍受の任務を担った者たちと軍の特務の連携作業である。
戦後の日本の歴史は広過ぎるので今日は書かない。しかし逓信博物館に
最後になって行って、その底力を見せつけられた時は、真夏なのに冷や汗を
感じた。それほど大事な省庁だったのである。
さて鉄道も国家の建設のために作られていった経緯がある。
明治の途中までは日本は江戸時代から転換して、資本主義の国家を建設して
株式を公開して上場企業を作る前だったから、国家に資本と資産が少なかった。
この時代は江戸の名残りで、地方に蓄積された資本が有り、金融機関はまず
銀行法を制定して、各地の元の城下町などに金融機関の原型が生まれて、
都道府県制になると、金融機関の本店は県庁所在地に集まった。
銀行の話に飛んだが、鉄道網は国鉄の前々身の官設鉄道以外は、民間の資本下に
自由に建設が可能だった。
東海道線は国がつくって徐々に伸ばしたが、山陽本線は山陽鉄道。
その先の九州は九州鉄道。東北方面の東北本線と常磐線は日本鉄道が開通させた
のである。
それらの長大私鉄を明治の後期になり、戦争などの有事の輸送を円滑に
するために鉄道国有令が出て、資本家たちの夢は一度途絶えた。
その頃は順調に日本国家に資本が形成されて行ったことがあるから可能であった。
そこを見落として、中学・高校の歴史の教科書の丸暗記では、中学レベルである。
鉄道の国家経営は、国の悲願であったと言えよう。郵便業務も長らくそうであった。
これらは第2次大戦に負けると、まず鉄道省が日本国鉄鉄道に変わった。
国鉄時代は長かった印象があるが、”たったの35年”の歴史である。
3公社5現業と呼ばれた国の経営する企業体は、1980年代になると日本が世界で
指折りの裕福な国になり、いろんな意味で的にされて消えて行く。
国内の民間企業が実に豊かになると、民間から見て改革の矢的になった観が
ある。
しかし指を咥えて見ていたのは、日本を長く仮想敵として見ていたアメリカで
ある。
日本を増長させるな。そう言う声は米国の議会と産業界で1970年代から
数次に渡り繰り返されて、最初は日本はびびったが、びくともしなかった。
それだけ日本の国力は豊かになったのと、日本は軽装備の軍備で済んだので
地上の楽園化していたのである。
そこをアメリカに狙われたというのは、あながちどころか陰謀論でもなんでも
ない。
これはTBSのアメリカ特派員であったベテランのジャーナリスト氏から
直接聴いた話(情報)なので私は信頼性が高いと思っている。
いっきに論文を書いたので”箸休め”にオモシロ写真を挟む。
この切符の利用者は国会議員の前田久吉翁であるが、このおじさんは
東京タワーの建設主であり産経新聞社の一代オーナーであった。
議員切符を秘書に買いに行かせて、これから新幹線が出来る前の最速列車
「こだま」の1等車で帰る際の利用で有るが、どうも籍を離れていた
古巣の新聞社の総会に参加した形跡が濃いのである。
さて元の話に戻るが、何故日本は弱くなり、ちっぽけになり、先の見えない
国になったかというと、国家建設の大局観があった時代は、アメリカや
西洋の横槍にビクともしなくて、郵便も鉄道もまっしぐらに伸びて行ったから
日本は10位以下から7位くらいになり、最後は2位まで地位をあげて
行ったのである。
特に戦後の1950年代後半から1980年代までは奇蹟の成長の時代であった。
ま、汲み取り便所から水洗に変わって行ったのもこの時代だったし、
皆んなが「世界の3大バカ」といった新幹線の成功もあった。
トランジスタからICまで、「半導体の時代」に日本は伸びるだけ伸びて
外貨を稼いだし、ウオークマンやファミリーコンピュータのような”お家芸”で
世界を「あっ」と言わせ続けたのもこの時代ならではであった。
金持ちの余裕が余裕をさらに呼ぶような正の連鎖である。
そこまで考えて行けば、今の日本全体に漂うペシミスティックな悲愴感、
これをどうやったら変わるのか、一緒に考えて欲しい。
話は全然変わるが、昨日は太陰暦の国家が太陽暦に変わったのが150年前だと
書いて、その影響と、こんにち的な問題について考えるのは有りか無しか
考えてみた。
いまちょうど、戦後77年で明治維新から数えて、第2次大戦の敗戦が折り返し
地点で、同じ距離の長さの時間軸が経過したあたりに我々は立っている。
たとえば国家を経営する時に肝要な国営鉄道は、解体民営化されたが、
潤っているのは都市部だけで、地方は鉄道と自治体が並走して衰退と滅亡に
向かっているが、それを見て見ないふりをしているのが都会民、私も含まれる。
郵便もアメリカ好きな戦後育ちの小泉首相時代に完全に終わってしまったが
国家戦略って何だろうか、一般の中から優秀な若い人もいるから、
今日書いたような150年の通史を読みながら考えて欲しい。