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kotaroのブログ一覧

2021年10月12日 イイね!

MTとFR

MTとFR












つい最近、自動車評論家の私より年齢が少し下の清水草一氏の
「もうMTなんてATに比べてメリットなんて残っていない」というような記事を
読んで、あーこの男も言っちゃったか!と感慨を新たにした。

AT率99%で世界一! 日本人はいつからMT嫌いになったのか?

此の所のガソリン高騰もあり、自動車に対する欲求、要望はずいぶん、クルマの
趣味性やプレジャーから遠のくばかりで、こんな記事を有名人が書くと、
実も蓋も無い気がする。



話はここからジャンプする。
蒸気機関車の写真の次は、1970年代に大量に作られた、ディーゼル機関車の
写真である。

記憶に沿って書いて行くと、1964年の東京オリンピックの頃は日本中に
3000台以上あったSLを11年後の1975年までに全廃するという、すごい宣言を、
当時日本中に列車を走らせていた国鉄が言い切った。
それは、強烈な動力エネルギー改革であった。

データが見つかった。昭和36年(1961)4月時点で国鉄の蒸気機関車保有台数は、
C10からD62/E10まで3942両。私鉄にその頃は100台以上いたと思われる。

これを実際にエネルギー革命で、その間に東海道新幹線も成功させて、
北海道以外のSLは1975年3月の山陽新幹線全線開業までに国鉄は全廃させた。

その時代の猛スピードな産業改革は、石炭産業に従事する者を大量失業させて、
その代わりに日本中の臨海工業地帯は猛スピードで建設されてフル稼働。

高度経済成長は数年で国民所得を倍増×倍増させて、日本の姿は変わって
行ったのである。



その頃の10年は、信じられないくらい生活の変化が速かったことを覚えている。

私は子ども期から、少年時代のことで、もっと上で存命の世代の人は、
どう感じていたのであろう。

超過酷な石炭のカマ焚きをしていたSL機関士が、数年後には新幹線の
運転士になるようなことも、実際に在った。

その頃のいろいろな出来事を思い出して書くのがきょうのテーマではない。


もうMTとATのどっちが優れているか、とか、クルマはやはりFRがFFを
上回るっていうような議題は、1980年代ならともかく、2020年になっても、
内燃機関が、これだけ残り、石炭石油類の化石燃料で道路の上を何百万台も
走っている姿に、エミッションコントロールと言っても、根本的に解決策が無く

そんなことの課題と命題も解決出来ないのに、MTとFRの存在価値を書いて
みることは、どれだけのことだろうかと、よく悩んでいる。




でも、ガソリンエンジン車の終ろうと言う時代に、何が良かったとか
あれこれの思い出を、こういう場所に、長く書いてきて、ときどき古い記事を
読んでくれている人があることに、じわっと感激することも多い。

そう、クルマ好きにとり、今は「神々の黄昏」の時間であり、だからこそ
最後に好きなことをしても許される、ワイン色の至福のときなのではないだろうか。




最初の方に書いたSL蒸気機関車を駆逐した、DLディーゼル機関車も疾うに姿を
消して、今は機関車方式の編成列車は貨物列車くらいである。

その貨物車両の入換えには、ハイブリッド方式のディーゼルエンジン+
電気モーターの機関車が活躍している。


いつしか時代はもう、21世紀半ばの見える頃になり、私はその頃存命している
可能性はある。

しかし、MTのクルマを今2台持ち、私のMT率は100%である。
路上のAT率99%の時代に、敢えて”逆張り”人生を楽しんでいるのであろうか。

今はRRとFFの2台であるが、FRは過去に初代のランサーから、近年所有の
アルファロメオ75までいろいろと乗り継いだ。



私は今、思い出の話ばかり書いていることに気が付いた。

すでに自動車そのものが、単なる移動の手段としての道具だけなら
社会主義のように、共有で使用する方が負担が楽だと思う。

思い出話は楽しくなって、つい長くなってしまったが、きょう書き切れ
なかったことを、いつかまとめてみたい。



Posted at 2021/10/12 13:14:41 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2021年09月28日 イイね!

9月は反省だらけの月でした。

9月は反省だらけの月でした。
今月は体調がずっと不調でした。

それもあり、意欲が低下して、身体を動かせず、

凹んでいたことが多かったです。



8月に昨年私のところに来た、初代ベルランゴの重点的改良をいたしました。

①エアコン修理

②ヘッドライト改良

③バックライトのLED化とリアウインドウのスモークフィルム除去

以上の3カ所です。

まずエアコン修理は、地元の工場で出来ないか、最初にイエ◎ーハットに行き
ガスチャージの段階で断られて、近所の工場で見てもらいます。

そうすると、ガスを入れてもすぐに漏れるので、配管かどこかが破損と判明。

近所の工場では預ってもらえそうになく、ごり押しはやめて、暑いさなかに
大阪まで回送し、いつも見てくれている工場に入れました。

そこでいっぱい悪いところはあるけれど、どのレベルまでやるか相談して、
上記の3カ所にしました。エアコンが効かないと、その時期は乗れないくらい
だったので、必須にします。



入場後に判明したのは、エアコンのコンデンサー部が破損していて、要交換。
本国に部品無し。

しかし「306と一緒」と判明して、もちろん中古パーツを国内で探して
これは落着。

次はとても暗い前照灯。
LED化と同時に、反射板部分の鏡が曇り、効果が無くなっていたのを
磨き直して、再生します。

最後が、前にいた場所が真っ暗なところで、夜間の駐車場でバックして
切り返すのがとても怖かった。
相談して、バックライトを明るいLEDに交換しました。

ついでに全く夜間運転で後部が見えず、悩みの種であったスモークフィルムも
剥がしました。

後部の視界の改善では、バックフォグを付けようと言う私の主張に対し、
工場は安いドラレコで十分という意見。

いろいろあれこれ付ける前に、ミニマムな対応で満足点に達しています。



それから、この車の性格、いわゆるフランスの商用車である
フルゴネットを十二分に楽しむには、性格をもうちょっとルーズにした方が
良いかと、今住んでいる岩国市にはアメリカンが多いので、トップ画像の
ステッカーや、こういった香水の臭いのするモビールを吊るして、
サーファー感覚で、乗ってみるのは良いかと。

この辺は市内にあるショップの、ヴィレッヂバンガードで求めました。

Posted at 2021/09/28 07:31:13 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2021年09月26日 イイね!

無題

この記事割と面白いですね。
https://minkara.carview.co.jp/summary/13179/
Posted at 2021/09/26 02:44:53 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2021年07月23日 イイね!

カーライフ40年

カーライフ40年
今年は1981年という年から40年
私はその頃大学の3年生であった。
自動車免許をとり、待望の自動車を買ってもらい、
下宿生の生活ながらも、カーライフをスタートさせていた。

ちょうどその頃が、夏に大滝詠一の「LONG VACATION」が
学生仲間の間だけでなく、世間でも大ヒットになった。

また、寺尾聡の「ルビーの指環」が大当たりで、日本人の成人男性による
AORという新ジャンルが成立するのではという、興味深い現象が起こった。

でも私はクルマに早速付けたカーステで何を聴いていたのだろう。



よく聴くと、これはカバーだけれど、かなりよく再現出来ているので
よしとしよう。今は亡き須藤薫さんは、確か前年の80年頃にデビューした。



須藤薫嬢にたくさん良い曲を提供した、慶応ボーイの杉真理。
大滝詠一抜擢の、ナイアガラトライアングルvol.2の一員だった。

聴いて行くと判るが、当時は「NO CAR NO LIFE」みたいな時代で、
クルマの出て来る、洒落たナンバーが実に多い。

当然若者は、異性を隣に乗せるために、奮闘努力したという、
今の若い人が聞くと、「えー?」みたいな感覚の時代であった。



大滝御大も、一曲出しておく。
しかし大滝詠一も、須藤薫さんも早世してしまい、つくづく時間の無常を感じる。





1980年代に若者であった、僕らの世代は、今60代に突入していく世代だと思う。

価値観が、ずっとシンプルで、モノがある程度充足されたらハッピーという
実に単純で分かりやすいし、それで誘導された大衆が経済を動かすという、
考えたら、楽な生き方の出来る時代であった。

今の社会のような、複雑な背景。
例えば、こういうことを言ったら、傷つく人がいるとか、そんなことまで
国内で、深く考えなくても、先ず大丈夫な「結果オーライ」だったから、
若者は”無茶修行”といって、なんか色んな自由に好き勝手なことをやっていた。

今回のオリンピックで、昔の無茶な言動を、次々と嗜められている人々を
見ていると、「しようが無いなあ」と思うだけで、感想も無い。



今聴くと、受話器を持つ手が長電話で痺れたとか、「それ、いつの時代?」
と突っ込みたくなるくらい、時代背景が変わった世間もあるが、
この「くたばっちまえ!💢」ソングみたいに、今でもクスりと笑える曲もあった。




この「真夜中のドア」が一曲目に納められている松原みきの「ポケットパーク」
はLPを持っているので、テレビのビデオで短く流す。

しかし40年後に世界のいろんな所で、この曲が再評価なんて、これも
早世した、私と同い年の彼女が元気だったらと思う。



そんなふうに考えたり、懐かしんでいると、40年の月日は残酷な気もする。
でも、今マイカー社会が大きく変わる直前に、個人所有物としてのカーライフが
楽しめ始めて、最も充実したのがこの頃の経済成長の賜物ではないだろうか。



トヨタが、マークⅡの兄弟車で既にあったチェイサーの他に、もう一つの顔
クレスタを出して来た時に、マークⅡより高級感を出すのに、新型エンジン1Gと
人気の高まりつつあったAORの雄、ボズスキャッグスの音楽CM器用という
大胆な作戦が功を奏したことを、記憶している。



これは大成功で、皆んなが「ハイソカー」に憧れる嚆矢となった。

その1981年は、トヨタソアラが新登場して、70年代の影を引き摺っていた生活文化も、排ガス対策でモタモタしていた自動車も、すっかり過去の遺物に置き去られるような”衝撃”の年である。
若者もクルマ好きなおじさんも、皆んな舞い上がり始める、時代の駆け足〜ステップが始まる年であった。



ソアラと対極をなした高級車は、日産からではなく、意外性のあるいすゞからで
ソアラより数ヶ月早く、ピアッツアが、アッソの名前を改めて、ドリームカー
さながらに出た時は、これもかなりの衝撃であった。

ソアラのCMは、今見るとかなりダサい。
引き換えピアッツアCMのセンスは、音楽も好い。♪





この時代の背景の捕捉をすると、ジャズのブームが音楽シーン全体の中で
一部盛り上がっていた。
気になる存在であった阿川泰子は、ジャズシンガーの前はアクトレスであったが、
これで人気が不動のものとなる。

人間は、仕事や成功体験で、人が変わる。

しかしこの時代に背伸びをする大人の世界への憧れと、それを意味した
Senior Dreams=シニア・ドリームの曲名が、今時だと、「高齢者の夢」と
歌っているみたいに聞こえてトホホ。
気がついたら40年の歳月は、若者を無惨なジジイに変えてしまった。

私もピアッツアの綺麗なのを探して、阿川泰子似の、イイオンナでも探すか!
完全に滑っているが、老後のボケは、許してチョンマゲ。
Posted at 2021/07/23 05:45:28 | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | クルマ
2021年07月17日 イイね!

周防大島に行って来た話

周防大島に行って来た話












先週の水曜日に、ふらりと850クーペに乗り、今住んでいる岩国市から、西へ走って30キロにある瀬戸内海の島にドライブをしてみた。
特に目的は無いのだが、そこに行くのは数年ぶりで、その頃は不幸が続いていた頃だったので、今の自分ならどんな気持ちになれるのか、確認もしてみたかった。

私の最近の行動は、大抵午後からである。
午前中に起きられているのだが、とにかくスタートに時間がかかる。
準備でなく気持ちと心と身体が一緒に「動こう」となる前に、運転などしたら事故の元である。または注意散漫でパトに捕まったりするのは、そういう時だ。

自分が旧車に近い存在になってきたことを感じるが、由しとしておく。
この日も結構暑かったが、今週はもっと暑い。
そろそろエアコンの無いクルマにはしんどい季節であるが、30℃ちょうどくらいまでは、リアエンジン車は走っておれば、それほど体感負荷は無い。

お昼は岩国市はずれの郊外の中華レストランで、580円という安いランチで、事足りる。
そして間もなく走っていると、前方左の海の向こうに大きな島影が見えて来る。



私の父の故郷、山口県柳井市の対岸にある大きな島が、周防大島で、無料の橋で渡れるようになり、半世紀近くになり、すっかり便利になった。

近年では移住とか、レジャーで住んだり遊びに行きやすい島として人気が高い。
去年居た九州の日豊海岸にも多くの島があるが、橋で渡れるような島は無い。
そこが後進的とか閉鎖的な原因にもなっていると思うが、他所者が自由に侵入してくると、ろくなことが無いという意見が多かったと感じていた。

大島は、淡路島より遥か前に、道路で行けるようになり、大変便利だ。
一方の広島の宮島は、神秘性を守って未だに連絡船である。
だから、道が狭くて面白いという意見が有っても良いが、とにかく大島は便利だ。
橋もとうの昔に無料化されており、いつの日にか、淡路島も瀬戸大橋もそうならないかと思う。
しかし陸との距離が全く違うので、維持費がかかり、税金だけでは無料化は難しいだろうと思う。



大島大橋を渡る。前に来た時は真冬の海峡から鎮魂の意味で花束を流した思い出がある。

渡ってしまえば淡路島と同じように広い島であるので、道路は長い。
平坦な区間も結構走るはめになる。



地図を貼ってみる。
これまでは島の中央部までしか行ったことが無かった。
今回もまず島の北側の海岸沿いを走り、旧東和町の星野哲郎記念館まで行ってみた。
ここに民俗学の祖、宮本常一氏の博物館があり、そこも見ることが出来ればと思っていたが、家を出て食事も挟み、1時間以上掛けて着いてみたら、生憎、水曜日はどちらも休館であった。




目的1番目と2番目の入場がふいになったが、仕方が無い。実はその前の週にも、柳井まで墓参りで来ており、帰りに寄ろうかと思ったが、時間がかかりそうなので、見送ったばかりである。
ここで昔の私は、悲憤慷慨したが、最近は全然諦めが早い。
じゃあ、ということで、もっと先に行くことに変更した。

遥か先に戦艦陸奥が沈んだ柱島近くに、記念館があるようなので、行って見ることにした。

850クーペはそろそろ一度工場に入れてやりたい。だんだんエンジン周辺から音がしてきているので、ベアリング交換の時期なのかと思う。
この日は、まあ良いかと思い、ここまできた。



陸奥の記念館は、周防大島の一番先の地区にある。ここまでは国道なので道は普通に走って来れる。
少し昨年いた大分県の佐伯市の南の端の方にある地区と、思い出をオーバーラップさせてみたが、そちらは本当に道が悪くて、観光目的で行くのに難渋をきわめた。
同じ日本で、同じ西日本なのにこうも違うのは、なぜだろう。
同じような軍の遺蹟で、戦争の記憶を思い出させるような施設もあったが、普通に見に行くことが出来ずに、2度行って諦めた場所もある。

国と地方の税金を使って、過去の歴史に光を当てて、観光施設にするのにも、お金を誘導させる技術が要るのかもしれない。
それは、50年、60年前には地域差が殆ど無かった。しかし、日本は1980年代に大きくふる里の姿が変わったと思う。
竹下総理時代に日本は空前の金余りとなり、ふるさと創生資金として、全国の都市から村まで、1億円のお金が貰えて、使い途に困るようなことがあった。

あれから30年以上が経つが、あの時に、地方の市町村には大きな差が無かったのに、その後、過疎地は消える運命の前に広域合併を繰り返して、今のような地方の姿になった。



陸奥記念館の前の駐車場スペースは、広くて停めやすい。そして陸奥の錨の前に立つと、後ろに反対側の施設が有り、そちらが大変気になった。なぎさ水族館という、姫路市の手柄山にあった水族館のような、地元密着の匂いがぷんぷんしているので、先にそちらに入ろうと、足を回れ右してみた。





予想通り、子どもたちがヒトデやウニに触れられるタッチプールがあったり、その辺の海で獲って来た魚を一時的に入れる”生け簀”が至近にあったり、雰囲気が非常にユルい。
大阪の海遊館や、京都の入ったことのない水族館に較べて、昔ながらの水族館だなと思い、顔が緩む。

そこで30分くらいユルい時間を過ごして、この島までドライブして来た緊張感もほどよくほぐれたので、反対側にある陸奥記念館に向かった。



こちらは、戦争遺蹟と言って良く、その数日前に見て来た、広島の原爆記念館に「続いて」の気持ちになる。

広島市の記念館の展示が国際水準なのに対して、こちらの記念館は、まあ判るけれど、昭和・平成の感覚レベルだった。
入場料も、水族館が200円レベルなのに、こちらは倍以上高い。
展示品は、戦艦陸奥ゆかりの人々の遺品が中心。海から引き上げられた軍艦の一部もあります。
軍艦好き、マニアから見ると、連合艦隊の全容と、戦艦陸奥が大和と、どう位置づけられるのかが判りにくかった感も。

しかし数次の改装を経て、停泊地に戻ったばかりで、まだ昭和18年の戦局が悪化する前に、自爆して沈没した海軍の旗艦の最期は、謎めいていると思った。

ここで別室の無料の資料室で良いものを見つけた。



連合艦隊の軍艦の進水式の時に配られた、パンフレットというか色紙・絵葉書集の本である。
なぜこうなっているかというと、軍艦はマル秘であり、写真も今は自由に見られるが、昔は船影を見て覚えるしか無かった。
それをこういった、駆逐艦の船名をモチーフにしたイラストで毎回表現していたのである。
「暁」とか「雪風」とか「朝雲」と言った船名からイメージする、戦争の苛烈さを一切排した優雅な絵葉書、絵心に私は魅了されて、この本が欲しくなった。



戦艦マニアの人ならご存じだろう。「雪風」は武運長久を体現した最後まで沈まなかった幸運の船、「朝雲」はキスカ島撤退作戦で、忍者のように夜霧を駆け抜けて神出鬼没の大活躍をした高速鑑だ。
私はユキカゼがアリューシャン列島まで一気に長駆する雪の海の情景や、アサクモが大任終えて、夜明けの海をなだらかな紫煙をたなびかせて帰帆する姿を想像して胸が熱くなった。

戦前と戦後で一番難しくなったのは、これらの船をどう見たら良いのか。断層が出来てしまったことである。
日本は敗戦国になり、当然軍備は解体されて、過去のものは歴史が消えてしまった所もある。
その辺の難しい話は避ける。しかしカッコイイものは、私は戦争肯定派ではないが認める。



だって、カッコイイから、不便だけれど昔のクーペに今も乗る。
カッコイイが無かったら、誰が沈むかもしれない軍艦に乗りたがるだろうか。

カッコイイという価値観が衰退して行くと、今の日本車のような社会になるのかもしれない。

それと、この艦艇のネーミングについて。
私は昔から、巡洋艦と駆逐艦が好きなのだが、はっと思ったのが、昭和31年に東京から東海道本線と山陽本線を一夜で駆け抜けて、博多に到達する寝台特急を創設した時に、この辺を走る列車名に「あさかぜ」と命名したのは、もしかしたら敗戦で使用出来なくなった軍艦の名前へのオマージュがあったのではないか。

その後「ゆうづる」「銀河」「天の川」といった天体や気象、その中を飛ぶ鳥類に因んだ名前が次々とヒットして、国鉄の躍進の原動力になったのは、日本独自のネーミングトレインのセンスの良さだったと思う。

そんなことを、この画集から思ったのは、特急列車のヘッドマークの美のルーツをここに見つけた気がしたからである。
最近の列車のネーミングセンスは墜ちたなあと思う。
ここにもカッコ良さを大事にしなくなった社会の影響は無いだろうか。



雨がついに降り出し、少し開けた窓から降り込む雨に濡れながら、私は帰路に就き
島の道を戻った。
Posted at 2021/07/17 07:06:43 | トラックバック(0) | ローカルライフ | クルマ

プロフィール

「トヨタの夢 http://cvw.jp/b/176891/48620683/
何シテル?   08/26 05:18
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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