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2025年04月04日 イイね!

合理性神話は正しかったのか

合理性神話は正しかったのか4月の新年度早々に、遠く離れた青森県のニュースで、むつ市の地域生活の必需のスーパーが突然潰れて、閉店会社解散。前日に八戸市で長年クリスマスケーキをイベントトレーラーで盛り上げていた複数店舗を持つケーキ店のこれも突然閉店、営業終了のニュースに驚いた。



市民に衝撃走る「市民に衝撃走る「きのうまで普通にやっていたと…」 青森県むつ市でスーパーを展開の「ファミリーマートさとう」が事業停止・自己破産申請へ 従業員140人は全員解雇 市長も「衝撃を受けていて…」再就職支援を協議する考え

従業員46人は“全員解雇”「アルパジョン」自己破産へ 負債総額は約3億9000万円か 『朝の八甲田』や『サンタ号』などで知られる青森県八戸市の洋菓子店


(写真はアルパジョンのサンタクロース号)

こういう地方の衰退と経済の地盤沈下のニュースを都会で聞くのは、辛い。
なぜと言われても、現状で打つ手のない現実だからだ。

しかし昭和の時代、36年前にはそんな社会の衰退は起きていなく、地方は地方なりに元気で、「拠点都市」の存在は準デパートのような大型スーパーが出現し、国鉄で移動すれば駅前に出て街を眺めながら歩く楽しみが、広がっていた。

なぜこうなったかを、長くくどく説明するのは大変であるが、一点見落としがちな事実について広げて書いてみたい。


地方が元気だった時代は、今のような3大都市圏に過度な集中が起きずに、日本の社会は分散とバランスが出来ていた。

東京に行くのは若い人の憧れで十分で、地方でも生活のレベルは旧態であっても、充足感や満足な暮らしは、長い時代、極端に言えば江戸から明治、大正、昭和の流れで、ほぼ卑屈にならずに送れるようになっていた。

鉄道網の完成が、それを達成して、北海道の北から鹿児島まで、自由に行ける社会が完成していたのである。



古いモノクロ写真であるが、1981年の盛岡駅。地方に活況が一番あった時代で、上野を夜に出て走って来た列車が、福島、仙台を過ぎてようやく盛岡について、下車をした。背後に見える東北新幹線盛岡駅は、翌82年にここまで開通し、東北にも新幹線の時代が来た。

今日は新幹線を批判するのが目的でないが、効率優先という戦後の日本に住み着いた近代の魔神が、どこまで正しいものだったのか考えてみる。
1964年の東海道新幹線は、建設当時は「日本の3大バカ」とまで言われて、失敗するとか、無用論が吹き荒れた。しかしあっという間に戦後の日本の奇跡のような大成功の原動力になり、格段に便利になった東海道ベルト地帯は、工業や商業が大発展して、戦後の敗戦国からGNP2位の国に成長を達成できた。

その時代に少年だった私は、新幹線開通時は大阪にいたが翌々年から九州に移り、九州に新幹線が延伸したのは、11年後の1975年、半世紀前の出来事である。
長閑な風景の広がる山口県は、その後は置き去りになり、九州の玄関は北九州地区から博多駅の福岡市に重心が移る。



1960年代の初めに「建設不要論」も出た新幹線は、75年に山陽新幹線、82年に東北と上越。そこから東北の延伸、奥羽方面や秋田まで伸ばし、九州は2011年に先に熊本から先の鹿児島が開通した。
整備新幹線と言い、国鉄時代の開通はすごく建設に慎重だったので、国会で採決をして決まるものであったが、国鉄が解体されて民営のJR各社になると、新幹線は地方が渇望するようになって、同時に地方は人口の減少が始まって、私が見てきた意見だが、活気がなくなるのに「新幹線は是非欲しい」が、矛盾しているのに強引に建設が、国鉄時代とは別会計で、あちこちで進められた。

そのうちに海外でも新幹線があれば、という時代になり、今の中国の夢のような高速列車網は、もう当たり前のことになった。

国鉄や前身の鉄道省は、国が経営する国家統治の大事な政治機関であった。
今の時代に国の責任は、問われるのは民事の訴訟くらいで、国家経営的な分野は、誰が見ているのか。
国会と国会議員、首相と官邸、それから各大臣のいる内閣。その手先が各省庁のトップ官僚が働いて、昭和の時代は、似ているがもっと存在感が違っていた。
国鉄は運輸省が管理責任の一端を持ち、大きな事故が起きると運輸大臣の元に新聞記者が詰めかけた。

運輸省が建設省と合体して、国交省になったあたりから、国の支配は薄れ、JRも新幹線も、騒がれない程度の認可事業になって行く。

さあこの頃から、新幹線が開通すると「引き換え」に在来線は、国鉄継承のJR なんとか本線から、3セクの地方交通線に一気に格下げされて、特急急行の優等列車は走らない、ただの距離の長いローカル運輸機関に転換されるのが、当たり前のことに変わった。
当然身の丈も小さくなり、維持経営は県単位。そんな青森や秋田に大きなお金を稼ぐ力はない。公務員が稼ぐ発想は薄い。



つまり、新幹線というものは「打出の小槌」的に開通すればお金が儲かるという、地域経済の振興どころか、100年以上かけてその地域が、市と県単位で営為してきた地方自治の根底を覆して、地方衰退の加速化だけに直結する、「都会へのストロー」になっていることを、いまだにやめずに、「もっと新幹線を」ばかり合唱している。

地方出身の国会議員と、県知事あたりが。

さてなぜ彼らはそう言い続けるのであろうか。
便利になると全てが解決すると言った無批判の神話を信じ込んでしまっているのではないか。
実は新幹線が究極の合理化の象徴であることは、疑えないが、その地方と都市には、新幹線が出来るずっと以前には国鉄の拠点があった。
交通の拠点にはたくさんの複雑な交通用の車両を動かすために、多くの人が働いて従事していた。
その労働者と家族だけで、町の単位の何割かを占めていた交通の要都は、国鉄の解散で一部はJRに引き継がれたが、新幹線が頭ごなしに開通すると、何とか駅は作れても、もう鉄道運輸の拠点では無くなり、人が定住して生活することが減っていった。

それが10年、20年と続いて、今の地方の断末魔に繋がっている。

では、交通機関が速度を上げて行って、新幹線の300km/hが当然の時代に、国鉄時代を引き継いだ最高速度100km/hから130km/hの交通機関は、どんな感じで生き残ったり、存在し続けたら、うまく地方社会が続いていたのだろうか。
大変難しいテーマであるが、合理性だけ追求し続けたら、今のような社会の成長と結果が起こってしまった。
それについては、長くなったので、別の機会に掘り下げてみたい。
Posted at 2025/04/05 04:55:15 | トラックバック(0) | 回顧録 | クルマ
2021年04月20日 イイね!

父が撮っていた古写真から

父が撮っていた古写真から







1969年風薫る5月、私の父は福岡板付空港より、ヨーロッパに旅立った。
前年のパリ民衆革命の熱気も冷めないフランスに立ち寄り、その後向かった先は
独立運動の硝煙もまだ残るような、アフリカ北海岸のアルジェリアであった。
当時は、羽田発、アンカレッジ経由で、ドイツのハンブルグに着陸。
一夜を過ごした後はパリに向かったようである。





ヨーロッパを飛ぶ飛行機の中より



パリの5月



ノートルダム寺院



オペラ座




ここから本論で、1枚目の写真を、今回思い切って、Facebookのルノー16
ファンクラブに加入して、これはどこで撮った写真か?と
投稿してみた。

すると多くの反応とコメントがついて、アルジェリアの田舎で、この道では
ないかという親切な人も複数いた。

https://www.facebook.com/groups/cabrautopassion/permalink/3968839979868798



52年ぶりにいろんなことが、わかり私は嬉しくなった。


以上である。
投稿が遅くなってしまったが、私がいつか、アルジェリアの大地に立てる日が
あるだろうか。まだ見ぬアフリカへ。

Posted at 2021/05/06 10:02:06 | トラックバック(0) | 回顧録 | クルマ
2021年01月17日 イイね!

震災の日を迎えて

震災の日を迎えてあの日の夕暮れの1コマ

寒い日だった。
国道171号線門戸厄神 阪急高架越えが落下していた。

数年後に古老から、ここは池地だったから地盤が弱かっただろうと
教えられた。




疎開先のひとつ、兵庫県指折りのマンモス校 甲東小学校の校庭で自動車生活する
避難者風景。
人気進学エリアでもあり、裕福な家庭が多い。自宅が壊れて疎開の人々も神戸の
長田とかと異なりジャガーとか、ボルボが目立ち、不謹慎だが、「うっ」




疎開先の校庭に夏くらいまでいた初代チェリー
ワンオーナーで乗られる初老くらいの持ち主と思うが、このクルマが被災地で
天井を落下物で凹ましたのを見た時は心が痛んだが、数日後は避難に使用して
こうやって眺められることに安堵した。
たぶん、震災後は手放されたと思うが、奇跡のチェリーには生き残って欲しかった。



12月に神戸市の昔住んだ地区を回っていたときに見つけた、路上に捨てられ
この後で処分されたフィアットリトモ
この頃は、震災後に次々クルマを買いだして、救い出せなかった
愛惜の残った「忘れられない巡り逢い」の1台である。



震災から2ヶ月くらい経ち、仕事も就いていたので、ある休日に昔住んでいた
芦屋に行ってみた。ネットが今日のように普及する目前だったから、震災の
切り取られた日常は少ないが、実は芦屋はとても悲惨だった。
華やかな高級住宅地といっても、戦前からの古い家が多く、その分底地さらえ
みたいになった。こんなふうに放置された高級車たちを見て、もちろん胸が痛んだ。



これも芦屋である。道路は芦屋とは思えない状態で、絶対信じてもらえないが
芦屋川で河川敷生活する世帯も多かった。混雑する物資運搬や、復旧資材の
荷運車に混じり、古いベンツが「生きていますよ」と走る姿を見ては、この
町の復活を願ってやまなかった。今では過去は綺麗に塗りつぶされて見ることは
できない。



これは震災で大阪府の藤井寺に疎開中に、子供と散歩中に見つけたシトロエンCX。
メッキバンパー2400時代の珍しいレッド。9万と走り込んでいたが、プラ部品の
やれもなく、極上のコンデションだったので、欲しくて狂いそうだった。

四畳半に間借りさせてもらっている被災者一家の主人が、なんぼクルマ好きでも
周囲(親きょうだい)が許さないだろうと涙を飲んで見送った。

しかし「震災で生き残ったのだ。これからは好きに生きるぞ」と100日後
西宮に復帰してから、その年は2台のフランス車に手を出して、2年後は
ローバーP6といつも好きなクルマに、行ける時は行くようになった。

職もあり稼いでいたことも大きい。
やがて震災を忘れる頃から、親の早い呆けとか、不幸が次々我が家に来た。
震災の日がくるたび、自分自身の生き方を反省される方もいるが、私は
良いも悪いもなく、軽めの肯定感を持っていないとその後の26年間に
起こったことを乗り越えられなかったと思う。

今日の日に、あらためて思います。
Posted at 2021/01/17 10:23:06 | トラックバック(0) | 回顧録 | クルマ
2019年12月08日 イイね!

英独フォードについて考えたりしてみる

英独フォードについて考えたりしてみる











日本から欧州フォードが消えて数年になる。
ショックを当座は感じずに、時代の波にのまれて消えた名門くらいに思っていた。

ところが最近考えが変わった。
なぜかというと、Facebookでタウナスを永遠に追い求めている、
アルゼンチン人の友人がいて、彼の投稿を見ているうちに気がついたことがある。


それは、フォードと言うクルマの性格と、その周辺の空気みたいなことである。



今までうっかり気付かなかったが、フォードと言うクルマは
健全な家庭の健全な生活に供せられる良き道具なのである。

そこに大事な視点を見落としていた。健全な一家の健全なライフの次に
「繁栄を目指す」という思想があることにだ。
それは無理な背伸びでもない、普通の家族、普通の人生でも頑張って
フォードの車が乗れるようになったら、子供や孫たちもそれを知り、
同じような人生を続けられたら。それが自由主義経済の良さだったことである。





そんな普通の夢を、持つことが出来た時代が、気がつくと遠ざかり、
いつから日本人は忘れてしまったのだろう。

簡単に断言はできないが、おそらくは自由主義が新自由主義になったあたり。
競争原理が叫ばれて、選択と集中。あの頃は病的であった。

本当の意味で「新自由主義」は適者生存だったのが、リストラやむなし。
生き残れないものは去れ。痛みを伴う改革に国民が酔ってしまった。



その辺りから自動車の世界観が変わって行った。
一方では高級車の世界は「選ばれた」人のためにより上を目指すように。
何が上とか判らないから、プレミアム感およびブランド化が追従された。

私はマツダ車がプレミアム路線になった時に、頭を疑った。
あの庶民のファミリーカー、ファミリアが主力だったメーカーが、プレミアム
めざすのか。そしてそうなってしまったことに驚愕した。

あのマツダは石油ショック後につぶれかかったことがあり、その時に
住銀の人脈が乗り込んでリストラも進めたが、助けて貰った恩があるのは
フォードのお陰だった。

そのフォードとマツダの関係は、40年後に逆になった。マツダがフォードに
教えてやるような雰囲気になり、これはどういう時代の変化と理由なのだろうと
私は頭をひねった。




今の二極化した自動車の世界は、一方でお金持ちの階層を意識したものになり、
もう一方はシロモノ家電のような軽自動車中心の世界、これも結構高い。

いまベルリンの壁が崩壊して30年経つが、先進国はどこも軒並み中間層が
痩せ細り、いなくなった。
その層が求めていたのが、中庸的なフォードの世界だった。



フォードの走って来なくなった道には、のんびりしたほどほどの人生観が無く
上を目指して無理をして生きて行く人たちの選択しかないし、
自動車を最初から持たない人は、無駄や無理と言う眼で車を敵対する。



私はそのことについて、中流という生き方すら知らない人々に、
何が良かったか。果たしてそれは淘汰されなければならない運命だったのか
少しでも未来に救いや幅のある考えを残すために、今日はこんな記事を書いてみた
のである。


Posted at 2019/12/08 16:44:44 | トラックバック(0) | 回顧録 | クルマ
2018年12月07日 イイね!

40年前をなんとなく、思い出す。

40年前をなんとなく、思い出す。







私が運転免許を取れる年齢になったのが、1977年の高校の時だ。
翌78年の春休みに、仲の良かった友人が、免許を取った。
そういうのは、当たり前のような時代で、不思議な遠い思い出でもある。

私は1978年は、受験に落ちて浪人していたから、何となくばつの悪い思いをして、
先にクルマの免許を取り、一足先に大人の階段を上がる友人を、指を咥えて
見ていた。

今なら、なんてコトは無い、たった1年の差が、宇宙の星とロケットを隔てる
空間のように感じた、遠い昔の記憶である。



その頃、昭和で言った方が判りやすい。
昭和52年はサバンナRX−7が出て、三菱のミラージュも誕生した。

53年(1978)は、キャンディーズが解散コンサートをして、社会現象になった。

ピンクレディーはアメリカに行くと言って、大きくコケたり、
アイドル歌手は、70年代パターンが通じなくなり、山口百恵も引退を決めた。

自動車は長い(ように感じた)排ガス規制の、試練を乗り越えて、ようやく
目を引く新型車が出始めたのは、昭和54年くらいからではなかったかなあ。

カローラの70型が斬新な直線基調デザインで、とてもよく見えた。
日産シルビアは、量産型の2代目となり、ぐっとよくなり、私たち若者が
すごく欲しい存在になった。



しかし18、19の若者が、スポーツカーの新車に乗れることは、少なく、
実際に買えたりしたのは、中古のダルマセリカのSTクラスとか、
写真の三菱セレステなども、人気があった。

セリカは2代目になっていたが、大人ムードの印象になって、さらに
派生モデルの初代XXが出た。

スカイラインは、ジャパンの前期の時代で、丸目の4灯であった。
ケンメリは中古市場の主力車種。ハコスカは、既に一時代前の昔の車だった。

ブルーバードは810がもうひとつ人気が出ず、その前の610、ブルーバードUが
人気を落としていた。
名車510はさすがに古く、当時は手を出す対象ではなかったが、私は秘かに
いいねと思っていた。

買うなら、フラッシャーランプのテールを持つSSSのクーペ、もしくは渋い
2ドアセダンが良いと思った。



こんなふうに当時のクルマが、すらすら出て来るのは、私が特別と言う
存在でなく、男の子の半数以上は、クルマが好きだった。
雑誌のプレイボーイや、後年創刊した「GORO」などでも、クルマの新型の
話題は、毎号大きく載っていたのが、当たり前だった時代である。

新車の月間販売数が、人気車は万単位であり、いかに自動車が国内経済を
動かし、それを争って買うことが、家よりも誇らしく、自動車ファーストの時代が、
バブルの80年代終わりまで、熱の出る病のように、みんな罹っていた。

これは本当に不思議な、熱中時代だったのである。



なぜ人々は、取り分け若い男性は、クルマに浮かれていたのであろう。

それはクルマが女性にモテるための、必須のアイテムだったからである。

今で言うスマホの存在に近いのか? いや、クルマは動く空間で、
どこへでも連れて行ってくれる、魔法の乗り物で、持ち主や乗り手の、
センスを主張する道具。今で言うと、3つも4つも、重要なポイントを抑えた
“必殺兵器”であったのである。

でも、それ以外にも、クルマは移動の道具であったり、高級なオーディオといった
趣味も当時は人気があったが、上級者や、趣味の世界の奥を覗きたい者には
輸入車(外車)が、とびきり、今で言う、セレブの世界の入り口だったのである。


たった、いや遥かな40年前の世界には、自動車が価値の世界の中心に
君臨しており、それは何をとっても、話題の中心で大きな存在だったのである。

それから時間が過ぎたが、自動車ほど「過去の遺産」で食えている産業は無い。




その自動車産業は、40年の間に、もう昔の神通力は、無くなっている。

今年起きた、トヨタ主導の、自動車税の負担引き下げも、日産の命運を
傾けそうな、ゴーン会長の私的な利益誘導も、40年間の社会変化を、
見ておらず、いつまでも「自分たちが世の中を動かす中心企業」と思っていた、
錯覚に気が付き、狼狽が表面化したことだとは、思われないであろうか。


それは私が故郷にある大企業、新日鉄こと八幡製鉄所に対する思いに近い。

鉄は産業、そして国家なりと、世界に股がる大企業であった製鉄業も、
今は、アルセロールミタルなどと較べて、競争力は無く、影響はうんと小さい。

それでも未だに日本の経済界の中心は、経団連だが、常連企業の不振は続き、
東芝のような、20年前は大威張りだった会社が、今や存亡危機さえ囁かれる。


40年の時間は大きい。そしてその40年は、19だった若者(わたし)を還暦前の
おじいさんに、させてしまう時間の流れだったのだと、気が付いた。



何が、間違っていたのだろう。
今でも、間違っていないのか?

私は、何度か思った。昔のような楽しさと、自分の感情移入は、今の自動車には
無理だと。

それを徐々に失わせて行ったのは、ルール社会であったり、安全重視の構造の
変化であったり、改造を禁止して、自動車はユーザーがいじれる物質でなくした。

その他にも、暴走族やドリフト族の禁止とか、いくつもいくつも、自動車の進化を
越えて、制度社会が、息苦しくなり、さらに重度の負担が何十巻きになった。

牧歌的なクルマ愛を叫ぶことは、ノスタルジックカーでしかできない。


その旧い車は、ついに40年以上の過去の生産品で、誰にも手に入るものでは
なくなった。

クルマに現を抜かせた時代は、昭和までで、後の30年間は、平成の嵐のような
時間であったのだと、今は思うだけだ。



クルマが好きだ。それは何か新たまって、自分に言い聞かせなければ
言い難い。

そんなことって不自然なことのように、思わないか。誰が見たって。

40年間の時代の重さを感じながら、こんな記事をつい書いて見ただけである。

私はもう、決して若くないことだけは、事実である。





Posted at 2018/12/07 03:09:41 | トラックバック(0) | 回顧録 | クルマ

プロフィール

「AI構文と少子化の時代 http://cvw.jp/b/176891/48478480/
何シテル?   06/10 02:28
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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