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2019年02月03日 イイね!

70年代的風景から現代を考える。

70年代的風景から現代を考える。








私が自動車にのぼせて、興味を持ったのは1970年、
大阪万博の年である。
それからほぼ半世紀が経ち、自動車を取り巻く社会は続いて
いるものの、ひと言で言うと面白みのない社会になった。

今日はそのことについて、70年代から現代を見ると言う方法で
考えて行こうと思っている。


まず最近宇沢弘文という経済学者の「自動車の社会的費用」という
1974年に書かれた本が、今でも岩波新書で売られていたので買って来た。

これを読むと当時の学者が自動車の社会問題性についてどのように
考えていたかが判る。

当時の交通事故死者数は2万人レベルの時代である。
その被害の及ぼす影響について、自動車優先、中心の社会は間違っていると
書かれている。


70年代は戦後間もなくのベビーブームに生まれた団塊世代が、20代に到達して
自動車に乗る若い人口が一気に増えた。
また事故や悲劇などは、それに起因したり、数的増加の裏側だと考えられる。

ところで、趣味的に言うと、70年がトヨタがセリカ初代を出して、三菱がギャラン
GTOを用意して迎え撃った年である。このセンセーショナルな2台は、前年
1969年のモーターショーに出品されて、話題を奪った。

また69年は日本グランプリでのトヨタ日産対決最後の年となり、
翌年からはこの2社は大型のレーシングカーで競争はしなくなった。
しかし69年暮れには、日産はフェアレディZを発売。欧米とくにアメリカでは
素晴らしい稼ぎ頭となる。




この時代の一年のタイムラグは、割と大きなラグであり、公害反対運動や
73年暮れに起きた石油ショックは、自動車公害含めた問題意識が高まり
この本の出た74年は自動車に取り冬の時代であったはずだ。

そういった時代の背景の下で日本車は公害問題と石油ショックを乗り切った。
日本車が国際競争力をつけるのが、70−80年代である。

自動車の社会ニーズはずっと続いて、宇沢教授が問題で書いた交通事故、
取り分け死亡事故は徐々に減って行く。

それは安全対策が重点的になり、自動車が今のように大型化した90年代以降に
結果は答えとして伴って行く。

一方で団塊世代の後の世代、1960年前後に生まれた私たちの世代は、
子どもの時から自動車の魅力に囲まれて育つ。

そして商品的な魅力に加えて、自動車が有ると言う生活文化の成長に
自分たちの青春を投影して、生きることが可能になった。
これが1980年代の大きな特長で、87年映画「私をスキーにつれてって」は
日本の自動車グラフィティ映画の金字塔的作品になった。

アメリカでは「アメリカングラフィティ」という青春映画があるが、日本の若者は
80年代に謳歌していたのである。







ところで、自動車にまつわるジャーナリズムがあるとすれば、それは74年の
宇沢教授の本のようなものが含まれる。
一方日本のモータージャーナリズムと言うものは、自動車メーカーの
大樹に寄り沿う、支える木であって、これと対峙はしなかった。

60年代に「カーグラフィック」が創刊して、それまでの自動車誌とは一線を画したが
同じ出版社は83年に「NAVI」を出してジャーナリズム性を訴えたが、
販売に結びつかず、その後は消費文化雑誌の様相に変わって行く。

この辺も含めると、日本の自動車雑誌が、メーカー広告の収入が大きく、
英国の昔からあった「Motor」「Autocar」といった雑誌が、ウイークエンド新聞を
雑誌にしたような販売収入中心な雑誌ジャーナリズムと、大きく違う。

これは私は新聞広告の世界に居たから、広告収入が一定比率を超えると
ジャーナリズムは、さじ加減に影響が出るようになる。


カーグラフィックは70年代後半の、ポスト石油ショック時代に、小林彰太郎
編集長の下で、編販広分離の、素晴らしいクオリティーの時代が一番読み応え
がある。
新車が売れず、輸入車情報も入手がしにくい時代に、あれだけ民間の小さな
用品メーカー広告を集めて、製本もきちんとした高い定価でクオリティーを維持、
これは後の歴史からみても、現代の雑誌界が見習う点が大きい。


私は全国の小さなパーツメーカーや、自動車用品ショップが、カーグラに広告を
乗せることが信用の一歩と考えたと見ている。

これは70年代の鉄道模型趣味という雑誌などを見ても、感じることが多い。




ここまで書いてきて、雑誌は厚手の表紙の単行本とは異なるが、
信用と情報で成り立ってきたことが判る。

活字離れをネットに原因があると言う意見は強いが、日本の雑誌活字が、
読まれなくなった理由は、だんだん信憑性、これはファクトだけでなく、その情報を
収集するのに、どういった苦労があったかは、読者はすぐ判る。

さて、そういった時代の変容は、90年代に何か原因があったように思える。

実際の巷間の見方は、2000年代のITの伸張と、一方での世相の変化、
日本では小泉改革の時に広がった新自由主義的なものの考えと言う。

欧米では苦難の戦争が始まったり、イスラム社会との文化とテロリズムの
9.11のような象徴的な出来事が起きた。

では、それで自動車がつまらなくなった。雑誌が面白くなくなった。のだろうか。

私は2代目、3代目の人物を育てなかった。これは例えだが、後進を育てる
ことはマスコミジャーナリズムだけでない、世間の一般問題である。


自動車好きが自動車を作って、自由にやれるかは、難しい時代になった。


90年代は、まだ日本人の多くは、もう一度踊って笑える時代が続くと思った。
しかしその夢は、書かないがいろんな出来事で醒めた。

しかし私たちはまもなく2020年代を生きる。私にとっては最後の時代に
なるかもしれない。


メディアと言うのは媒介、媒体であり、方法はいろいろある。

ただ、このように、諦めやダメ出しの社会が続くのは、戦時中より始末が
悪いかもしれない。



最近、大阪で55年ぶりに万博が来ることで、世論が二分している(ように見える)。
私も叩かれるのは嫌なので、あまり口だしはしないが、傍から見て
面白いと思う。

案外と言うか、1970年に子どもや若者で楽しかった人のうち、今の時代に
生き方が面白くない人が反対している。理由は正論と思う。


意外に若いコが、期待する意見があるが、そういうのは操り人形と言う
見方をする意見が当然ついてくる。

私はビビリなので、うっかりは言えないが、何かやったら良いのにと思う(こともある)。


その慎重論は、今の時代の空気だと思う。80年代は若い社員に経験で
失敗する仕事をさせて、後で上司がフォローして、若者も中間管理職も成長した。

70年代のことを後から聞くと、もっと無茶をしても許されたらしい。

現代社会に一番足りないのは、元気である。
だけど死亡事故2万人時代のような「危険運転」は出来ない。

さあ、それでは。

今日はここまで書いて、次回に書くときのテーマとしよう。

Posted at 2019/02/03 15:18:37 | トラックバック(0) | 論考 | クルマ
2017年12月14日 イイね!

管理社会

管理社会前回の記事は重箱の隅のような世界、車は日進月歩で過去のことは要らない。
まして歴史対比などどうでもよく、古い車の価値は、ヴィンテージ度とか希少価値程度で、メカニズムなんて知ったこっちゃない。
というような発想の方が、今の世の中は主流だと思う。

なぜ日本はそうなのだろう。


私は、日本の自動車社会が、ユーザーを育てるより、売るために管理しやすい方向に流れてきて、今ではユーザーが意見を持ったり、自分のクルマをこうやりたい、カスタマイズな乗り物にしたい、と全く出来ないようなしくみになったことが、最大の理由でないかと、たまに考えている。





それは不幸な社会であっても、その方が何も考えずに済むなら、幸せに見える社会
と似ている。
私は極端な原発反対論者ではないが、相似した構造をそこに感じる。

また原発アレルギーな人が一定に出現するわけも、考えてゆけば、自動車社会の
限界が見えてこないだろうか。

電力の場合は、代替エネルギーを推進する方向に賛同するか、自製の電力で賄うか
しか方法が無い。嫌なら原始生活に戻りなさい。かつての保守系論調は、そのくらい
野蛮だったこともある。

自動車の今の世間の窮屈さは、乗らないと言う答えの出し方にはっきりと表れて
いる。
若い人は、便利という言葉の、裏にある意図も感じ取れば、選択の対象から
どんどん外して行く。

あまりもの事の本質も考えたことの無い、「自動車評論家」が若者のクルマ離れを
嘆くのも、もうずい分昔からになった。
「失われた20年」、デフレ社会をその原因にするのは、私は間違えていると思う。
結果論と本質論の、分析の仕方が浅い。

自動車をつまらなくさせたのは、モータージャーナリストたちの責任も大きい。
自動車会社の御用聞きに過ぎないのなら、ジャーナリズムと思わない。




私はここで、何を言いたいのか。
もう少し突っ込んだ次元で言おう。
私はこういう単調で奥の無い自動車社会が出現した責任は、新車ディーラーの
強過ぎる顧客獲得と管理にも遠因があると考えたい。

新車というのは、昭和40年代からの半世紀、経済の主役でもあった。
しかしその販売方法と言えば、全く進歩がなく、セールスマン時代と変わらない。
彼らは教わった通りにしかクルマの売り方をしないし、顧客の誕生日、家族構成は
覚えても、どんなクルマが、たとえばファッションのセンスのように似合うのか、
少し外して、こういうのが似合うかも、とか考えれる人は微少だろう。

それ以上に会社に彼らも管理されてサラリーを貰うのだから、それで当然当たり前
と前世紀のままの売り方、いや車の乗せ方乗られ方しか考えられない。

車はいま、社会インフラの一部であれば、シェアや貸し出しといった試みも
一部で社会実験的に行われている。

しかし日本の社会からは、ウーバーのようなものは産み出されなかった。
なぜだろうと考えると、結局販売中心の構造の頂点に立つのはディーラーで
そこが与える影響は非常に大きい。本来もっと自由であるべき自動車と
消費者の付き合い方に、彼らの「法則」を押し付けた罪があるのではないか。
ディーラーの功罪のうち罪はかなり大きい。

実は私は一度も新車を買ったことが無い。その理由はいくつかある。

しかし中古のランサーでスタートし、中古車屋、修理工場との付き合い方を覚え
次第にレアな外車に進み、乗り方、直し方、付き合い方、生活のデザイン化まで
学んだから、ハイレベルな乗り方や自動車ライフを自分で切り拓いた。
さらに欧米の自動車シーンまでとにかく若いときに積極的に摂取した。




もちろん、私のような濃いカーライフを誰もが目指さなくて良いのは当然だ。
一部のエンスーなファンが、私との交流を喜び、それで私は充分幸せに感じている。

だけど、もうちょっと教育と同じで、自動車にアクティブ・ラーニングの要素は要る。

自分で自動車を整備や解体し、原動機、制御装置、伝達機、液体や電気の流れ。
今は「知らなくていいですよ」と販売ディーラーが眼を隠してしまっていないか。

それらはハイブリッドや電気式になって、ますます「触ってはいけない」になったが、
その方向をメーカーは考え直さないと、日本人の手先はますます不器用になり、
もう二度と日本から本田宗一郎や井深大は出てこないだろうと思う。

Posted at 2017/12/22 11:06:08 | トラックバック(0) | 論考 | クルマ
2017年12月03日 イイね!

趣味の方法論

趣味の方法論半世紀くらいに渡り、私はいろいろな遊びを取り組んできた。
それは大した航跡ではないが、その時代とか、いろんなことを知り、覚えて、さらに時代が歩むことも知って来た。
自動車の興味と並んで、長い時間携わって来たことに、鉄道への興味があった。
そのテーマは、同時代的な社会変化から始まっている。



僕が5歳の時の1964年に、「夢の超特急」と呼ばれた東海道新幹線が開業し、「ひかり号」が東京ー新大阪を4時間で結ぶようになった。



一方で5年後の1969年頃より、蒸気機関車の存続が数年内に全て廃止が決まり、急速なSLブームが起きた。
全国各地でまずは東京といった都市の近郊から、石炭の煙が消えることへのノスタルジックな郷愁が、大衆社会の興味を喚起し、大変な撮影ブームになったのである。
1970年に11歳になった僕も、当時住んでいた大分市で、時々駅裏で入換えに従事するSLを見に行き、翌年にカメラで撮影するようになったのである。

その頃のことを回顧するのがきょうのテーマではない。
1969年という年は、自動車の世界でも大きなテーマなのである。

この年にあった大きなことと言うと、5月26日の東名高速道路の全通である。
それと10月10日の富士スピードウェイで行われた日本グランプリでNISSAN R382が優勝し、R380以来の伝統の歴史を飾るとともに、これがトヨタ・日産対決の2大メーカーが覇を競うと言った歴史興行の最後の年となり、日本のモータースポーツの転機の年となったのである。







今日は本論から書いていくことにする。

鉄道の話をするときはいつも、あのとき(時代)のあのことは、その時代とその後に、どんな影響があったのか、を必ず考えるようにして、現代に通じる考え方を下敷きに、話を繋ぐようにする。

特に21世紀が20年近くになり、鉄道は進化と衰退を同時に進行するようになった。
70年代、80年代から現代までの30年間の変化は激しい。
国鉄が分解されて、JR各企業になって今年は30周年である。

盛業の所もあれば北海道のように倒産の噂も出る地域会社もある。

それで言いたいことは、自動車の趣味やジャーナリズムに、歴史を俯瞰して書ける人物がいるのだろうかということである。



短篇的な知識は、おたくと言わないが、今や誰もが詳しい。

関西でも高雄の山に行けば見たこともない車が来ていて、ヒストリーでこれは195X年のイタリアの有名な競技に出ていて、云々とワインの値段がつかないようなヴィンテージな歴史を披露してくれる。



でも私はそれは有難いことなのだろうけれど、日本のモーター史、モータースポーツ史、趣味の時代史的に全体像を見ながら、その頃の日本人はどう働き、どういった自動車を買って乗り、どんなことに夢を描いていたかの方が、ずっと大切ではないかと考える。

その先に、こんな輸入車があり、どこのディーラーで売られて、どんな有名人が乗ったのかとか、その頃の物価はこうで、すぐ横の山手線を走っていた電車は103系で、東横線には5000系や7000系が走っていた。
東急7000系は青森の弘南鉄道に行けば、今でも見られるよと、いったことを聞いている方が楽しく思える。




自動車雑誌を今は殆ど買っていず、判ったようなことを書いているのは、内心心苦しい。
しかし長年雑誌を読んで来て、昔はもうちょっと全体像が見られていたのも確かである。
あと、私は欧米の自動車社会と雑誌の関係は、好意的に思っている。

日本のモータージャーナリズムといったものは、いろいろな時代のうねりの中で成長もしたと思う。しかし全体像の無さはとても頼りなく感じることが多い。
批判精神の欠如があるし、ライターに過ぎない人が、自分を可愛いと言ってくれる人を捜している自動車メーカーと、いっしょの輪で踊っているのに過ぎず、だからモーターのイヤー賞も、今や誰も話題にしなくなった。

音楽のレコード大賞の行事も同じように廃れているが、歴史を感じさせる重みのようなものは、なぜ欠落していったのだろう。



もう一度1970年代を迎える前に何があったかと言うと、自動車事故死10000人問題と公害である。
これは、デフレ20年の自殺30000人を想起させるシリアスなテーマで、日本人の所得が倍増し自動車社会が一気に来たための、弊害でもあった。
それを沈静化させるために、鈴鹿と富士が相次いで完成して以来、10年足らずのうちに最高潮をもたらした、日本の興行的レース試合開催に、お上がまったをかけたのだろう。

純粋に子供たちはアニメの「マッハGoGoGo!」から現実のNISSAN R381や382に夢中になれたが、勝てなかったTOYOTA7の嫉妬もあったのか、70年の新年を境に、国民は万博に夢中になればよく、モータースポーツは欧米のようなレースシーンから急速に離れて行ったのである。
こういうことは後年に述壊し整理しておくべきことだと、私は思う。

日本の自動車産業は1990年代前半まで、空前の成功ドラマが続く。
途中の公害問題と、マスキー法の日本翻訳の排気ガス規制を乗り切ったことも、忘れられない出来事で、これは多面的に書き手は書いているが、一般人の理解は低い。

こんなことも面白い興味分野ではないが、自動車雑誌はサイドコラムくらいで、5年10年後に検証を続けるべきであった。

日本人にとり「栄光の80年代」が到来し、生活水準が一気に向上する1980年代。
プアだった国産車は、生活質に合わせてレベルが上がり、乗り味まで、評論家、クルマ好きの一般人も語るようになる。

このあたり、約30年前からのことの記憶は結構残っているだろうと思う。
国産車がプアだった70年代に、輸入車(外車)の個性と本当のクルマの味わい方を語っていた徳大寺有恒や高踏な小林彰太郎とカーグラフィック、かなり早い時期に日本人にとり幻的存在のクルマたちを語った伊丹十三(旧名一三)などレジェンドに近い人びとの功績があったから、ようやく日本人はクルマを語れる時代が来たのである。

私もこういった人びとの著作を読んで、「理解する」という行為に夢中になり、やれる努力をやってみたから、ひとかどかどうか判らないが、クルマ好きになれたのである。




今回は長くなって二日かかって書いてしまった。
もう少し考えていることがあるので、間を措いて続きのようなことを考えて行きたい。







Posted at 2017/12/04 11:59:39 | トラックバック(0) | 論考 | 趣味

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「ビッグモーターから残クレアルファードまで http://cvw.jp/b/176891/48584333/
何シテル?   08/06 05:00
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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