先週の水曜日に、ふらりと850クーペに乗り、今住んでいる岩国市から、西へ走って30キロにある瀬戸内海の島にドライブをしてみた。
特に目的は無いのだが、そこに行くのは数年ぶりで、その頃は不幸が続いていた頃だったので、今の自分ならどんな気持ちになれるのか、確認もしてみたかった。
私の最近の行動は、大抵午後からである。
午前中に起きられているのだが、とにかくスタートに時間がかかる。
準備でなく気持ちと心と身体が一緒に「動こう」となる前に、運転などしたら事故の元である。または注意散漫でパトに捕まったりするのは、そういう時だ。
自分が旧車に近い存在になってきたことを感じるが、由しとしておく。
この日も結構暑かったが、今週はもっと暑い。
そろそろエアコンの無いクルマにはしんどい季節であるが、30℃ちょうどくらいまでは、リアエンジン車は走っておれば、それほど体感負荷は無い。
お昼は岩国市はずれの郊外の中華レストランで、580円という安いランチで、事足りる。
そして間もなく走っていると、前方左の海の向こうに大きな島影が見えて来る。
私の父の故郷、山口県柳井市の対岸にある大きな島が、周防大島で、無料の橋で渡れるようになり、半世紀近くになり、すっかり便利になった。
近年では移住とか、レジャーで住んだり遊びに行きやすい島として人気が高い。
去年居た九州の日豊海岸にも多くの島があるが、橋で渡れるような島は無い。
そこが後進的とか閉鎖的な原因にもなっていると思うが、他所者が自由に侵入してくると、ろくなことが無いという意見が多かったと感じていた。
大島は、淡路島より遥か前に、道路で行けるようになり、大変便利だ。
一方の広島の宮島は、神秘性を守って未だに連絡船である。
だから、道が狭くて面白いという意見が有っても良いが、とにかく大島は便利だ。
橋もとうの昔に無料化されており、いつの日にか、淡路島も瀬戸大橋もそうならないかと思う。
しかし陸との距離が全く違うので、維持費がかかり、税金だけでは無料化は難しいだろうと思う。
大島大橋を渡る。前に来た時は真冬の海峡から鎮魂の意味で花束を流した思い出がある。
渡ってしまえば淡路島と同じように広い島であるので、道路は長い。
平坦な区間も結構走るはめになる。
地図を貼ってみる。
これまでは島の中央部までしか行ったことが無かった。
今回もまず島の北側の海岸沿いを走り、旧東和町の星野哲郎記念館まで行ってみた。
ここに民俗学の祖、宮本常一氏の博物館があり、そこも見ることが出来ればと思っていたが、家を出て食事も挟み、1時間以上掛けて着いてみたら、生憎、水曜日はどちらも休館であった。
目的1番目と2番目の入場がふいになったが、仕方が無い。実はその前の週にも、柳井まで墓参りで来ており、帰りに寄ろうかと思ったが、時間がかかりそうなので、見送ったばかりである。
ここで昔の私は、悲憤慷慨したが、最近は全然諦めが早い。
じゃあ、ということで、もっと先に行くことに変更した。
遥か先に戦艦陸奥が沈んだ柱島近くに、記念館があるようなので、行って見ることにした。
850クーペはそろそろ一度工場に入れてやりたい。だんだんエンジン周辺から音がしてきているので、ベアリング交換の時期なのかと思う。
この日は、まあ良いかと思い、ここまできた。
陸奥の記念館は、周防大島の一番先の地区にある。ここまでは国道なので道は普通に走って来れる。
少し昨年いた大分県の佐伯市の南の端の方にある地区と、思い出をオーバーラップさせてみたが、そちらは本当に道が悪くて、観光目的で行くのに難渋をきわめた。
同じ日本で、同じ西日本なのにこうも違うのは、なぜだろう。
同じような軍の遺蹟で、戦争の記憶を思い出させるような施設もあったが、普通に見に行くことが出来ずに、2度行って諦めた場所もある。
国と地方の税金を使って、過去の歴史に光を当てて、観光施設にするのにも、お金を誘導させる技術が要るのかもしれない。
それは、50年、60年前には地域差が殆ど無かった。しかし、日本は1980年代に大きくふる里の姿が変わったと思う。
竹下総理時代に日本は空前の金余りとなり、ふるさと創生資金として、全国の都市から村まで、1億円のお金が貰えて、使い途に困るようなことがあった。
あれから30年以上が経つが、あの時に、地方の市町村には大きな差が無かったのに、その後、過疎地は消える運命の前に広域合併を繰り返して、今のような地方の姿になった。
陸奥記念館の前の駐車場スペースは、広くて停めやすい。そして陸奥の錨の前に立つと、後ろに反対側の施設が有り、そちらが大変気になった。なぎさ水族館という、姫路市の手柄山にあった水族館のような、地元密着の匂いがぷんぷんしているので、先にそちらに入ろうと、足を回れ右してみた。
予想通り、子どもたちがヒトデやウニに触れられるタッチプールがあったり、その辺の海で獲って来た魚を一時的に入れる”生け簀”が至近にあったり、雰囲気が非常にユルい。
大阪の海遊館や、京都の入ったことのない水族館に較べて、昔ながらの水族館だなと思い、顔が緩む。
そこで30分くらいユルい時間を過ごして、この島までドライブして来た緊張感もほどよくほぐれたので、反対側にある陸奥記念館に向かった。
こちらは、戦争遺蹟と言って良く、その数日前に見て来た、広島の原爆記念館に「続いて」の気持ちになる。
広島市の記念館の展示が国際水準なのに対して、こちらの記念館は、まあ判るけれど、昭和・平成の感覚レベルだった。
入場料も、水族館が200円レベルなのに、こちらは倍以上高い。
展示品は、戦艦陸奥ゆかりの人々の遺品が中心。海から引き上げられた軍艦の一部もあります。
軍艦好き、マニアから見ると、連合艦隊の全容と、戦艦陸奥が大和と、どう位置づけられるのかが判りにくかった感も。
しかし数次の改装を経て、停泊地に戻ったばかりで、まだ昭和18年の戦局が悪化する前に、自爆して沈没した海軍の旗艦の最期は、謎めいていると思った。
ここで別室の無料の資料室で良いものを見つけた。
連合艦隊の軍艦の進水式の時に配られた、パンフレットというか色紙・絵葉書集の本である。
なぜこうなっているかというと、軍艦はマル秘であり、写真も今は自由に見られるが、昔は船影を見て覚えるしか無かった。
それをこういった、駆逐艦の船名をモチーフにしたイラストで毎回表現していたのである。
「暁」とか「雪風」とか「朝雲」と言った船名からイメージする、戦争の苛烈さを一切排した優雅な絵葉書、絵心に私は魅了されて、この本が欲しくなった。
戦艦マニアの人ならご存じだろう。「雪風」は武運長久を体現した最後まで沈まなかった幸運の船、「朝雲」はキスカ島撤退作戦で、忍者のように夜霧を駆け抜けて神出鬼没の大活躍をした高速鑑だ。
私はユキカゼがアリューシャン列島まで一気に長駆する雪の海の情景や、アサクモが大任終えて、夜明けの海をなだらかな紫煙をたなびかせて帰帆する姿を想像して胸が熱くなった。
戦前と戦後で一番難しくなったのは、これらの船をどう見たら良いのか。断層が出来てしまったことである。
日本は敗戦国になり、当然軍備は解体されて、過去のものは歴史が消えてしまった所もある。
その辺の難しい話は避ける。しかしカッコイイものは、私は戦争肯定派ではないが認める。
だって、カッコイイから、不便だけれど昔のクーペに今も乗る。
カッコイイが無かったら、誰が沈むかもしれない軍艦に乗りたがるだろうか。
カッコイイという価値観が衰退して行くと、今の日本車のような社会になるのかもしれない。
それと、この艦艇のネーミングについて。
私は昔から、巡洋艦と駆逐艦が好きなのだが、はっと思ったのが、昭和31年に東京から東海道本線と山陽本線を一夜で駆け抜けて、博多に到達する寝台特急を創設した時に、この辺を走る列車名に「あさかぜ」と命名したのは、もしかしたら敗戦で使用出来なくなった軍艦の名前へのオマージュがあったのではないか。
その後「ゆうづる」「銀河」「天の川」といった天体や気象、その中を飛ぶ鳥類に因んだ名前が次々とヒットして、国鉄の躍進の原動力になったのは、日本独自のネーミングトレインのセンスの良さだったと思う。
そんなことを、この画集から思ったのは、特急列車のヘッドマークの美のルーツをここに見つけた気がしたからである。
最近の列車のネーミングセンスは墜ちたなあと思う。
ここにもカッコ良さを大事にしなくなった社会の影響は無いだろうか。
雨がついに降り出し、少し開けた窓から降り込む雨に濡れながら、私は帰路に就き
島の道を戻った。