• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

kotaroのブログ一覧

2014年07月19日 イイね!

若い季節

若い季節7月のこの時期、日を追うごとに暑くなる。
誰でも暑いのは苦手だろう。

昨日はまた丹波路を走っていた。
このところエアコンの効く軽で行ってたのだが
今回はアルファロメオを出してみた。



私はものすごく夏バテする方なのだが、案外どころか、かなり夏が好きだ。
根性も体力も無い方で、何で夏が好きかと言うと、
まず7月末のあと10日後が誕生日である。
夏生まれの人間は、バテても夏になると元気になる。
なんちゅうか、馬鹿みたいなんだが、毎日風景が変わって行くのが好きなのである。

緑が梅雨を挟んで、どんどん葉が茂って色濃くなる。
山も街路樹も、夏が来るのを嬉しそうにして、変わって行く。
それと子供のころから虫取りが好きで、毎日のように昆虫と遭遇出来る。
珍しいのが飛んで来るとたまらない。
子供のころは友達が少ない代わりに、夏の虫、セミやカブトムシから秋の
鳴くコオロギまでが友達だった。

青春ってなんだろうと、クルマを運転しながら考えていた。
私のクルマの中では、MDに録音した10代の桜田淳子のLPがかかっている。
最近、萩本欽一が週刊誌で、山口百恵と彼女の二人は別格だと語っていた。

1973年から1978年までの頃に、今から考えると痛いような日本の若者が
一生懸命彼女らを応援していた。
今みたいに、秋元某が証券金融化したビジネス展開と違い、戦前派の
阿久悠らが、歌謡ワールドみたいなものをトータルプロデュースして、
その上で(レコード盤の上で)、アイドルも、10代の少年たちも、おどって
いたのである。



最近はピュアな人のことを「天然」とよくいう。
桜田淳子はとても可愛い上にイノセントに近いピュアさを兼ね備えた
アイドルで、さらに秋田美人の色の白さが備わった美人でもあった。
20代後半以降のことで、いちゃもんのある人は、読まないで欲しいし
無粋なコメントは控えて欲しい。

当時の若者も世間知らずで、随分ピュアな目でテレビ芸能界を見ていた。
私はアイドルというのは、リアルでなくてよいと思う。一生懸命、少年らが
入れ込んだ「あの時期」の記憶だけで十分、今でも楽しめるものだと思う。

クルマの中でかかっているMDを、一応現代の頭で聴いて、そこから1970年代に
トリップする。
古い車がバックトゥザフューチャーのデロリアンになる訳である。
こういう遊び方は、誰にも迷惑はかからない。お金もそんなにかからない。
運悪く同乗して聴かされた人がいたら、配慮はするし今風の音楽に換える。

私と桜田淳子は一つ違いの世代だ。
私が高1で16歳の夏には「17の夏」を歌っていたし、高2のときには
「気まぐれヴィーナス」を歌い、漫談の人生幸朗師匠が、「なんで去年の
トマトは酸っぱいねん!」とボヤキとツッコミを入れていた。

お父さん以上の世代の人生師匠も、今思えば彼女のファンだったのだろう。
山口百恵の世界には、ツッコミは入れられない。
平岡正明が「菩薩である」とトンデモない絶賛をしていたが、10代の私は
苦々しく当時の評論家を嫌っていた。

しかしあの時代というのは、良かった訳で、石油ショックがあったが、
借金してクルマ等を購入しても、金利以上の経済成長があったから、
貧乏人も明るかったと、近年のエコノミストがきちんと説明している。
それは腑に落ちる解説で、しかもマイカーは個の生活と夢への一歩であった。

16歳とか、17歳の女の人というより娘盛りの時期は、羨ましいくらい
溌剌として、そのオーラにあやかりたい。もう娘がその齢になった。

私は今でも、あの頃に、今と違いアイドルがいたから、ささくれて尖った
10代後半に「ナイフ少年」にならずに済んだと感謝している。
アイドルはアイコンであり、色んな意味で精神的に病む若者の女神だった
のである。


今の若者が昔と違って不幸なのは、AVから今のポルノ描写まで、
リアルな若い女性の性描写で、「あんなもの」と思ってしまったことがある。
免疫の無い頃から異性に先入観が出来て、純粋な恋愛以前の煩悩期が
非常に薄い。だから恋活エネルギーが大変薄い訳である。

少子化等の背景にも、つまらぬことで人と関わることを避けることが、
反作用しているのではないかと考えられる。

まして生身の女性と関わることは、本に書いてある訳ではないから、
思う通りにいかずに、かなりの苦痛を伴う作業となる。
今の若い人がそこまでたどりつけないのは、気の毒だが無理も無い。

少し話がそれたが、1958年4月から1959年3月までの生まれの
女性アイドルは、黄金エイジで豊作であった。

桜田淳子(1958.4.14)から山口百恵(1959.1.17)、岩崎宏美(1958.11.12)、
森昌子(1958.10.13)、伊藤咲子(1958.4.2)、岡田奈々(1959.2.12)と
数えきれないくらい、一斉に花開いたのが、1975年、私が高1の頃であった。



これだけ並べただけで、当時、毎日がどれだけワクワクだったかが判る。
毎月「明星」が出ると付録の歌本を、片手に新曲のかかるのをラジオで
待ち遠しく思い、ギターでコードをなどる。

若さって、馬鹿がつくくらいエネルギーが余っているから、ケンカもスポーツも
しない私は、ギターを弾いてかき鳴らすことが、日々の体力発散であった。

だから勉強なんかろくにしてなかった。
ただ過ぎて行った「若い季節」のことを、こうして40年近くなって思い出している
自分がいる。それが人生のため息であり、切なさである。
でもブロマイドで見たアイドルは、いつまでも若い日の憧れのままで良いと思う。



雨上がりの田園地帯に停めたアルファロメオを、新車のミニバンが追い抜いて行く。

いつか自分も歳を取り、くたびれて暮らしに倦むことになったが、時々こういう
昔の音楽を思い出し、時間を飛び越えることを、楽しんだりしている。

クルマと音楽というのは、単に移動する道具でなく、時間を旅する時の友であり、
元気だった時代に、連れ戻してくれることも出来るのである。

ちなみに私の奥さんは、偶然だが、彼女らと全く同じ学年の女性だ。
ただしアイドルは好きではない。





Posted at 2014/07/19 05:39:19 | コメント(3) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年07月08日 イイね!

還暦番長

還暦番長今年の7月も七夕過ぎて、私はもう少しすると
55才になる。
子どもの頃から難しい性格と虚弱な体質だったが
ここまで生きて来られたので、あとはスキーで
滑るように生きていたい。

人生を大きく変えたのは小学校時代以来の
クルマ好きが再び目覚めた20代の何年間である。

初代ランサーと初代セリカLBには、今の若い人なら
文献的知識だけでも憧れるだろうが、私には全然
面白くなかった。



それは自分の中でクルマに対する姿勢が、未発達だったこともある。
頭で理解しようとしていた。
そりゃ本はよく読んだし、DIYを実践してランサーもセリカも
よくいじっていた。
発刊当時のカーボーイと老舗のオートメカニック誌は、
いつも寝床の横にあった。

でも「それだけ」だったのだと思う。

他の遊びや人との交流も深めながら「なるほど、こういうやり方も
あるのだ」という世界観を広げること。20代はそれに尽きるのではないか。

私の好きな音楽世界でも、最初だけ才能で耳目を集めて、華々しく売れても、
30代40代以降さっぱり話題にならない人も多い。
こじんまりまとまってしまうか、木で言うとあとで伸びなくなった
樹木のようなパターンである。

私の場合は、27才のときの850クーペとの出会いが、大きく変える原因に
なったが、その前からあちこちの輸入車関係の場所、お店からポンコツ置き場
まで、のぞき見ることで好奇心を膨らませていた。
準備があったから、はじけることも、理解することも、その後の苦労を
何度でも乗り切れたのだと思う。

普通、手間のかかることにお金と情熱は、かけにくい。
また現代センスで言うバランスシートで言えば、コスパに見合わぬ
不合理性は、頭の中だけで計算してしまう。

情熱や感性の前に理性があると、その世界に行ってしまう前に引き返す。
それが大多数の原則なのだと思う。

現代のように情報と言う「添え木」があって、趣味世界に参入することは
ずいぶんハードルが低いと思う。
ただ、火傷をしてから好きになるのと、手袋をしてから熱いものを掴むとの
違いだ。
現代は後者の選択しかできないのだから、比較をするのは適当でない。

そんな試行錯誤は、誰のため、何のためと問われれば、自分がやりたかった
以外には答えは見つからない。
だから先行することの面白みだけで残りの25年以上は、走ってこれた。



趣味道と一般人生活は、両立するものなのか。
これには若い頃より、全身で腐心してきた。
一番良いのは柳宗悦の蒐集物語とか、民藝の本を読んで欲しい。
同じむねよしでも、田中でなく柳の方も読まなければ駄目である。

好きでしょうがないものとか、まだ一般世界や古美術の世界でも
評価の全くないものに、手を出すことのためらいとその後の大分経って
からの感想に満ちあふれている。
柳宗悦は、白樺派系の名家の跡取りであっても、あんまりお馬鹿なことを
周囲は望んでいなかったはずだ。

私はもっと普通にサラリーマンディレッタントの道を目指していた。
出来る出来ないは周囲の理解だろうし、本人の意欲次第である。
それと変なものに手を出し過ぎて、後悔や、自滅する道もある。
目利きになるには、柳の本を読んで心構えから入って欲しい。

クルマをみて欲しく成るのはクルマ好きの本能だと思う。
しかし、4割の情動と3割の煩悩、あとは現実感覚と最後に1割足らずの
これって俺に必要だろうか?を考えて欲しい。
実は一番大切なのはその最後の砦である。

苦労して得たものが満足感に変われるか、その一線は大きい。
収入とか年収とか、自由裁量できるお金がどれだけあるかで、コースは変わる。
それとエンスーのヒエラルキーは、連関しているようで一律ではない。
私はその喫水線を、いつも苦労しながら泳いできた。
溺れそうになると浮き輪を出す友人もいる。
近年は随分泳ぎ出すことを怖れるようになっていたのかもしれない。

クルマは保管する場所に苦労すると、折角手に入れた情熱も一気に下がる。
数年前にリトモアバルトを手放して、今度は850スパイダーを手に入れ
自分で陸事でユーザー車検を通して、登録までやってみた。
50才過ぎて我なりに頑張ってみたのである。

ところがこの車は最初は権利を譲渡してもらい、元の持ち主の所に置いてもらい
年に数度くらいの訪問でこっそり乗ろうと思っていたのが、当てが外れて
関西にやってくることになった。
それからが苦労の連続である。野ざらしは出来ない。
私の住む大阪の郊外から兵庫県の片田舎に置ける所が見つかるまで
随分友人らにお世話にもなった。

私も気を取り直して、一回長距離ツアーで仲間と信州まで行ってみたこともあった。
しかし元々の個体が、不動の時期も長くあったので、ギアのシンクロが悪く、
さらに伸び切ったチェーンがチェーンケースを割ると言う、それまでの私の自動車
歴にない、傷んだクルマであったことも、出費を増やすことを重ねた。
一つずつのダメは修理してもらい、何とか維持しようとつとめた。
いろんな意味での恩人の元愛車であったからだ。

しかしタダで置かせてもらっていた工場が、配置換えするので置けなくなり、
たった数ヶ月。行くのはたまにであったが、行く度に気を遣いお土産も持参して
特に交通が無い時は片道、自宅から乗り物を電車で4回以上乗り換えて、最後は
田畑のなかを2km以上歩いて行っていたが、もういいだろうという気になった。

実はスパイダーを手放したのはそのような裏話があったのである。




だけど私は誰のせいにもしたくない。自分の力不足でもう一台の850生活を諦め
たのである。しかし良い思い出の残らないクルマだってあることもある。
そう言う時は傷心する。置き場所さえ何とかなればこんなに苦労はしなかったと
思うが、自分の能力不足と縁が無かったのである。

このところ運のなかった私であるが、今年に入り少し気運が上昇しかけて来た。
あちこちから私に声が掛かり出来ることをやって欲しいとオファーが来るように
なった。そのうちのひとつが、自宅から50km離れた場所で、農家と畑を共同区分で
借りれるようになったことがある。

発起人の2人にあと2名加える中に、私のアイデアマンとしての招聘があったからである。
私は早速、農家の方の別荘使用でブッキングが重ならないように、メーリングリストを
作った。あと、友人らと使う時は「あゆみの箱」でひとり1000円とか今後のあらゆる
展開に対応出来るよう、企画展開も私がすらすらアイデアを出し全員が了承してくれた。

こちらのプロジェクトのボスは、元ボクシングのアマチュアチャンピオンである。
この人が、選ぶ人選は、個性と能力と、裏切らないことだと思う。
私が農業に興味を持ったのは、一昨年からの長い傷心期間に、活路を別の方に向けた
ことがある。そこで里山で体験や活動する、別のグループの先輩たちに歓迎されたことが
きっかけだ。

この歳になり、住んでいる場所も都市と山野のエッジみたいな所まで後退して来た。
しかしそのお陰でこんな里山人脈もでき、あれだけ困り続けた自動車の置き場も見つ
かった。

きょうの夕方はその「還暦番長」に会い、飲むほどに、今後の土地利用と展開のことで
かなり私に権限を委ねてもらえるのと、地主さんとの交渉は、何でものんでもらえるよう
その方がそちら方面を引き受ける。農家に私が住むのも構わないとまで、言っていただき、
心強いところまで来れたことを感じた。

「亀岡にトライアルランドがあり、そこの方がクルマ好きで、輸入キットガレージも
扱っている。これを例えば空き地に我らの手で建てて、愛車を保管してもいいだろうか?」
「大丈夫でしょう。工事さえ自分らでやっていただければ、何なりと家主と談判します」

私は郊外に、ガレージと生活の拠点も持てそうだと言う所まで来てるのだろう。
夢のガレージライフも近いのだろうか。いや私には、雑誌のグラビアページは似合わない。

簡単にのぼせないのが、年齢のいった男の有り様である。
しかし、人生はこういうこともあるのである。
今後の、年金も当てに出来ず、難問題を多数抱えるネオシニアの生き方の中で、明るい
材料を少しでも探す。それが自分の活路に繋がるのだろうと思った。

結局最後は、人が人を呼び、人によって助けられる。
趣味の世界も、尽きる所は人付き合いが上手くいっているか、それ次第では
ないだろうかと、思った。







Posted at 2014/07/08 01:37:16 | コメント(5) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年07月05日 イイね!

ファンレター

ファンレター雨の日はユーミンでも聴きながら
クルマを走らせる。
「A Girl in Summer」というアルバムを、80年代
以来ひさしぶりに新譜で買ったことがある。
調べてみると2006年夏で、久々の初夏の発売だった。
もう8年前とは月日の早いのに驚いた。

梅雨の蒸し暑さのなか、エアコンのついたクルマは
軽であっても快適だ。

ユーミンや大貫妙子を聴きながら普通の車で走ることは
平凡な人生に、彩を付けてくれるような気持ちの効果がある。

それにしてもクルマに乗りはじめて35年くらい経った。
あのユーミンも還暦になった。
私のカーライフも後半もいいところで、さらにガソリン高騰が170円台、
ハイオクで180円台である。いったいいつまで乗れるのだろうか。

みんカラユーザー10人10色のごとく、いろんな人がいろんなクルマに
日本中で乗っている。
こんなに長く乗りながら、その次のクルマが終わる日か、卒業させられる
ことを考えながら、ブログのネタも考えている。

これまで変わったクルマばかり乗り続けてきたことで、ネタには困らないが
最近はできるだけストレスのない、生き方がしたいと思うようになった。
私より遥かにお金をかけて大変なクルマを所有し、維持している人を
尊敬する。しかしそのストレスが、対価に見合わぬものであれば、今は
撤退した方が良いと思う。

散々変わったクルマのネタを振っておいて、それも無いだろうと思うが、
人間は普通に生きて行かなければならないものである。
旧車やレアカーに乗ることの理由は、殆どが珍しいものを持っているという
快感である。プライドや矜持の壁に守られて、維持出来て来たのだと思うが
あまりストレスの方が強くなって来ると、良くない。

私は近年、50万で手に入れられた紺色のアルファに乗ることが、普段は
ちょうど良いのだが、息子に譲った軽を運転して、借りた農園までを往復
していると軽でもいいか?、いやクルマに乗らなくても?、農園借りても
維持費がかかるだけ?、何でこんな面倒なことやってるのだろう?

最後は、俺は何で生きているのだろうみたいな撞着妄想に陥りかける。
こんな時は救いになってくれるのが、クルマであり、それを取り巻く
カーライフであった。

クルマの所有や維持は、運転と同じでバランスである。
何か生活のバランスが悪いなあと感じたら、原因は持ち物や住まい
暮らしにあることが多い。

持たない暮らしは最近やたらとよく言われる。断捨離もブームの用語だ。
たしかにその方が動きやすく、ずっと楽である。
人間は最後に「我思うゆえに我れあり」だから身体以外は何も要らないの
かもしれない。


最近お世話になる10才以上の人に「kotaroさんは狭くて深い人だから」
と私の特徴を見抜かれている。
ちょっと当たっているかもしれないが、その人は大学のボクシング部の
元チャンピオンで、私の出た大学と並び評される京都のR大を出てられる。

私は50代を、ここまで不安定に送るとは思わなかったが、外に出て5年目。
未だに芽が出ないが、何とか生きられているのは、私にはけっこうファンが
いるからだと思っている。

支えられている人間が、自惚れてはいけないのだが、それらの人がなぜ、
私のことを好きなのかと思うと、そこに私の長所や、個性が強く表れている
と思う。
これまで長く頑張って来たのだから、50代の今は、ゆっくり流したり
ペースを落とした方が良かったのかもしれない。




ところでみんカラでも似た現象がある。

コメント欄も楽しませてもらっているが、時々不定期に、メッセージ
形式で「お手紙」をいただく。
これまで何名かの方から、質疑やご感想をいただいた。
とても丁寧に読まれていただいて頭の下がる思いである。

また深く考えることの好きそうな方もおられる。
今まで不快なものは無かったので、とてもブログを書く時の励みになる。
それと、自分と同じタイプの人はあまりいないと思う。

そう言う人からこの個性は面白いと思っていただけたら、本望だ。
私は群れないので、一匹狼型の人や、決して滅多に本心を見せない
タイプの人の心の奥底に届くと良いと思っている。
普通の人は普通の人が、カバーしてくれるからである。

きょうも雨の湿気の多い日になった。

昼から社会事業の会議と勉強、その後はどうしているのだろう。
私はいまは不安定だが、すぐに家を失うこともないだろうし、もう少し
クルマも乗り続けられると思う。

動いていれば何かのヒントは出て来る。
クルマのことで今後は大きな夢は見られないだろうが、
それでもクルマを通じて発見したり、喜びはいくつも出てくると思う。

そのためにも、皆さんが面白いと思えるようなテーマを探して
書いて行くだろうと思う。





Posted at 2014/07/05 04:30:46 | コメント(2) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年06月29日 イイね!

北摂ベース

北摂ベース金曜日の夕方に数ヶ月ぶりに
ハローワークに行ってみた。

私の住む田舎町に、北摂地区の職安があり
自転車と半ズボンでも行ける気楽さが
あるのである。

週末の業務終了時間前なのだがセンターの
前の自転車の数も減ってるし人があんまりいない。

あきらかに求人状況が好転していることを体感した。

前の記事に書いてみた今の社会現象を仮に「アベノミクス」というなら
そのムードは、既にこのように歓迎されている。
一方で集団的自衛権会社を巡る法案のことは悩ましい。
直裁に考えれば戦争経済みたいなものの考え方になってしまう。

また米国の正体については、長く意中の恋人のように思っていた1945年
以降の日本人は、そろそろ彼女がある面では恐ろしい人物であるのが
その素顔がようやく判って来たが、付き合いをやめると今度はとんでもない
目に遭うのではないかと畏れて、対等に口もきけなくなっている。



土曜日は今関係しているNPOの書類提出期限前の最終確認を行った。
そこで印鑑が足りないことに気付き、理事長宅を解散後に訪問し、書類を
整えることにした。

皆さんが前回の記事を興味深く読んでくれたことに感謝する。
この総研を名乗る団体は構想数年だが実績は少ない。
私を交えて今後の展開を模索しているところで、海とも山ともつかないので、
ぼしゃってしまうこともあるだろう。

やっぱり職安をのぞいてみたのは、生きて行かないといけないので、
「ケロロ軍曹」ごっこではしようがないと感じた、リアリストの私の面である。

理事長宅は箕面の山あいにあるので、車で行くことにした。
私は、これはという時以外は車を出さない。
しかし乗りたい時には乗ることにする。
きょうは両方の条件が重なった。

NPOのメンバーは、実質あとふたりで、大企業でないがメディアの業界に
かなり食い込んでいた元ゼネラルプロデューサーと、今の理事長は
大きな製鉄所のプラントを作っていた元鉄鋼技術者で、誰でも知っている
コンビナートを立ち上げた仕事に密接に関わっていた人物である。


二人のタイプも仕事も、社会貢献に関する見方も全く異なる。
今の時代は、矮小な仕事ばかりで日銭を稼がないと生きて行けない。

高度経済成長期の男たちは古い人間だが、見識もあり面白い。
私が言う「過去のインフラを利用しなさい」というのは、人間をそそのかし
もう一度チャレンジすることも含まれる。

箕面に住む理事長とは、その前にある自然環境団体の方で出会った。
私が無職でプラプラしているのに気付き、こういう縁になったのは、
私が外を出歩いて、いろいろな機会で人の話を聞き、これからの世の中で
何をするのか、一生懸命考えているからである。

私はメディアに長くいたので、創業者のプロデューサー感覚はよくわかる。
向こうもそういう感覚の判る人を捜していたので、雇用に近い状態で
マッチングになったことを理解した。

またプラントエンジニアという仕事は、私の父がそうだった。
ところが私が結婚直後に父が亡くなったので、私も父の老後に付き合えな
かった後悔がある。
同じ業界、同じ会社ではないが、似たような国立大学工学部出身の人生と
いうものが判るような歳に、私もなったのである。




私が住んでいる町は、大阪で一番北に存在する都市で、冬は寒い。
隣の豊中市あたりから一段と標高があがり大阪市内とは空気が異なる。
北摂と呼ばれる地区に住むようになったのは、緑が豊かなのと、奥地に
山地があることが気に入ったからである。

関東に車で自走して行くと、山は殆どない平野であることに気がつく。
そこに国民の何割が蝟集して住んでいるのであろう。

関西は平地が狭い。日本の中心に成りえなかったのは、近代以降の社会
成立が、交通と都市展開のしやすい平地規模で捉えられるので、関東に
軍配が上がったからである。しかし天災などの大災害は起こってみないと
わからない。

クルマの運転が好きな人は関西に住むのを進める。
海と山の絶景に挟まれた神戸などは、香港に行って感動するくらいなら、
お金があれば神戸に住むと楽しいだろう。ビジネスを始めてもよい。

一極集中の弊害で関西の住み良さが、効率一本のビジネス傾斜でずいぶん
路線価も不当なくらい、低い評価になっていると思う。

今日は北摂のことを書く。
ガレージから愛車を出して、箕面市に向かい、20分弱で高冷な空気の良い
住宅地に着いた。
電話がかかって来るのを待ち、理事長が住むマンションを探して行く。

健康で、見識もあり、細かな悩みは他にして、定年後の時間を有意義に
仲間を作り生きている。そこにいるのは日本人のただのおじさんであっても
こういった人物は探せば、出て来るのが日本の良さでは無いだろうか。

理事長は「なにわの伝統野菜」の保存継承にも関わっている。
鉄鋼マンの後は、15年近く自然環境NPOなどを関わり続けて、愉快な人柄を
偲ばせるのは、いきなり「私の畑に行きましょう」とマンションの裏の
空き地の一角に作られた菜園に連れて行かれた。

そこには夏野菜がびっしり成り、決して見事とは言えない素人仕事だが
理事長の嬉しさが詰まっている。私は自炊で小さな生活をしているので
穫れたてキュウリ2本でも、今晩は何を食べようかという心理になる。
いきなり花の終わった菜の花の種をむしらせ、「田辺大根植えてみて」と言う。

私もいま畑を借りていることを告げているので、これが育ったら楽しい
だろうなと想像する。文字通り種から新しい命が出て、次世代に繋がれば
温かい気持ちが野菜に伝わるのかもしれない。



理事長との対面はものの数十分で終わり、箕面市の山側の道に戻る。
少し暑いが30度には達していない。時刻はまもなく6時になるが、夏至
から日も経っていないので、まだ明るいので走り足らない気分になった。

浄水場前から滝道方面に向かう道を上がって行く。
夏の夕暮れ、少し時間は遅い夕暮れの前。
アルファの窓を開けて、風を巻き込んで走るのが気持ちよい。

時間帯のせいか走っている車が少なくて、アルファらしい加速が楽しめる。
滝の駐車場で、タイヤ溝にはまり音を立てていた小石を取り除く。
勝尾寺の手前で左折して、今夕は高山を通り能勢の妙見山の麓を通って戻ろう。
たまにすれ違う車の中に、フェアレディZのオープンなどの好き者と遭遇する。

ふと「北摂ベース」という言葉が浮かんだ。
修理工場、保管場所と住む町、そして里山を介在して広がった人の繫がりで
今の、私は支えられて生きている。
何の贅沢も出来ないが、中古の外車を運転するくらいの楽しみは、
私にとり丁度いい心の慰めだ。

70歳代だが、父親が中島航空機に勤めていた理事長は、定年時に買った
初代スバルインプレッサの4ドアセダンを大事に乗り続けている。
今日は私のアルファロメオ75を、改めて見て好い車だと言ってくれた。

技術者、環境、新しい社会活動。一足飛びな全国区デビューや国際貢献と
いうことをインターネットで、誰でもが考える時代になった。
私もこのブログ記事を、読んでくれる日本中の人のことを多少意識して
書いている。

今日はなぜ地元(ベース)なテーマを書いてみたいと思ったのだろう。
私の夢は探しているうちに近くの方から接近してきたのかもしれない。
きょうはこれを書き終えてから上りの列車に乗り、東京をめざすことに
します。









Posted at 2014/06/29 02:37:32 | コメント(1) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年06月26日 イイね!

アベノミクスと自動車趣味の影響

アベノミクスと自動車趣味の影響

僕は今、
このことについて考えている。

実はもうバブルに近いことは
起きかけて
いるのではないかと。




相変わらずお金のない仙人のような生活を、送っています。


そういう岸辺から、社会で言う困窮も見ているし、都市の周辺や
中心部で起こっている高層建築の需要は、とんでもないミステイクなのか
それともある程度の計算された社会設計の一部で間違いないことなのか。


アベノミクスは、構造的な計算された社会実践でなく、単なるムード喚起で
中身は全くないと言う、学者の意見もよく聞きます。

しかし経済のことは、誰が分析しても難しくて、終わってみてから「あれは
なんとかだった」と名状する。これがいつもの普通のパタンです。

私も懐疑的な性格ですが、一コンシューマーであり一市民です。

この2012年12月以来の1年半で、株価の上昇と為替の変動がありました。
株価は株式会社を名乗る所に大きく益を与え、これが今の政権の自信に
繋がり、国家概念が嫌いな人でも、少し良い気分になりかけている。
そんなところではないでしょうか。

私は、社会のトレンドとは距離を置きますが、全く別のベクトルで
益も損も無視しているわけではなく、成長する分野と、1次2次でなく
3次くらいに面白くなって行くであろう分野に興味がいつもあります。

20年以上前に、今で言うヴィンテージではなく身近なクラシックカーに
エネルギーを傾注したのは、浮いているようで、最初はそう見えても
後で見ると、「ほう」と思われるような時代の先見性に、自分の重きを
置きたい訳です。

日本の自動車社会で25年の間に一番進化したのはテクノロジーか
販売の戦略でしょう。
一方一番深化したのは、旧車やヴィンテージ、ネオクラシック含めた
20世紀の後の方にマスプロされた、世界中の自動車に、分類タグが着けられて
だれでも「評価を理解」できるようになったことです。



お金のことを口にするのは日本人では軽侮されやすいのが、変わってきました。
それは国際社会化の避け難い欲求なのでしょうが、趣味性の強い(高い)
クルマに乗るもしくは乗り続けることの意味が、2012年以降に変わって
きているのではないか。今日はそのことを説明できないか、考えてみましょう。

なぜこんなことを書く気になったのか。
それは皆さんのブログを5年間読んできて、今年に入り気力が衰えたり
方向性が変わってきた人が多いからです。
その原因をあれこれ考えました。

雑誌の廃刊や衰退が顕著になり、近年みんカラと言う最大の自動車SNSに
移って来る人が増えました。
世代的には1960年代ー70年代生まれが圧倒的で、80ー90年代生まれは
彼らの半分以下の数字では無いかと思います。

僕は最後の50年代1959年生まれですから、今年で55才の定年世代です。
昔ならばです。それだけ頭が固い年齢層に入りかけていますが、文章を
書く時はエージフリーな気分で生きて行けるので、調子乗りな日もあります。

おそらく皆さんが元気が無いのは、クルマ社会の趣味の位置づけが徐々に
変わってきているからでは無いかと思うからです。

私がクルマ社会(文化)に興味を持ったのは1970年の小学校5年のとき
でした。
転校先の小学校の廊下の窓から国道がよく見えて、「あれはセリカ、
今度のはギャランGTO、」と出たばかりの新車群を、次々言い当てる
クラスメートが一人いて、彼の口授の面白さに取り憑かれました。

正確にいうと、当時は1年ごとにトレンドが変わるのですが、大阪で
万博のあった1970(昭和45)年は、セリカとGTOが出たように
(あと最初のフェアレディZが44年秋に出た)スポーツカーからスポー
ティーカーに変わる区切りの年でした。
山口百恵から松田聖子に時代が移った1980年のようにです。

73年暮れの石油ショックまでの時代は、公害対策前夜で、最後の古きよき
国産車時代でした。石油ショックのあとは国産車は、燃費と公害対策に3、
4年取り組んで、ニューモデルは暗黒の時代でした。
スーパーカーブームは77年頃で、日本人は世界や外国車を全く知らない。
だから驚異であり、宇宙から来た乗り物にチュウニたちが興奮したのです。

当時はまだプロレスとプロ野球は「興行」の時代で、60年代に終了した
1969年までの「日本グランプリ」などの日産ートヨター外国勢
(滝進太郎のタキレーシングチームなど)は、今の時代のモノの見方なら
「あれは『興行』の世界だったんだな、」と理解が及びます。



そんな時代の流れは1980年代に入ると、日本人に自信がつき過ぎるくらいに
うまく世の中が回ります。
ソニーのウオークマンやニンテンドーのファミコン等。オリジナルの電気
機械技術は外国人の発明ですが、日本人が「魔法の杖」を持っていた。

その頃の私たちが20代で、団塊世代が一番元気な30歳代。
本当は戦前生まれの技術者が苦労して、日本車を国際級水準に高めてくれた。
世界中を快走するジャパニーズカー。
アメリカではデトロイトでやっかみ、排斥運動が起きたほどでした。

で、おそらく皆さんの自動車に対する考えの確立が、このあたり。
「NAVI」の創刊した1980年代で、知識をどんどんつけ始めて、
白いソアラか、変わり者はいすゞピアッツアに憧れて、爆発的にクルマが
売れ始めます。

日本人は1家に1台を達成して、1人に1台の夢を見ます。
自動車雑誌は人さえ居れば作って売れたと思います。当時普及の達した
コンビニで雑誌を売ることが成功のルートにもなりました。
1985年から日本の社会は、コントロール出来ないくらいお金がほいほい
流入して、不動産中心にバブルが起き、美術品や珍しいヨーロッパの
ヴィンテージ車にも目が移るようになったのです。

この辺りが価値観の成長期だったのではないでしょうか。
なかなかアベノミクスまで、話が到着しませんが、取り敢えず前段を
終了して、後半に続きます。






Posted at 2014/06/26 13:23:25 | コメント(2) | トラックバック(0) | オンザカー | ニュース

プロフィール

「やっぱり。言わんこっちゃない。「トヨタ、センチュリーを独立ブランドに クーペ開発でラグジュアリー市場拡大」https://x.com/i/trending/1977788758218219921
何シテル?   10/14 09:32
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/11 >>

      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

リンク・クリップ

趣味とかその対象はどうなっていくのか 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2020/04/01 18:15:22
タイ製L70ミラ・ピックアップのすべて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2015/02/22 10:52:34
春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/05/11 05:49:46

愛車一覧

ホンダ スーパーカブ50 プロ ホンダ スーパーカブ50 プロ
中古のスーパーカブを買いました。 原付に乗るのは40年ぶりです。
フィアット 850 車の色は空のいろ。 (フィアット 850)
2016年10月、三年半かかった車体レストアが完了し戦列復帰、その後半年、また以前のよう ...
プジョー その他 26インチのスポルティーフ (プジョー その他)
高校の時から乗っているプジョーです。1975年購入。改造歴多数。数年前に自力でレストアし ...
シトロエン ベルランゴ ゴールデン林檎 (シトロエン ベルランゴ)
還暦過ぎて、最後の増車?!。 見たこともなかった人生初のRV車を、九州生活のレジャーのお ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation