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kotaroのブログ一覧

2014年04月25日 イイね!

ベスト・ワイフず

ベスト・ワイフず先日の旅行の最後のころに、今まで動かなかった
リアのウインドウが、実は壊れてなかったことが
わかり、喜んだのも束の間、帰路でまた動かなく
なり、そのままで走って帰って来た。
その後点検・修理に出してしまったので、週末に
京都の丹波で行われたイタリア車イベントには、
普段息子に預けているスズキアルトで向かう
ことにした。


昨年始まったこのイベントは2回目で、バックにイタリア車ディーラーの
京都店がついて、それから自動車関係者や元編集者が大勢来ていた。らしい。
昨年はそれなりに盛り上がって私の知り合いも、大勢来ていた。
だが今年は重なった行事が多かったのか、知人の車は少ないように感じた。

昨年の目玉であった京都のイタリアンレストランGのSシェフは、ことしの
フライヤーにも出ていたので、それを今回は食べてみたいと思った。
日曜日はいつも早く起きる。まあ、弁当も米を炊いて簡単だが作った。
いちおうブログのコメントとか片付けて、雨の予報もなんとか持たないかと
判断して今年は展示車でないので、ようやく10時前に家を出た。



川西市内では天気もよくなり日が射して、これはいいレジャー日和と
思ったが、丹波地方に来ると内陸部なので都市部よりずっと天気が悪い。
最近実は、丹波地方で農地を共同で借りて耕作しているので、
天気のくるくる変わるのは、もう慣れて来たので、運にかけよう。

会場にはお昼前に着いた。天気は薄曇りだ。
もう朝一番に来た観客の中には、気の早いものは次の目的を果たそうと
帰り始めているのもある。
全体的に、テンションが昨年ほど高くない。

まず募集告知も少なかったし、受け付けも私はフェイスブック経由で
参加をクリックしたが、何も返答が無かったので、イタ車で参加して
並べることまで、積極しなかった。

まず駐車場で珍しい車はいないかと思ったが、こちらも昨年ほどは無し。
微妙な空気の変化に、私は時代の流れや移り変わりを感じる。



この会場は第1週はチームヤマモトの歴史の長いイベントが行われた。
しかし丹波ワイン工場が会場になって久しいが、少し飽きも感じる。
神戸市有野台のリノス、篠山ユニトピアの時代から見て来たが、やっぱり遠い。

丹波ワインは、評判はこれまでよかった。試飲も以前はあった。
今までに自動車イベントを呼んで来て、祝祭会場となるときには、パソコン
メイドだと思うが、当日イベントの「特製ラベル」ワインをずらりと並べ
“非日常性”を謳って盛り上げていたが、今年はチェックすると無かったと思う。

記念ラベルワインは、数年前まで続けたポンテペルレでも、売っていた。
「こんなものも今は簡単に作れるんだ」と仕組みがわかっても、半分義理で
買うこともある。
しかし会場側の判断でヤメる時は、経費の節減とか、背後があるのだろう。

特に今年は、ある新聞記事が、心に棘に刺さっていた。
昨年起きた牛脂混入肉すなわち“偽霜降り肉”事件で、ここの製造責任者が
発明者として追及され、道義的責任感で命を絶ってしまうという悲しい
出来事があった。刑事法で訴追された訳でないが、食品関係者にとり、今は
空気のようなブランド性と、裏側の実態が、簡単にスルーしてしまいやすく、
その度に世間は「騙された」と大騒ぎになる。

私は牛脂肪をテクニックで混入させた、霜降りでも安くて美味しかったらいい
のだが、今の日本人が最も頭に来やすいことの一つが、看板に偽りだ。
だから、ここの会場に来るのは少し辛い。小心で臆病な私は影響されやすい。

Sシェフのイル・Gオットーネも案の定、あっという間に完食売り切れらしく
お昼の1時前で店を片付け始めてはいなかったが、鉄板がむなしく
空を睨んでいた。やれやれ。
こういうのは、押すな押すな商法だから、最初から早引きするような量しか
用意しないのだろう。並ばなくて良かった。有名シェフもすぐに帰ったか
本当に本人だったのか、それもわからなかった。



でもお昼頃の会場は、すごく混んでいた。京都のラジオくらいでPRもしたの
かもしれない。
全体的に層が2分しているのがわかる。私のように子供があっても、もう
大きくなり、着いて来ない50才以上。
それと、30代中心のちょっと若いファミリー層。カップル・子連れが目立った。

私も30代の頃は子供を大抵連れて、こういうイベントに来ていた。
だが今日来ている、こっちの層は明らかにマニアではない。
愛車は現行のフィアット500が圧倒的だろう。
この車のおかげで、ディーラーが潤い、試乗フェアにクライスラー車まで
持って来れる、こういう行事が開かれていることが想像できる。

しつこいが、「料理の鉄人」Sシェフまで丸抱え出来るのは、企画広告の
ビジネスバリューでやっていることは、当然判っていないとおかしい。
ところが、ここに来ている主役は、俺俺自慢のイタリア車野郎(おじん)
ばかりであろう。
編集者や元マスコミ関係者が東京からわんさと(仕事が無いから)来て
いるのが、余計痛い。

私みたいに性格の悪い客ばかりでないので、メーンスタンドで演奏される
軽めの音楽演奏とかに興じる若い人らが、集まって大人しく聴くのは楽しい。
私もその横で、手弁当に、会場即製の唐揚げチキンを添えて昼飯にした。

しかし何だろうなあ。このフェアが来年以降も続くのだろうかという懸念。
今年は昨年比で天気の悪いこともあるのだろうか。やっぱり寒い。
一周するのにそれほど時間もかからないので、駐車場の車に戻って暫く寝た。

無料のイベントと言うのは、売り上げでペイできないから、当然スポンサー
がYES NOで左右することが多い。
もう、こういった自動車の企画は、日本中どこでも開かれる時代、2014年。
2011年の東日本大震災で、日本は真面目で、誠実で、どこの国より混乱を
起こさず、最後は絆を確かめ合うことを、お互いの国民が納得したようだ。

私は不正直か、それとも正直すぎるのか、それから間もなく会場を出て
畑のある方の場所に向かい直した。
イベントの空気に何だか馴染めない自分を、落ち着かせたかったからだ。
それとやっぱりしょぼいアルトで来ている自分が、パワースーツのない、
登場人物みたいに思えたからだろう。

これからの日本は、どうなるのだろうか。
みんなお行儀よく、品行方正で、国や行政が管掌した非日常的らしい祝祭で
健全な休日を、皇室のように全うする。
ほんとうにどうなっちゃうんだろう、これからの時代は。



修理に出していたアルファが、翌日には電話がかかって来て、故障は
スイッチ操作ミスだけだと判りホッとした。
ラジエータ予備タンクの漏れは「直した」というがまだ心許ない。
それでもサンルーフの修理は、部品さえ見つかれば、何とかなりそうと判った。

今回は修理代は要らなかったので助かる。その良い気持ちでアルファに
ハイオクを満タンにした。
850クーペを叩いているおやっさんの仕事風景も初めて見させてもらった。
シニアの仕事は、こういう為にあるのだし、私もシニア級の役割を、今迄と
違い、お金より人に役立てることに、スタンスを移して行っている。

リトモアバルト125、一時期所有した850スパイダーと「相方」にはさんざん
苦労して、一年間はダイハツミラにも乗ってみた。
どうやらアルファ75は長年探してた理想のパートナーに、一番近いのでは
ないかと、自分の年齢体力に、照らし合わせてみても、最近そう思いつつある。



Posted at 2014/04/25 11:06:02 | コメント(4) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年04月15日 イイね!

春の1200kmツーリング・四国潮の道を往く

春の1200kmツーリング・四国潮の道を往く一夜の宿を取った香川県丸亀市を出発して、
今回は四国の地図を積んでいないことに気がつく。
カーナビという機器は、ある程度の役には立つが、
ショートカットの知ってる知識だけをアンサーする
最近のクイズ即答型の人間に似ているので
必要ない時は、電気を切っておく。

まあお遍路よろしく、右手に海が見えれば、
何時間か後には、今治松山方面に出られるであろう。





讃岐潮の道街道だか、海沿いの道と名付けられた海岸線に沿ったラインを
走って行くと、元の国道を整備したのだろうか。
車窓の右手に瀬戸内海。左に予讃線が並行して走っており、ときどき電車と
すれ違う。



ああ四国も今は電車が普通に見られるようになってから、時は久しい。
しかし昨年末の山陰線の米子辺りや、今回走る高松から西の予讃線。
いずれも古い113系の成れの果てや、今回はEF64の牽く貨物列車が左側面を
横切り「どきっ」と、大げさに驚いてしまうのはなぜだろう。



それは電化方式が直流電化に戻っているからだと、自分のDNAにアクセスして
正しい答えが却ってくると、ようやく安心した心理を取り戻す。

説明しよう。
1950年代終わりから、1970年代まで、東京・大阪からの遠隔地や亞幹線は
商用交流電気で電化することが、国(国鉄)のテーゼであった。
だから、常磐線や東北本線の平、黒磯以北、北陸本線、日豊・鹿児島本線、
北海道の小樽ー岩見沢間などは、続々と「赤い電気機関車」(交流用車両)
が投入されて、近代化のモデルとなって行った。

商用交流を使うメリットは、科学的に説明するといくつかある。
成功例は東海道から始まった新幹線だ。
しかし車両が高価に着くというのと、直流区間で使われた(首都圏等)
“お古”の電車がたらい回し出来ないという、ジレンマがそこにある。

日本中が交流電化で被われたら、長い世紀にそれは、ユニティが起こるだろう。
ところが科学技術の理想主義と言うのは、必ずしも「正」が「是」にはならない。
そこを計算出来なかった国鉄時代のテクノクラートらは、日本中のあちこちに
歯抜けの交流区間を残してしまった。

けれど、山陰本線と島国・四国の鉄道は、技術過信の交流優先時代に洗礼を
浴びずに、“未開の地”であったゆえ、国鉄店仕舞い期になんと「やっぱり
直流でいこう」と、赤い機関車でなく青い機関車(直流車両)の走る路線と
なった。
これが今回の軽いギャップ/衝撃感の由来なのである。



私は赤い機関車の走る交流区間の九州で育った。
たまに広島の親戚などに行く時に、下関から青い機関車が顔を出すと
かっこいいなあ、と古い車両に憧れていた。

ところで、世界規模でみると交流電化を進めたのは広大な国土を持つ旧ソ連や
社会主義圏がずば抜けて高い。
選択の理由に「先進的である」という理想主義があったことは、2014年だから
その理由が判る。
今思うと、戦後の国鉄にも103系の3000両生産や、グリーン車という
1、2等等級の廃止など、社会主義の影響がむちゃくちゃ濃いのは、
時代の空気だったということが、ようやく判る。

表層的な社会主義の批判はやめておくが、僕らはその頃に子供として育ち
今の時代を眈々と睥睨する、当時の赤いチルドレンだったのかもしれない。



三野という町を通ると、四国が生んだ宰相・大平正芳に因んで大平通りと
商店街もないのにかけられており、在職当時は鈍牛と呼ばれ、四国に電化の
本線もないことをなじられたであろうアーウー宰相が、きっと私のような
クリティカルな分析者が通ることを、泉下で嗤っているだろうと思った。



四国中央市の一部となった製紙の町、川之江で一休みする。

隣の伊予三島が大王製紙の発祥の本拠だが、前会長の井川意高が100億円
カジノですったお金は、横を走るEF64の貨物列車ナン両分の紙製品を
パルプくずとして“熔か”してしまったのだろうかと、元気の無い通りを見な
がら、私は考えこんでいた。





新居浜、西条と来ると町の風景ばかりになる。
東予と南予といい、伊予の国はL字型の縦線の下がった地形で、気っ風が違う。
どことなくこれまでのんびり走って来たのだが、東予に入った辺りから、
クルマの運転が比較程度荒い気がするのは気のせいか。といっても
昔の関西の信じられない車線変更や、追い越し追い抜きを知っているので
驚くほどではないが、運転中ストレスに対するテンションは微妙に変わる。



西条は名前は中央で知られていないが、かなり元気のある農工業都市に思われた。
ここら辺で今治までの所要時間を考えて、出来かけの高速道路に乗ってみたら
しまなみ街道の専用道に繋がっていなくてすぐに終点であった。
今治市内を見る時間が惜しくて、すぐに連絡道路に乗ってしまった。



しまなみ街道は、高速道路ではなく自動車専用道路で、橋に着いている
歩道区間が自転車共用だ。
だから対面通行の幅しかない橋も多く、70kmくらいが建て前だ。
追い抜き区間も所々にあるので、快調に飛ばしていると、大島を渡りきるところで
左スロープからパッソの2トーン警戒車が真後ろに入ってしまった。
これでは飛ばせない。頭を冷やせとばかりに、橋を渡りきったところで
伯方島の出口で下りてみた。ところがまだ着いて来る、と頭の中の吹き出しに
「●」を描いた所で姿が消えた。Uターンして戻って行ったのだろう。



伯方島に下りたのは実は初めてであった。
昨年1度、今年もすでに1度渡っているので、これでトータルでついに
全部の島に下りてみたことになる。
「伯方の塩」で有名な島であったが、今はどこで作っているのだろう。
この島でお昼休みにして、道の駅ならぬ地場特産品販売場で、レモン類や
塩に、掘ったばかりの筍を買って、のんびり島を見物することにした。

歩いて回るのでないので、すぐに島最大の伯方港に着く。
地名は木浦であるが、番屋のような要害のある建物に気が着いた。
昔の海の検番所であったのだろう。




港は近代的で広い。すぐ横に中規模の造船所があるので、今もクレーンが
重量物をハングアップする度に、可愛らしいサイレンを音量を上げて流すので
日中は活気がある。しかし船の来なくなった港の待合室には、昼間でも
誰も居ず、売店類も一切無くなってしまっていた。



小さな島なので本当に何も無い。道脇の桜の咲いている神社に車を停めて
また少し見物してみる。
1年前のミラの旅に比べると、排気量が倍以上になったので、小さな旅の
コンパクト感が今回は薄い。
今日中に広島に着くことばかりを考えている。
日曜日の目的地の米子に、最終的に行ければいいだけなのに。
どうしようか。大三島か生口島で泊まってみようか。逡巡する気持ちに
けりをつけて島を一周してまた連絡道路に乗った。





尾道まで一気に連続橋を渡りきり、高速に乗らずに国道を使って広島に向かう。
夕刻の手前に広島が射的に入ったので、志和から広島インターまで高速を使う。
田舎ばかり走ってきたが、中国最大の都市近郊なので交通量は都会並みの
高速を駆け抜けて、何十回も下りた広島インターでETCアウトする。

母がこの町に移って来てから10年、何度呼びつけられ、感情が泡立ち、
悲しい思いで、この町を後にしたことだろう。
昨年から闘病する姉と、入院中の母を、それぞれ訪問する。
心の中は暗いが、それは一瞬の個人の気持ちや感情だ。
僕は今何をすべきなのか。それくらいは冷静になろう。

日の暮れた町を後にして、先ほど電話した岩国の叔母の所にやっぱり
泊めてもらうことにする。
都市高速を乗り継ぎ、廿日市から1区間山陽道を都会的に利用して
2号線に下りる。

明日は墓参りに行ってその足でターンして山陰方面に向かうのが最善だろう。
高齢になった叔母は元気でいてくれるだろうか。人生は本当に長い。



Posted at 2014/04/15 13:10:40 | コメント(1) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年04月14日 イイね!

春の1200kmツーリングスタート編

春の1200kmツーリングスタート編今年の彼岸は行事が多く忙しい上に
出掛ける気候ではなかった。
そこで春4月の2週目になり、消費税の変更や
人心が少し落ち着いた時期を見図り、
旅に出ることにした。

予定は4日間、水曜日までにほったらかしの
雛人形をやっと収納して、伸びて汚くなった
髪をカット。

木曜日はその他の片付けや用事を済ませて、家を出たのは午後3時半であった。

宝塚市に停めているアルトの駐車場に寄ってから高速に乗り、
最初の休憩場所を淡路島を渡った北淡のサービスエリアにした。



淡路島で日が暮れたので、夜間走行は高速にして、徳島県から香川県方面へ。
高松市はパスして、善通寺で下りて丸亀に宿を取ってみた。

いつもの安宿情報で何となくよさげな宿を見つけて電話する。
応対が普通だったら多分良い。駅前に8時半に着き周囲を走ったが見つからず
もう一度電話をして、自転車で迎えに来てくれた女将さんの後を着いて
アルファで追いかける。

いい雰囲気の路地裏の奥に、古風な宿というより旅籠のままの旅館が
建っていた。





もう9時近いが、到着後「ちょっとビールでも」というと、門限も気にせずに
ああどうぞと、いう。
場所柄なのだろうが、気風が自由でよい。
出たらすぐの所になんと営業中の銭湯があった。タオルを取って来て
そこに飛び込む。



風呂を出て9時半くらいから飲める酒場があるだろうかと、見渡すと
何軒かある。カラオケをがなり立てているような酒場はパスだ。
ちょっと外れに小体な肉料理の専門店を見つける。少し高そうだが
人の話す声もしていたので、初日の夜は、ここに入った。







歴史話の好きな店主と、バイト従業員経験のありそうな女性客と、彼女は
殆ど無口だったが、親爺と丸亀藩の歴史と、高松との文化の違いで話が
とても盛り上がる。なぜなら私は梅田のお初天神に行きつけの丸亀出身の
ママのいる店があり、「高松何するもの」の気風を知っているからである。

この小藩は京極家が兵庫の龍野から転封して、移って300年。未だに
丸亀は食文化が四国風でなく、白味噌の雑煮でないことを教えてくれた。
また赤穂の塩つくりを導入して小藩ながら、お金を稼いだこと。大石内蔵助
のつま、りくの妹が丸亀に嫁いでおり、人の行き来が多かったこと。
文芸春秋の取材の一行が店に来たことなどを、自慢して長い話になった。

親爺の手掘りのマテ貝の一品などまで食べて飲み食いの代金は2000円、
半額近く、親爺の話に付き合ってのサービスだったのだと想像する。

翌朝起きて、障子を開けて、縁側のカーテンをはらい、窓を開けると
寒ぅ〜。しかし窓の外を見て中庭の風景に驚く。この宿屋は江戸時代
からの店であろう。





7時を過ぎて、ようやくちゅんちゅんと雀の鳴く朝になった。散歩に行って来る。
表から見ると屋根瓦の厚さが本瓦で、これはすごい。



築80年でミシミシ言う私の長屋と違い、ビシとも床が鳴らないのは、
100年級以上の木造家屋でも、土台と途中の手入れがきちんとして
土壁もメンテしておれば、不安感が全くないということなのだ。


丸亀駅の付近には1980年から数度訪れている。
中でも1991年、瀬戸大橋が出来、線路が電化され高架になった直後、
この駅の近くを歩いて、ある物を見かけて驚いた。







これらは遊郭の跡である。
20数年ぶりに来たので、もう残っていないと思うが、散歩中に何かないか
期待する。駅裏の元遊郭は、殆ど更地であったが、少し残っていた。





この場所は明るい時間に初めて歩いてみて判ったが、旧丸亀港の船着き場の
すぐ近くである。
上陸後、まず女郎家に直行したのは往年の船乗りばかりではあるまい。
金比羅詣での男性参拝客、集団で「旅の恥」とお金をかき捨てて行ったのは
いつの時代までであったのだろう。



こんぴらさん、というのは明治の廃仏毀釈で危なかった時期があったと
昨夜の料理店の親爺が歴史を教えてくれた。

元々は象頭山という真言密教の寺院で88カ所にも入っていない。
熱狂的な人気を集めるのは、旅が自由でなかった江戸時代からで、
やっぱり歓楽街を経由して、船旅や道中の安全を祈願する、建前と本音の
スケベ心を満たすレジャー聖地だったのではないか。

私は古い車や珍しい車が好きなのは、希少価値より道路を走る時に
少しだけ、「こんな古いクルマに」といった、後ろめたさを肯定したくて
いや、普通のクルマ以上にこれだけ走れるのだ、みたいな、強がりな
心理があるのかもしれない。

明治の改変で、金刀比羅宮になり神格、神社化する。
しかも大久保利通という当時の権力者に、怪し気な男がすり寄って。
大神宮にもなれずその下の地位にこんぴらはとどまった。

鎮護国家や、航海安全を存在に謳うのだが、海の大鎮守は、隣の伊予の国、
大三島にある大山祇神社が、遥か昔からあるので、分が悪い。
そこで海事や海軍の守り神であることをことさら強調した。

しかし庶民信仰、場合に寄れば象頭(荼枳尼天や象の形のインドからきた
神様はSEXの象徴)だった信仰の対象が、いきなり国家宗教になっては
しもじもは白けるであろう。
だから年代とともに金比羅信仰は、熱気が冷めた。

高松、坂出、多度津らとともに、一番の船着き場を競った丸亀の港には
もう殷賑だった賑わいは残っていない。

後に残る遊郭街の外れの弁財天(厳島神社)に、廃墟と成った江戸時代の
ような狭苦しい遊郭の残骸と、命落として骸となった名も無き遊女たちを
弔ったであろう境内の石積みの小山に気付き、私は哀れな感情を催した。





太い力の籠った、寄進の石柵の寄進者名に残る男たちの名に、もしかしたら
女衒で儲けた荒くれたちのことをそっと想像したが、風が渡るだけであった。



Posted at 2014/04/14 11:25:51 | コメント(4) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年04月06日 イイね!

10年前と今。

10年前と今。2003年に初めて10万円を超える参加料の
クラシックカーイベント「ponte perle」に
出場した。

コドライバーは、毎年イベントを一緒に見に
行っていた友人を誘い、彼がエントリー料を
折半してくれるというので、懐の軽い私としては、
非常に恩に感じた結果となった。



別にfiat 850coupeなので、普段乗っているクルマであり、
特別走らせた充実感が、というようなものではない。

やっぱり、得たものは高揚感と満足感であろう。
友人は数年後から、ビンテージカーの世界にはまり、単独で
出場することとなり、人脈を開拓されていかれたので、私が
パーシュエートできる分野を超えていかれていった。

その頃と、2010年代半ばに近づいた今とを比較すると、
「祭り」の質が変わって来たように思われる。
人によっては、10年前と今と、全く暮らしの内容や質が変わらぬ
ヨーロッパの上流階層みたいな人もいるだろう。

しかし欧州の人々の暮らしも、大きく変わった。
この10年でドイツの相対的地位は、強度になり、トレビヤンなフランスは
サルコジ時代以降に、仏大統領がドイツの首相を凌駕できるほどの
影響力はなくなった。

日本はなんなんだろうと、僕は常に思っている。
あの頃の90年代を引き摺った、高揚感は失せてきているし、
一部の高収入者は、セパレートした世界観で防御して、俗称セレブ、
これも陳腐な言葉に落ち着いて来たが、まだそれを追い求めている
人もいる。



祭りはポンテペルレが終わって、東京の方が中心地に移って行ったのは
地方経済が、冷えたと言うより、無くなっているからで、仕方ない。

エントリー料を取らなかったり、1500〜3000円クラスの
旧車であれば“オールカマー”(なんでもあり)なイベントは、しょうもない
地方の村おこしに、随分使われている。実際に増えた。

私も昔から行っている、草の根系イベントがあるので、人のことは
言えない。

ただ、やっぱり余程ホスピタリティーに気を遣うか、魅力的な
中心人物がいないと、盛り上がりに欠けるし、雑である。
そして長続きしなかったり、毎年方針が変わる。

ということで、右往左往しているうちに、今度は雑誌の方がめっきり弱く
なり、情報発信力に欠けるようになってきた。
読者を巻き込んだ、“ジャック”のような面白みは、到底無い。

雑誌が音頭をとって、たくさんの人を集めるようなイベントは、
皆無になった。この10年間で使命が終わったかのように思える時さえ
ある。

いま、自動車社会や、自動車趣味に、「必要なもの」って何だろう。



クルマ本体は、何とかなる。
ガソリンは、枯渇すると思われたが、価格操作のための口実では、と
最近ではそういう説も有力になるくらいである。

結局、乗り手の人類が、愛せるか愛せないかに、関わって来るように
なってきた。
これは一番難しい問題で「愛してくれ」と男が迫っても、
女は絶対にそういう状況で心を開いたりしない。

いまはそこまで、クルマ社会は追い詰められ、追い求められて
いるのである。

超エンスークルマを探して来て、「どうだ」というのも、何か苦しい。
私はいつも、ぶれないように、ぶれないように修正をかける。
自身が3割バッターでないので、2割5分から、8分くらいの成績で
通算成績を残せたら、最後は2000試合級の結果(選手生命)にならないか。

しかし盛り上がりに欠ける人生は面白くない。



だから時々、面白いことや、仕掛けを試みる。
多岐にわたるリンクや、人付き合いのクロスオーバーは時に変化がある。

時々、F-1のような壮大なフィクションが日本に根付かないのは、
どうした訳だと、考えることがある。

あれをノンフィクションと考える人は、セナを神に例えたり、
子どもの名前にアグリとか、まあシューマッハは付けないだろうけど
フェラーリ系の名前とか、子どもが苦労しそうな世界に到達する。

今後の自動車社会、日本においては、ヒーローは出ないし、もっと地味に
なって行くだろうと思う。
そういうこの国で、自分たちの好きなことを正当化して、社会に肯定的な
市民権を維持して行くためには、どうしたらよいか。

偽善なチャリティーは時代でないし、それこそ新しい文化をひとつ、
作って行くことくらいできないと、僕らは社会の隅にもいられなくなる。
そのくらい、自動車を楽しく乗り続けるためには、不断の働きかけが
いるんじゃないかと、最近は思っている。



Posted at 2014/04/06 12:23:01 | コメント(4) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年03月17日 イイね!

(仮)愛という名の自動車遊戯のもとに

(仮)愛という名の自動車遊戯のもとに











やっと春らしく、昨日は池田も20度に達したらしい。

その陽気を体感するのは、屋外に出て、久しぶりに長時間、外の日の光の下で、
レクリエーションなど楽しめる季節が戻って来たことを、本当に嬉しく思います。

既報のように、昨日の日曜日は、グリーンピア三木で開かれた「ちっちゃいクルマ大集合」
という個人ベースの企画に参加してきました。

1997年から始まったこのイベントは、昨日の主催者挨拶で述べられたように95年の
阪神・淡路大震災が一つの契機で、震災後の神戸・阪神地区を盛り上げようと言う、
試みから始まりました。

http://www2.gol.com/users/kotaro-h/2000/2000summer/tichai.html




1995年の神戸の震災は、今とは違って90年代の「バブル以降」という醸成された
空気の中でのトラジディでした。
今で言うと「震災復興」の名のもとに、思いつき企画から金儲けまで、いろんな思惑が
渦巻いており、クルマの関連イベントでも様々な企画のスタートの結果的にきっかけに
なったと思います。

私たちのミニイベント、Vieni FIATがいち早く95年の11月に。神戸市の
フルーツフラワーパークでの、震災追悼自動車イベントが、翌年の春から。
それが1999年に大掛かりな自動車絵巻「Ponte Perle」に昇格します。

元々、阪神間の裕福な土地と、住む人々に、辛気くさい反省会イベントは向かないので、
ポンテなんて、今考えると、バブルよもう一度、(「モンテ・ミリア」の夢、再現)
のような空気さえあったと思います。

昨日も、当時からを知る古い自動車好きたちと、春の日差しの下で20年この方の、
思い出話に興じていました。



1999年にスタートしたポンテ・ペルレはパールブリッジという別称を持つ
明石海峡大橋の異名をイタリア語で喚んだものです。
そのイベントは、モンテミリアよりずっと大掛かりで、神戸の六甲アイランドを起点に
岡山から四国に渡り、香川・徳島を横断して、最後は淡路島と明石海峡をアクロスして
神戸に戻って来るという、壮大なイベントでした。

今は関東の方の、日本版ミッレミリアの方が格上でしょうが、貴族ではなく、日本的
お金持ちの集まり的な、お忍びイベントで97年にスタートしたLa Festa Mille Migliaが、
年々知名度が上がり、今では社会的に許された認知度の高いイベントに昇格しました。

それに比べると、関西は許容範囲の広い世間なので、東京のタレントさんたちも
関西に来ると「のびのび参加出来る」と言っていたと記憶します。


ポンテ・ペルレは1999から2008年の10年間続きました。
最初の頃と、後の方は、大分内容やムードが変わりました。

1999年と言う年は非常に印象の深い年で、私が30歳代を終えて40になった
こともありましたが、いろんな意味で思い出の多い、それ以前の時代との別れで
あったと思います。

ナンバープレートの3桁化移行もありました。
松坂のプロ野球ルーキーデビューの明るい話題の裏で、旧相互銀行系の銀行が次々破綻して
社会の深刻度は、随分進行しているのだと感じました。



ミレニアム前の99年は、深刻な時代が背後に迫りつつ有るのに、妙に浮かれた
気分も残っていて、1割もいませんでしたが、ITなどでバブルはもう一度起こる
と信じている人も居たと思います。

だからシビアな計算は出来なかった。楽観的にスタートしたポンテ・ペルレは
後半、クラブ活動みたいなイベントに変わり、ドレスアップパーティーは年々
影を潜めて、お座敷での忘年会みたいな食事に変わっていきました。

昨日も書いたのですが、1998か99年にCGデイウエストといい、関西での
本格的CGクラブの交流イベントが、スタートします。その最初の舞台が、
昨日の会場、グリーンピア三木でした。

この場所にも、大メイズ(迷路)やウオータープールなど、年金運用で日本が
奢っていた時代に作られたアトラクションが、いくつもありました。
また周辺の神戸市には、ワイン城、フルーツフラワーパーク、しあわせの村
といった大掛かりな土地造成施設が80年代に建設されて、神戸市はレジャー
産業や、直営のホテル事業まで、手を広げていました。


夢のよすがの残る、財政破綻も心配な神戸で、結局、草の根的な派手なことを
しなかったクルマイベントが残ったのは、大いなる皮肉だったと、感じます。

けれども私は、反省会を望んでいるのでもありません。



90年代を夢中で生きた一人として、「神戸から」を考えてみては
良いのではないか。

主催者の方は、夫婦と両親の一家で、このイベントを率いて来られましたが、
15年の間に授かった2人の命も、増えました。
また、初期に参加された高齢者の方には、物故された方もおられます。

無理矢理小さな子供3人を連れて参加し、奥さんに「日曜」を与えていた私。
その子供らは半数が大人になり、私は静かな余生を送っています。

ミドルからシニアへ。昨日は少し年上の方2名に挟まれ、懐古しながら供述
したのが、以上のような「神戸の物語」でした。

前夜からの関東や、遠来の熱心なクルマ好きたちと交流も有り、私の掲載された
ベストカーのバックナンバーも、求めて買うと言っていただきました。

みんな「アホほど」クルマが好きな方ばっかりです。『クルマ馬鹿列伝』に、
そこまで、反応していただかなくてもよかったのに…。



さて、今回思ったのは、クルマは持つより乗れて楽しむもの。
それと、加齢して行く境遇や身の回りの中で、どこを上手く折り合って
いくかでした。
最新型がいいと言う人が居ても良いけど、我らマニアは、何と向かい合って
自分の中で生きて行くのか。

自動車菌は感染力が強く、他人の影響は受けやすい。本人の自覚の無い部分でも。
考えてみると僕は、随分無責任にたくさんの人に、ウイルスを撒いてしまった
かもしれません。
しかし大半の人が一瞬でも浮かれて、ハッピーな気分になれたのなら、良いではないか。
そう思うことにしました。

クルマ愛って、なんなのだろう。

僕は、闇雲に変わったクルマの欲しかった、はしかの時代が過ぎて、淡々と
レストアを進めて、次の20年くらいを生きれる方法を、探しています。

東京に戻ることが決まった後輩が、高そうなBMWで見物にやってきて、
実家に残っていたレコードを、「どさっ」と預けて去って行きました。

不思議な哀歓を引きずりながら、私は愛のあるクルマ生活を、きっと
探し求めていくのでしょう。






Posted at 2014/03/17 10:55:15 | コメント(4) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ

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「やっぱり。言わんこっちゃない。「トヨタ、センチュリーを独立ブランドに クーペ開発でラグジュアリー市場拡大」https://x.com/i/trending/1977788758218219921
何シテル?   10/14 09:32
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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