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kotaroのブログ一覧

2013年02月10日 イイね!

NYMのスーベニール

今年も盛会だったニューイヤーミーティングから、2週間経った。

まだ寒い。しかし日差しは本当に、春が近いのを実感する。
春からは、どんな風に忙しくなるのであろう。



今年も会場を回って忙しい合間に古書を買ったり
使いそうも無いガラクタ部品を購入したり、
一つだけ、まとまった価格のアンティークを購入してみた。

写真の絵皿である。
フランスのジアン(GIEN)製のマーシャルのネコとレースカーを
デザインした少し懐かしい感じがいいので、「これください」を
言ってしまった。

家に帰ってから時間のある時に、調べてみた。

これだな。
http://www.france60.com/product/527?garitto=1


もっと調べてみるとさすがにネットの時代だから相場も分る。

ああ、いい感じ。やっぱりネコちゃんの運転するクルマは
フェラーリだった。

330だから、12気筒のP4か。
たしか4灯の方だな。
他人さんのふんどしで、資料を拝見>>>http://blogs.yahoo.co.jp/ryou19951021/6021980.html

と、いうことで、帰って来てからも、楽しめるNYMでした。



この時のウインの記念品に、S.E.V MARCHALが大喜びして、GIEN FRANCEに作らせて
配ったのだろう。

こっちは音入り



ナンギそうなエンジンだ。

ノーヘルでマニクールか、どこか走ってもいいんかよ!。

しかしこの頃のフェラーリというものは、日本に来たのはポルシェ906/910
くらいで、完全にプラモデルの世界でした。


60年代はよかったもんだ、のんびりしていて(笑)




Posted at 2013/02/10 10:42:18 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2013年01月28日 イイね!

帰り道半ば

帰り道半ば昨日は、ニューイヤーミーティングの会場で、お会い出来た皆様
ありがとうございました。

山梨県の石和温泉で、一泊して、これから大阪に戻ります。

高見盛力士の引退を見ながら、自分の14年間のことなどを、振り返っています。

このクルマに乗りだして3月で27年目ですが、会場で会ったコンテッサのオーナー
2人はいずれも35年級、私もビンテージになる迄、乗り続けましょう。


それでは、気をつけて帰ります。
Posted at 2013/01/28 08:10:54 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2012年12月05日 イイね!

1996年・マカオ

1996年・マカオ







今日は何となく
文章を書ける気がしない。
写真の旧い物を、並べてみる。







3枚のウチ一番上の写真に、初代シャルマンが写りこんでいる。







次の3枚のうちギャランラムダには少し感激した思い出がある。







カジノの前でずらり待機する、ボルボ240。良い時代だなあ。


熱帯の花。胡蝶がひらひら舞っていた。





香港から高速艇で渡ったのだと記憶する。
砂色の濁ったシナ海に、鑑真や遣唐使もこの海を見たのだと、デジャヴのような思いを抱く。

ホテルの窓辺に朝起きた娘が九龍を見下ろす。
年が明ければこの娘も成人式だ。

Posted at 2012/12/05 14:24:21 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域
2012年11月21日 イイね!

旅愁~人吉から阿蘇、再び航路へ

旅愁~人吉から阿蘇、再び航路へ人吉に着いたのは、予定より早く夕方の5時過ぎ、
日没前であった。

JR人吉駅の観光案内所がまだ開いており、宿はそこで
紹介されたところを1回の電話で予約できた。

夕食もこの時間からの宿泊なのにOKに、少し驚いた。






さて夕刻の日暮れ前に、町に進入する際に気になった社森に行ってみた。
青井阿蘇神社と言う。



桧皮葺の社殿は本州では、珍しいがこの辺りには奥地に行くと
いくつか残っていると言う。近年国宝指定された、旧い宮のようだ。



横の方から、宵闇のなか入ったので、正面の方角に出てみると
太鼓橋が架かっており、その下は枯れた蓮の群落であった。




薄暮で見えないけど、猫がいる気配がする。翌日の町史博物館で知ったが
この人吉は600年以上も同じ大名の統治で続いた藩であり、憑き物の猫騒動
が代々あったそうだ。その舞台が、この青井神社らしい。

その夜は、女将さんと話をしながら夕食を摂り、その後で近くの温泉の
共同浴場に行った。名前は新温泉だが、物すごいレトロな湯だ。



翌朝は、晴れたが冷えた朝になり、一面カーテンを引いたような霧である。



朝食前に、橋を渡ってお城跡の方に散歩に行った。
そしてここにも元湯という共同浴場が朝6時から営業している。
それにしてもすごい霧で10メーター先も見えない。



元湯にも入ってみた。値段は200円で時代の流れを超越している。
この値段で無いと困る人がいるというが、あと設備の古いままの湯が
多いのは、湧出量に限りがあり、大型私設に改造するのを禁じているかららしい。
人吉の人の「足るを知る」という考え方に、私は賛同したい。



朝湯から戻り、朝食を食べて、宿を発つ。朝からこんな優雅な生活で
ええんかいなと思いつつ、この宿は大変気に入った。
カウンター(割烹)スタイルの食事も、独りの旅には、有り難いし、
女将さんについ、大ホテルの大食堂の片隅で、夕膳、朝飯なんてこんな
ミジメなことはないよ(笑)、と本音をもらしてた。

旅から帰ると、きのう、宿からお礼の葉書も届いていた。



人吉の一夜で、しっかり疲れを取り、次の目的地に向かおうとする私に
女将さんが歴史資料館だけは見ておいた方が良いと、どうしても言うのだから
約束を守り行ってみた。城下町人吉がどのように成立したか。遠江の相良氏
が地頭になり、明治の廃城まで続いたこと。小さな山間の城下だが、肥後と
薩摩、日向を結ぶ要衡として、長く栄えた町であることが判った。
地下にある「隠れキリシタン?」かと思われる洗礼施設を思われる隠し井戸の
発見が、この歴史資料館を作らせる動機になったようだ。



名残は惜しいが外に出ると10時過ぎ。朝の霧はうそのように晴れていた。
さあ、遅くなった。きょうのうちに北九州に出るか、大分別府からの船に
乗らないと、明日の朝までに大阪に戻れない。

ここはすぐ高速に乗り熊本方面まで向かおう。九州の最奥のひとつ
秘境人吉まで来たのだから、本日は300キロ以上は走らないと。
ところが慌てたのか、トイレに寄りたくなり、城址公園のWCを出て
パワーウインドのスイッチをカチッと入れるときに、ぺキッと変な音がした。
しまった、窓が閉まらない! 早朝より温かいが、これで高速かよ(泣)。

予定外のトラブルだが、しようがない。ダイハツのディーラーを探すか。
工場よりGSで工具を借りて直してみようか。とりあえず200km以上
走っていたので、スタンドに飛び込んだ。

工具を積んでいないのは失敗であったが、工具を借りて直すのにも
ちょうど良いサイズのマイナスドライバーが置いていない。そうこういじって
いるうちに、ウインドが上に上がってくれた。途中ではとまらないが(苦笑)。

早々に出発し人吉から九州道に乗る。この近くのPAで犬童球渓の「旅愁」
を聴いたのは、2001年。米国がアフガンに「報復」の空爆を始めた朝だった
ことも思い出す。

きょうのコースは阿蘇が見たい。晩秋の阿蘇は、お金を払っても見たいと
思うシーナリーだ。
どこから阿蘇に入るか。結局時間と好みで、宮原から緑川水系に入るのは
八代で降り、3号線をしばらく北上するので見送り、次の松橋で降りて、すぐ
東に進路をとり、中央町(今の美里町)をめざす。



佐俣から先は、南熊本から来ていた熊延鉄道の路線に沿った道だ。
初めて来たのは、昭和53年(1978)の浪人中の夏。僕の記事を読んでる
18歳のクルマ好きたちにエールを送りたい。
なお、昭和39年(1964)に廃止になったこのローカル私鉄については
このサイトが一番詳しい。管理人は地元出身の友人氏である。

この218号線ルートの魅力は3つ。
阿蘇外輪のはるか背中を走るルートで、阿蘇の魅力は遠いが、
緑川水系の魅力と文化は、とても濃い。

古くから知られる順に書く。まず廃線マニアには、鹿児島交通知覧線と
並んで難易度の高い、熊延(ゆうえん)鉄道の幻影と延岡への遠望がある。
実際の終点は砥用(ともち)という延伸を諦めたような山の中の町だった。
せめて馬見原(まみはる)、今の山都町(旧蘇陽町の中心)まで行ければ
大言に終わらなかったが、元々この交通区間に鉄道を引くのは難しい。

2番目に、肥後の石匠と言われた、見事な石積みのアーチ橋群である。
通潤橋と零台橋は以前から有名であったが、路傍の名もない橋たちを
観察するのは、本当に心が和む。
鹿児島市と長崎市は市街地に残るが、九州の石橋はあと宇佐奥地の
院内地方と一部、国東半島の付け根の旧豊前街道の国道10号線沿いに
残る。
九州に石の文化が濃いのは、昨日の薩摩の武家屋敷でも見られたが、
阿蘇や桜島が噴火して火山岩がごろごろした所に、長い間に人間が開拓して
住んだから。それと台風が強い場所なので、丈夫な石造の構築物が
要求された。それが石仏などの宗教目的から、石橋に至ったと思われる。

最後の3つ目がこれから観光資源になると思うが、最奥地にある水源地帯
である。清和高原、井無田付近の星空と水の沸く地帯の環境を大切に
考えることが、グリーンツーリズムだと思う。
この阿蘇外輪の麓には、吉無田官山といい、木を植えて水源を作った
先人たちの文化史も残っている。通潤橋のサイホン構造と、田畑を灌漑
することの大切さを、エネルギーと食料問題を考える世紀にこそ、ただ車を
走らせる観光から、一歩踏み出していただきたいと考えるゆえんである。

先程の写真の大窪橋を過ぎて、ほんの僅かだが廃線跡の細い道を
走ってみる。
これは当時の鉄橋の上が道になって、砥用終点に入るあたり。




さて、のんびりもできません。山道を駆け上がって奥地奥地へと進みましょう。
まもなく行くと零台橋が見えてきます。そこからさらに県境までの半分進んだ
ところが旧矢部町です。写真を見てもらうと、宮崎との県境、こちらは高千穂の
峰を遠望できますが、何と南九州に雪の降る季節になりました。



壊れていた窓は、何とか閉まったり開いたりしていますが、セーフのようです。
(笑)
旧矢部町を過ぎ、旧蘇陽町に入りました。馬見原という所は熊本-宮崎の
県境の村です。九州産業交通のボンネットバスが、熊本駅-馬見原間の
運行から引退したのが、昭和53年(1978)9月だったと記憶します。
これが九州最後の定期運用路線バスのボンネット型使用となりましたが、
当時見ていないのが今も惜しまれる。それと、この路線バスが当時、特急や
急行で無い九州最長の運行であったと思います。

といいつつ、馬見原まで行かずに、少し手前で国道265号線に抜ける
ショートカットを抜けて、阿蘇に向かいます。



晩秋の阿蘇外輪山を越えてゆきます。気温は12℃。前を古いセルシオが
走っていきますが、よく晴れた日で、寒さは感じません。

高森峠に近づきました。ちょっと停めて阿蘇の写真を撮りたくなりました。
ギザギザした山頂の山は猫(根子)岳です。





高森を過ぎて、いよいよ外輪山の風景をカラー3枚で、お送りしましょう。







国道から少し外れた牧草地。辺りでは牛の首につけたベルが風に乗って
聞こえ、モーモー鳴く声がのどかに耳に入ります。
こんな昼下がり。何も考えずに、じっと秋の深まるのを待ち、やがて牧草
の上に霜や雪の降る季節もやってくるのですが、そこは九州の高冷地。
深刻さはそれほどなく、春の来るのは3月ですから、4ヶ月ほどの冬です。

野焼きの季節にオープンで走ると、髪の毛が焼けそうなシーンもあるの
だけど、底抜けに笑いたくなる。これが阿蘇のドライブなんです。



野アザミの季節も、もう終わりですね。

国道265号線は、坂梨というところで57号線と合流し、終わります。
北半分は風光明媚な阿蘇の道ですが、南半分の難所については
機会を改めて紹介いたします。

いよいよ別府阿蘇横断道路、やまなみハイウエイに入りました。
平成の頭の頃にはまだ、有料だった頃が懐かしい。
高速道路以前の、有料道の中で、洗練された国際級の観光地を貫き
当時の方が有料ゲートに入ると、華やかな雰囲気がありました。
往年のドライブイン、懐かしいリゾートホテル。



セレブとか、そんな言葉のかけらも無かったころ、海外旅行以前の
贅沢な人たちも、やっとマイカーを持った人も、バスで団体旅行する修学
旅行生たちも、この道を駆け抜けた思い出は多いことでしょう。



僕らの幸せとか、旅する喜びって、どこに行ってしまったのでしょう。
うっすらとその香りの残るこの「ハイウエイ」(1964年6月開通)を走り
ながら、遠い遠い九州の地から、夢が覚めていく時間の変遷を辿る
旅も終わりに近づきました。



去り行く季節と、見返りながら遠ざかる阿蘇の後姿に思いを馳せてこの旅も
そろそろ終わりにしましょう。



湯布院へ駆け抜ける道は遅い秋の装いと、冬支度を感じさせました。



湯布院から高速に乗り宇佐に出て、10号線とバイパスを繋いで70km。
北九州に着くと週末の渋滞が待っておりました。
週末の20:00出港の船に乗り込んだときは、もうくたくた。
本日は345kmくらい走ったのでしょうか。殆ど下道で。

九州をめぐる1000kmの旅を終えて帰ってきて、すごいとは思いません。
ただ、昭和53年頃から、何度も走ってきた道を、30年経った今辿る意味。
それもいつまで、と問われても、まだ走れるうちは走ってみたいと思います。
新しく発見した道と町もありましたから。

男は迷ったときには「とりあえず1000km走ってみよう」で、何かつかめるかも
しれません。
よく走ってくれた、2000円MIRAには、感謝です。

お疲れさん。

Posted at 2012/11/21 14:43:09 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域
2012年11月20日 イイね!

耳を澄ましてごらん~島原から天草へ

耳を澄ましてごらん~島原から天草へ島原の一夜が明けたのですが、夜半に寝返りも打てずに
まんじりとも出来ませんでした。
というのも、島原外港駅すぐ横のユースに泊まったのですが
相部屋になり、お相手が外国人、僕が9時に戻るともう部屋は
就寝モードで、気を遣って、そうっと風呂に行くと使用中。
遅くに風呂にやっと入れたのですが、換気扇が壊れており
ずっと風を吸い込む状態で停まりません。猛烈に冷たい風が
入ってくるので寒くてたまりませんでした。

翌日外国人さんは6時過ぎに起きて、早出の支度。
あたしも7時前にシーツなどをたたんで、朝食後にすぐ出られる
ように、準備しました。
その間携帯で、サイトをみると返事もしたくなるのですが、
なんだかなあの一夜が過ぎて出発。しかし南に行くのか、
熊本に船で渡ってこのまま帰ろうかという気持ちもあり、
はっきりしないまま国道を少し南下した時点でコースアウト。

海の見える空の下で、心も身体もフリーズしておりました。



1時間近く、動きたくない気持ちが続いたのですが、空が少し明るく
なってきました。そうだやっぱり旅を続けようと、ミラを少し走らせると
道の駅の裏手に着きました。いや道の駅よりもう少し大きな観光施設です。
そこに入っていくと、雲仙大噴火の記録映像を見せてくれる場所があり、
有償というので、これは何となく見ておいたほうが良いと思い入りました。

1990年8月に、妻と二人で旅をしたときは大噴火の前年でした。
91年の5月から大規模な噴火が始まり6月3日に43名の命を奪う
大惨事が起きるのですが、ウイキぺディアの雲仙岳の記述でこの部分を
読むと、マスコミ批判が喧しく書かれており、こういう見方もわからなくも
ないが、と思いました。
というのは、この取材に行かなかったある記者のことを知っており、彼は
一人息子だったのか、お母ちゃんが社に「頼むから行かさんといてくれ」
と電話してきて辞令を拒否、これで社内では笑いものになりましたが、
今も古参の記者として働いております。

私の脳裏は、噴火の溶岩が家屋を飲み込む映像を見て、昨年の震災と
津波以上に、1995年の阪神大震災を思い出しました。
あの時は泊まり勤務で大阪で仮眠中。私の家族は妻と子供2人が巻き込まれ
家は傾き半壊、(後に全壊と認定)、裏のアパートはペッちゃんこに倒壊、
家族の生死が半日わからない状態で、早退しました。
あれから17年経ちましたが、生きているのだから、「ええやんか」でいいの
ではないか。ここにやっと旅を続ける気力が戻って来ました。



亡くなった方へのレクイエムは忘れてはなりませんし、身内を亡くされた
方の痛みというのは、察するに余りありません。ですが、生き延びた人間の
勤めと言うのはこういう風に旅をして、ものを思う。それも一つの人間の
果たす役割でないか。
島原湾に沿った道を再び走り出し、そうだ、懐かしい天草に渡ろうと
決めました。こうやって私のように何度も九州の道を走っていると
記憶のシークエンスが甦り、それを紡いで記録に残すのも、何かに
繋がっていくような気がいたしました。それにつけても、この拾い物の
軽自動車の好調なこと。道中道路わきで、今は動いていないナンバーの無い
クルマたちをみかけます。
この車は12年落ちで、そろそろ引退の運命も来ていたのかもしれません。

復活できた喜びに、これだけ応えているのなら。予備役に甘んじている
わたしにも、いつか復活の喜びが訪れるかも、と思いました。
走り出して1時間。天草への船が出る口之津の町と港が見えてきました。



出港までジャスト20分、素晴らしいタイミングでMIRAは港に滑り込みました。
小さな船です。一応バス程度までは積めますが。天草の鬼池港まで所要時間
30分、料金は2100円でした。地元の人々がしょっちゅう使う海の上の道です。
これ以上高い設定は出来ないのは親会社が島原鉄道直営のフェリーゆえ
でしょう。こういう心と交通機関が接近できるような小さな旅を、経験の無い方は
是非一度チャレンジしてみてください。何かが変わると思います。



船が出港しました。



私の頭の中には天草の海というと、どうしても「藍より青く」の
オープニングの海の色が思い出されてきます。
1972年と言うから、今からちょうど40年前のNHKの朝ドラの
主題歌が、流れてきます。



天草の港はいくつかありますが、島原口之津から着くのは鬼池港といい、
旧五和町になります。ここからまっすぐ東海岸線を南下すると、旧本渡市で
天草の玄関であり中心地だったところです。



しかし天草の美しさは夕日の見える西海岸だと、私は思います。
これから、通詞島、富岡、淋しい海岸線に沿った道が長く続くと
やがて高浜と下田温泉で少し人のいる里になり、あとは大江と崎津と言う
二つの天主堂のある村を通り、最後に河浦町で本渡から南下する国道
266号線と合流する。それが頭にある西海岸の印象でした。

陸に上がるとすぐに走り始めましたが、苓北町富岡を過ぎると何か
勝手が違います。1978年に来た頃には噂に上り、1991年の旅のときは
着工目前であった火力発電所の存在です。

1995年に運転が開始された熊本県でも最大級の火力発電所は、県内
でも一番人里離れた淋しい海岸に作られたのでしょうか。
どうやら豪州産の石炭を海上輸送して、エネルギー転換しているからの
ようです。

火力発電所のおかげで、海に沿った道は格段に良くなりました。
途中にあった下田の町は、トンネルを出るとすぐに橋になり、町の
中央を車が通らなくなりました。昼飯は無理かなあと思っていたら
レストランを発見。



このエビフライ定食が1000円で、周囲のおかずとご飯はお代わり自由。



ところがこのブルーガーデンと言うレストラン、美味しい料理のお礼を
言ったら、何と今月いっぱいで閉店とのこと。残念です。

せめて、この海岸からの夕日を見てください。



しかし美味しい昼食のおかげで格段に力が出ました。
天草の後半部分は道路が良くなりすぎて、大江の天主堂は車から
遠く見るのみ。崎津の方は、入り江に降りていく道も通らなくなりました。



橋の上から見た天主堂のある崎津の光景。
大昔は入り江に沿った道を、何度もハンドルを切り返しながら進んだ
ものでした。発電所が出来て道は格段に良くなったのですが、過疎は
避けられないテーマのようです。昔が良かったとは、簡単に言えないの
でしょうが。

牛深港に着いたのは午後の昼下がり。こっちはもっとタイミング
ぎりぎりで出港10分を切りかけていた時間でした。
無理して間に合わせたのでなく、偶然です。次の船までは1時間以上
ありますので、よろけながらも車を降りて、切符を買いました。
船の中で30分休憩!。



このフェリーが着くのは、鹿児島の蔵の元という港で、こちらも料金は
2100円でした。着いたところから鹿児島へのメインルート、3号線までは
結構あります。気がついたら、もう鹿児島県までMIRAは走ってきたわけです。



後はこの旅はどこまで行くか。どこで完結するかでしょう。
そろそろ今夜の泊まる場所も考えねばなりません。
熊本に人吉という町があります。肥薩の国境に面した旧い町で
ここに一度泊まりたいと憧れていましたので、そこまでどうやっていくか。
道を南下すると阿久根市に出ます。もっと南下するとさつま川内、
ここから山間に道をとり、宮之城、大口と通って宮崎県えびの市に
出て高速で人吉か。遠いなあとくじけそうに。

もうちょっと地図を精査すると、阿久根の同じ緯度の右手にある
出水市から、薩摩大口に抜けて、さらに大口(現伊佐市)から人吉に
出られる山道があるのに気づきました。

よし、これなら最悪3時間でいけるだろうと、腹をくくりました。
MIRAも走れるくらいの悪路を想像しました。

今は鹿児島県長島町という島の中で、黒之瀬戸大橋を渡ると
本土になりますが、手前の道の駅で休憩をとりました。
さあ、疲れは感じていますが、昨日の轍は踏まないようにと。

橋を渡ると高尾野町。大昔鹿児島本線の高尾野駅に寄ったことが
ありますが、今回も鹿児島線の駅に寄って一息つくことを目標に
しました。しばらく行って国道から斜めにカットする道を見つけて進み
ます。うまいこと鹿児島線の野田郷駅に出ました。



時間は午後3時少し前です。こんな小さな駅ですが、周辺には出水市に続く
街道も通り、国道から少し離れていますが町に風格もありそうです。
ところが駅に入線してきた列車を見て、衝撃を受けました。



かつての鹿児島本線は第3セクターの肥薩オレンジ鉄道に降格して
架線があるのに走ってきたのはディーゼルカー1両と言う状態に。
新幹線を(無理して)走らせるというのは、こういうことかと思いました。

野田郷クラスの駅だったら特急や急行は停まりません。
しかし手元にあった1984年の時刻表を見ると、東京から直通の特急
「はやぶさ」もこの駅を通りますし、鹿児島を12:39に出た上り134列車が
ちょうど14:52に野田郷に着いて、終点熊本には18:32に着く。
今は川内-新八代間だけの区間運転のみになりました。
ちなみに架線が張ってあるのは直通運転をするJR貨物の電気機関車の
ためなのですが、酷い話と思いました。

採算重視?、政治的な解決?、こういう劣化する地方を一方で見て、
一方で発電所の見返りで道路が改良される地方。僕が高校生で歴史的
経緯と現実を理解できる年齢だったら、古里を恥ずかしく思うだろう。
駅前の地方銀行で働く女の人。ATMで都銀口座から今夜の宿泊費を引き
出した私に「ありがとうございます」と言ってくれました。

良い仕事に就職できましたね、と言われているのでしょう。でも同じ九州人と
して悔しくてしょうがありません。どうせ私はさすらいのロック野郎です。

怒っていてもしようがありません。この後この日の一番良かった場所を
紹介いたします。鹿児島県出水市に今も続く旧武家屋敷群です。

これは先ほど述べた出水から大口に抜ける道に近い、市街地でも
高台に近い中心地でない惣村を思わせる地域にあります。



薩摩の士族は郷士といい、半分在農の集団ですが、屋敷には築地でなく
下が石組み、上がまがき(生垣)で囲った屋敷を構えます。知覧などで
見たことがありますが、ここ出水市では観光対象に殆どならず、そこに
150年以上営々と武士の子孫が住み続けているのが印象的でした。

どの家も手入れがよく、決して華美な今風の建て方に再建しない。



門構えが残っている家も多く「二階堂」「壱岐」といった表札を見ると
思わず唸ってしまうのは、私が歴女ならぬ歴史おじさんだからでしょうか。



もっと武家屋敷群を見ていたかったのですが元気に遊ぶ下校後の
小学生の子供らを見て、30分弱で、この地を後にいたしました。



全長30km足らずの山道を一気に早駆けして大口(現伊佐)に出ます。
風景はちょっと変わっていて、肥薩線の大畑のループを通ったことの
ある人でしたら、似ていると思われるでしょう。九州中央部の屋根の
上に出たみたい。きっとこの辺の地形も焼き畑系なのでしょう。
薩摩武士の早馬も駆けた道なのでしょうか。

大口では昔、山岳鉄道の国鉄山野線と宮之城線が接続する、中国地方の
芸備線の備後落合のような宿駅の町の佇まいがありました。(1978年訪問)
残念ながら両路線とも、昭和末期に廃止になり、今は昔鉄道の通っていた
町のよすがは跡形もありませんでした。

鉄道時代の航空写真をウイキから転載いたします。



変わっていく古里。今は伊佐錦の焼酎で知られる薩摩大口ですが、
昔はそこそこの山間部の拠点と言う佇まいがありました。
この後もう一度山を越えて本日の終点、人吉に到達するのですが、
この記事は、ここまでにします。



Posted at 2012/11/20 12:22:37 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域

プロフィール

「暴論と思うが日産をトヨタが救済することは無理だろうか http://cvw.jp/b/176891/48492730/
何シテル?   06/18 16:04
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
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2014/05/11 05:49:46

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