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2012年08月17日 イイね!

瀬戸内海

瀬戸内海













お墓参りの帰り道、
日暮れる海で泳いでみた。

何も持っていなくて、海パンひとつ。
体についた塩気を洗い流すのに
持参したペットボトル2本の水で洗ってみた。

気持ちが良い。

今年の夏もこうして
古い脳裏にしまいこまれてゆくのだろう。



レンタカーの窓を開ければ飛び込んでくる
夏の海風。
土ぼこりをあげながら叔父のアローコロナで
海沿いを走った日から45年以上の時が流れ
今年もこうしてこの海岸線を走っている。



いつの間にやら昭和が過ぎて20と4年
来年もおそらくこの海に沿った道に
来ることがあるのだろうか。



Posted at 2012/08/17 06:52:10 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2012年07月28日 イイね!

真夏の旅

真夏の旅








青春18切符で団体で旅行中です。
今は、関ヶ原付近を通過中。

窓の外は緑が焦げるような色をしています。
Posted at 2012/07/28 11:59:12 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域
2012年07月05日 イイね!

今年初めての海

今年初めての海梅雨空の下、淡路島に発作的にドライブして来ました。

海パンもって、昼から出かけ、
そして午後の誰もいない海で、
おじさんはひとり泳いでみました。



水曜日はお休み。
家に居て、家事の傍らブログ書いて、
あと病院やマッサージ、お買い物
夜になったらお酒を飲んで、そんな毎日。
でもちょっとこれではイカンだろうと思ったのです。

昨日は梅雨の中休みの暑い日射し。昼から
最近海パンを買い直したので、泳ぎに行ってみようと思いつきました。

昨年の夏、若い夫婦が海に誘ってくれるまで、何年も海で泳いでいませんでした。



850に付いていた一体型ETCをアルトに移植し、軽用に書き換えてもらい
自分で取付けて出発したのは正午から下がったヌーン。
もう池田から高速に乗って、シンデレラリバティーの気分です。

豊中で名神に乗り西宮終点でまた都市高速、神戸の市街地は
すっ飛ばしましたが、若宮で高速を降りて一般道へ。
このゾーンを右にカーブして高速で月見山に行くのが嫌いなんです。
事故も多いし、道の付け方が「気」が萎える構造になっていて間違ってます。

須磨の海岸通りに降りて行くと、ほんとうにホッとしました。
磯の香りする海沿いを走っていると忘れていた感動が戻ってきて
「これだ」と涙が出そうに。

私は肉体は病気ではありませんし、精神もウツにはなっていない。
でも人間を50年も生きていると疲れて来ますよね。
その疲れってなかなか簡単に取れるものではありません。
ゴーギャンがタヒチに転地療養したのと同じように、僕ら現代人にも
イミテーションでない本ものの感動が欲しいのです。元気をくれる何かが。



国道から明石海峡道路に乗り移るのに時間がかかりすぎ。
真下からくるくるループ線とETCスマート入り口を
早く作れば、利用客も増えるし、歓迎されると思います。



2時には淡路島のパーキングかなと思ったのですが、少し遅くなりました。
ここで持参した手製の弁当(自炊の残り物)を食べていると雨が。。

ちょっと気になる車発見。
遠くから来ていた静岡ナンバーのプジョー1007の女性車。
こっそり降りたあとにクルマを見に行くと、前のダッシュに
ワンピの人形がずらり! しかしあれはあかん。
集中力がかけるし、足元に落ちたら事故の元でっせ。



高速を降りると山の中を走りました。緑が目に優しい。
そして西海岸に出てみました。



最初の海はこんなところ。



砂浜部も潮がちょうど引いていて、これでは泳げませんねえ。



でも、こーゆーの見ているだけで
癒されるなあ。



3カ所目くらいに、やっと良さげなところを見つけました。
江井と言う港町でした。



船だまりの横を通って行くと砂浜が。

ここで写真の比較。上がデジイチについていた現在のデジカメズーム。



下が昔のマミヤ製の58mm開放値1.7のレンズです。



ズームレンズは設計上、多少の無理と言うか収差がでています。
それにしても硝子レンズというのは、すごく性格の良い設計ですね。



開放周辺で遊ぶ。



海は日暮れて水が冷たくなったので、あがりました。


蔓草系。浜木綿でしたっけ。



これもマミヤのf1.7ほぼ開放。

そんなわけで、海水浴地の下見みたいな探訪でしたが、楽しかったです。
そのあと観光客用の野菜販売と、コーナンがやっている「ふるさと直販」で
野菜や家庭用に米を買いました。

お土産は淡路島の特産玉葱で家に帰って近所のバーでマスターに
「はい、淡路島のタマネギ」と言って渡すと、隣にいたご夫婦の
奥さんが懐かしそうに。
よく話を聞くと私の友人の故郷の2軒隣のご出身でした。
赤ちゃんのときに、彼を抱いたこともあると懐かしそうに。

そこまで言うので酒場で携帯は私のモットーに反するのですが
ほんとうかな?と悪戯心がむくむく。
この続きはまた、彼が大阪に帰って来た時に、ご対面を企画することと
いたしましょう。

それではきょうは仕事日なので、このあたりで。


Posted at 2012/07/05 07:12:38 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2012年04月18日 イイね!

スーパーカーの来ない旧車行事<続>

スーパーカーの来ない旧車行事<続>長くなりましたので、2つに分けます。

趣味と言うのは何のためにするのか。
敢えて目的はないのですが、後から考えると
人の心や、身に付いた人徳のようなものを
少しずつ豊かにして行く。そんなものではないでしょうか。

もの心の着いたときより、小3くらいで切手収集に
目覚めたあたりから、僕はこれで一生やっていこうと、
決心していました。


道を究めんとすれば、最初モノに行き着きます。
モノが手に入れたければ、等価交換という方法か
カネによって入手するしかない。
よく、すごく頑張っている人のお話を聞く機会があります。

でも私はお金のない子供時代から、趣味の道について
考えました。ずるいことや悪いことをして手に入れたいものを
手に入れても、それは曇ってしまうのです。
マイダスの腕ではありませんが、ゴールドに狂っても
仕方ありません。
それならどうしたら良いかというと、真に欲しいものが
出て来るまで自分を育ててじっくり待つのです。
でも真に欲しいものというのが、一番難しい。それが
何かと言うのが普通判らないからです。
ランボルギーニ・カウンタックなのか、ディノ206なのか。
そんな判り易いものが「欲しい」というのは或る意味微笑ましいのでしょう。

私のように20代でフィアット850クーペに出会えてずっと
乗り続けるということは、いろんな幸運とその後の姿勢の
面で、示唆的な意味があります。
できれば田中むねよしのボルナツより、柳むねよし(宗悦)
の「蒐集物語」の方を、読んで欲しいですね(笑)。


さて米子の話題に戻りましょう。

2007−2008のポンテに参加して、一番の収穫は、岡山県の
真庭郡に、市制移行の時に「光栄ある孤立」を守り通した
新庄村という桃源郷のような村があることを知りました。
ぶーちゃんと「あそこは良かったねえ」と反芻したくらいです。

ポンテ終了後も、後番組のバリオストラーダと言う自主開催の
アングラ劇が2年続きましたが、3回は持たず、昨年は有志で
ツーリングドライブするだけという程度に止まりました。
岡山県下は別に、山陽新聞が何とか事業にしろ!とスーパーカーを
持って来て、なんかやっているようです。
それはチビッコのアトラクションならいざ知らず。ヒストリックカーを
大掛かりに連ねて走る意味は、まだ美作の地では、文化に至って
いないのだろうと思われます。

失礼かもしれませんが、辛い意見と言うのはこういうものなのです。
近接した香川県にかかる、小豆島のヴィンテージイベントの存在が
昨年まであり、これも田舎のエゴ剥き出し合いのひとつでした。
調整が出来ないから、勝手に春に同じような趣旨のイベントが
バッティングする。大阪出発点のラフェスタ・プリマヴェーラという
イベントも、神戸時代のポンテの翌週でした。
これって両方出ている人は2週連続の精神的自慰ですよね。



1999から2008までのポンテペルレは、一つの時代を創りました。
後半はかなり自主開催色が強く、神戸市とJTBが離れていきました。
でも私は後半を評価しています。

2008年頃からの混乱にうんざりしていた私は、昨年から米子に
遊びに行くことに決めました。
春先には以前は神戸の「ちっちゃいくるま」などの国産小排気量の
イベントがあったのですが、フィアットフェスタも6月に代わり、
春の「番組」が無くなったと言うことが大きいです。



昨年は、鳥取で海側に出てしまい、そこから西の海に沈む夕陽を
追いかけながら、ひたすら倉吉、大山の山麓、米子と走り抜きました。



そして親しくなった旧友の家に泊めてもらい、歓待を受けました。
今年は開催時期も4月になり、桜の見られる季節が重なりました。
あの時の岡山県下のコースが、ちょうどその時期であったことを
思い出させてくれます。




そうして迎えた15日当日朝、米子の町にある旧米子市庁舎と
現在使われていない、村野藤吾という建築家の作品である
公会堂を見て来ました。





昭和初期の旧市庁舎は、その頃の町の勢いと、少し気負った国威
掲揚の背伸び感が感じられ、反対に、にっこりしてしまいます。
戦後昭和30年代前半の公会堂には、村野藤吾という一流建築家に
依頼した市民の「あすなろ」感が詰まっており、何とかこの建築を
再生して欲しいと思いました。しかし耐震基準や、老朽化の問題は
明るい時間に初めてみて、はっきり感じました。
取り壊して造り変える以上の費用がかかっても、この建築が残される
価値はあるかもしれませんが、建築家はボランティアではありません。
安藤忠雄級の建築家に全面改装を発注できないと、このユニークな
表現主義の建物は、生き返らないと思います。
それだけに負担はどうするか。チボリをつぶしてしまった倉敷市と
米子は、格の似た、准県庁所在地級の町なのです。



会場に着きました。旗が崎地区にある米子自動車学校は
公会堂と同じ時期の昭和30年代の前半に設立されたそうです。
国道9号線が舗装化され、山陰の動脈が完備されました。

昭和36年には、山陰本線に特急「まつかぜ」が走り始めます。
米子は鉄道管理局のある町になりました。山陰線東半分を担当する福知山とともに
中部と西部は米鉄が責任を持ち、特急を走らせられるだけの「市」に昇格したのです。
市内の後藤駅横には、真新しい「まつかぜ」用のキハ80系や急行用58系を
整備出来る後藤工場が近代化され、「まつかぜ」には食堂車も連結されました。
高校を卒業する地元の女性は、食堂車のウェィトレスとして働くことを夢見、
工業高校、高専の生徒らは、後藤工で新しい時代のディーゼルカーを整備したい
と勉強に励みます。
1本の特急列車というスジが走り出すことで、東京や大阪という都会に出て行ける
という直接の影響だけでなく、雇用から町のプライド上昇まで、夢の広がる幸せな
時代でした。僕の好きな鉄道の物語は、こういった人文科学的な歴史性なのです。

反対にいま、一番足りないものは、夢であり、希望であり、プライドであります。
特急列車に何かがあってはならないと、管理局長も、駅長も、保線区員、工場の
技術者も、食堂車の女性従業員も「自分の職場」では、責任を持って働きます。
働くことが、ぼやけた目的性の行為に墜ちたために、日本は原発事故をはじめ
のたうち回っているのではないでしょうか。



おりしも昭和40年ころには、全国を“巡業し”テレビ放映のありがたさを知らしめた
NHKテレビの「ふるさとの歌祭り」が米子から中継されたのを見た記憶があります。
きっとあの会場は完成して数年の、米子市公会堂だったのでしょう。
宮田輝のファンだった少年は、「よなご」という地名をその時から覚えて、
家に何時も置いてあった時刻表で、その位置を確認したものです。

あと、大山山麓の母里や法勝寺方面まで出ていた、法勝寺電鉄が昭和42年頃に
ひっそりと消えて行きます。法勝寺電鉄は晩年、米子発祥の日ノ丸自動車の
鉄道部門でした。
鳥取には、大阪と複本社制を敷く日本交通と日ノ丸自動車という名前だけ聞いたら、
どこの会社かというような、壮大な名前のバス会社が2社あります。
イベント会場の鳥取自動車学校も、バス運転手の需要も設立目的の一つで、特に鳥取は
高速道発達以前から、ロングラン路線の運行には意欲的で、鉄道の好敵手であったこと
(今も)ということを、付け加えておきます。

ところでこういった、地方都市での旧車のイベントに、本当に相応しいのは、
懐かしい昭和の時代の国産車なのかもしれません。
しかし、これが難しいもので、都会だとびっくりされる、パブリカやスバル360に
しても、地方だと「ほんのちょっと前まで、ゴロゴロ見掛けた」ということで
イベントのアトラクションにならないのかもしれません。

では何を持って来るのがよいか。
岡山が単純にスーパーカーというのなら、山陰鳥取の意地で、渋めの外国車を
集めてくる。偶然こうなったのかと考えさせられました。



実はこういったエキゾチィックな外国車趣味は、一旦都会に出て行き
また故郷に戻って来た、昭和40年代生まれくらいの人たちの共通項なのでは
ないかと思うのです。
「山陰にあるアルファ全部が来ている(笑)」といった関係者のコメント
だけではなく、元々地方出身者である私の外国車趣味も、大学生でいた京都から
始まっています。

そんな中に秘めた情熱とでも言いましょうか。抑えた渋めの通好みというのは、
最初の章に書いた、主催中心人物の方の趣味、ベータトレヴィ好きというあたりに
実に反映していると思うのです。
裏日本という言葉が差別的と言いますが、私は禁欲的な快楽主義とでもいうような
松江の松平不昧公を出したような、山陰的な渋い通好みの枯山水が好きです。

ちょっと長くなった項でしたが、以上のような分析が私の山陰研究であります。
また何か感じることがありましたら、感想をお聞かせ頂くと、幸いです。


Posted at 2012/04/18 03:29:31 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2012年03月24日 イイね!

岩国と防府

岩国と防府トップ画像をしばらくは、錦帯橋に変えた。




月曜の朝、デイサービスにいく叔母を見送り、基地の街を出発する。



時間を稼ごうと、高速に乗ろうと思うが、その前に岩国の名所の
錦帯橋の近くを通ってみようと、錦川に沿った川沿いの道に入ってみる。



梅がやっと満開である。
最近の岩国というと、弘兼憲史の漫画、島耕作であろうか。
路線バスの後部いっぱいに島の男前の顔が描かれているのに
後ろから付き合う羽目になり、苦笑する。
いつのまにか島耕作も山口県生まれになったらしい。



あんなに女性関係が奔放なのは、その昔の夜這いの風習でも
あったんじゃ、なかろうかと思われては、長州人は後ろ暗い(爆)。

岩国の殿様は、毛利の分家、吉川(きっかわ)である。
名君かどうかは、ひとの判断に任せるが、この錦帯橋が
江戸時代に出来て、何百年もの間に、知れ渡ることになる。

ただの木造の五連橋といっても、これだけの岩国を知られる
結果になったことは、後世の評価に値する。
すぐに結果を出そうとする、21世紀にもなっても拙速な社会だが
本当に大事なことは、思い切ったことが出来る人と、じっくり
考えて行動に移れることではないだろうか。
決して箱根級の名所や国際観光地でもない岩国に、いちばん
風光の良い地にこの橋を造ったという遊び心が、今に続いている
財産や観光資源なのである。作った当初から目論みがどのくらい
あったにしろ。

徳山(周南)の手前で高速を降りる。
出光石油の石油精製基地で、昭和30年代末から、40年代いっぱい、
おそらくは50年代、昭和の終わりまで、山口県下で一番、景気の
良かった街である。
山陽新幹線の駅も当初から設置され、父の出た柳井が新幹線が
通らなかったため、あっという間に寂れたのに対し、地の利に恵まれ
栄光の時間も長く続くと思われた。



山側の市街を一気に眺望する国道バイパスを通過する。
まだ高速道路も夢のような時代に、膨大な補助金と、企業からの
税収でこの道路が造られた日の、徳山市民の誇らし気な気持ちを
想像してみる。
栄光の徳山の名も捨て、周南市となったが、新参の新南陽以外は
隣の下松も、その隣の光も靡かずに中途半端な合併に終わった。

まだ駅の名は徳山のままだ。反対に長く親しんだ小郡の名を捨て
新山口になった小郡駅とともに、考えさせられる、改名ドラマの裏に
市民感情は、不在だったとは、言えないか。


古都、防府が近づいて来た。

山口県人に取り、押し込められたような山口、徳川にいびられて
追いやられた萩に比べ、古来からの良港であったこの街は
心の故郷のように明るい。新幹線の駅もないのに、いまでもくすまぬ
不思議な、佐波川の河口に開けた歴史豊かな周防の国府なのである。



道路脇にこんどは加藤鷹がこちらを見ている。
不自然なあの歯の白い人は、誰じゃろねーと、こどもやおババに
聞かれたら、加藤隼戦闘隊の関係者とでも答えておこう。
夜の撃墜王というポルノ小説も昔あったっけ。




防府市内に入った。今度はEDである。カリーナイーディーに3ナンバーなんか
あったっけと、不思議な気分だが、あるんだから、これはきっと
4Sの上に、2.4くらいのエンジンがあったのだろう。

島に着いて、橋を渡る。
幼い日から何度か訪れた母方の先祖の土地である。今年も彼岸桜は
咲いたかなあ。



桜は今年は5部咲きと遅い。春は名のみの向島小学校の寒桜。


何を隠そう、この小学校を作ったのは、私の母系の曾々祖父なのである。
学校の沿革史による。

その人の名はあと、ここの65番目に出てくる人である。



残念ながら、5年ぶりの訪問も、満開には出会えなかった。
それでも心あらば、名にし負え、桜の古木よ、春を伝えてと。



駐車場から、遠く眺める桜の木。この木を植えたのは卒業生だと
言われているが、言い伝えははっきりしない。
樹齢90年、その頃はまだ母の生まれた家屋敷が残っていたという。

そして祖父は鉄道省に勤める為に、この地を去り、屋敷を解体した。
もう誰も覚えていない、昭和の初めまでの物語。
昭和48年の年賀状の刷り終わったあとに、祖父は東京で他界。
叔父や伯母も皆亡くなり、最後の生き残りの母も、ものも言えない老女に
なってしまった。
歴史のことは誰も判らない。
ただ静かに古木の桜は、何かを知っているけれど、語らない。
それで良いのだろうと思う。



この島も近年は人口流出が進み、風情のある家屋敷に空家が目立つ
ようになってきた。


丘の上の遥かな斜面から海を見る。
母系の先祖の墓は、もっともっと上の高い所の日向の土地にある。
そこまで上がって、たまたま居られた男性に、墓の位置を聞いて
見つけることが出来た。



私は長らく母方の家系の古い歴史に浪漫を感じていた。
しかし今回の訪問に、「もういいよ」とそちらの墓が言っているように感じた。
たまにしか来ないのだし、私はやはり父系の方が本当の流れだ。

次の訪問は、何年後になるだろう。それは無いかもしれない。
ただ毎年、先祖の思い出の地で桜の古木が咲き、多くの人の
心を癒すのなら、それで良いのではないか。誰がここに来て、
どんな歴史が過去にあったとしても。

さらばと桜の樹に別れを告げて、私はさらに西の町に向かって
クルマのエンジンに火を入れた。


Posted at 2012/03/24 12:40:25 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域

プロフィール

「トヨタの夢 http://cvw.jp/b/176891/48620683/
何シテル?   08/26 05:18
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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