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kotaroのブログ一覧

2013年10月20日 イイね!

東京スカイツリーとお台場と寄居町へ

東京スカイツリーとお台場と寄居町へ旅から帰ると興奮も冷めて来て
記事を書くのが、億劫になる。

そろそろどうだと、自分の身の
振り方ばかり考えてしまい、
切れ味の鋭い原稿が書けなく
なってはいないか。





木場の宿を出て、2日目の天気がよいので、すぐに早朝のスカイツリーを
見に行こうと、言問い通りと三ツ目通りを走って、昔の東武の業平橋駅の
側までアルファを転がして行く事にした。



前夜の高速から見た印象と異なり、朝のツリーはすっきりしている。
芝の東京タワー周辺は、いかにも地価の高い、港区、品川ナンバーエリアに
あることを、行くたびに痛感する。実は、恥ずかしながらタワーには登った
ことが無い。
ツリーの周辺はご覧のように、工事現場や再開発のようなところだったので
車を置いて写真を背景に撮ることが出来た。

今回の旅には、東武鉄道と不思議な縁が出来て、この日の最後に泊まった
町も、東武の沿線であるが全く反対の埼玉県の奥地である。

ツリーを下から見上げた後は、すぐ近くのジョナサンで車を止めて朝食に
した。パーキングも、この前に泊まった岡山県の津山の駅前みたいで
東京都心のような緊張感が無い。天王寺、あべのハルカス程度のところを
車で回っているような感覚だ。



食事後、時間はまだ早いが、田舎もの故、都心に出るのもおっかなく、
これから行くお台場の方に、のんびりとアルファを転がして行く。

ここからのゆっくりとしたモノクロフォトは「トーキョーホリデー」とでも
名付けたい、今回の旅の中で、一番リラックスして運転の出来たタイムで
あった。



その前に東武鉄道のことを書こう。
浅草・松屋の所から出た東武伊勢崎線は、隅田川を渡り少し離れた最初の
駅の旧業平橋に、大きな貨物側線を持っていた。その外れに京成の押上駅が
付随して、昔から東京の田舎みたいな所だった。これは明治に開通した鉄道
ゆえ、貨物と旅客を両方輸送することで発足した会社だから、関西で言うと
南海と、近鉄の1067mmゲージ区間が、それに類似する。

1067mmゲージは旧国鉄と同じ幅だから、貨車が直通で運転できるのである。
小田急とか東急のような、貨物を走らせない電鉄に比べると、都心近くに
黒い貨物列車がのろくゴトゴト走っていて、垢抜けない印象があった。
それは昭和40年代くらいまで、残っていた風景だ。

実は小田急も、小田原付近では、国鉄と貨物相互運行が、可能になっていた。
いろんな意味での、乗り入れというのは、本来は鉄道の理想なのだが、
今は電車のみに統一される。貨物は遅いのでトラックに切り替えられて
しまった。本当は交通事故や渋滞を減らす意味では、昔のように極力鉄道で
貨物を運ぶのが、理想なのだが、地方駅前の日通事務所も無くなり、いまは
つまらない世の中になった。

東武鉄道の定款には、貨物輸送もあったはずだが、その野暮ったいけど
朴訥の象徴だったヤード跡に、スカイツリーが建った訳である。




墨田区と江東区に、東京情緒はあるかと言われれば、実はある。
泊まった木場は材木商の町だったし、夢の島(お台場)に曲がる地名に残る
辰巳には昔は「辰巳芸者」がいた筈だ。
私の敬愛する荷風散人は、山手に暮らす高給生活者であったが、どこかで
つむじを曲げて、(離婚などの女性不信が原因といわれる)下町の江東デルタ
地区をこよなく愛すようになり、名作「墨東綺譚」(正字はさんずいに墨)
をあらわした。

最近まで気付かなかったが、実は荷風は明治の言論弾圧、大逆事件で、言論
ジャーナリズムに絶望して、主張する筆を折り、江戸の戯作に耽溺する
ようになったという考証を知った。
ゾラに影響を受けた荷風なら、腹の底で権力に対するレジスタンスを続けた
のは、宜なるからんと思う故である。
そして荷風は、まだハゼのいた江戸の海の端にある、浦安あたりで生を費えた。
そろそろお台場に向おう。



辰巳で曲がる付近で、インプレッサやRX7という走り屋系の車と並んだ。
どうもお台場で別のイベントがあるらしい。

ところで、数日前の尼崎探訪で、阪神尼崎の南側を歩いてみた。
元は尼崎港駅があり、そこから産物が出荷されていた場所である。
この辺りから、江戸に向けて日本酒やいろいろな商品が発送されたのは、
江戸時代以降の歴史である。新酒を運ぶ船は一番競争をし、飛び切りの
価値が着いた。近年のボージョレヌーボーを喜ぶ日本人の気質は、決して
今時に始まった傾向でないのである。
そして江戸と上方を行き来した商人や労働者たちは、江戸に住み着いた。
佃島、佃煮の語源は、この近くの佃から。いなせな兄い達が二の腕まくって
鉄火な気質のことを「伝法」というが、これも尼崎付近の地名である。

今回の尼崎港あたりに、築地という築港エリアの地名が残っていたのには
正直唸った。
アメリカンが英国のことを、アングロサクソンの本流と考えて、一目も敬意
を置くのなら、東京の築地や、湾岸に伝わる上方由来の文化をもっと尊んで
も良いのではないか。
本貫といい、伝統の発祥の場所を粗末にすると、地霊の復讐が必ずあるから
である。
現代の伝法な若者たちは、辰巳の交差点を、タイヤ音鮮やかに、お台場に
向っていなせに流していった。

お台場には、9時前には着いていたが、船の科学館駐車場がまだ開いていなく
さらに隣接のいつもNYM会場で大掛かりな自動車のイベント。さらに
トライアスロン実施中で、入るのにかなりまごついた。

運が良かったのは、この方たちは関係者だろうと思われる、ロータスエランと
ヨーロッパを見つけて、着いていくことができた。



当日の会場のこととかは、既に書いたので省略することにする。
しかし関西のミーティングに較べると、比較的まじめで大人しい。
一概に、運転も信号を良く守っているし、都会の洗練というのはこのような
ものであろう。

口だかに「腹減った」とも言えずに、「皆さんで食事に行きましょう」という
時間まで待ち、車に乗り込み、スタンバっていたら、車を置いたまま遠くの
ビルまで10人ほどで歩き出したのに、二度びっくり。
関西なら、流れ解散時には、けたたましくアイドリング始めて、白煙や
ノートが上がる。みじんもそういう雰囲気が無かったのには、勉強になった。

個人的に、気に入ってしまった550時代のミニカ商用バン。



排気量が増えても車体が360時代の幅なので、オーバーフェンダー付けても
規格外にならないらしい。



こういったクルマ遊びのやり方って、すごく「あり」だと思う。
この商用ミニカバンは、リーフサスでないので、乗り心地もよい。
いろんな意味で、よくクルマのことを知ってらっしゃるなと、納得した。



3連休の混雑のお台場を午後2時半に後にして、もう群馬県の中之条に
行くことは諦めて、今夜の宿に向うことにした。

埼玉の秩父に近い所に、寄居という町がある。
2002年に、八王子の友人宅から八高線に乗り、旅をした時に途中で通った
だけの記憶であったが、少し地名を覚えていた。

今回の目的地、中之条近辺は混雑しているだろうから、昨夜のカプセルホテル
よりマシな宿に泊まりたい。予算の都合もあるから、どうしようか、考えている
うちに、手持ちの本で面白そうな物件を見つけて、思い切って行ってみる
ことにした。



首都高ー関越道を、昨夜の反対に戻って行き、東松山で降りてみる。
そこから行く道すがらは、初めての風景であった。

朝にスカイツリー付近で見かけた東武鉄道が、こちらは東上線といい、小川町
付近から、国道と八高線と被ってくる。東武鉄道は何で高崎や前橋といった
大きな町に到らずに、伊勢崎や寄居といった中途半端な町が終点なのだろう。



そんなことを考えながら、夕暮れの風景の中を走って行くと上州が近いのか
街路樹の種類も違って見えた。
とっぷり暮れた寄居の町に入る手前で、ホンダの大きな工場敷地をかすめて
川を渡るとやがて古い町並みに周囲の風景が一変した。これは面白そうだ。



着いた宿は大変古くて面白かったけれど、その夜は食べに行ける場所が無く
1軒だけ開いていた居酒屋で飲むばかりのメニューになった。
揚げ物しかないという店は、中年後半にはかなり辛い。
布団は昨夜よりずっとましな厚みの中で、俺は何をしに来たのだろうと
反問していたが、旅の疲れでいつしかぐっすり眠っていた。


Posted at 2013/10/20 08:50:34 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2013年10月15日 イイね!

自動車旅行の宿

自動車旅行の宿機動力のある自動車での旅は、意外と一日の
最後に苦労する。

泊まるレベルがクルマが置けない所だと、
どうしようもないからである。

今回の一日目が一番大変だった。










東京都内の片隅で安いところで泊まれたが、人間は囚人服みたいなのを
着せられ、カプセルのような上下式の空間をシェアして寝た。

クルマは隣に路上のコインパーキングがあり、夜間10時から
朝7時台は、300円だった。


2日目は埼玉の田舎の古い古い木造旅館に泊まり、駐車場は裏の馬を繋いで
いたような場所にあった。(あしらいの写真は大正5年当時の宿帳)





3日目は、高速道路を夜間走っていたら、SAからホテルの灯りが見えて、
知っている名前だったので室内から電話をかけて泊まることにした。

時間は21:55。スマートETCでSAから出られるのは、夜の10時迄だった
ので、大変運良く、勘の良い判断だった。

カード、ETC、携帯電話。文明の利器嫌いの私も原始人よりは、進化して
いたようです。

私はクルマの旅のメリットを最大限活かしたいので、数日前から予約した
「宿のために走って行く」ような逆転した思考が、嫌なのです。
クルマは走れるだけ走る自由のシンボルだし、旅の主役だと思う。

フェラーリとか乗って旅する人よりは、多分余計な気遣いをしないで済む。

それでも、どんなクルマでも佳い訳ではなく、自分らしさを演出する「装置」
である。

気難しい私だが、自分にフィットした自由な旅が演出され、気持ちよく
走れたら、旧車やそれに準ずるネオクラシックな自動車での移動は、誰にも
真似の出来ない最高の贅沢だからと思うからである。

Posted at 2013/10/15 06:34:17 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2013年09月20日 イイね!

首都圏の旅/軽井沢から高原と富士を巡る②

首都圏の旅/軽井沢から高原と富士を巡る②軽井沢の一夜を挟んで、旅日記を
分割しました。その後の記事が
先に出てしまいすみません。

現地に住む友人との、年齢相応の
人生談義もこなし、激しい雨の音で
目覚めました。今日は雨か。

追分に今年できたパン店で、朝食し
駅まで送ってもらい、友と別れ、しなの鉄道に
雨の中、乗り込みました。

西へ行く電車に乗り、長野まで出るか。まずは接続が良ければ
小海線に乗ってみようと思いました。

12:02に小諸に着くと運の良いことに、すぐに06発の中込行きがあります。
中込で乗り換えると、小淵沢には14:23に着く。これなら文句はない。



小諸で時間が全くないのは、少し残念でした。

ホーム上には3セクなのに、まだ駅そばが残っているではないですか。
この次来る時にはない可能性あり。うーん、信州そば喰いたし!。
紺の豚氏に劣らず、関西人は食い意地が張っております。



しなの鉄道の元急行型電車の中吊りを見ると、一時期熱心に読んだ玉村豊男氏が、東御市のワインフェスタにゲストで出ている告知がありました。若い頃から最近まで、この人のパリ放浪や東欧旅行記を読み耽り、最後の方は病気と死生観まで、随分“影響”を受けました。(笑)
ヴィラデステ/今日より良い明日はない/まで私は信者だったかも。でも、お元気そうですね、「死ぬ」と言ってる人ほど長生きするのかも。

小海線のホームに向かうと、私の苦手なキハ111系が待っていました。
なぜ嫌いなのか、理由は後述します。

このJR東の100系気動車は、性能はカミンズエンジンで良いのですが、窓がはめ殺しなのは仕方ないとしても、座席が2人掛けの通路反対は1人掛けで、使いにくいのです。

これは通勤時の混雑より、最初の配属方面が北国が多く、まだブームだった大きな荷物を持ったスキー客が、通路に立っても行き来しやすいようにとの配慮だったと思います。

秋田新幹線開業前の、田沢湖線が改軌工事で1年不通だった時に、代行輸送で北上線を走った「秋田新幹線リレー」で特急運用に使われたこともあります。お役御免後は通常の、2人掛け2列にして欲しかったです。



小海線に乗ったのは国鉄時代以来の31年ぶりでした。その間に私は車の趣味に傾注し、小淵沢付近も毎年通るようになりましたが、鉄道旅行は、旧車趣味とは違った、モノの見方を教えてくれます。31年前はペンションブームの最盛期で、男同士で泊まるには勇気が要りました。

今回は通過ですが、小海線の眺望の良さは、日本一の標高を走る鉄道路線以外にも、この線の独自のプレミアム性を強く感じました。電化はしない方が良いと思いますが、軽井沢始発で、小諸ー小海ー野辺山・清里ー小淵沢(北杜市)ー甲府ー高尾または八王子といった「日本版『氷河急行』」はどうでしょう。

ディーゼルもしくは最先端のハイブリッドトレインで、車両は星野リゾートあたりが所有発注して、第3機関に運行させる。運行&営業にはJR九州の特急「ゆふいんの森」の成功例が参考になります。

小諸ー野辺山間の少し退屈な時間には、アトラクションが欲しい。北杜市のサントリーディスティラリーなど、提供と集客誘致に持って来いです。
また、甲府から臨時で身延線に入り、富士宮まで走らせて、富士観光も世界に発信できます。これら全部を自動車で回るよりも、鉄道ベースで旅行した方が、何倍も優雅だと、私は考えます。世界遺産「富士」を、大事にしたいならば、身延線の富士連絡のほかに、新幹線の新富士に延長接続させて、外国からのとくにヨーロッパからの客は、鉄道で富士宮まで行くのが良いと思いました。21世紀というのは、そういう時代ではありませんか?







ここまで、平日旅を男一人で楽しんでおりました。そういっては何ですが、異性同伴、女性の旅、男だけの旅姿と見てくると、男の単独旅が、一番こ煩そうで厄介です。あまり近づきたくなくなるのは、なぜでしょう。
一つはお洒落な人が少なく、中年の鉄オタは、近寄りがたい雰囲気が目に着き、同性でも一緒にいたくないなあ、と感じます。

偏見でなくて、旅する人には、若くなくなってくると、ある種の清潔さが必要で、それか芸術家タイプの特異性が要ります。その両方とも不足している人は、とにかく身嗜みと、車内でする会話に、仕事や身近な人の話題は、しないことです。

野辺山に着きました。予想外に若い、といっても30代までですが、女性の複数客が乗り込んできて、私も4人掛けの席で、美人でないが、清潔そうな女性客らと3人で空間を所有することになりました。反対側の1人掛け対面シートの使いにくさは、こういう時にはっきり判ります。



こんな旅でも、ヨーロッパ舶来の帽子をかぶり、イタリア製のパンツを履いて、それなりの格好で旅する方が、こういうシーンで女性を前にして臆しません。当たり前のことなのですが、私の前にフランス人のマドモワゼルが座ろうと、服装身嗜みを見られても、「日本人のセンス」と国際力を試されることもあると、僕は思うのです。



残念ながら、日本一標高の高い区間あたりは、降りしきる秋の雨で、八ヶ岳も見えません。この次に小海線に乗りにきた時は、佳い天気であって欲しいと思いました。



小淵沢で10分時間があったので、切符を作り直して、身延線経由の大阪行きを求めましたが、駅員がここまでの切符は回収して、新しい切符を作るのがルールというのが、どうも納得いきません。若い駅員と喧嘩しても時間の無駄ですが、変な精算の仕方です。間違っていないと思うのですが、やれる方法(お客側の主張)を聞かないというのは、JR東職員の、変な思い込み主義のように感じました。

さて甲府まで数駅東京側に戻り、身延線に乗車します。富士から源道寺までの区間は1981年夏の東北旅行の途中で、岳南鉄道訪問と、新車で投入された小豆色の115系の写真が、残っていますが、当時の電車は1台も残っていません。



新宿行きの「あずさ」も発着する東京の匂いがする県庁駅。東京に戻らずに、支線を選んで、遠く遠く回るということに、どれだけの意味があるのでしょう。




車窓は、甲府を出て暫くは、甲州の平凡な田園風景が続きます。
前身の富士身延鉄道は、私鉄でした。昭和初期にも富士山ブームがあり開通。甲府と富士駅を結ぶローカル線ですが、途中の富士宮という富士参拝の麓町は大きな町です。



1時間くらい走ると、やや山峡の温泉町が見えてきました。「下部温泉」と言います。変な名前だなあと、下半身チックな想像をめぐらせていると、隣の駅名が「はだかじま」というのに、吹き出しそうになりました。



漢字で書くと波高島なのですが、かな音だけだと普通「裸島」だと思いますよね。「温泉ストリップ芸者」とか、昭和時代の風俗に影響された子供は、いつ間で経っても、ドリフから抜け出せません。(苦笑)

身延も大きな街なのですが、こちらもお寺の本山のある宗教都市です。
夕暮れ迫る頃に、ようやく富士宮の前を通過しました。






ところが終点の富士に近づくにつれて、単線運転なので、10分程度の遅れだったのが、東海道線の雨による列車遅延の影響を受けて、さらに富士駅の手前で、ホームがいっぱいのために入線できず、25分以上遅れてしまいました。

静岡まで出て、ひかりに乗れば、普通の時間のうちに新大阪に帰りつけられたのですが、ここでも天の邪鬼の心情がむらむら来て、結局静岡駅近くで一泊して、明日の朝から東海道線を普通で戻ることに決めました。
またまた、時間とお金の無駄遣いかしら。



Posted at 2013/09/20 05:34:04 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域
2013年09月20日 イイね!

首都圏の旅/軽井沢から高原と富士を巡る①

首都圏の旅/軽井沢から高原と富士を巡る①夏旅、鉄道旅シリーズもずいぶん
間が空いたが、終わっていない。
高崎からの続きを書く。

倉賀野で八高線を接続して北関東の
要都、高崎に着く。ここからは
信越本線が碓氷峠を越えて軽井沢、
長野、直江津を過ぎて新潟を目指し
もう一本は、上越線というトンネルで
関越国境をぶちぬく新線が戦前に開通した。



現在も残る高崎ー横川の区間の開通は明治18年(1885)と大変古い。

東海道線の全通より古いのは、この区間に後に安中の東邦亜鉛の工場
(1937)や富岡の官営製糸工場(1872)が作られたことに依る。
今回は乗らなかったが、日本海側の直江津ー長野間も1886ー88年の
間に開通し、明治時代の近代化は20年代に入り加速したと覚えていて
欲しい。

ところが1997(平成9)年の長野オリンピックで、北陸新幹線のうち
長野までの区間が開通し、碓氷峠の区間、横川ー軽井沢間は不要と
みなされ廃止された。日本の歴史ある幹線区間で、新幹線廃業となった
最初の区間である。

ご覧の写真の通り、100年続いた動脈パイプは切られてしまい、
バスに転換。あれから16年経ったがこのショックは大きかった。



私は6月に30年ぶりに軽井沢を訪問し、おぎのやの釜飯を食べながら
現在のこの区間に興味を持った。横川駅で10分で接続の間に、お茶と
釜飯を買い、乗り込む。この日も暑く、観光客が多いので、バスは臨時に
2台で上信の国境を越えていった。何十を超えるカーブを繰り返し、
オンボロバスは車体をきしませ走る。窓の外は次第に絶景となり、団体の
中国人の若者が歓声を上げる。



昔の日本の若者代表の私は30年間の社会の変化を感じつつ、傾く車中で、
必死に釜飯を堪能していた。酔いそうになりつつも(笑)。



現在の軽井沢は2段構造だ。
有閑族やビジネス客は、2階の長野(北陸)新幹線でしゃっと訪れるか
通過する。その下部で、バス客と、3セクになったしなの鉄道線に乗り換え
上田や長野を目指す客もある。しかし往年の栄光は戻ってこない。

下の方の昔の軽井沢駅を覚えている人には懐かしいが、旧駅舎と往年の
信越線で奮闘した歴代の車両が展示されている。放置までいかないが
誰も見に行かないので、日本人は過去の歴史に敬意を払わない人が多い。
私は鉄道が廃止されたことが、勿体なくてしようがない。
碓氷峠の歴史についてはリンクを参照)



明治時代に電化された時に使用された日本最初の電気機関車の1台であり
アプト式のEC40(10000)型とかEF63、それから横軽協調運転用の
169系電車などが、構内に展示されていた。



明治26(1893)年から昭和38(1963)年までの70年間は、峠区間は
アプト式と言い、スイスの登山鉄道に範をとった2本のレールの間に
もう1つ歯車式のガイドレールを敷き、それに機関車は歯車を噛み合わせて
この坂を上り下りしていたのである。
またアプト式廃止後は、2台の機関車が横川側に付いて電車列車を押し上げ
峠を下る列車は、ブレーキを合わせながら運転する、全国でもこの区間しか
見られない、特殊運転が97年まで34年間続けられた。



鉄道に関わらず、マニアは「限定」や「例外」と特殊用途に弱い。

この区間のEF62と63が連結された特急、急行電車は、30年前の訪問では
写真に写している。その時代の大らかな空気の中でも、関西から旅する
学生の私には、物珍しさと上流の保養地に憧れる感覚。キョンキョンが
デビューした年に、「軽井沢のお嬢さんを見てきたぞ」と京都の大学に
帰って喋れば、自慢できたものである。

まだ見ぬこれからの人生の壮図、鉄でありながら甘酸っぱい浪漫も胸に
描き1枚の切符(周遊券)で旅する。わかるかなあ、こんな青春の時間。




僅かな乗り換えの時間に「青い夢」を思い出し、次の駅へ向かう。
軽井沢から2駅。追分で降りると駅舎は昔のままであった。ここから
狩人の「コスモス街道」よろしく別荘地帯を抜けて本日の宿に向かいます。






Posted at 2013/09/20 03:45:40 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域
2013年09月12日 イイね!

首都圏の交通を考える第2弾

首都圏の交通を考える第2弾最初はつくばエキスプレスだが、
これが出来たのは、2005年だった。
8月の最終週で、9月からの新学期輸送に間に合わせて開業しました。
別名(正式名称)首都圏新都市鉄道という。
最高運転速度130km/hの日本一の俊足通勤路線である。線名に高速とか急行と入れていないのがクールなのか。

ご存じない方のために補足すると、常磐線の輸送量の増加に伴い、
1980年代より構想はあった。
常磐線は、上野ーいわき(旧平)ー仙台を結ぶ幹線だが、長距離の客と、取手以南の通勤輸送、さらに貨物と3つの役割を負わねばならず、新幹線は東北本線に沿って作られたので、やはり通勤輸送の補完は必要となっていたと思う。

1960年代までの常磐線は、SLの煙が残り、ローカル情緒の残った
路線でもあった。
通勤電車の代名詞、103系のカラーリングも、中央線、総武線、山手線、京浜東北線までは出て来るが、常磐線?何色だっけ、の印象が
乗らないものには強かったと記憶する。

TXが出来て、大きく変わったのは、始発秋葉原のイメージと、流山などの沿線風景だと思う。
知人が足の便が良い、流山市にいるので、乗るようになった。
私もその特徴について、やっと考えるようになったところである。


流山には、こんな電車もある。



総武流山電鉄だと思っていたら今は流鉄(りゅうてつ)が正式名称らしい。
常磐線松戸駅から少し先の馬橋から流山市役所の横まで5キロ強。
全線単線2両編成の電車が、とことこ走っている。

趣味的には「こっちだ」と思った人。私もその一人です。
首都圏でも、こんな奇跡のような路線が生き残っているのが嬉しい。
常磐線の道中、上野を出て最初に探訪する中小私鉄だったのです。



TXの電車の顔も、非貫通の2枚窓運転台風だが、流鉄のこいつは、元西武の2代目101系で、西武顔しています。
このあと馬橋まで戻らず、一駅手前の幸谷で降りました。

ここから歩いてすぐの所に、常磐線の新松戸駅があります。
そこから武蔵野線に乗り換えました。



新松戸ー府中本町までの武蔵野線の最初の開業区間が開通したのは1973年4月1日。
これに伴い府中の東京競馬場近くを走っていた盲腸線の下河原線が廃止になり、日本一長い駅名(当時、国鉄)の「とうきょうけいばじょうまえ」駅が廃止になったことを思い出します。

武蔵野線は、今年でちょうど開業40周年です。
この駅看板はおそらく国鉄時代からのものではないかと推察します。
またエスカレータや自動改札は、関西の阪急あたりが最初に採用し、首都圏では武蔵野線が始まりだったと言われます。
今目の前に見ている風景は40年前のナウ、既視感のようでした。
私って、変な所に感動する人間ですね。



走って来たのは国鉄最後の新製通勤型電車の、205系です。
関西のJR西日本には、数編成しか投入されなかった珍しい形式です。
この電車が出来た頃が、83、4年で、サラリーマン1年生だった頃。
東海道線で入線して来ると、嬉しかった記憶が甦りました。

      北?
      |
      ?
      |
   西?ー南?ー東?

この判じ絵は、何だか判りますか。
鉄道路線図で?の所に入る駅名が浦和です。
今は西と南の間に埼京線が通り、武蔵浦和と言うややこしい駅名が増えています。
昔は時刻表クイズの頻出問題で、好意的に眺めていた大衆も、ネット社会では安易なネーミングと、厳しい意見を見かけるようになりました。

そこに私は時代の空気の変化を敏感に感じます。
武蔵野線の計画から開業までは、昭和40年代がすっぽり被さります。
高度経済成長期の最後の駆け足が、この73年春で、秋には石油ショックが始まりました。
同時期に根岸線も開通して、首都圏は埼玉・千葉・神奈川に完全に広がりました。

この武蔵野線は、貨物輸送のバイパス動脈で、越谷と新座の貨物ターミナル新鶴見に殺到する貨物を、常磐、東北線方面に回すために作られたのが目的でした。
首都圏のスプロール化は、80年代まではのんびりしていたのでは、ないでしょうか。

そうやってみると、圏央道とか、高速道路の発展が今の時代の象徴かもしれません。
私は南浦和から東北線に乗り、大宮から、さらに高崎線に乗り換えて高崎を目指しました。



大宮の大発展には、鉄道が欠かせないと思う。東北本線が私鉄の日本鉄道で開業した明治の時代から持っていた運命のようなものが、あるのではないか。
1982年から85年まで、東北、上越新幹線が大宮始発で暫定開業した時にも、大宮は注目を集めた。県庁所在地は浦和であり、大宮はサブの副都心であったが、この時に一気に大宮の都市機能の優位性がクローズアップされたと思う。



駅横に、県庁所在地級の岡山や広島では見られない、巨大な建造物が並ぶ大宮。
紛れも無い東京の分散機能が、ここに集結している。市政開始は1940年で、私の住む池田より後なのに、驚いた。



ところで社会批判でなくルポだと思って読んでいただきたいが、首都圏の東京への通勤は100kmがおかしくない。
その為にはあらゆる利用者本位の鉄道社会が成り立っており、新幹線通勤も通学もあることは、知っている。
近年東京に行く度に、いやでも目に着く2階建てのグリーン車について少し書く。

211系の2階建てグリーン車が東海道線の快速電車に連結され始めたのは、1989年の景気の良い頃であった。
その前に新幹線100系が1985年に登場し、食堂車とグリーン車は、鉄道旅のカンフル剤効果を狙って、国鉄では初の2階建て車両となった。
これに範を得たのだろうなと当初は思っていたし、東海道線と横須賀線は、戦前から2等車(グリーン車)を連結するのが、常であった。
大磯辺りに静居する貴人や政治家、横須賀線は上級軍人の利用のためである。

内田百閒の「阿房列車」などを読むと、1950年代でも仙山線や準幹線級のローカル線に2等車が連結されており、先生は「お金が無い」と言いながら、紳士は上等車と、きめているのが可笑しい。
今のローカル急行は、もうないから、特急のグリーン車と思ってもらっても良いが性質は、ちょっと違うのである。

この首都圏の通勤グリーン車は、「失われた20年」に、飛躍的に伸びた。
とくに2004年秋から湘南新宿ライナーが大増発されて、北関東方面から山手線西側を通り神奈川県中央部まで、快速電車が駆け抜けるようになり、国鉄時代の鉄道知識は、役に立たない「古い辞書」のようになってしまった。舌を巻くような「運転」が首都
圏でされているのを目の当たりにして、全く時代は変わったと痛感する。

15連で編成されたE231系快速が、数分おきに駆け抜け、4、5号車には2階建てサロが
必ず連結されて、私も「贅沢」と思いながら行く度に、好んで乗るようになった。

埼玉県の深谷の隣に籠原と言う駅がある。地味な駅だがここが15連の始発であり、高崎まで行くのは10連だ。川口あたりで迂路ついていると、籠原という行き先を書いた電車がよく通るので、すっかり名前を覚えたが、通ったのは今回の旅が始めてであった。



今は常磐線や、総武線快速にも2階建てグリーン車は連結されている。
新幹線と東京を中心にした金銭感覚は、遠慮なく、遺憾なく発揮されるようになった。
落ちて行く地方都市の中で、車でいえばベンツに乗れるような、地方の名家は少しずつ没落して行っている。
資産を維持することの難しさと、一極に集中するモノの対比。
私の旅というのは、そのような歴史の渦の中で、変わって行くことの焦燥感や諦めに似た思いを抱えた苦しみがつきまとう。

何かのせいとは思わない。ただ、少しずつ変化する社会の中で、生きることは旅に似ているなと、思ったら、終着の高崎の都市風景が、車窓に映り始めた。

(つづく)


Posted at 2013/09/12 12:31:21 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域

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