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kotaroのブログ一覧

2013年07月01日 イイね!

岬の宿にて

岬の宿にて日曜日の朝に何をしようか、悩みつつ、
名古屋で「ミラフィオーリ」というイベントが
あるので、思い切って旅に出た。

夜明け前、現在の状況と心境を隠すことなく、
東京にいる妻に送信する。
甘い答えは返ることがない人から、日曜という
時間の密度か、3時間後に、返信が来た。

そう、やはりどんな時間でも、自分のために動かないといけない。
葬儀のような特例は除いて、私には、黄金の時間が、このちょうど良い
50代というエイジで受け取っているからだ。

8時に家を出て11時に名古屋に着く。
2001年のアメリカが、アフガンを報復爆撃を始めたニュースで、
鹿児島から慌てて戻る時に、つまらぬ接触事故を起こして以来、
12年間事故は巻き込まれていない。

それでも高速運転は、こんな古い「電車」を走らせているのだから、
絶対ミスはあってならない。
エアロのパイロット同様、ベテランの円熟で、この古いマッキナを、
走るシケインにならぬよう、動かしているのである。


ミラフィオーリの会場は、懐かしい思い出のある愛知万博の跡地公園であった。

当然、途中入場なので、後の方のエリアにクルマを停めるが、嬉しいことに、
本物の緑のカーペットであった。

日本でも、クルマのイベントが成熟して、無味乾燥な駐車場型から欧米並の、
裸足で歩ける公園型が近年増えてきたことは、本当に喜ばしい。

内容コンテンツに傾き過ぎることなく、本来大切なことは、ホスタビリティと、
フレンドシップ、そして、コンフォータビリティなのである。

お台場のニューイヤーミーティングは、中身の濃さで陶酔させられて、
感覚が麻痺して帰るが、後から疲れの出やすいイベントである。
東京という場所柄、ストレスはやむを得ないのだろうが、食事とトイレの苦労は
改善出来ないのであろうか。

今回のミラフィオーリは、食事に関しては、選択余地と、エキゾチックな
趣味性が楽しめた。

なんといっても、本物の緑の絨毯が、良かった。この上でくつろいでいると、
私のブログの、読者という方と初対面し、しばらくクルマの話題で歓談する
ことが、できた。

続きは、旅から戻って書く予定です。

(伊良湖岬の民宿にて)
Posted at 2013/07/01 02:30:53 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2013年06月15日 イイね!

水上から下仁田を経て麦草峠へ

水上から下仁田を経て麦草峠へ今回の旅を通じて、5月がしまなみ海道、
6月は信州軽井沢という対比になれた。

カラダも車もお金も酷使し過ぎか。
60代で、ドロップアウトだったら、
これだけの苦しい旅はしないだろう。

それにもう、人生に変な余裕感ができて、
精神的に限界まで走り込めない。

今を生きよう、今を楽しもうの50代である。



昨夜は立ち飲みで、常連客の50代終わりから60代に囲まれて
エロい話に散々付き合った。
おとこもおばさんみたいになり、やるエロでなく口で言うエロになっている。
現役じゃなくなりつつあると、昔を偲んで口ばっかりの「記事」になる。
そこに一抹の寂しさを憶えての、話をきくのである。



僕のブログは2013年の現在進行形で書いている。
2013年に1971年のクルマに乗って、奇跡のようなツアーを広げている。
お飾りでなく、行くと言ったらバンバン走る。



朝の宿を出発する前の車たちを、少し絵画タッチにしてみた。



画心は、センスの問題だ。
コンピュータでどう遊ぶのか。



文章中心に、展開する日もある。
評判の良い今の、ジャケット写真は大胆にトリミングをしたもの。
仲間や友だちなら、ひとが入ってもいいのじゃないか。
むしろ人が入ることで、画は命が吹きこまれる。写真もそうだ。



思い切り遊ぶと、こんなこともできる。

フェスタの会場宝台樹までは、1時間ほどで着いた。

宿から出発したのは10台以上の124スパイダーと850が2台、いつも代車で
来ているアウディTTと、出発前に合流されたScorpioneさんの126だ。
それと代車のトヨタノア。



フェスタ会場では、今年は特別な計らいで、124ツーリングの人たちは、
駐車場は一般と別に、固まって目立つところに置かせてもらえた。

昨年私が、盛り上げる意味でも珍しい旧い車は、目立つように配置したら
どうだろうという願いが通った感がある。



しかし着いたのが10時半を過ぎたので、私は実質1時間ほどで会場を
後にした。
後で聞くと、他の仲間たちも、けっこう早く出発されたようである。

今年でやっと20回に達したフィアットフェスタだが、会場に木陰が無く、
だだっ広い場所でラリーウェポンらが、ジムカーナをされている。
それは良いのだが、一般の人も折角1000円払って入場しても、すぐに飽きて
退場してしまうのは、何か工夫が要らないだろうか。



今年はX1/9のクラブも来ておらず、会場の広さだけが目に余った。

もう一寸こじんまりとした場所でアトホームな、イベントを目ざす。
毎回会場が変わっても、私は変化があって面白いと思うのだが、西の
フィアットは、もう数に入っていないのかもしれない。



会場を後にして、真昼の白日夢のようなデイライトの下を、大阪に向かいながら
独り、哲学者は、イベントの幸福論に着いて、車を走らせながら考えていた。



水上から関越道に乗り藤岡から、上信越道へ大きく西に舵を執る。
この高速は、下仁田で再び進路を変えて、軽井沢や小諸の方を回って
迂回してしまうので、今回は下仁田で下りてみて、内山峠を越えて
佐久に出てみることにした。国道254号である。



下仁田と言う町には、昔から興味があった。
上信電鉄という地方私鉄が、高崎から出ており、その終点に当たる町であり
関西にはこういうまとまった中距離の準大手の山の中の終点型の私鉄が無い。
強いて言うと湖西線の前身の、江若(こうじゃく)鉄道という非電化の私鉄が
浜大津から近江今津まで1969年まで結んでいた。



関東には、よく似たシチュエーションの私鉄がいくつかある。
埼玉の秩父鉄道もそうである。
でもこういう事実を関西人は知る由もなく、都市圏連絡で儲けて、あまり変化や
努力をしない関西の大手私鉄は、徐々にその地位と品質価値が下がって行った。



下仁田は群馬のアイドル、バラドルと言った方が適当な井森美幸の故郷である。
こんにゃくと下仁田葱のふるさと、田舎臭さを売りにした彼女は、群馬の観光大使
を長く勤めており、「グンマの休日」とか、笑えるポスターにくすっとくる。



上信電鉄のオリジナル電車、デハ200型。東洋電機もしくは西部所沢工場製。
1964〜以降に数次に増備され、井森嬢の年代と重なる。近年廃車が進み
非冷房のためあまり使われていないようだが、頑張って欲しい。それにしても
垢抜けないデザインだと思う。通風器はグローブだし、代車はDT21そのままだし。



駅前を歩いてみる。写真館の駐車場がこんなにだだっ広いのと屋根がある。
正月の晴れ着の撮影の頃には、雪が深いのだろうか。



貨物兼業鉄道の駅横に必ず残る大きな農業倉庫。白い塗装が目に眩しく映った。



民家の庭先でもなく駐車スペースの、ど真ん中に温室ガーデンがあった。
背景の峨峨たる峰の山容に目が止まる。このあと荒船山の圧巻に峠で衝撃を
受ける。



昼下がりの終点駅前。非常にいい。何が好いと言ったって、馬鹿みたいな空間が
取っていないのである。大型バスとかの結接点として不要なターミナルも無いし
その慎ましやかさが最高に良いと思う。今の日本が忘れた良さの残る駅前である。



昼下がりの改札風景。



駅を正面から見る。



さらに建物の中を撮る。



カラーで撮ると、非日常から少し日常的な「いま」に戻る。



駅前には、懐かしい日通の営業所の建物が残っていた。

昭和の時代には、宅急便が普及する50年代までは、鉄道で小荷物は
運ばれて、そこから日本通運とその子会社が、独占的に運送していた。



あとは、郵便局の小包だが、これも麻紐で括るなどの独特の技法があった。

鉄道の切符を買い、一緒に荷物を送る「チッキ」というやり方を覚えている
だろうか。
こんな昭和の古い記憶は、今のように爆発的に流通がさかんになる
以前の古い古い話だ。

今はノスタルジーの話をしているのだが、昔の時代に憧れて溺れている
訳では無いのだが、手順と儀式があって、その流れや本質を理解すれば
学歴が無くても普通に生活はできた。
仕事もそうであったのである。



駅前に、こんな時代がかった水飲み場が残っていた。
山奥から荷車を牽いて来た博労や、東京や遠くから帰省して来た人たちが
電車を降りて、ほっと、一息を吐く。

自動販売機も無い時代に、ここで空や山の青さを見上げては、
ふるさとは良いものだと思ったに違いない。そんな時代が私は愛おしくて
しようがない。
タイムマシンのような旧い車で、この場所に来ては、また旅を続ける。
旅って、そんなものではないだろうか。



駅のそばに車を停めて、こういうシリーズ写真を写していると
今は、いったい時代がいつで、ときどき自分が嵌り込んだ時空間のことが、
わからなくなる。

私の旅は、ソロで走っている時はいつも、時間を飛び越える不思議な乗り物、
空飛ぶ絨毯のようだと、よく思う。


このあとは、町外れで、下仁田こんにゃくを用いた冷し中華を、昼食に食べて
内山峠を駆け上った。

峠のトンネル手前で見た風景は、子供の頃に集めていた、記念切手
そのままの図柄で、その圧倒的な存在感に、驚いた。(上の図柄)




荒船山を後にして、佐久に下りて、今度は小海線沿いの細い道を
走って、八千穂という駅前に出る。
ここで井筒長という造り酒屋を見つけて、車を降りて見学などする。

この辺りの写真は、デジカメが不調で、フィルムで写しているが割愛する。
八千穂から299号線に入り、今まで経験したことの無い、標高2200mの
麦草峠を越えた。

850もよく走ってくれた。山頂の方は白樺や高山の植物だけの別世界である。

ここで午後も4時近くになり、蓼科を抜けて、茅野に下りて、思い切って
早めの夕食休憩。
諏訪から高速に乗ったのが5時過ぎで、岡谷のジャンクションから伊北に
かけて車線規制の工事でかなり渋滞にまきこまれて、疲れが倍増。
座光寺で休んで、屏風山、養老と休み休みで行き、最後は滋賀県の
菩提寺かどこかで休んで、吹田の出口を出たのは、夜の10時頃になった。

今回の旅は、最後は疲れてしまい、いけなかった。
この前のしまなみ海道の時も、夕方以降に走り過ぎた。
カーナビやETC、その他で補えても、車も人間も古い。
旅の記事をアップするのに、こんなに時間が掛かったのは、気力より
疲労が残ってしまい、気温の変化に着いて行けないからである。

夜半に最後の部分を書き上げながら、それでもまた次の旅をしたいと
密かに考えているのである。
850の今年の前半イベントは、これで終わりとしておこう。



Posted at 2013/06/15 11:03:02 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2013年06月12日 イイね!

風立ちぬ。いざ軽井沢へ往かむと思ふ。

風立ちぬ。いざ軽井沢へ往かむと思ふ。




お母さん、僕のあの帽子はどこに行ったのでしょう。


しかし梅雨は、どこに行ってしまったのだろう。





さてと、真面目に旅の話を書き始めます。
今回はFFだけでなく、軽井沢を急に訪ねてみたくなりました。
それは、今回の目的の一つであるツーリングに関わっている124クラブ
のメンバーの方が、今は軽井沢在住で、面白いことをやられている。
それを探訪してどんな生き方をしているのか、見てこよう。

僕の自由な生き方と、何か共鳴することはないだろうか、運が良ければ。
そんな好奇心からです。

前夜に飲んで遅くなってしまい、ありゃ〜の朝でした。
こりゃ不味いと、頭がすっきりするまで出発を遅らせたので
豊中のゲートをくぐったのは10:30

さあ軽井沢まで行けるかな。目標6時を夜の8時に変更して、
炎天下を出発しました。


京都、滋賀と順調に来て、愛知県を焦げるような日射しの下を走り
中央道に入り瑞浪あたりから空が曇り始めました。



ぽつん、ぽつんが、その内に土砂降り。恵那山トンネル付近では
ご覧のような風景です。



恵那山の手前の神坂で停まらずに、トンネルを出て最初にある阿智の
休憩所に滑り込みました。



その後は少し雨が上がりかけたので、エアコンのないクーペの窓を開けて走ります。
駒ヶ根付近でもう一度休憩。午後の3時くらいになっていました。



ここで信南レストランに入っていたら、雷がゴロゴロと鳴り始めて、また大雨に。
アイドルタイムの特典で、特上のヒレカツ丼を2割引で、客は私一人で昼食兼
夕食にいただきました。

珍しい青の車のよこ並び。大きさが随分違います。




岡谷を下りて、ここから旧道で軽井沢に抜けることに決めました。
国道142号線、旧和田峠に向かいます。時間は16:00過ぎでした。



まだ車山に登る辺りまで行かず、毒沢温泉付近。でもいきなりこんな
長い斜面が始まるのが、この辺りの国道を酷道と呼びたくなる由縁です。
私はすごく嬉しくなる。峠越えができるので。風景を見ただけでわくわく
して、車を停めて写真を撮りました。

こんな感じです。ロードオブザトラベルって感じです。



国道142号線、和田峠は、新和田トンネルが開通していますが、時間的に
尻上がりにピッチが上がって来たので、旧道にコースを取りました。

頂上のトンネルは、諏訪と信濃の佐久を結ぶ県境のようです。



片側交互通行なので、時間待ちの間に、周囲の植生が気になります。



トンネルを出たところで、全く交通量が無かったのでもう一度1枚。



サミットを越えると、風景が変わります。
長い間、旅ばかり続けているので、その経験は、人物や風土の変化に
微妙に察知します。トンネルを出たばかりの、切り通しはこんな感じで
もう諏訪の国は、後になり、信仰は諏訪の湖の神様でなく、浅間や山々を
信仰した人々の村に下りて行くわけです。



中仙道の道中写真。窓を開けていると、半袖は肌寒いくらいの温度差です。
昼間出た時と途中は30℃に達し、今は15℃以下でしょう。



和田の宿に入りました。峠から2里(8キロ)くらい離れています。
歩いて峠を越える時代は、さぞ心細くて、人里が恋しかったこと
でしょう。




いい感じの酒屋が残っています。
食料品も扱う、昔のマーケットでしょうから、ここに行くと
いろんな情報も、仕入れられたことでしょう。



街道沿いには、良い感じの並木や大木が残っています。
こと、信州に来るとその感が強い。木を祀る信仰が厚いからだと思います。



少し古い国産車が生き残っているのも、地方を走る楽しみです。
二桁ナンバーは、めっきり減りましたので。



浅科村付近で国道を外れて、小諸に向かう道に入りました。
コンビニの駐車場で最後の休憩。



田んぼの水面の方が標高が高く、そこからの撮影です。



土手にはこんな植物が。


シロツメクサとアカツメクサが並んで、生えているのは面白い。

この辺りから、長野新幹線の高架軌道が見えました。

さあ、そろそろ軽井沢が近いです。



6月7日の夕陽。



浅間山の雄大な風景が目に飛び込んできました。御代田付近。



そろそろ国道18号に入ります。



2010年にこの辺りを走った時に、気に入っていたレトロなドライブインが
つぶれていました。あー勿体ない。



いよいよ終点の追分付近になりました。



カーナビが案内終了を告げると、本日の目的地に。
レトロなお宿です。



前身の「油屋旅館」時代の、いにしえの写真を貼っておきましょう。



この日の最後は、写真家の友人と別れた後で、星野リゾートが手掛ける
温泉施設に行って汗を流しました。



高級感がひしひし伝わってきますが、庶民的な料金で、儲かっているのかな。

ここは人気(ひとけ)の無い今の季節の、夜の軽井沢で、別格の賑わいが
ありました。



1982年5月に、軽井沢に来た時には、近寄り難い街全体の高級オーラが
有りましたが、現在はすっかりその感じが無くなりました。
町が、落ち着いた以上に寂れてしまったのかな。
ピンポイントではこの星野リゾートのような成功例もあるのですが、
これは長野新幹線と引き換えに、信越本線を横川で断ち切って、碓氷峠の
山岳鉄道を廃止にしたことで、この町を素通りする客が増えたことが
一番の影響だと、理解いたしました。

追分にある油屋旅館は、中仙道参勤交代時代の脇本陣以来の名門旅館で
あったのですが、時代の波に押されて、300年以上の歴史があったにも
近年あえなく廃業。今はその後を文化的磁場にするプロジェクト中です。

今回は頼んで泊めていただきました。

軽井沢に関する考察は、翌日にも続きます。
Posted at 2013/06/12 14:33:20 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2013年05月28日 イイね!

耕三寺、瀬戸田から大三島へ

耕三寺、瀬戸田から大三島へこの齢になって、なんで旅から旅を続けるかというと
腰が据わった人生が描けないのと、人間50年以上も
生きていると、そろそろくたばることが近くなり、死に場所を
探すことが最後の目標のように思えてくる。

実は、しまなみ海道の旅は、開通した1999年の5月に、
当地を舞台に繰り広げられたクラシックカーラリーに家族
5人でエントリーしている。
さらにその4年前の95年7月に、いくつかの島を巡る物語
を、描いたことがあった。

そのことについては筆に興が乗れば書いてみても良いと思う。


生口島の瀬戸田は、古い港である。前々回に来た時は
フィアット850であったが、この時には耕三寺に参拝するのは
参道そばに車を有料で停めた。
そして、この古い港の付近で昼食を一家で摂った記憶が残っている。



今でも港は残っているが、橋が架かる前の様に賑わっておらず、
狭い道は拡幅されて、余計、時空間が広がってしまったように思われる。



ところがご覧の様に、港の常夜灯であった灯廊横の、古い土蔵の脇から
耕三寺前までに、なんとも懐かしい、参詣用の土産物屋小路が続いていて、
今も残っているのである。これには前回全く気が付かなかった。



猫も居る。このオブジェの様にじっと動かない濃い茶の猫は、港通り商店街に
生まれて、この地で子供を産み育てて、一生を終えるのだろう。



18年前に初めてこの島に来た時には、僕は35才であった。その頃には
子供の数は2人。その後もう1人生まれて3人の子供を育てた。
これから18年後には僕は生きていないかもしれない。猫の人生も僕の
人生も、あまり変わらないと、思う。



いい感じの町並みと路地が続く。



耕三寺まで「徒歩7分」と書かれていたが、のんびり写真を撮りながらなので
実際は倍以上掛かったが、こんなぶらり歩きは実に悪くない。



とくにレトロを強調するでも無く、殆ど手つかずの昭和な風景にすっかり
魅了されていた。




居抜きで使ったらそのまんま映画のセットにも使えそうな元スナックのお店たち。





和風キッチュ趣味の耕三寺については、多くは説明しない。

ここは戦前に事業で成功した人物が、お金を使って母親の生まれた故郷に
最初、豪華な家を造り、亡くなった後はその周囲に、次々と神社仏閣を模した
建造物を、供養の為に取り付かれたように作ったと言われている。

昭和一桁から、戦中を挟んで戦後の平和が戻ると、さらに拍車がかかり、20年代
いっぱいに手掛けられて、30年代には瀬戸内の新しい観光名所になった。



その男の物語が偉人伝化されていない所が良い。



戦後の瀬戸内海は、一時憧れの旅行コースになり、人気を博した。

壷井栄の二十四の瞳も、同じ時代に小豆島を全国区の人気観光地にプロデュース
した。耕三寺と同じ動機だというと叱られそうだが、戦争中は呉の海軍機密地帯を
抱えたこの「地中海」は、自由の海ではなかったのである。



だから、戦後が来ると、明るい風光の瀬戸内海に、まだ海外旅行は夢の夢であり、
民衆は憧れ、自由と根明かな風景に熱狂して、支持をしたのである。

耕三寺の狙った親子の慈愛と極楽往生は、たくさんの人が戦死した日本の国土に
レクイエムとして、共感を呼んだのじゃなかろうかと、オイラは思うのである。



ただ歴史建造物として、イミテーションみたいな物の上に、独自の宗教観で
トッピングしたデコレーションが施されており、これはタイガーバーム庭園に近い。



ところが、このイミテーションも、もう時代がそこそこ古くなって来たので、
これからは積極的評価を、加えるべきかの段階になって来た。



今回の耕三寺訪問は、純粋なお寺ではないから、僕のような頭から考えとろう
とする者には、抵抗が無いでもない。TDLやUSJが大の苦手な僕には、
テーマパークは社会性必然が無いので苦手なのだが、ここは18年ぶりに来て
共栄という宇宙観や引力を感じた。

とくに平山郁夫美術館を横に呼び寄せたのは、耕三寺の特AでなくBな感覚と
呼応するものがあったのでは、ないか。平山も京都なら100年後も悪く言われる
かもしれないが、生口島なら言われまい。

それから今回、初めて入って感動したのが、この潮聲閣という和風数寄の
建築である。



ここは正に耕三寺建立者が、母親の為に昭和初期に贅を尽くして建てた、
和風建築の逸品である。この建物には、ため息が出た。池田にある電鉄王
小林一三の邸宅と、同じ時期だが、こんな島の中に在るが、金のかけようが
遥かに上なのである。迷いが無いと言うのは、ほんとうに贅沢で良い。



私はこれは見ていて気持ちが良かった。それと今回の旅は母の介護問題である。

両家がちょっとでも贅沢をすると、生意気だとか、いろんな礫が飛んで来るので
私は出家したような人生を選んだ。

間違っていたのではないか。私に金があればぐうの音も出せずに解決できた
問題だったのかもと、貧乏を選んだことを恥じた。ここに偶然これたことは
結果的に良かったと思う。耕三寺を作った人の名は金本耕三と言い、やっぱり
金の力で親孝行できたのである。皮肉だが私は親孝行の道を直球で受け止め
られなかったのである。


さあ、道を急ごう。参詣道中でお昼ご飯のチキンや串カツ類を買い、ご飯も
買ったので、どこか雄大な風景の下で食べたい。
島を巡る途中でこういう廃車体群も見つけてしまった。



こんな所まで、ダイハツも来ているんだなあと、ミラの男は思う。



これはポーターのバンですね。



これはレモンの実っている所。生口島はレモンの島で、この時期は島全体が
甘い香りに包まれており、ヤニ臭い中古のミラもずっと窓全開で走ったから、
少しは脱臭できたかしら。



美しい花を付けた大きな木が海沿いに生えていた。これは何の樹だろう。



車は再び橋を渡って、大三島に入ります。

ここは変わっていた所もあったが、1995年と、しまなみ全通の99年を知って
いるので、その時の観光地化は落ち着いた感も取り戻している。
海沿いのやたら広い駐車場区画で、車を海の側に停めてお昼にする。

食べ終わったら昼寝をせずに、大三島神社の参拝に真っ直ぐ向かう。



宮浦と言う地名の所が、大山祇神社のある場所である。駐車スペースは道の駅に
なっており、神社真横の一等地の駐車できる所は昔からある土産物屋が、「無料で」
停められますと書いてあるが、さすがに私も道の駅に停め直して歩くことにした。



やっぱりクスの御神木が綺麗だ。



この時期の緑は、モノクロでフィルターをかけて撮ると、かげろひ立つ
ように写る。それが好きでずっとモノクロで新緑を撮るのだが、今回はたくさん
写真に納めることができた。



社殿の敷地に足を進める。ここの宮代に入るのは2度目であるが、橋が架かる
までは、絶海の孤島の祕殿に参るような心持ちがしていた。



それが便利になったということは、飽きられてしまうことに繋がり、神通力を
弱めてしまうことになるかもしれない。
畏れ多いことを言うのではなく、島の持つ神秘性が1000年以上崇め奉られて来た
最大の理由であったからである。



初めてここに来た1995年には、いくつもの島を渡って、船も何度か乗り継ぎ、
辿り着いた大山祇神社の社殿に有り難みを感じたのである。橋続きで観光バスで
来られるのも良いが、私は道の駅の出来た1999年にはここで「たらの芽」を
買ったことを、思い出した。ラリーの途中にである。



でもこの社の中には面白い時空間への入り口があるように思える。
ミシマの三が、神社の御印と言うのも面白いと思う。



現代の巫女さん宮司関係者らが出入りの酒店とお神酒のことで話している。
今は平成だが、昔の人たちも同じことを打ち合わせたのだろうか。



参道を出てお宮をあとにする。
扁額鳥居の文字が、最近の建立は島出身の書家、村上三島の手になる
ものと気付く。その手前の鳥居の文字は伊藤博文だから、村上も並ぶと
知りさぞかし緊張したのではないか。ラリーの時はまだ存命で、参加者は
特別に書を貰い受けることが、チェックポイントで出来た。

私は忘れてたのでもらい損ねたが、元々能書でないので、もらっていても
猫に小判であっただろう。



お宮を出てここの地名の由来になる宮浦港に行ってみる。
昼下がりの港は定期航路もうんと減り、手持ち無沙汰に改修されて綺麗に
なり過ぎていた。



この浜から大山祇神宮まで歩いて半町。港の横に地元のバス会社の大きな
基地が有り、すぐ前の方に大三島役場も郵便局もある。

義経や尊氏が歩いたこの道が、殆ど省みられなくなった現実に、
私は橋が架かったことの衝撃を受け、長い間港に停めたクルマの中で、
歴史の重さを軽くしてしまった近代という救いようの無い潮の流れに、
いつまでも考え込んでしまっていた。

この項ひとまず終わります。

Posted at 2013/05/28 00:02:00 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2013年05月26日 イイね!

尾道から向島、因島へ

尾道から向島、因島へ夜明けと共に船が動き出したので
5時半に宿を発つことに致しました。
瀬渡し航路の旅から3日目は始まります。






AM5:45出航しました。船内には私一人と1台だけ。

対岸の千光寺側を船内から見返ります。



向島の船着き場付近には、こういった趣きのある建物が健在でした。



朝もまだ6時前くらいです。夏の夜明けに近く、早くから明るいので
島内を適当に走って海岸に出ることにしました。

これが2013年5月23日の夜明け、尾道にて。
ミラと夜明けの海の組み合わせは、島原以来でしょうか。




足元の砂浜はご覧のような貝殻の浜です。
こんな綺麗な浜は初めて見ました。





この島内の小さな港から、さらに小さな島への航路が出ています。
別に気が遠くなるようなものでもありませんが、旅ってそういう
不便な物を訪ねることなのでしょう。





歌という風流な港に流れ着くらしい。



反対にこの小さな港に上陸すると、この高速有料道路の
雄大な気分にさせる看板が目に着くのです。
ラ・ストラーダ。これぞ「大いなる道」の旅の始まりを意味している。
旅へのいざないって、こういうものに惹かれるのでしょうね。
碧空に聳えます。



古い港で佇んでいるうちに、夜が完全に明けて朝の光が強くなりました。



犬を連れた散歩の婦人と、朝早くから野良仕事の奥さんと
犬の会話で港の前では盛り上がっています。



すぐに有料に乗ってしまうのは勿体ないので、もう少し島内を探検する
ことにしました。
古い社の綺麗な新緑が目に止まりました。



これは絵馬ですが、海上を並んで走る何艘もの古い形の和船が描かれているのが
興味深い。



この社の名前は、津部田の五鳥神社というらしい。
祀っているのは住吉宮、盛大なお祭りも開かれる島の鎮守のようだ。
http://blog.livedoor.jp/takasamurai1209/archives/51553591.html






見事な新緑の大楠をもう一度。
先週はオークス。カンケイナイカ。



地図を見ると、島の西岸には、岩子島という島が並んでいて、橋が架けられています。
こんな機会だからということで、向島から岩子島にも渡ってみました。



何だか平たい島です。農業の島と言った感じ。




でもこういうものにも、目が止まります。巻き上げ網の下に落ちていたイカの甲羅。
あーイカ食いてえ。



車で走り去りかけて、こういう建物にも気になって、停めて調べてみました。
少し山かげに発見した謎の木造建て家。
農業倉庫とは少し違うようです。



何だろうと裏側に回ってみると、こちらにあった入り口には、このような鉄柵が。

昔の牛小屋だったのだろうか。しかしこの模造ガン、それも大型のマシンガン
みたいなものはナニ? ぜったいゴッコプレイしたな、ここでキット(爆)。



“牛小屋”から戻る途中、野壷を発見しました。昔の肥だめ。
よく子供がハマって命を落としたもんです、ハイ。



カラスノエンドウの一種、これは大きくて綺麗なマメ科の花です。



再び向島に戻り、因島を目指すことにしました。その前にこんな風景に
目が止まります。昔のタバコ屋健在。僕らは自動販売機とコンビニの普及で
タバコ屋さんに買いに行くという些細なお使いなどのコミュニケーションも
3—40年くらい前に無くしてしまったのかなあ。
池田の駅前にも、前回の大幅値上げ前までには、古風なタバコ屋さんが居て
お婆さんが囲炉裏こたつに座って、何十年と売っていたんだけれど、廃業して
さらに建物も昨年解体して更地になりました。ここはまだ裏の民家の店舗部として
生きているようです。



これは何でしょう。よく伸びた木陰の後ろに回って見えにくいですがいい感じの
建物。



扉窓部に顔を付けて中をのぞいて、にっこり。何と懐かしい小学校の講堂が
ここには残っていたのでした。私もこういう所で入学式をしたなあ。



西瀬戸自動車道路に戻り、因島に渡ります。橋だけ通って550円。

因島に渡ると一段と植物の花の香が強くなってきました。これがその正体。
今の季節は柑橘系の花が、一斉に実を付けるための開花と甘い香りで
受粉のために昆虫たちを呼び寄せているのです。



こんな花も咲いていました。熱帯植物系の何でしたっけ。何十年に一回しか
咲かない花で、この花が咲くと竹の花のように、その年は天変地異があるんじゃ
なかったっけ?



因島には水軍城の跡が残っていますが、朝の時間なので、その手前にある戦の為の
砦のような中世以来の佇まいのある寺に入ってみることにしました。



裏山が墓所の段々畑にずーっと上の方までなっていて、上がる度に眺望が良くなって行きます。



これは古い、宝篋印塔なので、江戸より前から、この場所にあったのか、
他所から移したのか、非常に古い形式の墓石です、しかもかなり大きい。



一番高い所からの眺め。



道を挟んだ高い山の中腹にも寺の甍らしきものが見えて、下の道を往来する者を見張って
います。

その厳めしさに、この島の特殊な性質が見えるような気がしました。
でも道路脇でこんな種や苗を売る店を見掛けると、平和な時代は良いなあと感じました。



Posted at 2013/05/26 05:37:17 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ

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何シテル?   06/18 16:04
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