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kotaroのブログ一覧

2024年11月29日 イイね!

走る”違和感”とオワコン交通機関の行方

走る”違和感”とオワコン交通機関の行方久しぶりにブログを書く。
クルマを久々に動かした。

11月の頭に、山陰の方のツーリングに参加して以来である。

あまり長く乗らないと老人なので、ボケが始まるのではないか。
今は冗談だがもうそんな歳になっており、滅多に開けないみんカラの蓋を開けたのである。





突然、話は40年前に戻る。
フェラーリテスタロッサが40周年のニュースが、外国の記事で出ていた。



1980年代に、このクルマと、その後のF40が出て、フェラーリのシンボルに、
若い自分らは幻のクルマに対する憧れや、それが非現実から現実に出た時の
衝撃に、一気に頭に血が昇って、可能になれば「死んでもいい」みたいな
興奮の時代に突入した、懐かしい記憶が蘇ってきたのである。

それで当時のことを、若い日のことを思い出して見た。
この漫画を知っている人もいるだろう。




この作者にすれば、いつも”描かされている”柔道漫画やネコの可愛い系漫画では
なく、人気が出だして、成功者になり、お金を得てからの日常の延長を
ちょっと面白い視点で描いた快作だったと思う。

バブルの戸惑いと空気を描いた、コメディコミックとして、私も強烈に覚えていた。

作者の思い入れと、ほぼ同世代なので、老後と言っても元気なうちにこんな
コンテンツを無料で公開してくれていたので、数分間を一気に上映して見た。

実に懐かしいし、ストーリに飛ぶと、秋田から出てきた若い女性が大学に進学するも
ちょっとアルバイトで、銀座のホステスになり、そこで見染められた各界の著名人
成功者から求愛されて、とんでもないプレゼントが、このピンク色のテスタロッサ
なのである。

ピンクの高級車は米プレイボーイ誌の、最高点ピンナップガールに贈られる
夢と憧れの象徴であることを、知っている人はニヤッとするであろう。

ぽっと出のハローちゃんがいきなり、故郷の秋田から、東京の銀座の世界に出現
して戸惑うギャップが面白いし、今の堅実な若者には、”信じられない”
シンデレラストーリが1980年代の東京には、これに近い話は実際にあったと思う。

私も今と40年前のタイムラグより、社会の空気のあまりの変わりように
ちょっと目眩がしそうになった。
主人公の故郷の秋田には、当時は新幹線も開通していない。

奥羽本線を走る特急や寝台列車に乗って、長時間の旅の後に着くのが
花の東京である。私も九州から東京の大学を目指したが、2年連続で受からなかった
から、関西に留まって45年になる。

その頃の秋田には地方の空気はもっと明るい、長閑な生活の空気が満ちていた。
今や日本でも、最も人口減少と過疎化が進み、沈みゆく故郷のことを
このハローちゃんの続編を描くなら、故郷のことを越後出身の漫画原作者は
どう描くであろう。



昨日のテスタロッサ40周年のニュースを読んでいると同時に、
国内ニュースで、青森の弘南鉄道大鰐線が27年度で廃線になる記事が、
千葉県のJR久留里線の鉄道事業を見切った話と一緒に飛び込んできた。

嗚呼という感傷はあれど、よくここまで持たせてくれたものだと思う。



大鰐線と一緒に1990年の12月の終わりに訪ねた秋田の大館から出ていた小坂鉄道の
シーンもお目にかける。



ハローちゃんが東京で”テスタ郎”を乗り回している同時代の秋田や青森は、
こんな世界だったのである。まあ今もあまり変わってないのは気の毒だが。



ところで、私も40年近く同じフィアットを乗り続けてきて、近年は
街を走るシーンもとても違和感が走ってるように見えるのでないかと、
外側から見た時のイメージをずっと考えている。

40年前のハローちゃんの漫画で、いきなりプレゼントされたテスタロッサで
街を走り出すシーンがとても面白い。動画で見てほしい。



私は2020年代になり年齢も60代になった。
1980年代には20代の若者で、初めてフィアットを走らせて街を行くときの
ソコ除けの痛快感は、今や一歩間違えると痛い老人の高齢車運転に近い。

漫画の女性がテスタロッサの操作を間違えて点灯状態で首都高を
ドドドドっと走り出すと、前方の車が一斉に道を開けるシーンは笑う。
今テスタロッサに乗っていたら、40年維持出るのは至難だろうが面白いだろう。

しかし地方の交通線が、限界に近い状態で走っているのと、我らが旧いものを
維持して走らせているのと、あんまり考えたら、大差はないのではないか。

みんカラをそんなにしょっ中、端端まで今は見ていない。

自動車のタイム、自動車のエイジは確実に終わりが近くなるような気がしているが
書くとこの場が荒れるので、私自身もそんなに毎日クルマのことを追いかけて
いないのと、ネットでは趣味の範囲のみ目で追う程度である。

40年前は自分も若かったし、楽しかったなあと今は思うだけである。
テスタロッサの夢は、一時期安かったけれど、また高騰してとても遠い縁になった。
しかしマンガの世界とはいえ、一時期は銀座のアルバイトホステスでも乗れそうな
ところにあった。
それと、この書き方と目線は、今はジェンダーの考え方で多分駄目だと思う。
小林まことのチャンネルは面白いと一瞬思ったが、個人的な回想の日記の範囲だと
私は思う。

そんなことを広い発想でまだ考えられるので、私は旧いクルマに乗りながら、
まだ未来に少し生きられているような気がする。
Posted at 2024/11/29 04:02:02 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2024年01月17日 イイね!

日本の音楽産業と自動車産業は文化の域になり得たのであろうか

日本の音楽産業と自動車産業は文化の域になり得たのであろうか正月ムードも一段落
きょうは神戸の震災から29年が経った朝である。

今年は神戸をテーマになにか活動をしようと決めて
友人と賛同者でグループを昨年の写真展のあとに作った。

その中で1980年代の神戸のことを取扱うことにするのが柱である。

先日のこと、元町を歩いていると85年のカーグラフィックが美本で
3冊出ていて、1冊200円だったので重いけど買って来て読んでみた。

私が社会人になって3年目。アウトビアンキA112がまぶしくて
欲しくてしようがなかった頃である。
フィアットパンダも149万くらいでその頃は物品税はあったが消費税は
まだなくて、「定価でものを」買えた時代である。


震災がこの10年後に起きるのだが、日本中がやたら明るくて
若者が弾けまくっていた時代だったと記憶する。
もう40年くらい昔のことだ。



この時代のことをバブルだと否定せずに肯定的に捉えて価値を考えて
行きたいと言うのが設立の趣旨である。

その頃の日本はサブカルと言わずに、社会現象をカルチャー的に捉える
努力をいっぱいしていたと思う。
自動車産業の脇にカーグラのような社会的影響力を持つ雑誌が揃い、
そこに高尚な文化論や消費生活の意味まで書くような人が多くいて
読者にもそれを受け止める許容力が着いていた時代だと思う。

私も青二才ながら薫陶のようにそれらを嗅ぎ取ろうとしていた。

自動車産業の隆盛もあったし、音楽の世界は百花繚乱であった。
レコード店はCDにシフトし始めていたが、発売される新譜は聖子ちゃん
からユーミンまで、社会をゆり動かす力があり、そこに食い込もうとする
新人歌手とアーチストが芸能音楽産業入りを目差す予備軍で、ひしめいていた。

そんな時代が昔あったんだよと、息子世代に言わねばならぬ私も辛いが
過去形は過去形で嘘は言えない。

日本の社会影響力が最も強かった時代は、1980年代だと今でも思う。



自動車産業と音楽産業の本質は異なるが、その周辺に趣味の雑誌のような
存在がいくつも出来て書店も盛況な毎日が在った。

いま本屋に行ったら判るが老人だらけで若者は姿を見ない。
メインの産業が活力的だから、周囲に文化を語る人が生まれて、それが
雑誌発刊の原動力になっていき、次から次へと後を追うものが生まれた。
こういう時代がさらっといえば1980年代の特色だったのである。
そこまで言わないと今の若い人には伝わらない。

当時の20代の若者だった私が60代になり過去を振り返る時代になった。
ずいぶん長い時間が過ぎて行き、20世紀は懐かしい思い出である。
その頃は確かにこれから文化が生まれて、未来はきっとあると思っていた。
しかしその夢とか思いは続かなかった。
神戸は95年に震災が有り、日本はバブル崩壊で社会の空気が変わってしまった。

このところ、失われた30年はなぜ?とか意味を問い直す若い人の学説を
よく見かけ、読むことがある。
結局のところ、日本は政治のミスで、オウンゴールを繰り返している間に
世界中から追い越されて遅れをとるようになったというのが当たっていると思う。

産業も経済もぱっとしなくなり、自動車雑誌も大幅に休刊した。
音楽は一見隆盛に見えるが、国民的な共有と文化はもう少ない。
年末の紅白歌合戦とその前のレコード大賞は高校野球以上に過去の遺物と思える。

私や多くの人々が見たかった自動車文化を語れる国から、今は遠い所にいる。
音楽関係のしごとで食っていきたくて就職を夢見た私であったが、最終で落ちた
大手レコード会社のことを思い出す。
あの時代が続いていたら、今も産業と文化論はどんな形で進展していただろうか。
私はだから、違う形で40年間歩いて来た道について語って行こうと思う。



Posted at 2024/01/17 09:49:23 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2023年06月12日 イイね!

30年間の時代の空気の変化を考える

30年間の時代の空気の変化を考える今から30年前の1993年というと平成5年で、私は33歳から4歳であった。
同じ学年の今の天皇陛下が結婚して、令和の時代のルーツがある。
当時バブル経済のピークは過ぎていたが、依然日本はアメリカのすぐ後ろに着いた経済大国であったし、2年前の湾岸戦争でアメリカがフセインを悪者に仕立てて、多国籍軍を編成した際に、日本はお金を出しただけで「金持ちケンカせず」を地で行って世界中から「なんやこの国」と思われたことが印象深い。



しかし日本はその後の30年間に大きく社会の中の構造や仕組みは変わってないが、世界一空気の変わった国家になったと思う。
ちょっと今日は今に至るクルマ文化の凋落や価値の変化に交えて書いてみたい。



30年前はまだ新幹線でタバコが吸えた時代であり、若い男女が煌びやかな服装で毎夜遊んでいてトレンディドラマが首位であった。
しかしその裏では日本の社会の構造が変わり始めるのは、この辺りからだろうと思う。
自動車の話をすれば、1989年の日本が世界を圧倒した新型自動車を取り揃えたドッグイヤーから4年。70年代ならモデルチェンジの年だが、ロードスターもNS Xもみな好調を持続させていた。しかしマツダや三菱、ホンダといった中メーカーがマルチ販売チャンネルを持続するのに疲れが出始めていた。
自動車雑誌は依然販売が絶好調で、NAVIなどが時代の空気感を取り込んでいた。
その頃のNAVIでは確かアルファロメオ75、ローバーMG R V8とかジャガーのXJSコンバーチブルとかが持て囃されていたと記憶する。



当時は音楽では小室サウンドと、その少し前にビーイング系が結構市場を支配していた。
そんなことを30年後にどう評価するかは、ここでは書かない。
問題はブックオフとかで、30年前のCDを買ってきて今聞けるか、とかその時に楽しいかとかだと受け止める側の人間の気持ちの態様の変化だと思う。



フィアット131、WRCマシンのラリーの人気は今も高いが、そうでない4ドアセダンの人気は低かった。93年に私は18万で手に入れている。





3枚目の131とクロマが並べられた会場は、神戸で開かれたランチアランチである。
会場にはこんなモンスターも置かれていた。



しかし私が今頃に思うことは、90年代の自由な空気がだんだん冷えていき、日本人社会はシビアになり、脇の甘い、ユルい人が減っていったが、それが今の社会のスタンダードや、やたらとコンプライアンス重視みたいな社会は形成されたものだと思っている。

この間の30年間には、日本は数えきれない試練を受けた。
でも古い写真を見ていると、ユルい空気の乗り物が安く買えた時代って、例えば交通死亡事故の激減につながったというが、それは結果論でここまでクルマを戦車みたいに頑丈にしないほうが良かったのではと思う。



30年後の私たちは車から一部の人は結果的に離れた。
1980年代みたいな猫も杓子も男女もクルマ好きという時代が異常というならそれで良い。
高くなったし、昔は嫌われたベンツSクラスの任務は今はトヨタのアルファード・ヴェルファイアが務めていて、あんなクルマが前後に走っていると、本当に自動車で道を走る快適な快感が半減する。



自動車のある風景って昔はとても好きだったから、私は今も古いフィアットで旅行をする。



131を18万で買った店で後年オペルカデットを5万で買ってきて、2000年頃
家族旅行によく使った懐かしい記憶が蘇ってくる。
こんなクルマ誰が買うんだろうというような車を探し出してきて、私はユルいカーライフを長年維持してきた。

私たちはもうガソリンでも電気でも、水素でも何でもいいが、もっと楽しく
お気楽にこの地球の上の、日本という国で生きられないものかと、この頃は
よく思っている。

Posted at 2023/06/12 14:11:52 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2023年02月03日 イイね!

節分に思うこと

節分に思うこと年が明けてもう一ヶ月が経った。

今年は1月から著名人の死が相次ぎ、自分と歳の近くなった物故録に、もうそこまで自分の年齢も壁が見えて来たのだとよく思う。

ところでみんカラは自動車の話題が中心だと認識するが、このところの日本の経済や社会の前途が非常に暗い。

そういう部分を観ずに生きて来た時代もあったが、もう無視のできるような他人事ではないと思う。


自動車を個人がパーソナルな主張する道具であった時代が去りつつある。

それは道路を走るクルマたちが無会話な乗りものになり、彩りが豊かだった
時代は大昔の過去の思い出になってしまった。
私は老後になり、古い写真をパソコンで観られるようにデータ化している。
こんなのは2005年頃の出来事で、随分今と様子が違う。



海外の自動車乗りたちの日常をSNSでよく見る私は、日本がいくつもの理由で
楽しいことの無い社会に変わって行っていることを実感する。
その理由は経済の豊かさを実感出来た20世紀に較べて、大きく失われた
充実感と、高齢化した社会の実相があるからだと思う。



なんで今の日本はこういう状態になったのかについて、いろいろな人が
様々な分析を書いて居るが、全体論ではないので、百家争鳴に思える。

私は素人ながら長くやってきた仕事の感覚を持って、今ひとつの答えは判る。

それは社会にとり一番の大きなテーマは「人」であり、人を大切にして
こなかった数十年。とくにデフレと氷河期でロスジェネを見殺していた
2000年頃からの大きな政策の失敗が、18年後の今頃に、とてつもない
巨大な問題の少子化と、全く未来の見えない現実となり、これがコロナや海外の
バトルに気を取られている間に、国内は円安が進行。賃金レベルは
諸外国に追い抜かれて「全く成長のない」現在のような状況にぶつかった
のだと思っている。



人が居なくなった地方の現実を2020年から昨年まで生活しながら実体験もした。

これは何度か書いて居るが2005年頃に平成の大合併で田舎をリストラした
結果で、10数年後の今、予想が着くようになった。
まず鉄道がそろそろ無くなり、代替交通のバスはすぐに打ち切りになる。

地方は議員や市長のなり手が無く、人の減った市町村自治体が無くなる可能性が
もう目の前に見える状況である。



働き生活出来る職場がなく、最後の砦の役場も消えて行っているのである。
それでも生きて行くために少数の若者は、選択肢が都会に行くしかない。

日本は1980年代まで、世界の中で最も上手く経済と社会の歯車が回転する
国家であった。
その日本が30年間給与も上がらずに、反対に転がり落ちるように猛スピードで
後退して行っている現実は悲しいし無惨過ぎる。

そんな今の時代を悲観せずに生きて行くことは、かなり思い切った考えや
メソッドの切り替えが要るだろう。
私はこれまで、いろんな記事を書いて来た。
クルマ社会の未来も語ってきた。
しかし現実は、ごく一部の人が趣味車に乗れて、他の人は興味や共感の
対象では今はない。
どうしたら昔のような楽しい時代に戻れるだろうか。
しかし時代は「今」が一番良くて、過去の時代は悪夢や良く無いと言う
主張の人もいるしその言説を信じる影響を受けた人が一定いる。



ひとの主張は変えられないが、私は今からでも直せるやり方は
どうか人を大切にする社会へ動いて行って欲しいと思うだけである。


Posted at 2023/02/03 05:09:30 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2022年10月15日 イイね!

鉄道150年と今の日本

鉄道150年と今の日本









西洋から明治の初年以来、どっと文物が入り、日本は完全に
江戸以前の過去を棄てて、人心を一新した。
きのうの10月14日は明治5年に鉄道が150年前に開通した記念日である。
明治4年には日本は郵便制度を開業している。
それを司る逓信省は戦前に国家の重要機関として君臨したが、それを
引継いだ郵政省は3次に渡って解体されて跡形も無い。

逓信省の偉業を伝える逓信博物館というテーマミュージアムが
郵便行政華やかりし頃の、昭和40年に都心の一等地、大手町の産業経済新聞社の
真横に作られた。



この博物館のレトロなのんびり感と、昔切手収集をしていたので、隣の新聞社に
出張で行った際に、無料の展示を何度か見たことが、若い日にあった。
その時は全く「逓信」の重要性を意識してなくて、何でこれが皇居と東京駅の
間にあるのかも、考えたことがなかった。

その考えを改めたのは、2013年8月にこのミュージアムが閉館になる際に
特別展示の数々を見て唸った。
郵便と放送を黎明期からつかさどる省庁として、どんなことをしてきたかというと
情報のプロで、機密を扱い、戦時体制には命を賭けて派遣される任務も
あったのである。
だから大手町の読売新聞、産経新聞両本社の前にこの情報博物館が出来た。
面白いことにこの2社は国よりのマスコミ機関であるし、毎日と朝日の
名門2社は国と対峙するためか、少し国家機関と距離を置いている。

郵政が切手の時代の衰退で弱って行き、最後は簡易保険と郵便貯金の
膨大な資産を狙ったアメリカの資本主義によって2000年代前半の小泉時代に
解体されたことは記憶に新しいが、もう15年以上前である。

逓信省時代は例えば長崎県佐世保に今も残る、針尾の電信塔は海軍のもので
あったが実際にここを運営したのは国家機関であり軍部と帯同していた
逓信省の無線傍受の任務を担った者たちと軍の特務の連携作業である。

戦後の日本の歴史は広過ぎるので今日は書かない。しかし逓信博物館に
最後になって行って、その底力を見せつけられた時は、真夏なのに冷や汗を
感じた。それほど大事な省庁だったのである。

さて鉄道も国家の建設のために作られていった経緯がある。



明治の途中までは日本は江戸時代から転換して、資本主義の国家を建設して
株式を公開して上場企業を作る前だったから、国家に資本と資産が少なかった。

この時代は江戸の名残りで、地方に蓄積された資本が有り、金融機関はまず
銀行法を制定して、各地の元の城下町などに金融機関の原型が生まれて、
都道府県制になると、金融機関の本店は県庁所在地に集まった。

銀行の話に飛んだが、鉄道網は国鉄の前々身の官設鉄道以外は、民間の資本下に
自由に建設が可能だった。
東海道線は国がつくって徐々に伸ばしたが、山陽本線は山陽鉄道。
その先の九州は九州鉄道。東北方面の東北本線と常磐線は日本鉄道が開通させた
のである。

それらの長大私鉄を明治の後期になり、戦争などの有事の輸送を円滑に
するために鉄道国有令が出て、資本家たちの夢は一度途絶えた。
その頃は順調に日本国家に資本が形成されて行ったことがあるから可能であった。
そこを見落として、中学・高校の歴史の教科書の丸暗記では、中学レベルである。


鉄道の国家経営は、国の悲願であったと言えよう。郵便業務も長らくそうであった。

これらは第2次大戦に負けると、まず鉄道省が日本国鉄鉄道に変わった。
国鉄時代は長かった印象があるが、”たったの35年”の歴史である。

3公社5現業と呼ばれた国の経営する企業体は、1980年代になると日本が世界で
指折りの裕福な国になり、いろんな意味で的にされて消えて行く。
国内の民間企業が実に豊かになると、民間から見て改革の矢的になった観が
ある。
しかし指を咥えて見ていたのは、日本を長く仮想敵として見ていたアメリカで
ある。

日本を増長させるな。そう言う声は米国の議会と産業界で1970年代から
数次に渡り繰り返されて、最初は日本はびびったが、びくともしなかった。

それだけ日本の国力は豊かになったのと、日本は軽装備の軍備で済んだので
地上の楽園化していたのである。
そこをアメリカに狙われたというのは、あながちどころか陰謀論でもなんでも
ない。
これはTBSのアメリカ特派員であったベテランのジャーナリスト氏から
直接聴いた話(情報)なので私は信頼性が高いと思っている。



いっきに論文を書いたので”箸休め”にオモシロ写真を挟む。
この切符の利用者は国会議員の前田久吉翁であるが、このおじさんは
東京タワーの建設主であり産経新聞社の一代オーナーであった。
議員切符を秘書に買いに行かせて、これから新幹線が出来る前の最速列車
「こだま」の1等車で帰る際の利用で有るが、どうも籍を離れていた
古巣の新聞社の総会に参加した形跡が濃いのである。


さて元の話に戻るが、何故日本は弱くなり、ちっぽけになり、先の見えない
国になったかというと、国家建設の大局観があった時代は、アメリカや
西洋の横槍にビクともしなくて、郵便も鉄道もまっしぐらに伸びて行ったから
日本は10位以下から7位くらいになり、最後は2位まで地位をあげて
行ったのである。

特に戦後の1950年代後半から1980年代までは奇蹟の成長の時代であった。
ま、汲み取り便所から水洗に変わって行ったのもこの時代だったし、
皆んなが「世界の3大バカ」といった新幹線の成功もあった。

トランジスタからICまで、「半導体の時代」に日本は伸びるだけ伸びて
外貨を稼いだし、ウオークマンやファミリーコンピュータのような”お家芸”で
世界を「あっ」と言わせ続けたのもこの時代ならではであった。

金持ちの余裕が余裕をさらに呼ぶような正の連鎖である。
そこまで考えて行けば、今の日本全体に漂うペシミスティックな悲愴感、
これをどうやったら変わるのか、一緒に考えて欲しい。

話は全然変わるが、昨日は太陰暦の国家が太陽暦に変わったのが150年前だと
書いて、その影響と、こんにち的な問題について考えるのは有りか無しか
考えてみた。
いまちょうど、戦後77年で明治維新から数えて、第2次大戦の敗戦が折り返し
地点で、同じ距離の長さの時間軸が経過したあたりに我々は立っている。

たとえば国家を経営する時に肝要な国営鉄道は、解体民営化されたが、
潤っているのは都市部だけで、地方は鉄道と自治体が並走して衰退と滅亡に
向かっているが、それを見て見ないふりをしているのが都会民、私も含まれる。

郵便もアメリカ好きな戦後育ちの小泉首相時代に完全に終わってしまったが
国家戦略って何だろうか、一般の中から優秀な若い人もいるから、
今日書いたような150年の通史を読みながら考えて欲しい。

Posted at 2022/10/15 15:59:56 | トラックバック(0) | 思うこと | 日記

プロフィール

「ビッグモーターから残クレアルファードまで http://cvw.jp/b/176891/48584333/
何シテル?   08/06 05:00
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
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2014/05/11 05:49:46

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