
今年の桜も、ほぼいってしまった。
そんな季節に、西日本を1200km走って
普通に暮らせれば、普通に走れれば、
あと何の憂いがあるだろうと思う。
自分の将来は判らない。先細りにも見えるし
これだけ動けるのなら、どこからか引き合いも
くるかもしれない。
それより、心身の健康が普通に維持できて、
歩けて、食べられて、頭で考えたことを行動に移し、
自由に旅が出来たら、こんな幸せなことはない。
米子の一夜は、同宿者があり、きいてみると昔から
存在を知っているマニアの方であった。
その人は横浜から長駆、山陰まで来られていると奇遇に驚いた。
前夜は少し飲み過ぎたので、頭が重い。
ユーロクラシックカーミーティング米子は、鳥取県米子市旗が崎にある
米子自動車学校の、市民祭みたいな行事の一環である。
米子と言うところは、鳥取県下の西の端に近い交通の要所で、
島根県の松江市の方が鳥取市より近い。
鉄道の管理局が国鉄時代にあり、今でもJR西の中堅支社がある。
鳥取県にはタクシーで有名なバス会社兼業の日本交通があり、
西側には日の丸自動車というバス路線が今でも会社を堅持している。
この舞台となった自動車学校は、教習所と名乗らず学校と言っているのが
面白い。
だから、クルマ好き達に取り、最終学歴は「自動車学校卒」なのかもしれない。
横浜からの来賓と主役の人と、私の3台が一番乗りして車を誘導する。
数はそんなに多くなく、30台以下だから楽だ。
1台、また1台と会場の端のイベントエリアに到着し、みんな運転教習時には
恐々だった、クランク部に車を寄せる。
イタリア車が多いが、イギリス車も少しいる。
70年代と80年代車が多いが、フェラーリ355のような90年代車もいる。
そう、「スーパーカーの来ない自動車イベント」と名付けたこの集まりも
今回は新しめのフェラーリとロータス・エスプリが並んだ。
ほかに新旧の911もいたので、決して非スーパーカー行事ではない。
しかし、癇高いサーキット系の空間に比べると、自動車関係の場所なのだが
停めたクルマの中で、昼寝でもしようかという穏やかな空気だ。
コース内に桜が咲いていることもあるのだろう。
参加車両も大人しいうえ、子供連れと奥さん同伴の参加者も多い。
周囲で子供の喜びそうな行事も開かれているし、賑わいを作り出すために
音楽イベントや食べ物のブースなどもたくさん出店している。
僕から見れば30−40代の頃、妻に休みを与えるために子供らを乗せて
サンデーイベントに参加するエンスーは、自分だけだったが、今はこういう
感覚がずいぶん普通になった。
まあ、クルマなんて自己が満足できれば買える範囲、なんだって良いんである。
それでどこかこういう軽めの非日常的な祝祭があればいい。
このイベントだって、最初から落としどころを練り込んで作った企画ではない。
参加する車両の範囲と、声かけ出来る人の繫がりと、僕らはそう変化を求めて
いないが、会場に偶然来た人たちが、珍しそうに覗き込むのが面白いのだろう。
震災の年は義援金のカンパ捻出のオークションもあったが、今年はフリマが
やりたい方はやられているくらいであった。
クルマを持っていると、大抵要らない部品や、入手したが不要になったり
そんなものが増えて来る。たまに捨て値で出して、新しい貰い手が着けば
それで良いじゃないか。
少し草臥れたパンダを売りたい方がおられたが、もう、その手は
18や20才くらいの若い人に乗ってもらった方が面白くはないか。
もちろん人の目的は、いろいろだが。
私の75は、アルファロメオの4台並んだ端に置かせてもらった。
隣のグリーンの1750セダンは、山陽・山陰のクルマ好きならご存じの
ダンツキ風ノルドに乗られるポスター主人の奥様である。
“つがい”で飼うなんて、昔のカーマガジンふうに表現すると、月並みだが
それが地方で実現できている、個性と価値観と、暮らしがあるということに
私は日本の成長と成熟を感じている。
最近はFacebookによく外国人からリクエストが来るのは、こういった内実を
私なりに外国に発信しているからである。
小国二ポンという謙遜か自虐か判らない態度は、私にはない。
傲岸でもない。
淡々と人の生き様と、自分の暮らしと、私たちの現実を客観視する。
それでこの国で、やっていけたらいいのではないか。
鉄道の町米子だから、こんな面白いものも会場を走っている。
後藤センター(鉄道車両工場)特製のサンライズ出雲号自走車である。
この電車寝台特急は、東京から今は岡山を経て、伯備線を上がり、
米子を経て出雲市まで走っている歴史ある列車だ。
こういうものは、有形無形で町の価値を上げる実は財産だと言うことを
米子の人は、少なくとも後藤工場に関係する鉄道マンは知っているのである。
子供たちがこれに親しんで、大きくなったらこういう「直通」列車に乗り
東京に勤めに行っても、故郷のことを時々思い出せば、それが「文化」という
故郷の薫陶なのである。
今の日本はスピードアップで、新幹線を採算無理して建設して、在来線は
ガタガタになり、3セク転換などで悲哀に満ちてしまう。急行特急停車駅も
崩壊して、駅前は寂れてしまう。
そう言う町から秀才や俊秀は、育たなくなり、学校のレベルも下がるだろう。
地方から上京列車に乗り出て来た僕は、何もノスタルジーを謳う訳ではない。
首都圏、中京圏、関西圏の3都市圏ばかりが栄えるでもない。
国内がバランスよく、釣り合えないと、最後は東京も棄てて、NYか上海に
移住しないと、やってられないことにもなりかねない。
そのための地方を考えるのは、地方を一度でも体験しないと、判らない。
大阪生まれの私の家人には、やっぱり見えていなかったような気がする。
昼下がりの空気は花曇りの春の午後となり、周囲のイベントも3時に終了。
私は主催者の方の娘さんと、いつまでも遊んでいたので、会場を引き上げるのは
最後の方に。デルタの方は横浜に。私は大阪に四日ぶりに戻る。
何も急ぐ用はないので、大山の見える方向に、アルファ75を走らせ、
途中から旧出雲街道を走ってゆく。
旧友と2台並べて満開の桜の下で、成年期を謳歌した思い出の新庄村を抜けて、
真庭の満開の桜並木の下を駆けて、姫新線の中国勝山駅まで走り抜ける。
かつては大阪から湯原温泉に向かう湯治客で賑わった駅も、今は直通もない。
しかし私はこの駅にある、すごくウマいうどん屋のじゃこ飯が、大の好物で、
米子のイベントに参加する度に、立ち寄って喰って行くのである。
旅の最後に贅沢をと、いつもはかけうどん+じゃこめしなのだが、
200円高いかきあげうどんを注文したら、写真のような巨大なかきあげが
ついていた。
さすがに完食すると、胃が一杯になり、落合から中国道に乗ったが、何度も
休憩しながら帰る羽目に成った。
それとかき揚げの味があったためにじゃこ飯のシンプルな味がほんの少し
削がれてしまったのが、残念であった。
次回からは素うどんに戻すか、かき揚げうどんだけにしよう。
家のある町にたどり着いたのはちょうど9時だった。
オドメーターは1200kmに10km余すのみ。今回もよく走ったが、
幸せな充実感は、食べて走って、無事に戻ってから、しみじみと思う物だと
痛感した。
アルファの方も、さすがに、点検にに出そうと思った。(完)