
11月3日に例年ずっと参加している
「中兵庫クラシックカーフェスティバル」
が今年も兵庫県丹波市旧春日町で開かれた。
私は1999年頃からずっと参加して来たが
今年は旧車のフィアット850を夏の愛知の
イベントの後から車体レストアに出し、
今回は「欠席」した。
しかし見に行くのはいいだろう。
夏から850に代わり活躍しているアルファ75で行くのも悪くはないが、
この会場は福知山線黒井駅から、そう遠くない。
旧春日町役場の本庁の前の駐車場で、100台弱のクルマを
休日に停めて集まるイベントなのだ。
ということで、今回は私の住む大阪府池田市から、兵庫県丹波市まで
国鉄福知山線の後継のJR福知山線で一本で行けるので、
1200円前後の片道運賃を払い、電車で旧車イベントに、珍しく行って
みることにした。
私の住む古い地区から、昔の国鉄の川西池田駅までは、1.5キロ
くらいだが、歩いて県境と川に架かった大きな呉羽橋を渡る。
福知山線一本と行っても、昭和の時代なら直通鈍行があったが、今は
三田と篠山口で2回乗り換えて1時間半ほど掛かった。
ちなみに本箱の奥の1975年の時刻表を見たら2時間半かかっている。
非電化で、ようやく蒸気からディーゼルに変わったが、古い客車で
ごっとんごっとん、福知山から大阪まで大学時代に3時間かけて
旅をした記憶が残っている。
普通列車なのに車販がたしか、回って来て、ビールや弁当を売りに来て
眼を丸くした思い出がある。
イベントは、今年は完全な雨の天気になり、850を出すのに躊躇した
かなと、一瞬考えてた。
黒井駅から会場までは1キロほど。
町の中だが川が横に流れており古い桜の木が紅葉し始めて美しい。
しかし傘をさして、レインコートを着ていたが、結局雨に濡れて
翌日から体調を壊して、数年ぶりに風邪を引いてしまったようだ。
イベントは、結構楽しかった。到着したのが1時を回り、残り物の
炊き込みご飯の弁当を購入して、豚汁は具が無くなっていたので
サービスにしてもらい、やや遅い昼ご飯にした。
福知山線の中で食べてくるのが理想だったのに、篠山口駅でみかけた
ホームの売店にも、駅弁は見つからなかった。
この春日町=中兵庫のイベントは、小じんまりとまとまった好感の
持てる、続いている旧車イベントのひとつであり、中心人物の山本
正博さんの人柄に負うところが大きい。
山本さんと初めて会ったのが、99年か00年に神戸のポートアイランド
にある、ポートピアホテル前の広場で開催された、360フェスティバル
での、一つの出来事だった。
この記事を書いているきょうは、話が飛ぶが、カーグラフィックの
イベントで、同じ兵庫の三木市の道の駅に行き、亡き小林彰太郎
名誉編集長の思い出で、同じ場所に行っていた旧友と、古い思い出話で
フェイスブックで盛り上がった。
その時に知らない同士の我らが、目の前の小林彰太郎に“萌え〜”した
場所が、80年代のモンテミリアの晴舞台であり、ポートピアホテル前の
広場であったのだ。
バブルがはじけて、10年。
アストンやベントレーや、オールドフェラーリを並んでいるのを
見た場所が、360ccの軽自動車ワールドかよ!、とそんときは
軽いショックを受けた印象が有る。
そんな時にあるクルマに私は目が止まった。
スバルR2というクルマのことを、知っている人は少ない。
ポピュラーなスバル360だったら、形はイメージできる人は多いだろう。
360は昭和33(1958)年に登場し、70年頃まで13年間くらい作られた。
60−70年当時の国産自動車が、4年でフルチェンジしていた時代に
長生きだったのは、初期設計がゼロからのスタートであり、技術の
精緻を込めて作られたからと、よく言われる。
それは半分以上間違いではない。が、その分、今でいう成功体験に
富士重工は囚われてしまった。
軽自動車界の第一人者を長く自負したので、後から追い上げて来た、
ホンダやスズキに、気がついたら追いつき、追い越されてしまった
のである。
特に昭和42(1967)年に登場したホンダN360のセンセーショナルな
登場で、軽自動車はいっきに高出力(といっても30−36PS、当時の
グロス表示)に時代が突入したのである。
その頃のスバルは登場そろそろ10年目で、基本設計の良いクルマは
欧州のように、不易と思っていた首脳陣は冷水を浴びせられた。
ホンダの「加速」ぶりは、自動車本体の性能だけでなく、販売にも
如実な結果が、影響し始めたのである。
こうして、「名車」スバル360は、販売方針も180度転換せざるを
得なくなり、パワー競争に突入。スポーツタイプの「ヤングS」と
ツインキャブを装備した「SS」を出して、応戦したのである。
しかし一旦付いた、「古くさくてノロい」というイメージは挽回できず
360の後継車を、急いで世に出さなくてはならない羽目になったのである。
そうして登場したのが、69年に出たスバルR2であった。
ところがR2は、車体デザインは変わり、室内も広くなったが基本設計は
RR/空冷のままで360から大きく進歩したのが、アピールできなかった。
この頃から軽自動車はFFの方が合理的で、広く場所を取れることが
実証し始めたこともあったからである。
R2の苦戦は登場時から予想されたことであり、矢継ぎ早にモデルチェンジを
追加、繰り返した。
とうとう途中から水冷エンジンを搭載。ところが一方でスポーツモデルも
販売面で必要であったため、SSモデルを一旦廃止したが、すぐさま追いかけて
GSSというツインキャブタイプを46年10月に、空冷のまま製造し販売した。
しかし、万策尽きたスバルの軽は、全く新しいデザインとなるレックスを
47(1972)年夏に出して、R2は3年半で明け方の夢と消えるのである。
当時我が輩は中学1年生。盛りが付いたように新型車の発表会ごとに大分の
各ディーラーに行き、カタログを貰って来る生意気なガキと見られていたで
あろう。
「あ〜、GSSだ、珍しいなあ」と360フェスティバル会場で、同行の友人2人に
早口のマシンガントークで、R2GSSの由来を説明していたら、後ろから突然、
「そーなんです、よくご存知で」とオーナーが現れ、仰天!!。
それが山本さんとの、初対面であった。
このイベント紹介の前振りだけで、こんなに原稿を書くとは。
あまりの絶妙の出会いのタイミングに、さすがの私も、たじたじ。
思いっきり知ったかぶりを、語って、破綻していなかったかときくと、
ほとんど正解で、まずこのクルマのことを覚えておられる人は二人目で
空冷/水冷の違いとグリルがダミーと喝破した人は初めてだと表彰された。
そしてなんと、
GSSのエンブレムは、前年に出していたSSのエンブレムに「G」を追加
しただけのもの。SとSは一体で、Gはパッチワークで「後から付けただけ」
と継ぎ目まで見せていただいた(笑)。
これですっかり、お互い知り合うきっかけとなった上、「実は私、こういう
イベントもやってますねん」とチラシをもらう。
「どこですか?春日町って」
第2回中兵庫クラシックカーフェスティバルの案内をいただき、同行の
友人に「キミ360持ってたよな」とオファーするも結局私が、その年から
イベントに参加するようになりました。
その年から、縦に長い兵庫県の南から北への動線移動が始まり、これに
「ちっちゃいクルマ」の縁が重なり、兵庫の草の根イベントの繋がりは
一気に増えました。
この日、車で行けなかったけれど、ちょうど米が切れていたので美味しい
丹波米と、このイベント名物の手作り粉石鹸を仕入れて帰りました。
色んな出会いが有り、途切れたのも有りますが、ほとんど一度友達になると
長くクルマ交遊を続けさせていただいております。
それは、遡れば昭和45年頃に、ませた子供がクルマに興味を持ったことから
始まり、ガキの時の知識が、今日まで役立っているのかと思います。
でもそれと、今回の参加の仕方のように、「たまには電車に乗ってもよいかな」
と私は、あまりクルマに入れ込みません。
僕は中立な考え方で、立っていたいという思いも有ります。
客観的にクルマも鉄道も見ながら、あれこれと、好きなものを発見する喜びも
続けられる理由のひとつでしょう。
そして、出会いの次は、縁と記憶です。
今回の投稿は、参加車両の紹介は、あまりいたしませんでした。
また違った角度で、毎年開かれているイベントにアプローチしたかった。
帰りは柏原まで送ってもらい、宝塚まで有料特急に乗りましたが、
喉が渇いたのでビールでも飲みたかったが、特急なのに車販は回ってこず、
自動販売機の位置表示もありません。スピードアップの代償は、確実に
非日常の旅の愉しみを失わせました。
この次の記事は、10日に突然行って来た、カーグラフィックのイベントを
書く予定です。
きょうも約束がいっぱいあったのに、なぜこのイベントにいくことになったのか、
そのあたりから、書いて行こうと思います。
真夜中も、4時をゆっくり回りましたので、そろそろ終わりとしましょう。
それではまた来週。