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2014年11月08日 イイね!

ビハインド シート

ビハインド シート


春日(丹波市)のイベント点描から。

このイベントに、今からちょうど40−50年前の日本に、よく走っていた
360ccの軽自動車が、たくさん来ている。

この風景はイベントの始まった、20世紀の終わり頃からの変わらぬ特徴だが、
少し子細に内容を見てみよう。





私は最近、Facebookを、いろんなことのツールとして、利用している。

個人的な書き物に、過去に撮影した写真の発表、そして友人・知人との
連絡手段用に、などである。





その内に複数のコミュニティを股がって参加することで、自分の好きな
テーマで、以前からの趣味のフィールドを、再活用したり、ときには
新しいものの見方を発見することがある。

くだんのこの項のタイトルも、あるコミュニティのネーミングからである。
「シートの後ろ側」
直訳すると、そういう意味になるが、「Behind the Seat」は、Facebook内
最大のリアエンジン車およびミッドシップエンジン車のコミュニティである。

参加者数は300人以上、投稿記事はピンからキリまで、過去に作られた
どんなショボいリアエンジン車の話題でも、1台数千万円以上する、
スーパーカー(もちろん非フロントエンジン車での範囲)でもOKだ。



私がサイトでの個人アイコンを愛車の写真に固定しているので、
早くから外国の人とのやりとりがあった。

その内の一人、チェコのフィアット乗りからこのコミュニテイに誘われて
全く否応もなく、加入してみた。



お気づきであろうが、日本にも「リアエンジン車時代」というものがあった。

軽自動車には、リアエンジンこそ設計の基本としたメーカーもあったし、
RRルノーのノックダウンから始まった、日野のクルマは、美しいコンテッサに
昇華した。

欧米でも評価は高いが、このコミュニティでも人気のある記事である。



今回の春日のイベントに行ってみて、私は久しぶりに国産の軽のことを
眺めながら、忘れられつつあるリアエンジン車時代のことを、再考してみた。

スバルを始め、マツダのキャロルとRクーペ、それから2スト時代のスズキと
今でも並べてみると、フィアット500や、ドイツなどのマイクロカーに、
日本の自動車メーカーが、必死になって学ぼうとしたことがよく判る。

日本の自動車趣味は、形だけはさまになっているが、実は底が浅い。

代官山の蔦屋書店に、ヴィンテージカーイベントを見に行ったり、
中にはお金が余っているから、特別なクルマを購入して、「展示する側」に
憧れて、その世界を目指す大人もいることだろう。

しかし何かを君らは忘れてはいないだろうか。

構造工学から始まり、その自動車の必然性を考えて、「なぜこうなったのか」
を知り、その上でハンドルを握る。整備状態をよくして、限界特性のことを考えて
バランスを踏まえたドライブを、ときにアグレッシブなまでに走らせる。

本来の自動車趣味は、高校・大学の勉強の延長の一部であって
人前でクルマをひけらかさせることではない。



Facebook内の1、地味なコミュニティを毎日眺めているだけでも、
世界中にどんなクルマが走っていて、どの国でどのクルマが、そろそろ
貴重な存在に変わっていき、その国の趣味人らは何を珍重したり
何を面白がっているかが、わかる。

そんな世界の情勢を見ながら、これからの時代の自動車趣味を
考えたり、予測を楽しんでみる。
それと、こういったテーマを見つけて面白がる(fun)ということの
大切さを、日本人はすぐに見落としがちである。

お金が先で、趣味もお金に従属するものと、当たり前に考えてしまって
いないだろうか。

そんなことはないし、そのような発想しか出て来なくなると、論語で言うところの
危うい(暗い「罔」)状態に陥ってしまうと思う。

学びてものを思わざれば、の諺だが、たかが昔の軽自動車と、低く
見るのでなる、半世紀前のスタンダードだったリアエンジン車は、なぜ
隆盛して、なぜ省みられなくなったのか。

そういうことを、考えたり、気がついたことを投稿する。
そのためのネットであり、新しい時代のコミュニケーションツールである。



今朝はこんなことを、思いながら朝を迎えた。

今日は古都奈良に向かい、これから中古および機械式カメラの
同好会の活動に参加してきます。

日本はインフラが行き渡り、一見モノのあふれた先進国ではありますが、
趣味の分野では内実は発展途上です。

特に精神性の貧しさはどうしようもないので、これらのことについて
今後も語って行きたいと思います。


Posted at 2014/11/08 06:50:35 | トラックバック(0) | うんちく | クルマ
2014年10月13日 イイね!

フィアットとアルファロメオ

フィアットとアルファロメオ事故を起こしたり
警察に止められた時でも
しばらくはクルマに乗るのをやめようと
思っても、また少し経つと
クルマの運転はしていた。

ここのところの私はクルマから離れて
いるし、他の趣味もほとんどしていない。


毎日労働をして帰ってきて、少し飲んで寝るだけである。
興味や好奇心、関心が湧く元気が無い。




しかしそう言っても仕方が無い。
何かきっかけをつかまないと、どんどん心が車から離れてしまうだろう。

私が最後のFRアルファに乗り始めて1年が過ぎた。
車検を通して2年乗れるようにした。
1年前は、遠く群馬や、新潟の上越まで走って行ったが、今年は春に
四国・中国の横断旅行以来、遠出をしなくなった。




燃え尽き症候群ということかもしれないが、少し深刻である。

55歳になったことと、遊行の2年が過ぎて、黙って働く道を選んだことが
こうなる運命だったのかと、考えている。

人によってはタダの遊び歩いているだけの日々に思えたであろう。
しかし50代の10年は貴重だ。

会社の閑職で傍観するのも勿体ないし、今はそんな社員すら
会社に置いてもらえない。
私は外に飛び出して、社会を外側から見ることにした。



さてイタリア車のフィアットとアルファロメオの違いだが、
今の世の中の大勢からみると、どうでも良いようなことである。

コップの中の泡のような話題だ。

しかし25年以上イタリア車を乗り継いで、1台は当時から。私なりに
フィアットの車作りと、アルファロメオと言うやや良家の家系の駿馬。

1年後者(フィアット傘下のプロダクトになる直前の系統)に乗ってみて
少し考え方の違いも判るようになってきた。

私のフィアットはRRの小型車スポーツで、振り回して乗る時の動作特性は
エンジンを軸に、着座点の人間が酔わないように、転回していくのがわかる。

で、トランスアクスル、FRドライブのアルファセダンは、見た目よりずっと
スポーティーだが、スポーツ車ではない。

145馬力の昔のセリカ(ただしグロス表示)くらいのエンジンに、古典的な
FRレイアウト。ところが昔セリカに乗っている時に、80万くらいのアルフェッタ
セダンを買おうかと思って、ホリイトレーディングに行ったが、ハンドル、
クラッチの重さに閉口した。

しかしあの時にフェッタに乗っていたら、また私の人生体験は変わっていた筈
である。



おそらくトランスアクスル構造の何かに気付いて、FR信奉者になっていた
ような気がする。

その後もう少し様子を見ようと思っていたら、コンデの良い850クーペが出てきた。
値段も同じくらいで少し安かった。

そんなふうに、人生は慌てなくて、来た電車の1つ後でも間に合うと判れば
座って行けることの方が多い。



たまに電車が遅れると、ああ1本前に無理しても乗ってればと、普通は後悔
することも稀にある。

でも、統計と確率論でいうと、それは絶対的に少である。
だから、人間は二つ以上の答えをいつも用意するのが必定だ。



私のクルマ人生は、1本後の電車、フィアット850という車に、乗ることから
スタートした。
それまで中古国産車2台は、露払いで、勉強になったが、心底面白いには
至らなかったような気がする。

若過ぎて、クルマの何たるかも、理解できていなかったからと、思う。

こんなふうに、フィアットとアルファロメオを較べてみると、自分の30年近い
遍歴も判って来る。

これがオペルとワーゲンとか、シトロエンとプジョーでも良い。
お金の最初からある人は、BMWとポルシェで論じることもできる。

私の買ったチケットは、たまたま安かったから、フィアットになった。

すぐに速い列車に、乗り継がずに、ずっと各停のような旅だったと思う。
昨年、大修理にかけた後、やっと中古のアルファセダンが現れたので、
乗ってみた。

なるほど、ヨーロッパの街道をぶっとばすには、足下のバネ下重量が
軽い方が気持ちよい。
昨年、赤城の方のダートを飛ばしながら、今の私の体力で、どの程度
アグレッシヴな運転が、出来るかが、よくわかった。

前に乗ったローバーの足回りは、英国風で、躾の良い家柄を感じた。
アルファセダンは、もう少し血気の盛んな、イタリア生まれを感じる。

しかし暗い紺色のボディに映る風景は、年老いて行く哀しみを共感しつつ
癒してくれるような古いワインのような味がある。



ひとは、こうして年老いて行くんだなあと、思う。

何をするのも億劫になる前に、乗っとけと言うクルマは、出て来ないかも
しれないが、それが古いハイドロのシトロエンでもよい。
凝縮した味の、昔のイギリスミニでもよい。

イタリア車という変わったものに、私が最初から手を出したのは、
あながち好奇心の方向が、そう間違っていなかったと、この頃思っている。

Posted at 2014/10/13 12:28:10 | トラックバック(0) | うんちく | クルマ
2014年05月20日 イイね!

アジアから日本を見る

アジアから日本を見る5月15日から19日まで、東南アジアのタイに
行きました。
ほとんど居たのは北部のチェンマイです。
帰国したとたんに戒厳令が出たりしましたが、
私の居た場所は平穏でした。

今回はアジアのクルマと人々の生活に着いて
書いていこうと思います。

まず21年前のタイって、こんなクルマが
走っていました。





コルチナ・ロータスで有名なフォードコルチナ。1960年代初期のモデルです。

下はフィアット初の本格FF車、128セダン。その前を走る白いクーペは
2代目プレリュードでなく、サニーベースのRZ1だと思います。
こういう60−70年代のヨーロッパ製オールドタイマーがいくつでも見られた
のが、1993年の訪問時でした。

今回の旅して思ったことは、そうした旧い車が殆どいなくなったことです。
以前は中心地のバンコクでも、こんなクルマが普通に使われていました。



お分かりですか、プジョー504の前の時代になる中型サルーン、
404のごく奇麗な個体が、王宮寺院の駐車スペースに停まっていました。

その頃でも日本車の躍進は著しく、現地ガイドの若いタイ女性は
働いて貯金をして、マツダのピックアップを買うのが夢だと、
話してくれました。



これらヨーロッパの車種は、私には好物の時代のものばかりで、
最新型のクルマは、日本車に置き換えられており、今回はそのときの
予測をさらに肯定するような事実を、見せつけてくれました。

日本車は右ハンドル、左側通行のタイやインドネシアでは強い。
こうやって自動車界の盟主は代わって行くのですが、この20年間に
タイ人の経済力は着実に上昇し、前のようにどんな古いクルマでも
直して使うと言う美点は後退し、戦後の日本経済の歩みのような
新しいものを旺盛に買うのが良いに、なってきたと思います。



これは今回見たワーゲンです。
やはりタイ社会のクルマ好き事情、エンスーについてレポートします。

北部チェンマイは、3、4番目くらいの町で、札幌や博多に該当するの
かもしれません。新設のショッピングモールも出来ました。
一概に運転は飛ばしますが、タイ人の気性は荒くないので、交通トラブルは
無茶は少ないと思いますが、信号が少なく、一方通行やロータリー
合流も珍しく有りません。

旧い車はこの20年でうんと減りました。
大きな駐車場に行くと、10年前後の新しい日本車ばかりでした。
ヨーロッパ車はかつてのプジョーやルノー、フィアットの御3家が
退場して、最新型は全く走っていません。





90年代のルノー19と初代フィアット・プント。このあたりが生存確認
できた最後のヨーロッパ車だと思います。

そうすると、鏡のように見えてきた、今の日本って、どんな国なのか。

そこが今回旅を通じて得られた、一番大きな収穫だったと思う。



まず、日本はアジアの中で突出した物質文明国であるということ。
エンスーみたいな感性や、趣味は、贅沢な国民の国でしか味わえない。

日本もかつては、先進国を追い掛け、追い越せで、いろんな套衣を脱ぎ
捨てて来た。
それでも日本には、真贋の美を見抜く力が有ったし、1000年以上の国の
民衆史があったので、独自の感性や文化が育まれていたと思う。

近代以降の150年は、普通の感覚では生きて行けない体勢変化もあったが、
器用な日本人はカルチャーショックを何度も乗り越えてきたと思う。
きょうの文体にやや国粋的な臭いがしたら謝る。私は民の文化と歴史の
擁護者だ。

日本には今、大変な幸せがまだ残っているのだが、なんとなく不幸感に
取り憑かれて長い。
ちょっと簡単に言えないので、エンスー談義に戻る。

タイ人から見れば新しい、新車に近い日本車を乗ることが、今のサクセスだ。
日本人はそれなのに、中流はプジョーに乗りたがり、やがてBMW、
メルセデスやジャガーに憧れる。これは、半分間違って半分正しいと思う。

プレミアム化とブランド志向は、この15年くらいの日本人の消費動向の
KWだと思う。
じゃあ、世界の中で「より金持ち」「より贅沢」をみんなが目指しているか
というと、それは正しくもないが、無意識に動向しているところはある。



日本には過去に買い貯めたたくさんの「お宝」がある。
人によってはくずやゴミであろう。しかしエンスーと呼ばれるような
ビョーキの人たちには、とっても珍重なものがあるのだ。

タイで20年前に走っていた、古いフィアットやプジョーは、価値観の
相克の前に脆くも捨てられてしまった。
まあ、当たり前に言えば、耐久、消費期限が来ただけである。

今回の旅で一番心に残ったクルマは、出来たばかりのショッピングモール
駐車場で見かけた、黄金色の古い1台のフィアットセダンであった。



日本名でいう132、もしくはアルジェンタ。
おそらくは華僑当たりのおじいさんが、普通の国民が買えなかった時代から
大事に乗っている縁起のいいクルマなんだろう。



私は実は、1993年にタイに行ったのが初めての海外で、その頃は売春
ツアーみたいなのが多くて、業務とは言え嫌で嫌でしようがなかった。

しかし空港に着いて送迎のバスに乗り込んで、窓の外を走っている古い
フィアット、そう132アルジェンタを見てから、海外の見聞を楽しむ
ことを知った、忘れられない1台なのである。

しばらくはこんなシリーズで書いて行こうと思う。

Posted at 2014/05/20 14:08:48 | トラックバック(0) | うんちく | クルマ
2013年11月09日 イイね!

電車で旧車イベントに行った話。

電車で旧車イベントに行った話。11月3日に例年ずっと参加している
「中兵庫クラシックカーフェスティバル」
が今年も兵庫県丹波市旧春日町で開かれた。

私は1999年頃からずっと参加して来たが
今年は旧車のフィアット850を夏の愛知の
イベントの後から車体レストアに出し、
今回は「欠席」した。


しかし見に行くのはいいだろう。

夏から850に代わり活躍しているアルファ75で行くのも悪くはないが、
この会場は福知山線黒井駅から、そう遠くない。

旧春日町役場の本庁の前の駐車場で、100台弱のクルマを
休日に停めて集まるイベントなのだ。

ということで、今回は私の住む大阪府池田市から、兵庫県丹波市まで
国鉄福知山線の後継のJR福知山線で一本で行けるので、
1200円前後の片道運賃を払い、電車で旧車イベントに、珍しく行って
みることにした。




私の住む古い地区から、昔の国鉄の川西池田駅までは、1.5キロ
くらいだが、歩いて県境と川に架かった大きな呉羽橋を渡る。
福知山線一本と行っても、昭和の時代なら直通鈍行があったが、今は
三田と篠山口で2回乗り換えて1時間半ほど掛かった。

ちなみに本箱の奥の1975年の時刻表を見たら2時間半かかっている。
非電化で、ようやく蒸気からディーゼルに変わったが、古い客車で
ごっとんごっとん、福知山から大阪まで大学時代に3時間かけて
旅をした記憶が残っている。

普通列車なのに車販がたしか、回って来て、ビールや弁当を売りに来て
眼を丸くした思い出がある。



イベントは、今年は完全な雨の天気になり、850を出すのに躊躇した
かなと、一瞬考えてた。
黒井駅から会場までは1キロほど。
町の中だが川が横に流れており古い桜の木が紅葉し始めて美しい。

しかし傘をさして、レインコートを着ていたが、結局雨に濡れて
翌日から体調を壊して、数年ぶりに風邪を引いてしまったようだ。

イベントは、結構楽しかった。到着したのが1時を回り、残り物の
炊き込みご飯の弁当を購入して、豚汁は具が無くなっていたので
サービスにしてもらい、やや遅い昼ご飯にした。

福知山線の中で食べてくるのが理想だったのに、篠山口駅でみかけた
ホームの売店にも、駅弁は見つからなかった。




この春日町=中兵庫のイベントは、小じんまりとまとまった好感の
持てる、続いている旧車イベントのひとつであり、中心人物の山本
正博さんの人柄に負うところが大きい。

山本さんと初めて会ったのが、99年か00年に神戸のポートアイランド
にある、ポートピアホテル前の広場で開催された、360フェスティバル
での、一つの出来事だった。

この記事を書いているきょうは、話が飛ぶが、カーグラフィックの
イベントで、同じ兵庫の三木市の道の駅に行き、亡き小林彰太郎
名誉編集長の思い出で、同じ場所に行っていた旧友と、古い思い出話で
フェイスブックで盛り上がった。

その時に知らない同士の我らが、目の前の小林彰太郎に“萌え〜”した
場所が、80年代のモンテミリアの晴舞台であり、ポートピアホテル前の
広場であったのだ。

バブルがはじけて、10年。
アストンやベントレーや、オールドフェラーリを並んでいるのを
見た場所が、360ccの軽自動車ワールドかよ!、とそんときは
軽いショックを受けた印象が有る。
そんな時にあるクルマに私は目が止まった。



スバルR2というクルマのことを、知っている人は少ない。
ポピュラーなスバル360だったら、形はイメージできる人は多いだろう。

360は昭和33(1958)年に登場し、70年頃まで13年間くらい作られた。
60−70年当時の国産自動車が、4年でフルチェンジしていた時代に
長生きだったのは、初期設計がゼロからのスタートであり、技術の
精緻を込めて作られたからと、よく言われる。

それは半分以上間違いではない。が、その分、今でいう成功体験に
富士重工は囚われてしまった。
軽自動車界の第一人者を長く自負したので、後から追い上げて来た、
ホンダやスズキに、気がついたら追いつき、追い越されてしまった
のである。

特に昭和42(1967)年に登場したホンダN360のセンセーショナルな
登場で、軽自動車はいっきに高出力(といっても30−36PS、当時の
グロス表示)に時代が突入したのである。




その頃のスバルは登場そろそろ10年目で、基本設計の良いクルマは
欧州のように、不易と思っていた首脳陣は冷水を浴びせられた。

ホンダの「加速」ぶりは、自動車本体の性能だけでなく、販売にも
如実な結果が、影響し始めたのである。

こうして、「名車」スバル360は、販売方針も180度転換せざるを
得なくなり、パワー競争に突入。スポーツタイプの「ヤングS」と
ツインキャブを装備した「SS」を出して、応戦したのである。

しかし一旦付いた、「古くさくてノロい」というイメージは挽回できず
360の後継車を、急いで世に出さなくてはならない羽目になったのである。
そうして登場したのが、69年に出たスバルR2であった。

ところがR2は、車体デザインは変わり、室内も広くなったが基本設計は
RR/空冷のままで360から大きく進歩したのが、アピールできなかった。
この頃から軽自動車はFFの方が合理的で、広く場所を取れることが
実証し始めたこともあったからである。

R2の苦戦は登場時から予想されたことであり、矢継ぎ早にモデルチェンジを
追加、繰り返した。
とうとう途中から水冷エンジンを搭載。ところが一方でスポーツモデルも
販売面で必要であったため、SSモデルを一旦廃止したが、すぐさま追いかけて
GSSというツインキャブタイプを46年10月に、空冷のまま製造し販売した。

しかし、万策尽きたスバルの軽は、全く新しいデザインとなるレックスを
47(1972)年夏に出して、R2は3年半で明け方の夢と消えるのである。

当時我が輩は中学1年生。盛りが付いたように新型車の発表会ごとに大分の
各ディーラーに行き、カタログを貰って来る生意気なガキと見られていたで
あろう。

「あ〜、GSSだ、珍しいなあ」と360フェスティバル会場で、同行の友人2人に
早口のマシンガントークで、R2GSSの由来を説明していたら、後ろから突然、
「そーなんです、よくご存知で」とオーナーが現れ、仰天!!。




それが山本さんとの、初対面であった。
このイベント紹介の前振りだけで、こんなに原稿を書くとは。

あまりの絶妙の出会いのタイミングに、さすがの私も、たじたじ。
思いっきり知ったかぶりを、語って、破綻していなかったかときくと、
ほとんど正解で、まずこのクルマのことを覚えておられる人は二人目で
空冷/水冷の違いとグリルがダミーと喝破した人は初めてだと表彰された。

そしてなんと、
GSSのエンブレムは、前年に出していたSSのエンブレムに「G」を追加
しただけのもの。SとSは一体で、Gはパッチワークで「後から付けただけ」
と継ぎ目まで見せていただいた(笑)。

これですっかり、お互い知り合うきっかけとなった上、「実は私、こういう
イベントもやってますねん」とチラシをもらう。
「どこですか?春日町って」
第2回中兵庫クラシックカーフェスティバルの案内をいただき、同行の
友人に「キミ360持ってたよな」とオファーするも結局私が、その年から
イベントに参加するようになりました。



その年から、縦に長い兵庫県の南から北への動線移動が始まり、これに
「ちっちゃいクルマ」の縁が重なり、兵庫の草の根イベントの繋がりは
一気に増えました。

この日、車で行けなかったけれど、ちょうど米が切れていたので美味しい
丹波米と、このイベント名物の手作り粉石鹸を仕入れて帰りました。

色んな出会いが有り、途切れたのも有りますが、ほとんど一度友達になると
長くクルマ交遊を続けさせていただいております。

それは、遡れば昭和45年頃に、ませた子供がクルマに興味を持ったことから
始まり、ガキの時の知識が、今日まで役立っているのかと思います。


でもそれと、今回の参加の仕方のように、「たまには電車に乗ってもよいかな」
と私は、あまりクルマに入れ込みません。

僕は中立な考え方で、立っていたいという思いも有ります。
客観的にクルマも鉄道も見ながら、あれこれと、好きなものを発見する喜びも
続けられる理由のひとつでしょう。


そして、出会いの次は、縁と記憶です。

今回の投稿は、参加車両の紹介は、あまりいたしませんでした。
また違った角度で、毎年開かれているイベントにアプローチしたかった。

帰りは柏原まで送ってもらい、宝塚まで有料特急に乗りましたが、
喉が渇いたのでビールでも飲みたかったが、特急なのに車販は回ってこず、
自動販売機の位置表示もありません。スピードアップの代償は、確実に
非日常の旅の愉しみを失わせました。


この次の記事は、10日に突然行って来た、カーグラフィックのイベントを
書く予定です。
きょうも約束がいっぱいあったのに、なぜこのイベントにいくことになったのか、
そのあたりから、書いて行こうと思います。

真夜中も、4時をゆっくり回りましたので、そろそろ終わりとしましょう。
それではまた来週。






Posted at 2013/11/09 00:06:01 | トラックバック(0) | うんちく | クルマ
2013年07月16日 イイね!

70年代と21世紀

70年代と21世紀この所、850クーペを修理に出したので、
昨年から足にしているダイハツミラで、少し
冷える程度にエアコン車生活している。

3連休の真ん中の日に、友人が顔を出す
バーベキューに呼ばれて、着いて行った。

その集まりは女の人や子供も居る、普通の
家族パーティーみたいな感じなのだけど、
元々は、自動車で関西初のエンスー系
ミーティングが、10年ちょっと前に始まって、
数年間続いた。


その時の中心人物らと、その友人の懇親バーベキューなのである。

あれから日本はいろんなことがあった。
世界はもっと変わって行き、中国は日本を抜いて世界2位の大国になった。

中国で日本以上の数のフェラーリが走り回っていても
当然のことだろうと思う。

そんな日本の中に居て、僕らは、これまで、判りやすい幸福を
同じように追求して、同じような実現で満足して来た。



自動車=マイカーと、家=一戸建てやマンション家屋の購入である。

バーベキューには、いろんな家族の形があった。
クルマ乗りの中心人物である男性らは、50代、40代、わずかな30代。
女性は40代と30代。子供連れの子供はうんと小さい。
仮に子供が成人していたら、もうそういう付き合いにはあまり来ない。

そこで思ったのだよね。僕らの幸福実現党じゃなかった、頭の中で考えてる
ことって、70年代この方から、どのくらい進化したのだろうねって。




バーベキューから長い一日は日没くらいまで続いて、その後に結構沢山で
カラオケまで行ってしまった。

その前にも、実は夕方に顔を出してくれた友人がいたり、この日は翌日が
健康診断なので、酔うほど飲まなかったので、ビートというクルマを試乗して
みた。

「これはどんなスポーツカーかというより、『ビート』という乗り物だと
思って運転してみてください」と言われる。
なるほどそんなもんかと、このミニチュアオープンスポーツが登場した時代を
想起しながら、ダイレクト感と、背中の後ろで唸っているエンジン音を体感する。

RRの850クーペに長年乗っているので、結構似ていると思う部分と、2代目
プレリュード以来の、足の短いゴツゴツしたシャーシに生えたシートに座り
運転してるんだなあという、実感に包まれる。なるほどなあ、乗っても面白い。

ゴーカート感覚はトヨタスポーツ800にも似て。



このあと、近くの中小企業の社長宅のような、飲食業サービスのフランチャイズ経営の
大将の家に行き、ガレージハウスと愛車を見せてもらった。

置いてあったのは、フェラーリは1台あったが、それは328時代のものなので、
それ程今日では珍しく思わない。

それより嬉しかったのは、ギャランGTOのGSRの最初期型である。
昭和48年製という。

これは私がランサーの49年に乗っていたので判るが、1600と1700xシリーズのあと、
セリカの2リッターかに合わせて、慌てて出した最強バージョンで、特に初期は
ネジ留めのオーバーフェンダーを誇っている。

親父の趣味は、もう一台の国産ヴィンテージにも溢れている。
フェアレディZ 240ZGである。小豆色のGノーズ装着車である。

ここでピンと来る人はかなり国産車の歴史に詳しい。
そう、両車とも、ビス留めのオーバーフェンダー装着で、新車から正規に登録
出来た数少ない国産車なのである。

昭和47年から48年を挟んで49年前半までかなあ。

TE27レビン・トレノが47年秋。あとは、チェリークーペX1Rと、三菱
ギャランクーペFTO GSR、そしてこの2台と、スカイラインGTRのKPGC10の
リア側。およびKPGC110くらいであろう。



僕らに取って微妙に郷愁を憶える、昭和40年代の最後は、高度経済成長が、石油ショック
で終わり、その上燃料エネルギー転換で、見慣れた風景だった蒸気機関車が次々消えて
いったセンチメンタルな季節だった。

飲食店の大将は、僕より数才上だ。ここまで裸一貫で頑張って来られて、今は趣味に
お金を使える身分になられたのだろう。

フェラーリやポルシェより、共感を憶えるのは、あのころの頑張っていた国産スポーツたち。
最初に乗ったクルマは、FTOの1400時代のGⅢよ、と笑われる。

OHVネプチューンのツインキャブですよね、と私はつま先立ちしなくても、あの時代の
三菱車のことなら、すらすら言える。

普段辛口で、ばっさりクルマのポテンシャルを切り捨てる私も、オヤジの心情を察すると
少し心が熱くなった。



僕ら日本人は、本当に何を幸福として、ここまで走って来たのだろうか。

誰かの影響なんて受けなくても良い。
今頃の世間の顔色も見なくても、これが好きなんだと言うのなら、
俺たちの知る古いクルマに乗り、きょうも古い音楽を聴いていよう。

その後のカラオケ大会では、存分に古い唄を唱って来た。



夏の暑い日が終わり、ミラのハンドルを友人に託して雨上がりの
国道を家路を急ぐ。
ルームライトに照らされ、一日遊んで疲れた友人の横顔が
窓硝子に映る。
今日も良い一日であった。






Posted at 2013/07/16 12:20:44 | トラックバック(0) | うんちく | 趣味

プロフィール

「AI構文と少子化の時代 http://cvw.jp/b/176891/48478480/
何シテル?   06/10 02:28
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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趣味とかその対象はどうなっていくのか 
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2015/02/22 10:52:34
春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
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2014/05/11 05:49:46

愛車一覧

ホンダ スーパーカブ50 プロ ホンダ スーパーカブ50 プロ
中古のスーパーカブを買いました。 原付に乗るのは40年ぶりです。
フィアット 850 車の色は空のいろ。 (フィアット 850)
2016年10月、三年半かかった車体レストアが完了し戦列復帰、その後半年、また以前のよう ...
プジョー その他 26インチのスポルティーフ (プジョー その他)
高校の時から乗っているプジョーです。1975年購入。改造歴多数。数年前に自力でレストアし ...
シトロエン ベルランゴ ゴールデン林檎 (シトロエン ベルランゴ)
還暦過ぎて、最後の増車?!。 見たこともなかった人生初のRV車を、九州生活のレジャーのお ...
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