
最近ロシア国内のことを、よくおそロシアと呼ぶのが
流行っている。
これはロシア国内では当たり前の荒っぽいマナーや
ルールの薄い、日常風景をネット媒介で日本人らが見て、
常識の違いに仰天するのを再び面白がる、
2重のリアクションの反芻のような現代風の諧謔といえよう。
こういう現象を、もし当のロシア人が知ったら苦々しく思うだろうが
普通のロシア人はその境遇のまっただ中に居るので、想像する余裕も無い。
日本にいる日本語の深い意味のわかるインテリ外国人が、ようやくそれを俯瞰
出来ているくらいだろう。
これと似た性質のものに、「修羅の国」という、福岡県の北九州地方を刺す、違った
指す言葉がある。
荒っぽいところなので、暴力団の抗争が絶えない。殺人や暴力事件の発生件数は
昔から高かった。
私はそのエリアに長くいたので知っている。
しかしその頃は、暴力事件の件数が福岡県と東京都を比較すると、人口の何倍も
ある東京より福岡県の方が、時に上回ることを知る人は、殆どいなかった。
私は新聞のデータを見て、親兄弟や高校の友人に「これを見てくれ」と力説していた。
その時代に他府県人が、福岡県のことに興味を持つなど想像の対象では無かったろう。
これもネットの発達により、相対化と俯瞰が見えやすくなったことによる。
「北斗の拳」に出て来る、男の子は死闘を繰り返すのが運命の国と言うのが、
本来の語義だ。
これは不名誉なキツいシャレだと思うが、当の福岡県人や九州の人も面白がって
使っている。
さて少し違うんだが、80年代のことを私はよく書いて来た。
1980年代を知らない90年以降に生まれた人も今や成人になり始めて、改めて
この時代がどうであったか、パワーが本当にあったのか、説明を求められている。
若いカーマニアらが今や、80年代車、90年代前半くらいまでを「ヤングタイマー」と
呼び、好奇の目で見ている。
じゃあ80年代クオリティーとは、どういうことか。
最近クオリティー=品質と言う言葉は、反対にクオリティーの低い時によく使われ
たりする。
時間を守らなかった宅急便の事例に遭遇したネットユーザーが、「さすがは佐川
クオリティー」などと、揶揄るわけである。
本来は大真面目にIRや会社案内しているのを、皮肉って、使っているのである。
私は、仮にいま80年代のものを現代ユースに並べると、どのくらいしょぼいか、
判っている。
それを滑稽ととれるのは、大人の寛容であろう。
テレビのCMひとつでも、80年代はピンからキリまであり、キリは今では「退場」
必至のものが多い。
これは30年の間に、生活のレベルと質が、国民全員向上したことが大きい。
そのくらいまだ粗悪なものが多く残っていた。その中でファミコンが生まれ
電子ゲーム文化が始まり、ウオークマンが発明されて、今に通じるどこでも
音楽の素地が出来た。
またTDLが日本に登場して、遊園地からアトラクション文化で非日常を楽しむ
時代が到来した。
それが80年代の本質なのである。
インノベーションは多かったのである。カラオケエンタメもAV動画もこの時代からだ。
ところで、マスコミについて、専門的に語ってみたい。
80年代はマスコミがめっちゃ元気で、特に広告と消費の文化は最高潮に達していた。
新聞もテレビも元気だったが、新聞は情報企業の優等生として存在するようになり、
主役の座はテレビにとって代わられていた。
あとは雑誌がすごくたくさん作られて、売れる量が今の数倍多かったと思う。
ネットがまだ皆無だった頃は、欲しい情報は活字か電波で入手するしかなかった。
しかし活字文化が誤字脱字を、殆ど追放したのは、活版印刷が終了して、その後
のCTS時代をすぎて、コンピュータ編集の時代が来てからである。
昔の活字文化というのは、手書きやガリ版に毛の生えた程度のものも、結構残っていた。
その中に自称物書きという人々がいて、コピーライターやコラムニストが時代の
花形であった。
殆ど残っていない80年代の3流雑誌を今目撃すると、誤字脱字が想像以上に多い。
先ほど言ったコラムニストらの文章も、えっと思うくらいクオリティーが低い。
それでも、書き手が少なかったので、仕事はあった。
だからというか、80年代で高度なクオリティーのものもあったが、大体はノリや勢い
で、仕事を送り出したものが多かった。
それが緻密になるのは、もうちょっとあとの時代からだ。
今日言いたいことは、80年代的成功観をまだひきずっていては、通用しない
ということだ。
良い例と言うか悪い例がフジテレビである。
私は悪ふざけが100%駄目と言う者でもない。
しかし、あそこまで会社が駄目になった理由は、黄金時代の栄光を勘違いして
上の方に、現代センスに通用しない「立場だけ上司」が残っているからだと思う。
仕事ができない上司ほど、俺の若い頃体験を語りたがる。
おそロシアと佐川クオリティーには、共通項がある。
外に向かって、自分たちはこんなに良い会社、良いカントリーと言ってても
実情は伴わないのが丸見えなのである。
ところが言ったもん勝ち社会の悪弊で、今や謙遜より自己PRにせいを出す。
そして過去の時代の成功体験にいつまでも囚われて、抜け出せない。
時代遅れがひどいと周回になる。
今の時代の空気や、ウオンツが判ってないのに、判ったように錯覚する。
日本は高齢化も進み、その中の人の大半は、進化したくないスタンスという
ことも、影響が大きい。
そして、切磋琢磨を拒否した社会でも、ぬるま湯で案外生き残ったりする。
また、頑張って努力してると言うのが、空回りになっていても気がつかない。
こういうのは、どうしたら、リセット出来るのだろうか。
一番大きく判りやすいのは、比較と客観を練習することだ。
しかし私の文章は、あんまり固く真面目にテーマを追い掛けたくない。
やっぱりおそロシア的な笑われることって、明日は我が身だと言うこと。
そして、80年代的クオリティーって、勘違いがスタートから入っている。
今の時代がベストではないが、運がよかったので、何でも結果オーライという
ことに気がつくべきだった。
今の時代から、80年代を見ることは、懐かしく面白い。
ちょっと元気な中国に似た空気もある。
日本人はここまで、山を登って来たので、俯瞰することには長けている。
ただ、身の振り方としては、もっと高く上るのか、それとも違うアクションを
目指すのか、今は悩ましい時代なんだろう。
圧倒的な高齢者より、もうちょっと若い世代の人に、一番大切なこと、
それは、こんなふうに、時々自分らの立ち位置を見つめ直し、そこから
発想力を豊かにして、次の行動や、趣味の人なら題材を探すことが、面白く
生きるための原動力になるのでは、ないだろうか。