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kotaroのブログ一覧

2012年12月28日 イイね!

マイ・フェイヴァリット・ウインターソングズ










今年も、暮れゆきますなぁ

では、ここからサービスアワー。もう大晦日だよ。




冬と全く関係ない???!!!






おおおおお、イルカの妹が、まさか!

>わいはクレヨンしんちゃんか?



Posted at 2012/12/28 22:52:01 | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | 音楽/映画/テレビ
2012年12月23日 イイね!

鉄とアイドル、ときどきクルマ

鉄とアイドル、ときどきクルマきょうは高尚な話題である。
なんか書きにくいなあと思いつつ、チャレンジするのも
物書きの神髄であろう。

チャレ鉄というのもあった。
チャレンジ2万キロという国鉄末期の乗り潰し鉄に
取り憑かれた哀れな蒼氓の、ローカル支線の列車が
出る駅に着く度、スタンプ帳を握り、硬券入場券を
買い求め、駅名票の前で刹那に記念撮影し、右往左往する
者どもがまだ、後ろ指をさされる前に、山下鉄郎という
読み人知らずが、歌ったんだと思う。なんのこっちゃ。


はい、というわけで、きょうはなぜ、鉄道マニアがきもいのか
もとい、アイドルが好きなのかに着いて、論考しようと思う。
ここはみんから、自動車系SNSで、こういう話題を取り扱うのは
デリケートな面がある。しかし鉄道系のサイトで瞬間炎上しても
先に進めない。


鉄(てつ)というように、鉄道マニアが少し変わった人たちと
言われるようになり、カレコレ30年近い状況になる。
私が現役の頃は1980年代のはじめであった。
その前にSLブームがあった。1967ー75年くらいで、ピークは鉄道100年の
1972年である。

50歳も過ぎて、大人になると、こういうのはどこかに仕掛けをする人がいて
結局儲ける人もいたのだなというくらいの、想像ができる。
鉄道はヨーロッパでは第2次大戦後、すぐに斜陽の危機が来た。

戦後社会が戦争を放棄し、制空権の安全が図られるようになると、民間航空の
大いなる発達の時代が到来したからだ。
アメリカの鉄道衰退はもっと早く、自動車産業の躍進が原因で、1930ー40年代の
不況時に、都市交通の主役の座を奪われてしまった。



ヨーロッパでは1950年代末に、鉄道ルネサンスを目論んでTEE(Trans Europe Express)
という国際特急の合同プロジェクトが立ち上がった。
ちょうどその後に生まれた私の小さな頃は、鉄道の絵本に、ゴッタルドやラインゴールド、
ミストラルにシザルパン、そしてイタリアのセッテ・ベロという特急列車が色とりどりに
紹介され子供心に、大いなる鉄道好きを醸成されたものであった。



そんな私が大学に入った1970年代後半は、鉄道少年たちが成長し最高学府に
進学する時期に当たったのであろう。大学の鉄研(鉄道研究会)はどこも部員が多く、
私のいたサークルも現役会員数は70名を超えていた。

鉄道趣味と、自動車の趣味を、同列化することは、ひょっとしたら今日の方が
色分けの重なる部分が深い。昔は鉄道は、本好きの子供が、時刻表も読めるようになり
やがて外に出て、カメラを持てるようになり、実際に乗りに行くことも可能になり、
写真撮影や旅行などを自己実現する“ハウス”な趣味であった。
幼児プレイ(悪い意味でなく正統な意味で)の延長で、鉄道模型というホビーもあった。
僕らの小学生時代に「トミーのプラレール」という『発明』もあった。
それを卒業し、HOゲージやNゲージという、やや高級な本物志向というお金の掛かる
遊びもありました。

いっぽう自動車の世界は、いまはともかく、昔は体育会系でもあり、ある意味オンナに
モテようと言う軟派な雰囲気もあった。映画「若大将」シリーズで、かたき役の田中邦衛の
演じる青大将が、MGのオープンカーに乗って邪魔をする、あれである。

鉄は硬派である。研究者のふぜいのある実物研究派。そのまま電鉄に入って車両部に
配属になり、運転技術や、Sーミンデンやボルスターアンカの研究開発に、こよなく
魂の情熱を燃やしたりする学者肌も多い。山岳登山をものとしない、ある意味求道者の
ような広田尚敬を師と仰ぐ撮影派。旅行好きから、やや柔らかくなる。
模型好きはヘンな人か坊ちゃん。ここら辺は自動車のモデラーとかぶる。



体育会系の白洲次郎などに代表される、自動車好きのオイリーボーイと呼ばれる
汗をかいたスポーツマンな匂いと、鉄道マニアの脂ぎったO’タッキーな臭いが
どこから混在しはじめたのであろう。
笑い話をまじめに考えるのが、本論なのであるが、それは80年代くらいから
ではないか。

オタクという分類が出て来たのが、80年代前半で、対象になったのは、
当時生産性の無い趣味と呼ばれたアニメとか、アイドルとかであり、それに
時代遅れ感のある鉄道趣味も、不毛な趣味のように言われて、カテゴライズ
されかけていた。
どちらかというとSLブーム以降の鉄道好きは、大人しいタイプが中心になった。

SLブームの頃は、まだ学生運動の火が消えておらず、下火になった時代である。
文化系サークルの学生は、やたら理屈ぽかったのである。
ところがキャンパスライフの軟弱化(と、当時は言われた。今は当たり前)が
70年代の終わりより始まった。これは影では学生運動の骨抜きの策がとられた
と言われている。その後、訳の判らぬ女子大生ブームが来て「レジャーランド」と
呼ばれた時代もあった。


ここで、男性の趣味脳について、考えてみる。
私は「鉄道マニアは分類癖がある」というのが、持論だ。



身体を動かす趣味から、頭で楽しむ趣味の時代が来た。「おたく」と言うのは
そのハシリだったのではないかと、思う。
アイドルの時代は、私は1972年以降ではないかと思う。
音楽やレコードの耳から入る部分を、テレビや雑誌グラビアの目から入る
部分が凌駕した時に、化学変換が起きたのだと思う。

そうすると、人間は頭で趣味を構築する楽しみ方をおぼえた。
鉄道趣味は、非常に広範な趣味なのであるが、現在の主流は頭で楽しむ部分に
比重が移っている。もちろん従来型の楽しみを実践されている、昔ながらの
ベテランも多く残っていて良い。

「水と油」であったものが、次々とオーバーラップして行った80年代、
アイドルと鉄道を結びつける牽強付会に、抵抗意見も当然あった。
そこに私は、頭脳で楽しむ趣味が広がっていくことを感じていた。
70年代のアイドル歌手は、まだ「同級生的」な身近なスターであり、
『スター誕生』というオーディション番組の風靡のように、私は、
「上京列車」が、東京駅に入線するように、彼女らの出身地と在来線の駅名を
頭におぼえ、描いていた。

80年代に入ると、地方の色は年を追うごとに薄れて行った。新幹線も博多から
数時間で東京に着くのは当たり前。東北も、新潟も、新幹線交通圏になって
いった。
鉄道趣味は急速に日常と非日常の温度差が薄くなり、「地方を訪ねる」のに
辛苦を重ねることは、問う以前になったのではないか。



1980年代が終わる頃には、哀しいかな(私は、だが)もうアイドル歌手に
うつつを抜かす暇人は、ごっそりいなくなってしまった。レコード会社と芸能プロ
ダクションは、もっと儲かる金儲けに向かってしまったからである。
鉄道趣味も、ノスタルジックな夢に浸る趣味の時代に入ってしまっていた。
個人的に、子供の頃に名前を見た記憶のある、30歳くらい上の50年代や60年代の
「フロントランナー」たちがまだ現役で、企業戦士を引退しかけた彼らから、
「豊饒の時代の話」を聴くことに、私はひたすら浪漫に耽溺するようになった。
鉄道趣味は過去の話だけで良いと。

そんなわたしは、何をしてきたかというと、ご覧の通りのクルマの趣味である。
こっちをメインに据えて、他の趣味は、からかわれた時に、舐めちゃいけないよ、と
鋭い刃物を出す程度にしてきた。いつの間にか刃先は錆びて、使い物にならなく
なってしまった。

「ときどき」の方が今は土台が大きい。
こっちは、かなり身体を使ってやっていることもあり、頭の中の趣味は、こう
やって変な文章を書くときと、頼まれた時に解説をするくらいだ。


さあ、きょうは訳の判らない原稿になってしまった。どうまとめよう。
鉄道オタクの前原君と、「キャンディーズ命」だった石破さんの闘いでは
ないが、いよいよこういう世代の時代だなあと、感じることは多い。
最近は私のサイトは女性が殆ど読まないページになってしまったが、まあいいか。
大掃除をする日に手を止めて読んでくれている人もいるだろう。




今日は、これから「廃墟」の好きな人たちと、忘年会である。
そろそろ日も暮れかけているが、あたらしき発見もあればと思い、
これから出かける。帰ってきてから、中途半端な議論を、もう少し
続けてみようと思う。








Posted at 2012/12/23 13:07:20 | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | その他
2012年12月10日 イイね!

海が泣いている

松本隆 筒美京平





海に降る雪

小此木七枝子 網倉一也




白いあなた





ピッツア・ハウス22時

松本隆 筒美京平



茨木ヴィンテージカーで、奮闘の紺の豚さんへ
労いの意味を兼ねて、太田裕美の冬の歌と夜っぽいのを集めました。


夜路四久!




「さらばシベリア鉄道」

松本隆 大滝詠一






探していて気付いたけれど、

太田裕美のユーチューブは

加熱し過ぎていると思う。

CBSソニー時代の、秘蔵ソフトがあったら、ごっつ売れますよ。



Posted at 2012/12/10 14:36:03 | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | 趣味
2012年08月19日 イイね!

車と社会の関係は、どう変わって行ったのか

70年代の頭と言うのは、60年代の高度経済成長の最後のランである。
この時代、日本の車は形が良くなった。
代表選手は初代のセリカクーペ(TA25)とギャランGTOというのが
個人的意見である。
ベストカーガイドを時々買うが、年がら年中この時代のことを書いている。
車が社会に愛された時代であったし、飛び抜けた金持ちも少なかったのだろう。



石油ショックと排ガス規制、この2つが日本車の転換点になったことを書く。
石油ショックは1973年の秋に原油価格が暴騰し、翌年までにすべての基本単価が
跳ね上がった現象のことである。
今のデフレ社会で、物価と言うものが全く上がらないことになれている日本人には
一番ピンと来ない感覚であろう。
この当時は、電車の運賃、郵便料金、そしてガソリン価格などが年々上がった。
自動車の新車もモデルチェンジ無しに上がることが有ったのである。



60年代の10年は、給料だけ上がり、郵便や国鉄の料金は変化が殆どなかった。
だから大方の国民が、消費に没頭し、マイカーの夢に邁進できたのである。
こんな時代は、バブルとは違う意味でおそらく2度とというか、当分無いであろう。
排ガス規制は、前回書いた公害問題を受けてである。マスキー法という米国流の
国家目標が日本も見習うことに成る。これをやったのは日本とアメリカだけで、
ヨーロッパはやっていない。ヨーロッパがクリーンな排ガスになるのは、技術と
社会全体が対応できる80年代後半以降で、それでも東側が崩壊した89年以降、
東ドイツや共産圏の車の現実に、西側はぞっとした(社会主義の「幽霊」を見た)
のである。


日本は近年やっと、アメリカの従属国にさせかけられていたことを知る。
21世紀に入ってこれが一番の変化だと思う。しかし悪いことばかりでない。
日本は本家をしのぐ技術改良で、昭和48年、51年、53年の「3段規制」を
くぐり抜け、世界でも有数の自動車王国になった。これは販売数値で味付けとか
乗り心地は、もう少し後の時代の課題になる。
73ー75年の3年間は、自動車の話題は地味なものになる。
特にモータースポーツは60年代のように一般芸能級の扱いで無くなり、
ひとことで言うとスポーツ新聞には載らない。あれはギャンブルと準ギャンブル
の「オッサンの世界」だからだ。
この時代を象徴する1台と言えば、ホンダシビック(初代)に尽きる。
アコード、プレリュードに発展し、今日のホンダの礎を作ったことは、日本人と
して忘れてはならない。

排ガス規制で一時おちた性能を挽回し、それを上回る「新車の魅力」を発揮し
始めるのが77ー79年。三菱ミラージュ(初代)、70系カローラシリーズ、
3代目シルビアといったところで、排ガス規制の呪縛を日本車は振り切った。
80年のFFファミリアが一つの到達点であろう。こけおどしでない、良質の
日本車は、海外で飛ぶように売れて行ったのである。



主流だった板バネリジッドのサスペンションが、トラックだけになり、日本車は
質・量共に80年代の「充実の10年」を迎える。自動車雑誌が雑誌売場の主役となり、
趣味から生活分野に裾野を広げたことは、広告の主張を見ても判る。
国産車はもう、間に合わせの移動手段ではなくなり、贅沢な空間は生活の
繁栄を象徴し、81年のトヨタソアラの登場から国産車は、一つの方向に向かい始めた。
それは「消費」である。ただし得るものがあれば、失うものもある。安全対策が至急の
是となる一方、クルマ社会にまつわる空気が、急速に保守化して行ったのである。

私はクルマと言うのは一定の社会的ルールの上で約束を守れば、個人が運転し
その能力に応じて(技倆、経験、資産等)自由に路上をドローイングできる遊戯
機械とも思っている。
そこに掣肘が加えられる度に、嘆息してみたり、いやこれで良いと自認してみたり、
クルママスコミの面白さは、そこにあったと思っている。
自動車雑誌が百花繚乱的になる一方で、粗製濫造が面白さを薄めて行った
一つの原因でもあったが、もう一つの側面は「志」が無くなったことにあると思う。
一流二流の違いは、組織や待遇、全体の総合力等に表れる。校正ミスの多さとか
多少は乱暴でも勢いのあるメディアの面白さとか、そこが私のようなひねくれ者
には、ウオッチの楽しみであった。

この前回からの寄稿は話が長い。60年代、70年代と社会の資本成長で普段の
生活は無いものが普通になり、個人的幸福の追求は充足の一方何を薄れさせて
いくのだろうかと。
80年代は実に面白い時代であったが、単面的にバブルの影響で心の問題が
起きて人間の心が退化したという意見もよく見掛ける。
私は現状を招いたのは、実は90年代の「踊り方」だったのではないかと思っている。
ヨーロッパは社会が大きく変わり、アメリカは方針を転換した。
日本人の多くがまだ覚め切れずに昔の夢を見ていたのか。
確かに私は独自の路線を変えなかったし、取材を受けた自動車と生活を好んで
取り上げる雑誌の編集者から、「kotaroさんの意見はいつもシビアですね」という
感想をもらったこともある。シビアか、俺は現実的過ぎという意味だろうかと、少し
落ち込みかかったが、その雑誌も2年前の春に休刊した。

何故シビアだったのかは、責任を持って遊ぶ、ということが基本であるからである。
古い車に乗り続けることは、後ろめたくなってはいけないし、多少の甘えが
「許してもらえるだろう」という発想になってはいけないからである。
それでもたまには故障するが、復旧する能力はドライバーに帰結している。
初めからハンデがあれば、クルマに乗るときは増慢してはいけないが、
私は苦行僧でもない。そんな私の周囲で、いろんな状況が移り変わっていった。

そろそろ結論にもっていこう。90年代の世界地図を大きく塗り替えて行ったのは
ネット社会の確立と、今日にいたるインフラ的普及である。
ネットはもう否定のできない現実であるし、このような個人表現を開陳できる
のも近代ツールのお陰である。
このネットをどう使うかなのだが、ネット以前に趣味的価値観が確立していた
のと、そうでないのでは、大きく世界観が異なる。
私は事実しか信用しないし、ネットの評価は、あくまで側面だと思う。影響を
受けるのは非常に桁違いの広いゾーンになった。

だからこれから、2010年代の残りについて、8年くらいあるが極端な悲観もない。
メディアには伸長衰退があるだろう。クルマという自走出来るパーソナル
メディアについて。緩やかにガソリン車は衰退するかもしれないが、過去の
プロダクツたちには、レコードの名盤のようにフェイヴァリットなものを楽しむ
余裕は無くならないのではないか。たとえ第二次大戦の戦争中でも、命と
火災ですべてを失わなかったディレッタントたちには、戦後の自由がくれば
また楽しんでやろうと、密かな意思があった筈である。

長い話になったが、1929年築の長屋の2階で煮えながらこんな原稿を
書くのも風流と言えば一興である。夏の午後、このあたりで一旦筆を置く。
































Posted at 2012/08/19 10:07:45 | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | クルマ
2012年06月21日 イイね!

雨夜の恋歌語り

よく降りますね。
明日は夏至だと言うのに、空がこんなに曇っていては。

今夜はこの辺からいきましょう。



作詞作曲/秋元/後藤のおニャン子時代の最強コンビ。
サンルーフから見上げる夜景の雨。
この時代ならではの81年グラスサンルーフ解禁以降の曲だ。
日本車で初採用は、初代プレリュードのXXRではなかったけ。



後藤次利はこの頃、CBSソニーにFitzBeatレーベルを開設して
レベッカらをプロデュース。自らもベースプレイを軸に
打楽器のような音域のインストアルバムを何枚か出している。



このアルバムジャケットは、藤原新也。場所は後年行ってみて判った。
イスタンブールのボスフォラス海峡だ。遠景に浮かぶドームはアヤソフィア。

サウンドは此処から聴いて欲しい。



海のシーンから、こんな写真を借りてきた。
いすゞジェミニのオリジナル。オペルカデット。

雨を話題にこういう曲も想い出す。
ガゼボの「アイライクショパン」をユーミンが邦訳詞した
名曲。



この頽廃的な美女が誰か、若い人には判らないかもしれないが、
私たち男子高校生が、同級生の化粧品店に押し掛けてポスターを
取り合った思い出のCM

こんなに健康的だったのだよ。






いすゞ好きのぺんちゃんのために、ジェミニのポスターも蔵出ししよう。



出典の雑誌から、ファンのために秘蔵の写真も特別展示しよう。







きょうは、とっておきの、1980年代の一曲を出して見る。
これは大滝詠一の「雨のウエンズディ」を念頭において聴いて欲しい。

あまり有名な曲でないのだが、夏になると、よくかけて聴いている。



おんぼろのワーゲン。夏の陽に灼けた切ない思い出のクルマ。

しっかり動かないワイパーの雨のドライブに、過ぎた季節を
いま、想う。

本歌取りという日本的な手法であるが、面白い。

のんびりと、本歌を聴いてみる

やっぱり雨の日といっても、夏は海に行きたくなる。
そういった、時間の習俗を繰り返しても、そこのシーンに
何が似合うのだろう。ぴかぴかのクルマより、少しやれた
くたびれたクーペや、ピックアップなんかあれば、最高なのでは
ないだろうか。




ずばり「雨の日のドライブ」 遠藤京子



こんな曲が普通に作られていたように、80年代は若者とクルマの
シーンが密接であったのだろう。
春夏秋冬、雨の日も晴れの日も、海でも都会の中でも、クルマの
シーンの出てくる音楽が多かったのは、生活を彩っていたというわけだ。





さあ、そろそろ最後の曲です。
もう眠る時間になってきました。

定番曲というと、「ドラマティック レイン」かなと思ったのですが
映像がピタッと来るのがないので、この曲にしました。

青春の傷跡を、想い出して聴いて下さい。



クルマは直接出て来ないけれど、本当にあの頃は、毎晩クルマを深夜まで
転がしていたなあ。
それはまた次回。











Posted at 2012/06/21 23:54:54 | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | 音楽/映画/テレビ

プロフィール

「暴論と思うが日産をトヨタが救済することは無理だろうか http://cvw.jp/b/176891/48492730/
何シテル?   06/18 16:04
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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2020/04/01 18:15:22
タイ製L70ミラ・ピックアップのすべて 
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春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
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