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kotaroのブログ一覧

2013年12月23日 イイね!

12月の旅人

12月の旅人18日から20日まで、青春18切符を使い
旅行に出ていました。
家を出た時には、ポッケにはたしかに
クルマのキーが入っていたのですが
気がつくと、JRの川西池田の駅に来ており、
そこで青春18切符を買い込み、大阪行きの
電車に乗り込まず、北へ、山陰方面に行く
電車に座っていました。




最初に篠山口で、接続が無かったので30分、雨の中追い抜いて行く特急を見送ります。
正月が近いのか、木に生った赤い実が、寂しい風景に色を添えました。





福知山に着いたのは、昼を回り、大きくなった高架駅の階下に下りてみると
但馬の竹田城が近年一際有名になり、同じ丹但方面とは言え、駅に特別の観光を
呼び起こす文字盤がつけられていました。
福知山の隣にも、丹波竹田があるので、非常に紛らわしいので、降りる駅を間違え
ないように。「天空の城」は播但線の竹田駅で、和田山の隣です。

福知山駅に13時半で、次の豊岡方面行きの普通列車は15時です。
あまりに時間が勿体ないので、山陰線を京都方面に15キロ戻り、その間、
綾部に行くことにしました。
これは福知山駅前にある飲食風俗店ですが、「東京」という憧れワードが泣かせます。



上り列車を待っていると、宮福線(丹後鉄道)直通のこんなタコ坊主みたいな
特急も走ってきました。



これが綾部の駅前。がくんと来る昭和な風景で、JRの駅だけが立派になり
官民格差を感じて仕方ありません。あ、この辺は四方という名字は多いので
ありませんは返上です。



駅はこんなに立派になったけど、


駅前のタクシー業の営業品目に、いきなり
「寝台車」と出てくるのは、これが需要があるということ。
しかし夜行列車もなくなり、そのうちに寝台車=霊柩車みたいな条件反射も
不思議で無くなるのかもしれない。


元の弁当店。昔は駅弁を仕出ししていたのだろうか。



古い旅館が見える。
綾部にはビジネスホテルが2つあり、そのうちの1つに10年くらい前に
発作的に泊まってみたことがある。夜歩いてみたが、何も無いところだった。



新女性というネーミングの美容店。この1950年代感が、たまらなくオッシャレ♪



長い開口部を持つ木造の自動車整備工場兼、販売店。
これって、なかなか残っていない。



食糧のうち、このジャンルは何になるのか、の販売店の看板。
小売りでなく卸業で、儲けられた時代のメモリーだ。



風呂屋(銭湯)がありました。
現役で営業中なのか、この時間には判断しにくい。
ただ、燃料の臭いがしていないので、止めている可能性が高い。



石材店と古い街並が残っている。
たまに写真集で昭和30年頃の風景を見ると、一応に均質性があって、僕は大変
美しいと思う。また、バスや車や、鉄道などの乗り物もすべて地味に出来ていて、
似合っている。
いま、その当時の生活には戻れないが、なんで日本の風景はこんなに悪くなって
しまったのか。古い風景を見るたびに感じてしまう。



綾部編の最後は、昭和40年代から50年代建築らしい当時の大病院。
ここでお腹が冷えてきたのでトイレを借りました。
従業員も医者も患者も皆、高齢者の町でした。便所掃除のおばちゃんも。



この現実を皆さん、どうしたらいいと思います?
都会ならとうに建替えて最新近代設備の病院になれている。
僕は多少古くても、建物の塗装は綺麗にして、手を入れてヨーロッパ
みたいにして使うべきと思います。

そのためには、若い人を増やすというか、住民比率のバランスをとる
ことが大事。また、最新じゃなくても、ある程度は綺麗にして、住んで
働いてみたい町にする。入院したい病院にする。
ぼくのクルマ生活みたいな、考え方をする日本人がもっと増えて来ても、
いいのじゃないかな。

もう少し続けます。
Posted at 2013/12/23 11:53:43 | トラックバック(0) | 鉄100% | 旅行/地域
2013年09月25日 イイね!

東海道西下と長旅のラスト編

東海道西下と長旅のラスト編8月30日に新幹線に乗って東京入りして
5日が経った。
サラリーマン時代は、こんな長い自由な時間は
20年勤続の褒美で1週間もらった時以外は
なく、私は旅することに、憧れていた。

今は何かを失い、何かを得た。
まだ会社員気質の抜けない自営業の友人からは
今回の旅から戻ると、厳しい批判をいただいた。
いつまでもぶらぶらと生きるなと。

私は衝撃を受けたが間違っていると思わなかった。
30数年離れてしまった友情は、壊れてしまったが、仕方が無い。
死ぬまで働くのが、人生なら、自由に生きるも人生。
主にその覚悟はありきやと。

さて静岡の朝は、東海道線で西下することから始めた。
前の晩に飲んでいるので、食欲があまり湧かない。
新聞と水を駅で買って浜松往きの電車に席を取った。
平日の通勤時間帯に、自由人が旅することは、淋しくて嬉しいような気分だ。
まずはここに行ってみようと、金谷駅で電車を降りた。大井川鉄道の電車があれば
千頭まで行ってみようと。




大井川には長男が6歳くらいの時に、大学の鉄道サークル周年行事で
初めて全線を乗っている。一番奥の井川駅まで、山岳鉄道にも子連れで乗車して
エキサイティングな経験をしているのである。あれから15年経ったのだろう。
その時に、金谷駅の乗り換えホームから、眺めの良い鎮守の森が見えたのが嬉しかった。
秋葉神社、ここは家康の東照権現信仰の、強い地なのだと判った。
今回は乗り換えに25分くらいあって、一人の自由行動なので、参拝が出来た。
大変気持ちのよいお宮なので、時間がある方は、参拝することを是非勧める。
さて大井川鉄道の駅に戻ろう。



駅の建物は平凡な外観だが、中は非常に中小私鉄情緒が濃い。
SL運転は大井川鉄道の副業だが、主要経営の柱であるので、マニア客に媚びた
最近の鉄道ブーム以前からの、鉄道好き歓迎感が漂っている。
500円の幕の内弁当は立派な包装ではないが、コンビニ弁当よりずっと味のある
鉄道弁当の姿をしていたので、迷わず朝飯用にそれを買い込んだ。
千頭まで1時間半くらいかかるが、片道1800円強も、今は文句は言わない。
自分だけのホリデーなのだから。
そして鉄道旅の醍醐味なのか、朝から冷えたサッポロの缶ビールまでケースに
並んでいる。私は日本人の道徳感から、少し違うタイプなので、まあいいかと
それも買い、元京阪の特急車に乗り込んだ。





鉄道の説明は長くはしない。当初は電源開発目的で最奥地までは、峡谷鉄道のような
登山電車が結んでいるが、非常な険阻であり、井川線がないと交通の遮断される僻地である。
しかし東海道線金谷駅と千頭間の30キロくらいは、大きな川に沿った茶畑の中を行く
ローカル電車ラインであった。そこに1970年頃のSLブームの時に、東京からも来られる
距離なので、蒸気機関車を積極的に採用して、観光鉄道に一変させた。それがこの線で
ある。

金谷を出ると、すぐに車両基地のある新金谷に到着する。旧東海道の宿場町も、こちらが
近く、町の中心と言う感じである。両駅間を結ぶ列車は、本数が一番多い。
新金谷に着くと国鉄時代の古い客車が留置されている。SL列車用に払い下げられた物だが
車窓の外を見ていると、昔の国鉄の駅に着いたような錯覚を起こしそうになる。
しかし架線柱があり、ここは電化私鉄の一駅と言う現実にも気がつく。一昨日に乗った
流鉄に近いともいえよう。





千頭までの区間で、何度か対向列車と行き違う。使われている電車は、この元京阪
3000系の他に、元南海の21001と元近鉄の16000とすべて元関西私鉄組である。
野球選手に例えればバッファローズやホークスの往年のスターをかき集めた球団のよう。
しかし待遇が悪いのか電車は使いっぱなしで、みな薄汚れている。ここは新興チーム
でなく、安い俸給で彼らたちを再雇用している、マスターズリーグの一球団なのだと判った。






ご覧の写真は、乗車中の京阪3000系の天井灯である。カバーの中にかなりの川虫が、
灯りめがけて飛び込んだのか、屍骸だらけである。これを見て、都落ちを哀れむ人も
居ても良い。しかし宇治線あたりに転属していたら、やはり夏の害虫の大量発生に
悩んでいたであろう。人の人生は、様々である。



千頭に着くと、井川線が数分で接続していた。乗ってみたいがさすがに戻るのに
時間がかかる。お伽の国のような列車の発車を見送り、次の戻る時間まで小一時間
鉄道パノラマの主人公たちをゆっくりと観察することにした。





千頭駅の構内は私鉄とは思えぬ程に広い。
その端の方に休車中の電車群が、廃車のような状態で並んでいる。
元同じ静岡の岳南鉄道のステンレス製車体の電車。日車製と思う。
この車両は新製当時に、日本の技術を売り込むためのエカフェという鉄道技術展が
国内で開催されて、外国からのギャラリーの前に展示された誇らしい歴史を持つ
電車である。



近鉄の名古屋線元特急車の電車。
平凡ながらも完成された、旧近鉄型電車の顔とスタイルをよく保っている。
屋根の通風器とか、近鉄型の特徴を余す無く伝えてくれているが、本社には保存車が
無いので、とても貴重だと感じた。建築保存のことを手伝っているので、これは絶対
残すべき電車だろうと思う。


一方これは正面2枚窓の湘南スタイルを良く残す、旧西武鉄道型の電車だ。
電装機器は昔の国鉄型で、性能的には平凡だが、流山鉄道にも残っているのは
ずっと後の方の西武型電車であり、親会社に戻って記念運転用に使われると
幸せだろうと思うが、ご存知のように西武は外国人投資筋から、一部路線の
廃止まで提言される苦境ぶりである。鉄道文化財団がこの国にあれば、そういった
組織で、解体せずに残して欲しい電車でもある。



大井川鉄道にスペースを割き過ぎるのも、難なので、帰る途上ですれ違った
SL列車の写真で終わりにする。平日の午前中、殆ど乗客もない鉄道を維持するのは
使い古した車両と観光運転しか方策が無いのかもしれないが、この鉄道も存在意義を
別に見出したサバイバルラインの一つと知って欲しい。



さあ次の目的地に向かおう。掛川から天竜浜名湖ライン、昔の国鉄二俣線に乗ろうと
思って金谷に戻ったのだが、朝ビールと空いた電車の冷房が効きすぎて、乗り換え時に
小用を足すのに時間がかかり、一本乗り遅れてしまった、もうお昼である。
そこで掛川を飛ばして、浜松まで進み、そこから遠州鉄道で終点を目指して、
そこから天竜浜名湖鉄道に乗ることに決めた。

お昼も大井川鉄道製の鉄弁にした。これがその写真。



次の東海道線が来るまでの金谷駅の表情。きょうも暑いし雲もくっきりした晴天だ。



新浜松駅に憩う遠鉄電車。赤一色は京浜急行を思わせるが、デザインは独特の
スタイルである。少し最近の路面電車に似ている。



遠鉄電車の沿線風景は、途中まで高架線で、地上に降りても風景は平凡で
特筆することは無い。しかし終点の西鹿島駅に着いて、この鉄道の評価が
変わった。
ここは元国鉄の二俣線との連絡駅であるが、駅の多くは遠鉄の所有である。
駅本屋も遠鉄の物で、古いが手入れがよく美しい。
また遠鉄の車庫もここにあるが、結構古い電車が、ラッシュアワー用に残してあり、
しかも状態が綺麗で良いのには驚いた。





先ほどまでの大井川鉄道の電車は、安く買ってきたセコハンを、悪く言うと
使い捨てるまで酷使して、次の電車を大手私鉄から買い求めている。
しかし遠鉄は、看板駅である新浜松は大手私鉄に負けないくらいの立派な
ターミナルで、実際に走る電車は、昼間は2両だが、そこにプライドを感じた。



というのは、西鹿島で、昼の暇な時間は、従業員たちが電車を一生懸命磨いて、
大事にしているのである。
私の愛車も、安いミラを引き取って、手を入れて1年乗り、今度も名車だが
アルファロメオ75を相場より安く買ってきて、乗り始めた。
古い電車や、古い駅舎を大事にすることは、案外難しい。

お金があれば、新車を買い、駅ビルも建て替えるであろう。しかしその後で
景気の落ち込みが有ると、経営は苦しくなり、駅や電車はすぐにボロくなる。
遠鉄はちょっと違うな。東海圏だから景気が少し良いとしても、踊らない堅実な
地方私鉄の範を見た気がして、私は鉄道ファンとして、少し嬉しくなった。

さて天竜浜名湖鉄道は、旧国鉄を3セクに転換した地方交通線だが、路線が長く
浜名湖に沿った風光明媚な路線であるので、レールバス1台のロングラン運行は
資源を活かしきれていないと、少し残念に思った。





国鉄時代の末期に、当時はイケイケの景気であったが、今は無くなった流通企業
ヤオハンの社長が買取って、主要駅に店舗展開して経営を肩代わりするという
計画が発表されたことがあった。

アイデア、思い付きとしては面白いが、当時の日本人や商人は、そのくらいの
発言を言えるくらいの元気があった。
二俣線を小売り流通業に払い下げるプランは、反対等で実現に至らず、その後
中国大陸に打って出たヤオハンは、大型デパート建設で、ことごとく失敗して、
流通界の風雲児も流星のように消えた。

その鉄道を今乗ってみると、経営次第では、観光と商業モール建設で、採算も
とれるのではと、感じた。なんと言っても風景が良いのである。
しかし一番湖岸に接して、昭和30年代は鉄道写真の名所であった佐久米駅は、
今はご覧のように、東名自動車道が目の前を塞いでしまい、値千金だった風光は
台無しである。



車窓の、眺望権など、鉄道利用者が遺失利益を訴えてもおかしくない。
ここに私は、日本が戦後に失った開発主導型の、調和の無い行政を見た気がした。
失った資産の価値は大きい。

その後は新所原から東海道線に再び乗車し、豊橋ー岐阜間は特別快速。
岐阜からは、高山から一日1本出ている大阪行きの特急「ひだ」の自由席に
乗り込んだ。
生憎関ヶ原付近で、嵐のような豪雨になり、カミンズエンジン自慢のキハ85の
俊足は思い切り味わうことは、出来なかった。

夜の8時過ぎに大阪駅に到着して、今回の旅の意味を考えてみた。
房総半島のジャーナリストとの「修学旅行」。
軽井沢在住の写真家との邂逅。
数日前の記憶が、遠い昔のように感じられるのは、旅というのは記憶の
上書きをしながら、次の目的地に向かい、新しい感動や、見聞を求める特殊な
行為の連続だからである。
その日常が終わった瞬間に、人間は我に戻り、無力感も感じれば、無事に戻れた
幸福感も深く味わう。

関西に住む一男性が、これほど大きな日本を感じることは、あまりない。
しかし、戻ってみれば暑苦しい日常がそこに待っていた。
次は何を求めて、どこに私は、放浪うのであろうか。

(完)

Posted at 2013/09/25 13:33:33 | トラックバック(0) | 鉄100% | 旅行/地域
2013年09月06日 イイね!

関西人 東京に現れる

関西人 東京に現れる先月の30日から3日まで
長い旅に行ってきました。

今回は暑いので、自動車の利用を
見送りコストはかかりますが、その分、
交通機関と言う当たり前のものを、
趣味的に見直してみることに
挑戦しました。


まずはこれは、行きの新幹線の車内から撮れた、車両の中で珍しいと思った、
現役のDD51。名古屋付近。初期のものは昭和37、8年登場で、新しい物でも
昭和50年頃だから、いまみると、結構カッコ良い。キャブ付近のデザイン、
しびれませんか。



名鉄のセントレア直通特急車。簡素な前面デザインはJR東の成田エキスプレスの
影響と思います。名古屋的ゴージャスを止めているので、インパクトが薄い。
ポケモンジェットのシンボルを車体に書いて、利用の落ちている空港をアピール。



JR東海、在来線非電化区間の特急車、キハ85。カミンズエンジンの性能の良さを
見せつけられる俊足は、ディーゼルのイメージを一新させたと思います。



同じく快速「みえ」用のキハ75。急行用キハ58の置き換えに、3ドアセミクロスで
登場。全国的にも珍しい、亜幹線用の高性能急行車。電車のコンセプトにかなり近い。





名古屋駅の新と旧。といってもツインタワーも登場して10年以上。
旧の方、JRホームの端の先にある国鉄時代からの、職員詰所。昭和40ー50年代か。
ちょっと気になるデザインなので、パチリ。



名古屋東京間、公団系の団地か。こういった簡素デザインは元社会主義圏に多い。
日本にも、戦後社会主義的な考え方の時代があったということを、あらためて見直す。



東京駅から安房館山行きの高速バスに乗り換える。これは駅に一番近い首都高京橋入り口。
巨体のバスが、サーカス芸のようにこの狭いゲートを通り抜けるのに、田舎者は仰天。



遠くに東京スカイツリーが見える。まだ行ったことは無い。やがてはシンボルになるか。







東京湾アクアライン入り口。次は海の上を走る区間。木更津で千葉県に上陸後は
高速は房総半島の山の中を走り、海も殆ど見えない単調な風景ばかりでした。



高速を下りて房総半島の観光拠点、館山駅に着いて客の半分が降りる。
駅前にはパームツリーが植えられ、キッチュなムードだが、バスは路地裏を抜ける。





内房線も館山から先は、このようなローカル線風景だ。東京駅から2時間走ると
田舎になると言うか、時間感覚もすべて大きな落差がある。



モダンなデザインの千倉駅。



そのそばにはこのような竹材商があり、ギャップがすごい。
関西ではあまり見かけぬ竹材業は、流山電鉄でもみかけた。



特急バスの終点、安房白浜。誰が見ても昭和な風景の中に、先ほどまで東京駅
八重洲口にいた、大型バスが憩う。







半木造の白浜バスターミナル。続いてアクアライン。最後が都心終点付近の風景。
バスと運転手は、毎日このような風景を見て、往復するのが日常だ。
何が言いたいかと言うと、やっぱり関東は、東京シティーが、すべてを圧倒しており
田舎に居るものは、対等感は持てないし、無力な気持ちにならないか。
いやそれぞれの幸福感は、別にあると思う。
ただ、都心から出ている高速バスと、内房線の特急電車の運転手では、
後者は眺める風景に、溜息が出るほどの違いが無いと、思いました。

以上房総半島の横顔篇、終わります。


Posted at 2013/09/06 03:45:47 | トラックバック(0) | 鉄100% | 旅行/地域
2013年03月08日 イイね!

走れるうちは

走れるうちは私の拙い文章に、コメントをもらえる幸福に
ついて考えてみた。他人(ひと)の心を掴んだり、
心を打つことは、強調することだけでは、
出来ないと思う。

昔と違うのは、40歳代後半から後の人生が大変で、
親の世代もやたら長生きするし、子育ても妻に
丸投げ出来ない時代になった。
いつの時代にも、悩みは尽きないが、今日の場合は、
逃げられないことばかりの中で、生きて行く哀しみだ。

豊かなのだが、なぜそう思えないのだろう。
モノが多すぎると言う理由もあるが、記録体等の
メディアが過渡期で、ややこし過ぎるのも一因だ。


私は数年前までは、携帯電話から逃げていた。
その上、約束時間などによく遅刻するものだから、社会人として落第だ。
それでも49歳まで生きてきた。オートマとエアコンの着いたクルマも、
持っていなかった。イスラム原理主義みたいなものが、21世紀に
なって現れるのも、私にはすごく共感する部分がある。
新しい生活は、めんどくさいのだ!。今も、スマホもiPodも持たずに、
軽自動車の中では、1980年代のカセットテープを聴いている。


旧車に乗る意味についてよく考えてみる。結局、最低限の用は足りるのと、
少数派は面白いと言う点に尽きるのではないか。

動物や植物は多少進化するが、人間だけが多層的な生き方になり、反対に
苦労している。多様な選択があることは、善い面も多いが、今日の生活は、
単純に昭和40年代50年代と比べると、何かが違う。

当時は傾斜生産方式、エネルギー転換という時代の流れがあった。
具体例を挙げれば、まだ使える石炭エネルギーから石油エネルギーへの
ものすごい強力な流れがあった。
蒸気機関車の全廃がそうである。



昭和30年代の半ばまでは、日本中、首都圏でも当たり前のように
蒸気機関車(SL)が居る風景が、普通に見られていた。

それを国鉄近代化のかけ声と共に、40年代末までに、日本中の風景から
SLを駆逐し、幹線は電化、それ以外はディーゼル方式に置き換えた。

国鉄が急速に赤字に転じて、やがて分割民営化された理由も、過剰な設備
投資が原因だったのではないかと、今になって思うのだが、当時の少年である
僕にも、国民の大多数の大人にも、新聞記者にも、それは分らなかったのかも
しれない。



エネルギー転換は、日本の国をあっという間に1等国に押し上げた。

今はGDPというが、総生産がGNPだった頃、日本がヨーロッパ諸国を
追い抜いて、米国と並んだのは1968(昭和43)年である。
今の時代変革を、ドライだとか、情け容赦ないように言うが、昔の
日本の変革スピードは、そんな生易しいものじゃ、なかったのである。

誰も疑問を持たずに、石炭を諦め、その前に薪や炭を諦め、石油と
電気とガスのエネルギーに転換した。ヨーロッパの保守的な生活風景が
どこか懐かしく思えるのも、当然である。
その先にあったのは、40年も前の選択で、原子力エネルギーの選択であった
ことは、誰でも当時生きていた人間なら、覚えている。



経済成長は、奇跡だとかいろいろ言われて来たが、国策で官民挙げて
猛烈に突っ走って来た。それが日本の昭和30年代と40年代である。
僕らはその時空間に多感な少年時代を、育ったのである。蒸気機関車が
消えて行くのをカメラに収めんと、南九州に15歳で旅をした。
消え行く物に郷愁を覚えて、やがて数十年後には、鹿児島の外れも
みんなオール電化生活を夢見たのか。うーん、それは無意識だっただろう。



僕の鉄道の見方は、ある面ではノスタルジックかもしれない。
しかし、ある面では旧車乗りとしての、社会疑問はいつも感じている。

猛烈な経済成長は、石油ショックで一度停まって、昭和50年代はゆっくりした
少し灰色な時代であった。
その時代に大学を出た、僕らは少し就職難だったことを覚えている。
昭和60年代は、なぜバブルになったのかは、いろんな理由を考えてみる。

アメリカとソ連が、消耗戦でエネルギーを使い尽くし、日本が駆けっこの
トップに立ちかけたと言うのが、一番正しいのかもしれない。
ソ連は80年代で行き詰まり、ペレストロイカが始まり、東欧は信じていた
大家に裏切られて、見せかけの忠誠はもんどりうって崩れて行った。
それが1989年という昭和が終わり、平成になった年の年末である。



もう、ここから先の予想は、僕には出来ないような無力感を感じる。
権力も金力もない僕が、見ているのは、鉄道輸送という社会システムが
ただ走り続けることに対して、思いを寄せる部分と、感慨みたいなもの
だけだからだ。

日本はまた新しい岐路に立っているのだと思う。

昭和の中盤の猛烈なスピード感があった頃は、石炭エネルギーを数年で
全く過去のものに封印した。あれは良かったのかと言えば、そうだとも
言える。でもあの頃石油ショックが偶然に起こり、そんなに急がなくても
良いのではという意見が、鉄道好きのノスタルジー派から、実は
沸き起こっていたこともあったのである。



ここの所、炭焼きの見習い教室に行って来て、自分は何がやりたい?
何をやっているのかと、ふと思うことがある。
古い物はどんどん駆逐して行った日本の幸福感は、平成10年代に
ぐるりと後戻りのパワーみたいなものが増えて行った。

原発が平成23年に津波浸水から事故を起こして、24年は反対運動が
盛んになったが、日本は目覚めたのであろうか。

最近は鉄道という社会基盤や、インフラの存続さえ、人口減少の前に
脆いのではないかという、弱気も感じつつある。
あれだけのエネルギー転換を一気に進めた日本は、ある意味で1960年代
70年代の「勝ち組」であったのであろう。
今の時代って、分っている人は分っていると思うが、日本は過去の遺産だけで
食っている。交通も社会インフラも、今の日本がゼロベースでは、到底建設
できないだろう。

粛々とそれでも、新幹線の建設は、北陸や北海道の手前まで、進んでいる。
しかし縦貫交通路として利用する人口の移動や、国内生産設備間の貨物輸送は
今後は不透明だなと思う。











Posted at 2013/03/08 11:12:51 | トラックバック(0) | 鉄100% | 日記
2013年03月05日 イイね!

3人家族~横須賀線より

きょうは、出かけるのでこれで、手抜きします。(^^




ああ小巻さん、アモーレ。
Posted at 2013/03/05 13:09:15 | トラックバック(0) | 鉄100% | 趣味

プロフィール

「「自動車趣味人」38号に取り上げていただきました。」
何シテル?   06/14 14:37
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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2015/02/22 10:52:34
春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/05/11 05:49:46

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フィアット 850 車の色は空のいろ。 (フィアット 850)
2016年10月、三年半かかった車体レストアが完了し戦列復帰、その後半年、また以前のよう ...
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