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kotaroのブログ一覧

2013年01月19日 イイね!

【国鉄時代】 昭和52年2月6日 山陽本線厚狭駅周辺をゆく

【国鉄時代】 昭和52年2月6日 山陽本線厚狭駅周辺をゆく3日前の大雪は、首都圏の住人たちに取り、厳しい積雪の試練となったようである。

今日の記事は久しぶりに、懐かしい鉄道写真で、昭和52年(1977)年2月6日の日記である。調べてみると、日曜日にうまいこと、九州山口では珍しい大雪の朝になったようである。

当時の小生は高校2年の3学期だ。雪の鉄道写真が写せると、早朝から眼がさえて、いたのだろうか。いや、前夜から中学時代のポン友くんを誘い、雪が降ったら「撮り鉄」と決めていたのであろう。

当時の時刻表を出してきて、記憶の消えた部分を書き直してみよう。



日豊線小波瀬駅を2番列車の田川線直通後藤寺始発の2422Dに乗り、南小倉で友人合流。門司で鹿児島線下関行き224Mに乗り換えて、6:52下関着。ここから山陽線の7:05発徳山行き440Mに乗っている。下関駅で10分あるからきっと朝飯はホームの立ち食いうどんだろう。

厚狭着は7:41、ドアが開くや否や目の前を5レみずほが雪煙を上げて走り去っていく。1レのさくらと、3レのはやぶさは、残念ながら車内からも写せていない。
写真右 背景に呉線用のうぐいすいろの73系が写っている。



EF65500番台+14系分割14両編成食堂車付き。
発電用エンジン音高らかに走り去る5レの後姿(左)となりが私たちが乗ってきた440M。もう80系が減り、数年前まで急行に使われていた153系が入っており、快適さに喜んだものである。



続いて23分後に来る1001レ安芸を待つ。安芸は呉線回りの20系9両であった。カニを入れると10両。走り去るシーンしか写せていないが牽引機はEF58ではなかっただろうか。
新幹線改正後も残った呉線回りのブルトレであったが53年頃には廃止になっている。廃止の直前にどういうことか、新製の25型2段寝台になったのを見た記憶がある。



お次は30分ほど時間が空いて、名古屋発の電車寝台「金星」である。
その間に他のものも走ってくれば写している。
美祢線直通、小野田セメント宇部興産行きのDD51のセメントホッパー列車。



まだ健在であったキハ17系を含むローカル列車は、厚狭付近では結構本数がある。美祢線との共通運用だ。



金星の583系。(左) なんとあれから35年経つが、どうやら臨時きたぐにで残っていた583の運用が完全に終わったらしい。満身創痍と闘った昼夜兼行型の元の特急電車の引退に、ご苦労さんと言ってやりたい。

金星が行くとすぐ後ろから、西鹿児島行きの7レ富士(右)が追いかけてくる。広島発車で8分差。下関到着はわずか4分差である。富士は24系に置き換わっている。電源車つきの14両編成を65の509が頼もしげに雪道を疾駆する。この頃は線路脇にやたらとセイタカアワダチソウが多かったが、今朝は雲仙の樹氷のように凍っている。



厚狭通過は8:40付近、終着西鹿児島に着くのは、なんと10時間後の18:26だ。



この日は厚狭と言う山陽本線の駅前を、初めて歩いた日であった。
今思うと情緒のある昔の宿駅のようなところで、古い家が多かった。
椿の枝に積もった雪を、雪だまで落として、子供のように喜んでシャッターを瞬間切っている。



また撮影地へ向かう途中の川が雪景色で、とても綺麗であった。
鉄は普通フィルム1枚を惜しむものだが、わりと私は、こういう風景も撮るのが、少年時代から好きであったのだろう。



こんな厚狭の町も、今は急行や特急が1本も通ったり止まることも無くなり、寂れていくに任せるのみである。今は山陽小野田市といい、隣の町と合併した。
数年前のある夏に、私は1冊の厚狭の歴史を書いた古書を見つけ、懐かしさで購入し、少し紹介記事を書いてみた。

もう誰も知らない過去の話が載っていて、懐かしさに胸が少し熱くなった。

さて残りは「あさかぜ」2本である。先に来るのが9レで、これは20系A寝台個室つきの15両編成で、個室はナロネ22が2両、開放室のナロネ21が1両、A寝3両と食堂車の着いた、当時日本一の豪華編成であった。




通過時間は9:07付近。もう朝の雪も大分解け始めてきた。
デジタルの今日から考えると、これらの写真がどんな風に出来上がってくるのか、経験と勘だけである。それでもこの日は満足な写真が取れたと考えて、この後の13レ下関あさかぜ通過までは、あと1時間あるので、厚狭駅に戻ることにした。

雪の中の撮影で、寒さの方も若いとはいえ、限界に近かったのである。
厚狭駅に着いて、今日はこの後どうしようかと適当に決める。

美祢線に乗って、奥地の雪を見ようと、9:50発の宇部新川発長門市行きの2727Dに乗り込む。我々が乗り込んだ一番端の車両は、珍車キハユニ17である。
元々が勾配線区用として1954年に試作した2個エンジン車のキハ50と言う22m車を17系の断面で作ったため、物すごく長く見える。それを1961年に用途変更と格下げしたのだが、栄光の時代はキハ55の初期のような準急色に塗られて、関西本線の準急かすがに連結されて、加太越えに咆哮したのである。
2台のうちの1台はキハユニなって3年後の64年に、新潟地震で陸橋の落下で下になり、もとからアンガールズみたいな車両であったので、ぽっきり折れてご昇天。
残った1台は晩年を美祢線の厚狭よりに連結されていたというわけだ。



10:23に南大嶺に着く。当時はここから大嶺と言う1駅だけの盲腸線があった。
使われていたのはキハ20の両運転台車が1両で、1日に8往復していた。
残念ながら接続が無いので、乗れていないが、写真から雰囲気は伝わるだろう。
南大嶺駅の雪は、奥地だけに昼近くになっても結構残っていた。ホームの上には、駅員が作ったのだろうか、子供のいたずらのような大きな雪だるまが作られていた。



国鉄時代はこの後10年続く。もうこの頃もローカル線の存続問題は出ていたが、美祢線にもディーゼル急行は走っており、山陰線や山口線の列車と分割併結をくりかえす「あきよし」の名前は鉄道ファン以外にも有名であった。
日本は今よりずっと小エコノミーであったが、ローカル線はもっともっと華があったのである。

1時間半ほど南大嶺のあたりを歩いてみたり、青春前期の暇をこうやって、持て余していたのだと思う。それから長門市に出て、後は山陰線を下関に向けて戻るのだが、キハに飽きたのか、滝部あたりよりもう1本列車を遅らせて、最後はDF50の引く客レに乗り換えたような記憶がある。

この頃の山陰本線といえば、豊岡5:04発の門司22:52着の831レや、門司5:23発、福知山23:50着の824レといった、気の遠くなるような長距離ローカルが走っていたことで、古いファンには知られていた。
今思えば、鉄道の古きよき時代の最後の方だったのであろう。
雪が降っただけで、発作的に写真を撮りにいっても、これだけ好みの車両たちに遭遇できたのである。たまたま出合えた時代の運が良かったのであろう。

お仕舞いに、今回参考に出してきた時刻表の表紙裏の広告を、お目にかける。



彼女も水色のときでNHK朝ドラデビューし2年目が過ぎて、宮崎あおいのような、輝きがあった頃である。決して美人と思わないが、当時は可愛い女優さんの一人であった。映画「青春の門」でまさかの上半身ヌードに興奮した人も多かったのではないか。まさに悶々である。(笑)。
Posted at 2013/01/19 03:22:38 | トラックバック(0) | 鉄100% | 趣味
2012年10月07日 イイね!

鉄道に癒される日々

鉄道に癒される日々









いろいろありまして、広島生活に近い状況です。

安佐北区の高陽ニュータウンという30年前に完成した病院に、
母が移ったのですが、県庁前にあった市民病院に比べれば、
バスで行くのも、長くなりました。

まだ3日目ですが、路線バスも新鮮味が有りません。

所でいま私がいる場所は広島市東区の戸坂というところで、
非常に都市近郊では珍しくなった非電化の芸備線という単線が
、広島から三次を経て、伯備線の新見までを結んでいます。

かつては急行「ちどり」が松江と広島を最速で結び、10年以上前
には三次―広島間にキハ58系の最後の急行も残っていました。

山陽自動車道が伸びて中国自動車道と直結して、高速バスが
広島市内まで乗り入れるようになり、芸備線の輸送はローカル
線の役目だけになりました。

戸坂の町までは、市内バスを利用する人が大半ですが、私は
広島駅からふた駅なので、結構芸備線を利用します。遠くからの
通し切符だと、広島市内均一で乗り替え区間の料金が、要らない
こともあります。


母が今度入院した高陽ニュータウン病院から、市内バスに
乗らなくても約1Kの所に、芸備線の下深川駅が存在することを、
記憶していたので昨夜は、真っ暗な夜道を恐る恐る初めて
歩いて見ました。

何とかなるものです(笑)。

25分ほどで、巧く真っ暗な中、鉄の嗅覚で下深川駅に辿り着きました。
ニュータウンと標高差は300Mは、あるでしょう。

運のいいことに、約10分ほどで広島行きの列車が、やってきました。



暗い気持ちがぱあっと晴れるのは、自分の鉄能力と、ひとのやらない
ことをする快感です。

運賃も時間も、遥かに下廻りました。歩く時間は、勝手都合で計算外です(笑)。

ちょっとウツウツとして、いましたがクルマが駄目なら鉄がある。
明日の病院訪問も鉄で行くことにしましょう。
そして少し早めに病院を出て、日曜は酒都西条で開催中の、新酒祭り
を見に行くことに致しましょう。

戸坂駅からの帰り道で、真新しい時刻表も買いました。(^^)
Posted at 2012/10/07 04:17:59 | トラックバック(0) | 鉄100% | 旅行/地域
2012年09月03日 イイね!

13歳のみんからファン

13歳のみんからファン僕のブログは、読者層が広い。
子供が成人したむかしのGF(笑、失礼)から、外部の友人まで
いろんな人が見ていてくれて、時々メールをもらえる。
それが結構嬉しいのだよなあ。

で、今回は1年前にも紹介記事を書いた、13歳になった
既に表現世界を持つクラフトマンのお話だ。


9月最初の日曜、うんざりするような残暑の中、天神橋筋商店街を
地下鉄南森町駅で下車してアーケードを歩く。
「昨年と同じ場所です」と聞いていたのだが、縦の通りをついうっかり
南に行きかけたが、3丁目なので、南森町と扇町の間だ。

「kotaroさアーん」
会場に入ると、模型制作実演中の彼が、私を見つけて声を掛けてくれる。
この1年間で随分背が伸びたように思える。
それでもややボーイソプラノの声は、まだかわいいと感じる。

秀太郎君(実名許可済み)との出会いは、2年前の5月にまだ
仕事を再開する前に、ある著名な鉄道マニアだけでなく
独自ワールドを持つ大学の大先輩、ことし80歳になられた、その人の
友人つながりで、京都の美山にある京大演習林の森林鉄道見学と、
写真展の泊まり込み合宿で知り合った。

その時は小学校5年生。こういった人の波にもまれることは
初めてであった。
きっとこのこはデリケートなんだろうなあと感じた。それは私も
人一倍感受性が強くて、むずかしい子供の一人だったから、
どうやってここまで生きてきたのだろうと、時々思い出すことがある。


「ラテンで御免」いつも読んでますよ。
昨年の初めての個人作品展を見に行き、感激したことを
ここに書いたら、速攻で御礼のメールが来た。
うちはウインドウズ7ですと、使用機種まで説明がある。
言葉の粒まで、泡が立つような新鮮さ、それは10代ローティーンの
感受性の瑞々しさと、毎日が新しい細胞分裂しながら成長する
者とのと、比べようの無い比彼の差であろう。

私のときどきやや難解な言い回しを理解力だけで読破できる
好奇心の大きさで、今は読めるのだろうと思う。

さて彼のモデル作品展であった。
天神橋筋3丁目の商店街から堺筋側に出た所にあるRギャラリーで、
次は9日の日曜日が、最終日である。13時から17時過ぎまで。

天神橋3−7−32




これは今回の展示に向けて6月から8月の終わりまでかかって
制作した森林鉄道のジオラマ。



アントという超小型の、レールの上で車両を移動させる時に
連結する動力元の「小さな力持ち」




電気信号軌道検測車

職用車の一種であるが、こういうものをフリーランスで
まとめ上げる才能はなかなか。



段ボールの素材を活かした有蓋貨車。ワム80000やアメリカ型の貨車であるが
この材質感がペーパークラフターの彼の個性と思う。

たくさん紹介しきれませんが
次の日曜日には、ぜひ、天神橋筋へ。



こういった作品は、自由な発想で、無から形のあるものを
作り上げる技倆と、技術、それに想像力が逞しく無くては産まれない。
それから旺盛な表現への熱情が要る。

市販のキットを買ってきて組み立てるのとは器が違う。
まして完成品の鉄道模型を何万円も出して揃えるのとも違う。
昨日私は解説者を勝手に買って出て、ギャラリー説明を
いろんな人にした。

つい熱弁が篭ったのは50男にしては恥ずかしいくらいだが、
自分の13歳の頃。また中学、高校と自分もペーパー製の
模型を彼のように「自由に」作っていた。

あまりにも遠い日の過去と今の私を振り返りつつ、
発想や表現の自由というものは、不可侵の尊いものであり、
社会が誤った方向に向かっている「買って済ます」という金銭
経済的な考え方に、「作ってみる」という原初のオリジナリティーの
対抗軸をもう一度考え直してみたい。

クルマ好きの諸氏にも、趣味や遊びとは何であるかを気付かせてくれる
13歳のみんから読者に深く感銘を受けて、
夕暮れの大阪の町を帰路についたのである。

Posted at 2012/09/03 05:02:57 | トラックバック(0) | 鉄100% | 趣味
2012年05月16日 イイね!

セカンドラン〜路面電車たちの「第二の人生」

セカンドラン〜路面電車たちの「第二の人生」中国地方の政令指定都市、広島市には今でも活発に路面電車が走っている。

グリーンライナーやグリーンムーバーと命名された5車体連結の近代的な
長い電車は、郊外の宮島口から廿日市、五日市といったベッドタウンを貫き、
目抜き通りの繁華街を通って、広島駅まで直通している。
市内区間の均一料金は150円という優秀さだ。



市内の各所、広島港や各JR(元国鉄)駅を結ぶ市内線には、12mくらいの1両で
走る普通の路面電車が走っている。この単行用の電車には、地元広島用に近年製造
された新車も走っているが、大阪市、京都市、神戸市からそれぞれの市電廃止後、
譲り受けた車両が、かなりの勢力(台数比率)で走っている。




大阪や神戸で、路面電車が走っていたことを覚えている人も、今は少ない。
大阪万博(1970年)前の1969(昭和44)年に大阪市電は全廃した。
東京都より早く、「ええかっこしい」のナニワッ子は近代的な地下鉄だけに、
バス以外の交通機関を絞り込んだ。古くさい「チン電」など要らないと
決断したのだ。神戸もほぼ同時期、京都は少し遅く昭和53年まで市電の姿が
見られていたが、30〜40年以上前に、その頃の大都市では次々と姿を消した。

この事実は、鉄道マニアは「常識」だが、彼らは意外と周辺的なものの見方を
する人が少ない。反対にやや、一般の人の鉄道知識と、時刻表が「読めない」
電車に乗れないことを揶揄することもあり、「特殊な人々」と思われてしまい
損な部分がある。一般の人との歩み寄りが出来ていないと思う。

環境問題面でいうと鉄道は優等生である。さらに、鉄道車輛は規格さえ合えば、
どこに持って行っても使える。だから中古車両の譲渡と言うのは「まだ使える」
なら当たり前であった。
大阪や京都から、大量の電車が転入したのは、それぞれの大都市で路面電車の
廃止が「世論」として巻き起こり、使用中の電車の大半が耐久年数に達して
いないのに淘汰されることになり、新車の車両を購入したくても、予算のなかった
広島が「これはありがたい」と譲り受けた。40年以上前から「リサイクルする」
ことは、普通の思想であったのである。




それぞれの街のカラーをそのままに、「塗り替え」なかったことも結果的に
良かった。茶色と濃いクリームの大阪市の色。緑とクリームの京都、濃淡グリーン
の神戸市。今は落ち着いた佇まいを見せる広島市内でこれらの電車が走って来ると、
時がタイムスリップしたような気分にさせる。
原爆ドームの公園から、古い各地の市電が走っている姿を見て脳裡に何が浮かぶか。
私は深い平和のありがたさを考えられずにいられない。日本は半世紀以上も交戦も、
戦端を開くこともしなかった。
原爆の「あの瞬間」に広島の電車も多くが生き地獄となり炎上した。何所の街の
市民より、広島の人のDNAとなって、それだけは風化させずに受け継いで来た。
京阪神の古い市電が集まったことは偶然だが、40年以上も大事に保守して使い続けた
こと。それはものを大事に使い続けることの大切さを、もう一つの平和教育のように、
町に戦火が二度と訪れないことの「約束」として、大切にしているのではないか。




さて、第2の人生のことを語ろう。彼らの職歴は、もはや前身の大阪や京都に
いた時間より、広島で働いた時間の方が長くなりつつある。これを人の人生に
例えてみよう。
大阪市、京都市といった大きな組織に胸膨らませて雇用されたが、交通方式の転換で
あえなく失職。同僚たちと共に地方に流れて来て、そこで再雇用。これは電車の
世界では、以前は珍しくなかった。特に状態の良い都会の電車は、粗末な車両を
やりくりしている地方では、貴重な戦力であったのである。
今はどうかというと、新幹線が極端な例で、命が短い。トップ企業で働くことは、
相当のストレスなのか。JR東の近年の通勤電車も、製造コストを下げ、短期間に
リプレイスする性質である。普通の電車が40年くらい使うのに対して、あまり
エコじゃない?と思われる。



機械には与えられた運命があるとはいえ、第二、第三それ以上の人生を送る
ものもいる。
最後はぼろぼろになって、形もうんと改造されて。第一線を走った栄光の日々を
遠く思いながら、車庫の隅で業務用となり、働けるだけ働くのも、たまに居る。
鉄道って、面白いなと思うようになったのは、そんな存在を知り、気が付けば自ら
も歳を重ねて来たことにもよる。
広島で働く彼らは非常に運が良い。広島市の都会化が進み、第二の職場が安定した
境遇であり、職場が急に無くなったり、新しい電車の投入が郊外区間用に集中した
ことにもよる。

広島という町を訪れる観光客は多い。この文章を英訳、中国語訳、韓国訳できない
のが残念であるが、心ある人はそっと、この平和の瞬間を噛み締めながら、古い
電車たちが一瞬歌うブルースに、身を揺られてみて欲しいものである。




Posted at 2012/05/16 11:24:07 | トラックバック(0) | 鉄100% | 旅行/地域
2012年04月24日 イイね!

鉄道にむせぶ夜

鉄道にむせぶ夜ついつい昔の鉄道の話に、浸り込んでしまう。
遠い遠い思い出の中のセピア色の記憶。
生まれて初めて九州に引っ越した、小1直前の山陽線の西下の旅、
広島駅で、母方の祖父が短い停車時間に迎えてくれた。
華やかな181系特急の時代。
「つばめ」「はと」に乗られるのは、無上の待遇で九州に送り出してくれて
未踏の地、北九州で待っていてくれた父。
全てが懐かしい。





九州と言うのは文化も、生活も、鉄道も違っていた、遠い遠い
異国の地であった。

そんな所で高校を卒業するまで住んで、いろんなものを見て来た。
中でも、関門間の接続と、機関車の付け替えは懐かしい。
鉄道黄金時代の残り香が、そこここに漂っていた。
EF30の回送4重連。

夕方4時に下関を発ち、東京へ毎夜旅立つあさかぜ1号の晴れ姿。

山陰の長く、静かな日本海の旅を誘う客車列車。幡生という駅が、
山陽路から分かれる長い長い旅路の始まりであった。





山陽線を行く、戦後の明るいサンシャインであった80系“湘南”電車。
今も小月付近には蓮畑の池がわずかに残っている。






また山陰の話題に戻ろう。

旅情あふれる往年の室内音を聴きながら、大阪ー博多間、784.8kmを
昭和60年3月13日まで毎日駆け抜けた特急「まつかぜ」のことを偲んで下さい。


この列車は、昭和36年10月1日改正で、全国に誕生した1D列車
(キハ80系を使用したディーゼル特急、当時日本中の幹線の殆どは
「非電化」であった。山陽線でさえ全線電化は39年)
として、北から「おおぞら」「白鳥」「つばさ」「かもめ」(かもめは客車列車の高速化)
「まつかぜ」らが一斉に羽ばたいた。

前年の「はつかり」の試行錯誤を教訓に、美しい姉妹たちは、日本中の東京ー
名古屋ー大阪以外の区間を貫き、北海道の「おおぞら」、青森ー大阪間の裏日本
1000km以上をつなぐ「白鳥」(一部は信越線回りで長野ー上野まで足を延ばした)、
羽越路の「つばさ」、山陽路から長崎まで健脚の定期便となった「かもめ」と共に
日本の近代化のために、それまで特急が走ったことの無い、地方幹線を舞台に
主役を演じることになった。




彼女らは、それぞれが列車としてのキャラクターを持っていたと思う。
北海道の大地の下を走る明るい性格の「おおぞら」、日本海縦貫線を駆ける
演歌的な日本美人「白鳥」、西日本の発展を車窓にまざまざと見せつける
高度経済成長型の「かもめ」、それらに比べると、一番地味な路線を走りながら
西日本の日本海を爽やかに走破したのが「まつかぜ」であった。



「まつかぜ」は山陰線の全区間通しの運転期間は24年で一番早く打ち切られた。
あとの殆どの列車が新幹線に昇格したり、今も残っているのに対し、儚気な美人で
あったが、短い幸せの時間が今とても愛おしい。
私が写した昭和60年2月と言うのは、あとひと月で食堂車含め米子から西の区間
は廃止になる直前である。

前夜に京都で現役学生の追い出しコンパで酒を飲み、酔った勢いで「よし鳥取まで
廃止になる夜行に乗ろう」と周遊券を買い、朝は倉吉駅で二日酔いの顔を洗い
廃止になる倉吉線の始発に乗り、折り返して来てから、鈍行ですることもなく大阪まで
のんびり戻ることになった。
その時に居組駅(鳥取県)で単線のため列車交換待ちをしていたところ、大阪8時発の
5D「まつかぜ1号」がタイフォンの音も軽やかに雪の山峡の駅を駆け抜けて行った。
そのシーンを連続で、たまたま持っていたオリンパスOM1と50mmレンズで運良く
捉えることができたのが、お見せする写真なのである。




素晴らしい鉄道旅行の忘れられない一瞬。
こんなことがあるのだから、カメラはいつも持ってなくちゃいけないし、人間は好奇心の
アンテナや牙を研いでいないといけない。
居組で「あっ『まつかぜ』が来る!」と言って座席のモケットの上に時刻表を放り出し、
車外に松籟のように、駆け出した私のことを同席の友人らは笑ったが、私のお陰で
この貴重な「まつかぜ」のラストラン近い雄姿が見られたのである。

テツを嗤っちゃ、イケナイゼ。

なつかしい時刻表のページを見ながら、3号車、食堂車の室内音など
思い出していただければ、筆者として冥利に尽きる。











Posted at 2012/04/24 00:11:33 | トラックバック(0) | 鉄100% | 趣味

プロフィール

「「自動車趣味人」38号に取り上げていただきました。」
何シテル?   06/14 14:37
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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