
意外と反応があったアーリーフィアットの歴史。
もう一度おさらいしておこう。
日本に最初にフィアットを入れた代理店は日本自動車という。
さすがに私も資料を発見していないが、60年代初頭から71年頃まで
輸入と販売を手がけたのは、西武鉄道の堤兄弟の兄の方、
流通と80年代に消費文化を花開かせた文化人、堤清二のほうである。
当時は西欧自動車の社名で、西武自販の前身であった。
シトロエンよりおそらくフィアットの方が先立ったのではないか。
これについては、長らくに欧州にいてパリ文化サロンの女主人的存在で
あった個性的な妹、堤邦子の影響が多大にあるのではと筆者はみている。
(もうひとつのブログ「関心空間」にいくつか言及した記事あり)
奔放な人生を送り、早く土の下に眠る邦子についてはもうちょっと歴史的
評価が欲しいと思う。
さあ、きょうは西欧に変わって「FIAT」の4文字を背負ったロイヤルモータースの
ことに着いて語ろう。ロイヤルの時期は短く1972ー77という5年程度ではないか。
この“クサい”写真とコピーに、思わずぷぷっときたそこのキミ。笑っちゃいけない。
このヒゲを生やした男性はYMOの細野晴臣のはっぴいえんど時代でなく、あの
キクチ・タケオ先生であられるぞ、ははぁっ。
横に居られるは奥様のこれまたファッションデザイナーのイナバ・ヨシエ先生で
(私はよく知らないのだが、)ございます。
ロイヤルは大阪に本社のあった安宅産業が母体の輸入車ディーラーであった。
安宅と言っても今の若い人は知らないだろうが、当時は10大商社と言われ、
三井物産、三菱商事以外は関西発祥の、丸紅、伊藤忠(アルファロメオ)、
日商岩井(80年代にプジョー他)、住友商事(のちにサミットモーター運営)
トーメン、ニチメン、兼松江商と安宅で、総合商社10社が日本と海外のモノの
売り買いを全部仕切っていた。
輸入車ディーラーはその本業の傍ら行う所が多く、特に安宅はその苗字の通り
ファミリー企業であり、専務であった社長の長男が大変なクルマ好きであったことから、
西武(堤)からバトンタッチされる結果になった。
ところが安宅は1975年に、ニューファンドランド島(カナダ)の石油精製開発で失敗、
財務に致命的な穴を空けて、銀行団の支えや政府の大混乱を恐れる工作もろう得ず、
1977年に会社は解体された。このことくらい知っていて欲しい。
その短い悲劇的な安宅の時代というのは、850と500で人気のあった西欧と、安宅のあと
引き継いだ東邦・近鉄時代(X1/9他)の狭間でことさら印象が薄い。
わたくし個人はこのロイヤルの残党とも言える専属整備工場であった新大阪自動車に
2009年頃に工場が閉鎖されるまで長い間お世話になった。
それゆえに思い入れが深い、ロイヤル=フィアットの時代のシーンなのである。
ロイヤルの主力車種のひとつ、124クーペ最終型の通称、「豚顔」の124CCである。
初期型2灯クーペがAC、中期のすこし117に似た丸4灯グリルがBC、最後が1800ccのCC型となる。
もう一つの主力、128セダンである。
これがある程度売れたのだが、出来が良いのは新しい時だけで、後年中古になるとサビと
調子が悪いのが多く、さっぱり人気が出なかった。
実際の輸入車はUS輸出用の5マイルバンパーが着いたのも、不人気の原因の一つになり、
今ヨーロッパ仕様の本来の姿のを見ると、思わず「欲しい」と思ってしまう。
この時代は運輸省に逆らうことは絶対できず、輸入車といえども警察や法務省の重い
足かせの下で、しょぼしょぼとしか走らせることが、出来なかったのである。
写真下はこのパンフの一番のニューカマー、X1/9で、これでこのカタログが1973年
当時の物であると想像出来た。1980年頃には若者の間で熱狂的な人気になった通称、
「ペケワン」であるが、関西でもリッチな若者は、ペケ1か、初代ゴルフ、そして
初代シロッコに乗るのが夢であった。シュノーケルを颯爽と背負い。
安宅が潰れていなければと、後に何度思っただろう。嗚呼。
起源は1960年代に溯るフィアット、ミッドセンチュリーの名車、124セダンもまだ生きていた。
これはランプレディのツインカムエンジンを積む124TCと呼ばれる最終期モデル。
実際に入って来たのは大型バンパーになっていたと思う。
この124セダンはラーダやモスクビッチの名前で共産圏が崩壊後の90年代半ばまで生きていた。
恐るべし箱型フィアット!
下は128クーペである。いかにも70年代前半のサイケなデザインで、日本の日産デザイン、
チェリークーペX1やF2、サニー210GXクーペ、2代目シルビア、それと共にルノーに17という
スポーティーカーがあった。
英国の雑誌あたりで、これらのアーリー70’sを一斉に並べてみたい。
日本の自動車雑誌は、ノットイナフである。絶対ダサくなるから。文章も五月蝿い。
前述の新大阪自動車を初めて訪ねていった1990年代のはじめのころ、ヤードの奥に
入場中の128Cを生まれて初めて目撃した。色は記事の他車にある若草である。
狂気のように興奮して「128クーペ!」とシャウトしてしまった。クルマはロックである。
最後は永遠のマドンナ、124スパイダーである。
黄色い個体は珍しいが、やはり美しい。この時代は124BSかBSiになるのだろうか。
1800ccの排気だが、のちの排ガス対策済みの2000よりよく走ったと記録にある。
ただ70年代イタリア車の常で、完成品の質と出来がもう一つで、日本国内で完調に
仕上げるのは、かなりてこずったようである。今残っている中期、ロイヤル時代車は
かなり少ない。
スペックをおまけにつけておく。
しゃれもののコピーに時代を感じるが、1990年代に巡りあった128セダン乗りとの
合い言葉は、
「シャレモノ?」
「ウィ、フィアット」だった。
彼とも長いこと離れてしまったが、あの時代に熱く語ったフィアットへの思い。
それが私の今日までの、本気でシャレを演(や)るバカのエネルギーになっているに
違いない。
そんな男の日記の中には、いつでもOHVのエンジンの鼓動が、流れているのである。