
旅の徒然に考えていた。
ちょうど鞄の中に入れて持ち歩いていた本は、梅田のかっぱ横丁で
100円で買った落合信彦氏の「国際情報」という1990年春の本である。
この人ほど胡散臭さと怪しい情報通めいた御仁はおるまい。
アサヒビールのスーパードライの初代CMキャラだった記憶も懐かしい。
みんな笑い者にしてしまったけれど、僕は今で言う佐藤優のハシリに
梶原一騎を足したようなテーストがたまらなく懐かしい。
大藪春彦のバイオレンスを本気で読んでいたころは、この人くらいの
キャラが必要とされていた時代だったのである。
ワンコインで買った「独りイミダス」としてこの本を読んでいると
1989年という「時代が動いた」ものすごい年を振り返るのに実に好都合だ。
今は情報や謀略のことを「インテリジェンス」と佐藤優が普通に使い、
手嶋龍一などと普及させてしまったが、大落合先生の国際情報は、その後の
世界の動きを目で追って行く意味でも実にありがたい。所々予想が外れているのも
ご愛嬌である。
23年前のこの年は、6月4日の天安門事件とホメイニの死から始まり
秋から年末にかけての東欧のビロード革命と東ドイツの終焉による、
ベルリンの壁の崩壊という、手に汗を握る国際情勢の大変換の年であった。
日本はというと、1月7日に「昭和」が終わり、平成に変わるが、株価は
年末までに史上最高の4万円寸前まで上昇した。
日本の自動車産業は、空前の豊作年と言われる。日産スカイライン(GTR)、
ユーノスロードスター、初代レガシー、初代セルシオ、対抗馬のインフィニティ、
フェアレディZ(32型)、ホンダNSXも正式デビューは翌90年にずれこんだが
89年にはその姿を現していた。
そんな1年を遠い過去の記憶と共に想起しながら、地味な東欧の歴史のことを
旅のあいまにゆっくりと振り返ることにした。
落合本によると、とかく高く評価しているのはゴルビーことゴルバチョフ・ソ連
元大統領の行動力だ。ワルシャワ機構体制をなぜ終わらせることになったのか。
教条主義的な社会主義が、錆び付いた体制の維持だけの時代遅れのスクラップと
なったことまでの足がかりが書かれていて面白い。
この本が書かれた1990年は、日本は空前の好景気の夢に包まれており、現実に欧州で
起きていることの相対的、客観的評価が非常に疎かった。落合でも、東西対立と
冷戦の終結したことで、米国の軍事産業は不要のものになると推理している。
ところで東欧の1つ1つの国々をつぶさに評価しているのは今読んでも非常に面白い。
ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア(その後分裂)、ルーマニアと、
その直前までの喉元に唾が込上げるような緊迫感と、50、60年代にソ連が何を
したか。1970年代は東欧諸国にとり腐敗が進み、崩壊するまでの序曲になったことが
書かれている。
さてブログのハンドルを少し切る。
お国柄と民族性は少しずつ異なる。東ドイツを含め、工業力のある衛星国家たちは
ホンネではソ連がイヤでイヤでしょうがなかった。でもうっかりすれば粛正される。
国家として弾圧された「プラハの春」のチェコと、「連帯」を掲げて80年代を
突っ走ったポーランド人、ワレサの人間的な側面が凍り付いた体制を少しずつ崩した
のである。
一時は東欧の優等生と言われたルーマニアは、まだチャウシエスク時代の非人間的な
冷血政治の弊害から抜け出せていない。人間が普通の生き方を取り戻すには、長い
時間と、何を信じていいのか、それを払拭できないと、国家の正常化も進まないのである。
それを読みながら思ったのは、冷戦下時代の東欧ではいかにしてソ連に抵抗したか。
案外大事なのは、顔色を伺っているようであっても、実は少しずつ民主化や独自性を
出そうと、各国が工夫していたところが面白い。それは体制崩壊後に早く芽を出し、
一足飛びに20年後の現在に活かされているかというと、まだ判断は微妙だ。
私はこれを読んで非常に規制の強かった80年代までの日本の自動車改造について
連想せざるを得なかった。1960年代、青空天井のように自由であった自動車の
改造は、公害と暴走族の社会問題で、70年代後半から、がんじがらめに取り締まられ
るようになった。
車高を下げ、幅広タイヤを履かせ、オーバーフェンダーやエアロスポイラー等の外装に
手を加えることは、手厳しく取り締まられた。
それでも、改造車は80年代の半ばまで、こっそりひっそりと支持を得ていたと思う。
当時の暴走族の問題性は、反社会的勢力と見なされることもあった。集団で暴れる
ことの迷惑は、厳しく指弾されたが、当時不快な思いをされたことを連想された
方には申し訳ないと思う。ただ、暴走族=改造車という発想は致し方ないが、
これにより車を改造すること、軽くいじることでさえ、日本では大幅に後退して
しまった。
日本のモータースポーツが欧州のような市民権を得られなかったのは、最大の原因は
この当局の判断ミスだろうと思う。
健全な自動車趣味と、自動車に期待するカスタム性、自分で愛車を作り上げることは
日本では殆ど不可能であった時代が20年くらい続いたのである。こうして若者は
少しずつクルマから離れて行ったのも自明の理である。
あの一番厳しかった時代にも、当局の判断に対し、「このくらいなら大丈夫だろう」
と半分ユーモアセンスたっぷりに、タイヤ幅を1センチずつ広げて行くような「抵抗」
を試みるヤツもいた。
雑誌「ホリデーオート」の「Oh! my街道レーサー」のコーナーには、ギャグや今的に
受けをたっぷり狙った改造車が、毎号投稿されていた。
ただその中には、今でも評価できそうなセンスの良いのもたまに散見できた。
ソ連の恐るべき影響下の時代にも、イエスマンになり切れず、いつか頭の上の重しが
無くなったら自由に生きて行くと考えた人が居たから、社会体制は変わって行った。
クルマなんてもう、いじって乗るなんてバカみたい。そう殆どの人が完成品に疑問を
持たずに乗り、リコールのニュースだけに反応する。
いったいどちらが幸福なんだろう。
どちらも過去の話になって、20年以上が経過してしまった。
100円の古書がまだ新しかった頃、日本ではあんなに沢山の新車がでたことも
今では塗り替えられぬ、過去の栄光に過ぎないのだろうか。