
クルマシャカイ含めて、社会が何故面白く無くなったのであろうと、私なりに考えてみた。
ひとつは、そんな単純なもんじゃないということである。
僕個人の考えだが「なにかのせいにする」という考え方では、解決は出来ないと思う。短絡的、大津市の教育長をハンマーで殴るようなやり方だ。
個人的には成長社会の行き着いた形態が、どうしようもなく退屈であるということ。これは判っていただけると思う。安全と「してはいけません」的無難と排他の考え方である。
セキュリティーというのは、安定社会のガードマンだし、保険のことだって、何の目的で産業革命や、それ以前の大航海時代に、今のロイズのような「海上火災」会社が発足したのかが、ものの道理の判る人には想像がつくであろう。今は交通社会に損保がくっつくのも道理だ。一瞬で大切な物を失うことがあるから、損保と言う黒いセールスマンはあるのである。
経済は集中し収斂する。これはコンピュータの利用により、より加速度が付いた。
個人的に知人の居る松下(パナソニック)やシャープの苦境が伝えられているが、つい5年前には、松下はV字回復の余勢を駆ってトヨタとF1事業などをしていた。シャープは4年前には「亀山モデル」の成功を受けて、堺の大浜に新たな工場進出を画した。堺市内の路面電車を湾岸に延長することも、プランにあったことを覚えているが、シャープの苦境は目に余るものが有る。
オセロのカードのように変わる時代。今は日本をのぞいたアジア資本が優勢だ。それはマニファクチュアが、応用技術で、分数計算の図式の経費の安いところが優位なだけである。
これに対する反論は、モノ作りには一朝一夕ではできない職人の技術が必要と言う意見。私も拝聴はする。ただし大多数のウオンツは使用に耐える水準であれば、「100年もの」とかでなくてもよい。だって明日がどうなっているのか判らないのだから、子孫に残す必然が無いのじゃない?
このところお盆ということもあるが、墓石ってなんだろうと考える。
都会に持って来るのなら、廉売店&分譲墓地でもイイッカ!いや万世に残すものだろうと、これも考え方が分かれても良い。極論して、要らないと言う考えも多くなった。
これは連続社会の危うさを表しているのだろうと考えられるいっぽう、ペットの霊園が大流行りだ。要するに世の中は、両極端なのであるが、そこだけ見ていても仕方がないと言うことも知っていた方が良い。
車の話を少ししよう。高だかと言いがちな、50年くらいの日本のモータリゼーションの歴史にも、様々な“表情”が有った。
戦後の焼け跡から復興が進み、もう餓死や身売り、貰い子、乞食のような身寄りの無い孤児たちの姿が消えて行ったのが3丁目の夕日や梅ちゃん先生の時代の昭和32、33年だ。
その頃に軽自動車の規格が出来、スバル360が登場する。中島航空機の技術者の系譜を踏み、宇都宮製作所が富士重工になり、もう一つの残党が富士精密でありプリンス自動車となる。
当時まともな自動車と言えばアメリカ車であり、国民生活が肩を並べようにも、スバルやダイハツミゼットで我慢しなければならなかった。
そのころホンダは2輪であるが、昭和37、38年頃から日本はまた変わる。
日米安保体制の強化は日本の一時期の進路を決めて経済が安定し、一般社会にはモータースポーツが萌芽する。
ホンダに拠る鈴鹿サーキットの建設と「日本グランプリ」に驚喜するカーマニアたちの出現である。
雑誌「カーグラフィック」の創刊もこの頃で、売れ行きよりその先進性を買いたい。
39年に東京オリンピックと新幹線開通は知られているが、名神高速道路と首都高が開通したのがこの時代で、日本の車も時速100kmで走る日が、到来したのである。
さて1960年代は、生まれていない人もあろうが、猛烈な加速と社会変化の時代であった。
でも価値観は今ほど不安定な時代ではない。私は59年生れで、戦後14年目だが、今の皇太子が同じ学年の60年早生まれだ。親の世代は戦争の一番の体験(犠牲)者で、戦争に対する知識は、手の届くところにいくらでもあった。
また、大正、昭和初期生れの大人たちが、この時代の働き中心世代だが、ダグラス・グラマン事件で有罪になった日商岩井の海部八郎は、たしか30代終わりに重役になっている。戦争でたくさん同世代が亡くなった代わりに、破竹のような出世をする世代もいたのである。
その上には明治男がいて、引退した世代や、どっかのお婆ちゃんあたりは、幕末生れだったりして、それだけ実は多様性が有り、おっとりした境遇の人も生きていたのである。
60年代は一気に自動車への欲望が膨張した。日本グランプリで、ニッサンはプリンスを吸収合併して高性能なレーシングカーに力を注ぎ、トヨタも受けて立った。
多分69年までが、モータースポーツ史の第1時代である。それが大きく変わるのは、整理や整備が追い付かずに交通事故死が1万人を超えたこと。また公害問題の社会顕在化が自動車社会も他人事でなくなったことがある。
1970年、大阪で万博が開かれて、日本中の百姓が農協の旗を立てて団体列車でこれを見物。ディスカバージャパン、民族大移動と言った言葉が形容詞として使われて、盆暮れの帰省列車は300%の混雑。長距離カーフェリーが就航し、日本列島は「うねる」という表現がぴったりであった。前年に東名高速が全通し、3大都市圏は数時間で移動が可能になり、大藪春彦は残忍なサスペンスで筆をふるい、ハイウエイを走る狼はBMW2002tiiやPGC10のRをノーマル仕様にして牙を研いでいたのであった。
しかし待ちに待った10月10日の日本グランプリにニッサンとトヨタは参戦せず、多くの観衆は「何だ」と面食らった。興行で言うメインイベントに主役がいない。実は日本のモータースポーツと言うのは「そういうもの」だったのであると大衆は気付いた。
ガチンコは一般レースの悲壮なまでに軽量化したKPGC10の特攻隊に襲いかかるロータリーのカペラ、RX3勢。
生沢や風戸は、戦う舞台をヨーロッパに転戦しようとしていた。石油ショックの3年前の、秋のことであった。
続く。
Posted at 2012/08/18 14:46:09 |
トラックバック(0) |
うんちく | クルマ