静かな夜を過ごし、昨年の3月11日のことをやっと想起できる
余力が回復したので、朝食の配膳を並べているおかみさんに「あのとき」
のことを聞いてみました。富士の裾野のこの辺りでも随分激しく揺れたこと。
来月は、仕事が一旦休止すると思うので、東北のいま、を見ておきたい
というと、それは良いことだからぜひ泊まってあげて下さい、と宿泊業の
方らしい意見と励ましを受けました。
私も今生きて、ここにいることが、1995年1月17日の阪神大震災からの
連続している映像シーン(シークエンス)のように思えます。
朝食を食べていると、食堂の窓の外に人の動く姿が。
ネイチャーフォトの人が野鳥でも撮りに来ているかと思ったら
友人のShiro13さんが、朝から駆けつけてくれました。
借りたiQというトヨタにしてはチャレンジャーな車に乗ってです。
これはほんの少し運転させてもらいましたが、オモシロいと思いました。
私の850と番(つが)いで、持っていても楽しめそうな超ショートホイルベース車
です。
スマートを想定ライバルにしているのか、最近はこういった3mカーが復活
してきました。走行安定性は、軽より上のウルトラマイクロヴィークル。
今の小型車の贅を削り落として、運転と移動に特化するなら、都内でも
有りだと思いました。
さて8時過ぎに出て会場は近くなのにコンビニに寄っていたりしたら
安い駐車場が入れませんでした。隣接の高いところも3台前くらいでアウト。
少し遠いですが、仮設の庭園駐車場に入れました。ⅰQと縦列に木陰の
下に置けてやれやれです。
坂道を歩きながら、少し若い友人と80年代のことを考えていました。
会場になるMuseo御殿場というのは、当時のマツダコレクションの
フェラーリミュージアムでした。
帯同中のSさんは、私設のサイトでこういった
全国の自動車ミュージアム
の現況を更新しながら、紹介する奇特な方です。
写真に写っている天測ドーム状の丸い建物も、確かマツダコレクションの
ショップでしたねと、記憶を辿りながら、坂を上ります。
あの頃の、御殿場を降りれば、いのうえこーいちの著書のような
御殿場生活といった、平凡な田園風景のなかに時折とんでもない
エンスーな車が走ってくると言った風景は、僕らにはすごく刺激的でした。
今回もう一人の友人と合流し、語り合うテーマはCG50年に寄せての
今と昔(あの頃)です。それはバブル弾けて20余年の日本の原風景で
あり、本当はもっと派手なレセプションも、お金をかけた演出も、過去でしたら
50周年を盛大に祝っただろうなという、「貧しい」想像と、現代との落差です。
会場に着きました。入場は無料の大サービスですが、10時開場厳守と
アトラクションの催しの受付に長い列が出来ており、随分長く待たされました。
中に入ると芝の上にとりどりの車が並べられています。
かつてのテスト車、ロータス、私は知らないけどすごい車らしいマクラーレン。
それから昨日御殿場のGSで見かけたバンのようなフェラーリFFも置いて
ありました。
初代ゴルフとシトローエンGS。こういった海外の大衆車を紹介したことが
CG誌の最大の功績と、私は個人的に高く評価します。
こだわるならゴルフは最初期のEモデルくらいで、色はフラット緑とか
黄であって欲しかった。シトロエンはシトローエンと言っていた時代ですから
GS1015に限ります。私も昔、短時間運転したが、1015が一番良いと
思います。
デルタの一番美しい“ノン・ブリスターフェンダー”。
撮影会待ちの、愛媛から来た素晴らしいコンディションの
250SL。230でもなく280でもなく正規輸入の250は非常に珍しい。
試乗会を並んで待つ多くのギャラリーたち。私たちは比較的空いていた
(一番不人気の)フォードエクスプローラーに乗りましたが、これがなんと
4気筒の直噴ターボ車なのに、2トン強のボディを軽々引っ張り燃費も
12km良ければいくというのに吃驚しました。
お楽しみは多くの伝説の人々のトークショーです。
このシーンは宮川秀之さんと高島鎮雄さんを招いて、あの時代
60-70年代のイタリアの超高級オートクチュールだったカロッツェリア
と海外渡航した日本人の見たイタリア文化です。
屋内展示は、ホンダF1の新旧。
それからルマンウイナーのマツダ車。
試乗会含めて、こういったものを見ることが、すべて無料というのには、
主催者側の読者歓迎行事と言う、意気込みが伝わってきました。
表紙写真でおなじみの、北畠主税さんの愛車撮影コーナー。
ここだけはプロの機材とスタッフ調達で事前申し込み20,000円
必要でしたが、すぐに予定数に達したとか。先ほどの愛媛の250SL
がオーナーらしい父子紳士と被写体に収まっています。
MBという車をはずしてCGは語れない。300SLと戦後の“グロッサー”600。
当時の小林編集長を乗せて1971年の試乗記で「願わくばこの世に叶う
夢があるならば、この600と一生分のタイヤが欲しい」と言わしめた伝説が
残っています。私もこの号は読みました。
その後バブルのときに随分投機目的で日本に600の個体は入りましたが
まともに走らせていたのは殆ど見たことが無い。芦屋の豪邸で朽ちていたのを
後年見たこともあります。
小林御大に罪はないのでしょうが、この600ほど乗り手と使用目的を選んだ
超弩級の乗り物は無かったと思います。今のアストンやベントレーの比較
対象では無いと思います。
僕には猫に小判の超高級スポーツ群。これらはCGのために貸し出された
広報車両と思われます。
ただ何と言うか、同行のSさんとも語っていたのですが、会場の前をうろうろ
しているポルシェの編隊や、マセラティやフェラーリ、すごい車がひっきりなしに
会場周辺で見かけました。
これが少年時代なら「サーキットの狼」世代の彼らは興奮発狂(笑)だったのに
と連発します。
それが豊かになった今の日本なのです。
カーグラフィックは、鈴鹿で日本グランプリが始まる前年の1962年に
大いなる望みを持ってこの世に生まれました。
最初の数年間は、苦労はありましたが経営はやがて軌道に乗り
品格ある文体と見識の高さで、分かる人たちには熱狂的に支持され
やがて黄金期の80年代を迎えます。
初代編集長から2代目のバトンタッチがひとつの転機だったかも
しれません。その頃に僚誌のNAVIが生まれます。
僕はこの頃から、お下がりの古雑誌を隣の職場にいた、テレビクルー
から貰い、読むようになりました。彼の愛車が初代アルピナC1というのも
いかにもといった時代かもしれません。
僕の関心は手の届きそうなイタリアンミニたちでした。
新車は無理だった(と思う)ので、結局運よく見つけた今も乗るFIAT
850クーペに落ち着きました。
そんな僕は70年代のカーグラフィックをよく、古書で求めるように
なりました。家にあった学生時代に買った1969年4月号「69年スポーツカー」
特集に新車のFIAT850クーペとスパイダーが紹介されて無かったら
僕はこの青い車に手は出さなかったと思います。
それから小林編集長の文章に、目から鱗の自動車開眼で今日まで
クルマ三昧をやってきました。持ち前の変わったクルマ好きに拍車が
かかってです。
それから長い時間が経ちました。二年前に再出発したCGも、これだけの
ことを成し遂げましたが、このイベントはどう位置づけたらよいのだろう。
深夜に続きを書きながら、結論が整理できません。
旅の帰りの車の中で、(みんなより早めに会場を14時に辞去しました)
一番この日を感じているのは、小林御大ご自身だろうなあと思いました。
感無量なのではと、いうのと、今後の雑誌の使命です。
私自身の旅の感想は、そろそろ限界の見えてきた中年男の切なさと
哀しみを乗せて、旧車はきょうも走る。そう思っただけです。
20年前のCG30年の時には、誰も、私自身もこういうことは考えなかった
と思います。それが今の日本だし、それでもすごいクルマはどんどんと
作られ、売られ、やがて消えていきます。
なにかもうひとつ、未来につながりそうな維持社会めいたヒントが
なかったか。御殿場の林の中にこだまする、クルマたちの咆哮と
蝉時雨の中、帰途につきながら、私は富士を見上げて思いました。
2012年9月記す