
島原の一夜が明けたのですが、夜半に寝返りも打てずに
まんじりとも出来ませんでした。
というのも、島原外港駅すぐ横のユースに泊まったのですが
相部屋になり、お相手が外国人、僕が9時に戻るともう部屋は
就寝モードで、気を遣って、そうっと風呂に行くと使用中。
遅くに風呂にやっと入れたのですが、換気扇が壊れており
ずっと風を吸い込む状態で停まりません。猛烈に冷たい風が
入ってくるので寒くてたまりませんでした。
翌日外国人さんは6時過ぎに起きて、早出の支度。
あたしも7時前にシーツなどをたたんで、朝食後にすぐ出られる
ように、準備しました。
その間携帯で、サイトをみると返事もしたくなるのですが、
なんだかなあの一夜が過ぎて出発。しかし南に行くのか、
熊本に船で渡ってこのまま帰ろうかという気持ちもあり、
はっきりしないまま国道を少し南下した時点でコースアウト。
海の見える空の下で、心も身体もフリーズしておりました。
1時間近く、動きたくない気持ちが続いたのですが、空が少し明るく
なってきました。そうだやっぱり旅を続けようと、ミラを少し走らせると
道の駅の裏手に着きました。いや道の駅よりもう少し大きな観光施設です。
そこに入っていくと、雲仙大噴火の記録映像を見せてくれる場所があり、
有償というので、これは何となく見ておいたほうが良いと思い入りました。
1990年8月に、妻と二人で旅をしたときは大噴火の前年でした。
91年の5月から大規模な噴火が始まり6月3日に43名の命を奪う
大惨事が起きるのですが、ウイキぺディアの雲仙岳の記述でこの部分を
読むと、マスコミ批判が喧しく書かれており、こういう見方もわからなくも
ないが、と思いました。
というのは、この取材に行かなかったある記者のことを知っており、彼は
一人息子だったのか、お母ちゃんが社に「頼むから行かさんといてくれ」
と電話してきて辞令を拒否、これで社内では笑いものになりましたが、
今も古参の記者として働いております。
私の脳裏は、噴火の溶岩が家屋を飲み込む映像を見て、昨年の震災と
津波以上に、1995年の阪神大震災を思い出しました。
あの時は泊まり勤務で大阪で仮眠中。私の家族は妻と子供2人が巻き込まれ
家は傾き半壊、(後に全壊と認定)、裏のアパートはペッちゃんこに倒壊、
家族の生死が半日わからない状態で、早退しました。
あれから17年経ちましたが、生きているのだから、「ええやんか」でいいの
ではないか。ここにやっと旅を続ける気力が戻って来ました。
亡くなった方へのレクイエムは忘れてはなりませんし、身内を亡くされた
方の痛みというのは、察するに余りありません。ですが、生き延びた人間の
勤めと言うのはこういう風に旅をして、ものを思う。それも一つの人間の
果たす役割でないか。
島原湾に沿った道を再び走り出し、そうだ、懐かしい天草に渡ろうと
決めました。こうやって私のように何度も九州の道を走っていると
記憶のシークエンスが甦り、それを紡いで記録に残すのも、何かに
繋がっていくような気がいたしました。それにつけても、この拾い物の
軽自動車の好調なこと。道中道路わきで、今は動いていないナンバーの無い
クルマたちをみかけます。
この車は12年落ちで、そろそろ引退の運命も来ていたのかもしれません。
復活できた喜びに、これだけ応えているのなら。予備役に甘んじている
わたしにも、いつか復活の喜びが訪れるかも、と思いました。
走り出して1時間。天草への船が出る口之津の町と港が見えてきました。
出港までジャスト20分、素晴らしいタイミングでMIRAは港に滑り込みました。
小さな船です。一応バス程度までは積めますが。天草の鬼池港まで所要時間
30分、料金は2100円でした。地元の人々がしょっちゅう使う海の上の道です。
これ以上高い設定は出来ないのは親会社が島原鉄道直営のフェリーゆえ
でしょう。こういう心と交通機関が接近できるような小さな旅を、経験の無い方は
是非一度チャレンジしてみてください。何かが変わると思います。
船が出港しました。
私の頭の中には天草の海というと、どうしても「藍より青く」の
オープニングの海の色が思い出されてきます。
1972年と言うから、今からちょうど40年前のNHKの朝ドラの
主題歌が、流れてきます。
天草の港はいくつかありますが、島原口之津から着くのは鬼池港といい、
旧五和町になります。ここからまっすぐ東海岸線を南下すると、旧本渡市で
天草の玄関であり中心地だったところです。
しかし天草の美しさは夕日の見える西海岸だと、私は思います。
これから、通詞島、富岡、淋しい海岸線に沿った道が長く続くと
やがて高浜と下田温泉で少し人のいる里になり、あとは大江と崎津と言う
二つの天主堂のある村を通り、最後に河浦町で本渡から南下する国道
266号線と合流する。それが頭にある西海岸の印象でした。
陸に上がるとすぐに走り始めましたが、苓北町富岡を過ぎると何か
勝手が違います。1978年に来た頃には噂に上り、1991年の旅のときは
着工目前であった
火力発電所の存在です。
1995年に運転が開始された熊本県でも最大級の火力発電所は、県内
でも一番人里離れた淋しい海岸に作られたのでしょうか。
どうやら豪州産の石炭を海上輸送して、エネルギー転換しているからの
ようです。
火力発電所のおかげで、海に沿った道は格段に良くなりました。
途中にあった下田の町は、トンネルを出るとすぐに橋になり、町の
中央を車が通らなくなりました。昼飯は無理かなあと思っていたら
レストランを発見。
このエビフライ定食が1000円で、周囲のおかずとご飯はお代わり自由。
ところがこのブルーガーデンと言うレストラン、美味しい料理のお礼を
言ったら、何と今月いっぱいで閉店とのこと。残念です。
せめて、この海岸からの夕日を見てください。
しかし美味しい昼食のおかげで格段に力が出ました。
天草の後半部分は道路が良くなりすぎて、大江の天主堂は車から
遠く見るのみ。崎津の方は、入り江に降りていく道も通らなくなりました。
橋の上から見た天主堂のある崎津の光景。
大昔は入り江に沿った道を、何度もハンドルを切り返しながら進んだ
ものでした。発電所が出来て道は格段に良くなったのですが、過疎は
避けられないテーマのようです。昔が良かったとは、簡単に言えないの
でしょうが。
牛深港に着いたのは午後の昼下がり。こっちはもっとタイミング
ぎりぎりで出港10分を切りかけていた時間でした。
無理して間に合わせたのでなく、偶然です。次の船までは1時間以上
ありますので、よろけながらも車を降りて、切符を買いました。
船の中で30分休憩!。
このフェリーが着くのは、鹿児島の蔵の元という港で、こちらも料金は
2100円でした。着いたところから鹿児島へのメインルート、3号線までは
結構あります。気がついたら、もう鹿児島県までMIRAは走ってきたわけです。
後はこの旅はどこまで行くか。どこで完結するかでしょう。
そろそろ今夜の泊まる場所も考えねばなりません。
熊本に人吉という町があります。肥薩の国境に面した旧い町で
ここに一度泊まりたいと憧れていましたので、そこまでどうやっていくか。
道を南下すると阿久根市に出ます。もっと南下するとさつま川内、
ここから山間に道をとり、宮之城、大口と通って宮崎県えびの市に
出て高速で人吉か。遠いなあとくじけそうに。
もうちょっと地図を精査すると、阿久根の同じ緯度の右手にある
出水市から、薩摩大口に抜けて、さらに大口(現伊佐市)から人吉に
出られる山道があるのに気づきました。
よし、これなら最悪3時間でいけるだろうと、腹をくくりました。
MIRAも走れるくらいの悪路を想像しました。
今は鹿児島県長島町という島の中で、黒之瀬戸大橋を渡ると
本土になりますが、手前の道の駅で休憩をとりました。
さあ、疲れは感じていますが、昨日の轍は踏まないようにと。
橋を渡ると高尾野町。大昔鹿児島本線の高尾野駅に寄ったことが
ありますが、今回も鹿児島線の駅に寄って一息つくことを目標に
しました。しばらく行って国道から斜めにカットする道を見つけて進み
ます。うまいこと鹿児島線の野田郷駅に出ました。
時間は午後3時少し前です。こんな小さな駅ですが、周辺には出水市に続く
街道も通り、国道から少し離れていますが町に風格もありそうです。
ところが駅に入線してきた列車を見て、衝撃を受けました。
かつての鹿児島本線は第3セクターの肥薩オレンジ鉄道に降格して
架線があるのに走ってきたのはディーゼルカー1両と言う状態に。
新幹線を(無理して)走らせるというのは、こういうことかと思いました。
野田郷クラスの駅だったら特急や急行は停まりません。
しかし手元にあった1984年の時刻表を見ると、東京から直通の特急
「はやぶさ」もこの駅を通りますし、鹿児島を12:39に出た上り134列車が
ちょうど14:52に野田郷に着いて、終点熊本には18:32に着く。
今は川内-新八代間だけの区間運転のみになりました。
ちなみに架線が張ってあるのは直通運転をするJR貨物の電気機関車の
ためなのですが、酷い話と思いました。
採算重視?、政治的な解決?、こういう劣化する地方を一方で見て、
一方で発電所の見返りで道路が改良される地方。僕が高校生で歴史的
経緯と現実を理解できる年齢だったら、古里を恥ずかしく思うだろう。
駅前の地方銀行で働く女の人。ATMで都銀口座から今夜の宿泊費を引き
出した私に「ありがとうございます」と言ってくれました。
良い仕事に就職できましたね、と言われているのでしょう。でも同じ九州人と
して悔しくてしょうがありません。どうせ私はさすらいのロック野郎です。
怒っていてもしようがありません。この後この日の一番良かった場所を
紹介いたします。鹿児島県出水市に今も続く旧武家屋敷群です。
これは先ほど述べた出水から大口に抜ける道に近い、市街地でも
高台に近い中心地でない惣村を思わせる地域にあります。
薩摩の士族は郷士といい、半分在農の集団ですが、屋敷には築地でなく
下が石組み、上がまがき(生垣)で囲った屋敷を構えます。知覧などで
見たことがありますが、ここ出水市では観光対象に殆どならず、そこに
150年以上営々と武士の子孫が住み続けているのが印象的でした。
どの家も手入れがよく、決して華美な今風の建て方に再建しない。
門構えが残っている家も多く「二階堂」「壱岐」といった表札を見ると
思わず唸ってしまうのは、私が歴女ならぬ歴史おじさんだからでしょうか。
もっと武家屋敷群を見ていたかったのですが元気に遊ぶ下校後の
小学生の子供らを見て、30分弱で、この地を後にいたしました。
全長30km足らずの山道を一気に早駆けして大口(現伊佐)に出ます。
風景はちょっと変わっていて、肥薩線の大畑のループを通ったことの
ある人でしたら、似ていると思われるでしょう。九州中央部の屋根の
上に出たみたい。きっとこの辺の地形も焼き畑系なのでしょう。
薩摩武士の早馬も駆けた道なのでしょうか。
大口では昔、山岳鉄道の国鉄山野線と宮之城線が接続する、中国地方の
芸備線の備後落合のような宿駅の町の佇まいがありました。(1978年訪問)
残念ながら両路線とも、昭和末期に廃止になり、今は昔鉄道の通っていた
町のよすがは跡形もありませんでした。
鉄道時代の航空写真をウイキから転載いたします。
変わっていく古里。今は伊佐錦の焼酎で知られる薩摩大口ですが、
昔はそこそこの山間部の拠点と言う佇まいがありました。
この後もう一度山を越えて本日の終点、人吉に到達するのですが、
この記事は、ここまでにします。