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2012年11月20日 イイね!

耳を澄ましてごらん~島原から天草へ

耳を澄ましてごらん~島原から天草へ島原の一夜が明けたのですが、夜半に寝返りも打てずに
まんじりとも出来ませんでした。
というのも、島原外港駅すぐ横のユースに泊まったのですが
相部屋になり、お相手が外国人、僕が9時に戻るともう部屋は
就寝モードで、気を遣って、そうっと風呂に行くと使用中。
遅くに風呂にやっと入れたのですが、換気扇が壊れており
ずっと風を吸い込む状態で停まりません。猛烈に冷たい風が
入ってくるので寒くてたまりませんでした。

翌日外国人さんは6時過ぎに起きて、早出の支度。
あたしも7時前にシーツなどをたたんで、朝食後にすぐ出られる
ように、準備しました。
その間携帯で、サイトをみると返事もしたくなるのですが、
なんだかなあの一夜が過ぎて出発。しかし南に行くのか、
熊本に船で渡ってこのまま帰ろうかという気持ちもあり、
はっきりしないまま国道を少し南下した時点でコースアウト。

海の見える空の下で、心も身体もフリーズしておりました。



1時間近く、動きたくない気持ちが続いたのですが、空が少し明るく
なってきました。そうだやっぱり旅を続けようと、ミラを少し走らせると
道の駅の裏手に着きました。いや道の駅よりもう少し大きな観光施設です。
そこに入っていくと、雲仙大噴火の記録映像を見せてくれる場所があり、
有償というので、これは何となく見ておいたほうが良いと思い入りました。

1990年8月に、妻と二人で旅をしたときは大噴火の前年でした。
91年の5月から大規模な噴火が始まり6月3日に43名の命を奪う
大惨事が起きるのですが、ウイキぺディアの雲仙岳の記述でこの部分を
読むと、マスコミ批判が喧しく書かれており、こういう見方もわからなくも
ないが、と思いました。
というのは、この取材に行かなかったある記者のことを知っており、彼は
一人息子だったのか、お母ちゃんが社に「頼むから行かさんといてくれ」
と電話してきて辞令を拒否、これで社内では笑いものになりましたが、
今も古参の記者として働いております。

私の脳裏は、噴火の溶岩が家屋を飲み込む映像を見て、昨年の震災と
津波以上に、1995年の阪神大震災を思い出しました。
あの時は泊まり勤務で大阪で仮眠中。私の家族は妻と子供2人が巻き込まれ
家は傾き半壊、(後に全壊と認定)、裏のアパートはペッちゃんこに倒壊、
家族の生死が半日わからない状態で、早退しました。
あれから17年経ちましたが、生きているのだから、「ええやんか」でいいの
ではないか。ここにやっと旅を続ける気力が戻って来ました。



亡くなった方へのレクイエムは忘れてはなりませんし、身内を亡くされた
方の痛みというのは、察するに余りありません。ですが、生き延びた人間の
勤めと言うのはこういう風に旅をして、ものを思う。それも一つの人間の
果たす役割でないか。
島原湾に沿った道を再び走り出し、そうだ、懐かしい天草に渡ろうと
決めました。こうやって私のように何度も九州の道を走っていると
記憶のシークエンスが甦り、それを紡いで記録に残すのも、何かに
繋がっていくような気がいたしました。それにつけても、この拾い物の
軽自動車の好調なこと。道中道路わきで、今は動いていないナンバーの無い
クルマたちをみかけます。
この車は12年落ちで、そろそろ引退の運命も来ていたのかもしれません。

復活できた喜びに、これだけ応えているのなら。予備役に甘んじている
わたしにも、いつか復活の喜びが訪れるかも、と思いました。
走り出して1時間。天草への船が出る口之津の町と港が見えてきました。



出港までジャスト20分、素晴らしいタイミングでMIRAは港に滑り込みました。
小さな船です。一応バス程度までは積めますが。天草の鬼池港まで所要時間
30分、料金は2100円でした。地元の人々がしょっちゅう使う海の上の道です。
これ以上高い設定は出来ないのは親会社が島原鉄道直営のフェリーゆえ
でしょう。こういう心と交通機関が接近できるような小さな旅を、経験の無い方は
是非一度チャレンジしてみてください。何かが変わると思います。



船が出港しました。



私の頭の中には天草の海というと、どうしても「藍より青く」の
オープニングの海の色が思い出されてきます。
1972年と言うから、今からちょうど40年前のNHKの朝ドラの
主題歌が、流れてきます。



天草の港はいくつかありますが、島原口之津から着くのは鬼池港といい、
旧五和町になります。ここからまっすぐ東海岸線を南下すると、旧本渡市で
天草の玄関であり中心地だったところです。



しかし天草の美しさは夕日の見える西海岸だと、私は思います。
これから、通詞島、富岡、淋しい海岸線に沿った道が長く続くと
やがて高浜と下田温泉で少し人のいる里になり、あとは大江と崎津と言う
二つの天主堂のある村を通り、最後に河浦町で本渡から南下する国道
266号線と合流する。それが頭にある西海岸の印象でした。

陸に上がるとすぐに走り始めましたが、苓北町富岡を過ぎると何か
勝手が違います。1978年に来た頃には噂に上り、1991年の旅のときは
着工目前であった火力発電所の存在です。

1995年に運転が開始された熊本県でも最大級の火力発電所は、県内
でも一番人里離れた淋しい海岸に作られたのでしょうか。
どうやら豪州産の石炭を海上輸送して、エネルギー転換しているからの
ようです。

火力発電所のおかげで、海に沿った道は格段に良くなりました。
途中にあった下田の町は、トンネルを出るとすぐに橋になり、町の
中央を車が通らなくなりました。昼飯は無理かなあと思っていたら
レストランを発見。



このエビフライ定食が1000円で、周囲のおかずとご飯はお代わり自由。



ところがこのブルーガーデンと言うレストラン、美味しい料理のお礼を
言ったら、何と今月いっぱいで閉店とのこと。残念です。

せめて、この海岸からの夕日を見てください。



しかし美味しい昼食のおかげで格段に力が出ました。
天草の後半部分は道路が良くなりすぎて、大江の天主堂は車から
遠く見るのみ。崎津の方は、入り江に降りていく道も通らなくなりました。



橋の上から見た天主堂のある崎津の光景。
大昔は入り江に沿った道を、何度もハンドルを切り返しながら進んだ
ものでした。発電所が出来て道は格段に良くなったのですが、過疎は
避けられないテーマのようです。昔が良かったとは、簡単に言えないの
でしょうが。

牛深港に着いたのは午後の昼下がり。こっちはもっとタイミング
ぎりぎりで出港10分を切りかけていた時間でした。
無理して間に合わせたのでなく、偶然です。次の船までは1時間以上
ありますので、よろけながらも車を降りて、切符を買いました。
船の中で30分休憩!。



このフェリーが着くのは、鹿児島の蔵の元という港で、こちらも料金は
2100円でした。着いたところから鹿児島へのメインルート、3号線までは
結構あります。気がついたら、もう鹿児島県までMIRAは走ってきたわけです。



後はこの旅はどこまで行くか。どこで完結するかでしょう。
そろそろ今夜の泊まる場所も考えねばなりません。
熊本に人吉という町があります。肥薩の国境に面した旧い町で
ここに一度泊まりたいと憧れていましたので、そこまでどうやっていくか。
道を南下すると阿久根市に出ます。もっと南下するとさつま川内、
ここから山間に道をとり、宮之城、大口と通って宮崎県えびの市に
出て高速で人吉か。遠いなあとくじけそうに。

もうちょっと地図を精査すると、阿久根の同じ緯度の右手にある
出水市から、薩摩大口に抜けて、さらに大口(現伊佐市)から人吉に
出られる山道があるのに気づきました。

よし、これなら最悪3時間でいけるだろうと、腹をくくりました。
MIRAも走れるくらいの悪路を想像しました。

今は鹿児島県長島町という島の中で、黒之瀬戸大橋を渡ると
本土になりますが、手前の道の駅で休憩をとりました。
さあ、疲れは感じていますが、昨日の轍は踏まないようにと。

橋を渡ると高尾野町。大昔鹿児島本線の高尾野駅に寄ったことが
ありますが、今回も鹿児島線の駅に寄って一息つくことを目標に
しました。しばらく行って国道から斜めにカットする道を見つけて進み
ます。うまいこと鹿児島線の野田郷駅に出ました。



時間は午後3時少し前です。こんな小さな駅ですが、周辺には出水市に続く
街道も通り、国道から少し離れていますが町に風格もありそうです。
ところが駅に入線してきた列車を見て、衝撃を受けました。



かつての鹿児島本線は第3セクターの肥薩オレンジ鉄道に降格して
架線があるのに走ってきたのはディーゼルカー1両と言う状態に。
新幹線を(無理して)走らせるというのは、こういうことかと思いました。

野田郷クラスの駅だったら特急や急行は停まりません。
しかし手元にあった1984年の時刻表を見ると、東京から直通の特急
「はやぶさ」もこの駅を通りますし、鹿児島を12:39に出た上り134列車が
ちょうど14:52に野田郷に着いて、終点熊本には18:32に着く。
今は川内-新八代間だけの区間運転のみになりました。
ちなみに架線が張ってあるのは直通運転をするJR貨物の電気機関車の
ためなのですが、酷い話と思いました。

採算重視?、政治的な解決?、こういう劣化する地方を一方で見て、
一方で発電所の見返りで道路が改良される地方。僕が高校生で歴史的
経緯と現実を理解できる年齢だったら、古里を恥ずかしく思うだろう。
駅前の地方銀行で働く女の人。ATMで都銀口座から今夜の宿泊費を引き
出した私に「ありがとうございます」と言ってくれました。

良い仕事に就職できましたね、と言われているのでしょう。でも同じ九州人と
して悔しくてしょうがありません。どうせ私はさすらいのロック野郎です。

怒っていてもしようがありません。この後この日の一番良かった場所を
紹介いたします。鹿児島県出水市に今も続く旧武家屋敷群です。

これは先ほど述べた出水から大口に抜ける道に近い、市街地でも
高台に近い中心地でない惣村を思わせる地域にあります。



薩摩の士族は郷士といい、半分在農の集団ですが、屋敷には築地でなく
下が石組み、上がまがき(生垣)で囲った屋敷を構えます。知覧などで
見たことがありますが、ここ出水市では観光対象に殆どならず、そこに
150年以上営々と武士の子孫が住み続けているのが印象的でした。

どの家も手入れがよく、決して華美な今風の建て方に再建しない。



門構えが残っている家も多く「二階堂」「壱岐」といった表札を見ると
思わず唸ってしまうのは、私が歴女ならぬ歴史おじさんだからでしょうか。



もっと武家屋敷群を見ていたかったのですが元気に遊ぶ下校後の
小学生の子供らを見て、30分弱で、この地を後にいたしました。



全長30km足らずの山道を一気に早駆けして大口(現伊佐)に出ます。
風景はちょっと変わっていて、肥薩線の大畑のループを通ったことの
ある人でしたら、似ていると思われるでしょう。九州中央部の屋根の
上に出たみたい。きっとこの辺の地形も焼き畑系なのでしょう。
薩摩武士の早馬も駆けた道なのでしょうか。

大口では昔、山岳鉄道の国鉄山野線と宮之城線が接続する、中国地方の
芸備線の備後落合のような宿駅の町の佇まいがありました。(1978年訪問)
残念ながら両路線とも、昭和末期に廃止になり、今は昔鉄道の通っていた
町のよすがは跡形もありませんでした。

鉄道時代の航空写真をウイキから転載いたします。



変わっていく古里。今は伊佐錦の焼酎で知られる薩摩大口ですが、
昔はそこそこの山間部の拠点と言う佇まいがありました。
この後もう一度山を越えて本日の終点、人吉に到達するのですが、
この記事は、ここまでにします。



Posted at 2012/11/20 12:22:37 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域
2012年11月20日 イイね!

箸休め、能勢の妙見山に行ってきました

箸休め、能勢の妙見山に行ってきました









暗夜行路みたいに重い九州旅行記ですが
後半は明るくなって行きます。

昨日は天気が良かったので、妙見山に午後3時に
上がってみました。
能勢の紅葉は終わりですが、国道から見える池田の
五月山から、ずっときれいですよ。





Posted at 2012/11/20 11:15:05 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2012年11月20日 イイね!

望郷の旅 唐津から1日目終点島原まで

望郷の旅 唐津から1日目終点島原まで一個ポチリが点いたので
気を取り直して書き続けましょう。









佐賀県唐津市に入るのは3度目くらいです。

絲山秋子と言う芥川賞作家がおられます。この人は社会人経験で
設備企業の管理職もした女性ですが、「老後は、唐津に住んでみたい」
と以前新聞エッセイに書いていたことを、私は憶えております。

確か彼女は高崎に住んでいて、一時期はクーペフィアットと
フィアットティーポの2台のフィアットに乗っていたと思います。
少し下の世代ですが、最初に乗ったクルマがMTの初代パンダ。
そんなことを知ってから彼女の作品は少し読むようになりました。

「逃亡くそたわけ」ではこの旅の後の方に出て来る宮崎-熊本
県境を走る山岳国道の265号線が出て来ます。
それを古いルーチェで走るのですよ。

私は絲山さんに直接メールしたことがあります。
幸運にも、フィアットに反応頂き返事をもらいました。

何かこの地球に一時期存在して、何が出来るのだろうと
深く考えるよりも、走り出せ。それが今回の九州グランツーリングでした。
いつもの850じゃなくて、ミラなのですが、弁解というより
この車のドライバビリティについて、触れましょう。



思った以上に伸びるという表現は、半分しかしか言い得てません。
ステアリング特性と、千鳥足にならないのは、アルトに比べて
美点です。軽だけでなく、同時期のストーリア開発を見据えた
設計を感じる部分があります。多分スズキはそれであわてて
スイフトを熟成したのでしょう。

さて唐津に着いたのが昼の12時でした。朝船を降りたのが7時だから
ここまで5時間ほぼ走りっぱなし。途中宗像の道の駅で弁当を買っていました
ので、お濠の見える風景の良いところを見つけて、優雅な平日ランチを
食べ始めたところ、冷たいものが空から無情に下りてきました。

私の不思議な雰囲気を面白そうに見て通って行った、二人連れの
遠来の御夫人二人も慌てて、屋根のあるところに走って行ってしまいました。

旅する気分なんて、日常との落差に面白さがあるのですが、今の私は複雑です。
それでもこういう旅をしたからって、罰は中らないだろうと考えるのですが、
気持ちの良い春の日や、暑い夏ではありません。人生の季節は秋、ところが
温かい九州に憧れてきたところ、今日の気温は12月レベルだといいます。



唐津での「ランチ」がもっとエンジョイ出来ていたら、この日の気分は、穏やか
だったかもしれません。今の私は不安定です。でもそれ程困窮しているわけでない。
だからこういう旅をしてみた。タベログだグルメだのって、そんな小市民的
なことは一切しませんが、見て来て走った大九州交響楽の1章なのです。



これは郵政会館というか旧逓信以来の保養所でしょう。こういうのは泊まってみたい。

1976年の自転車旅行の夜、大きな屋敷の前を通ったら「保利」という表札が
出ていました。家に帰って父に聞くと、自民党の幹部の保利茂の実家だと教えられ
「唐津藩の家老の家柄」と、言われました。今は息子の保利耕輔が議員をして
いますが、世代交替の時期だろうと思います。ところで調べてみるとオヤジが
言ったのは半分ウソですね。「貧しい農家の出」で苦学と書かれていました。
もう〜!

私の文章も、けっこうフィクションが入っているかもしれません。



結局唐津は雨もあり、素通りに近い状況で後にしました。




唐津から先の道の選択に迷います。呼子まで回るとかなり遠回りになり、たぶん
この先はペースも落ちるであろうから、唐津半島の裏側へ、山越えで204号線
方面に出ることに決めました。途中の地名に竹木場というところがあります。
コバというのは、昔の九州に多かった焼き畑のことと教えられています。
南九州に多く、大分側にはあまりありません。佐賀にもあったのか。
地質は写真のように赤土に近い火山土でしょう。たしかにこれは水田には向きません。



海沿いに出ました。採石場の有る島、福島と言います。ここは初めてのような
気がしましたが、調べてみると1978年春に通っていました。橋続きですが、
渡った先は長崎県北松浦郡のようです。もう少し行くと伊万里市です。



伊万里は1999年夏に家族旅行で来ています。このあたりは唐津から始まって
有田、波佐見と陶器の町が続くのですが、何も産業のない都市に比べると明らかに
豊かさを感じる部分が多く在ります。

それは焼き物と言う商品経済のおかげなのですが、日本が近代社会になる以前から
九州の各地は、小さなエリアの藩レベルで創意工夫して特産物を競ってきました。



伊万里付近で急に珈琲が飲みたくなり、道路沿いには全く普通の喫茶店がありません。
やっと有田で見つけたのは高級品の陶器を作っている工房の横に付設された、こんな
レストラン。ここでやっとティータイム。落ち着けました。

今でもこの辺りが経済的に潤っているのは先人の賜物のおかげなのですが、近年の
日本の社会の疲弊ぶりは、自助の前に国が何もしてくれないからと言う不平感が強い。

車で各地を回りながら、福岡の繁栄、前世紀型産業の後退した北九州地区、芦屋の
ように公営ギャンブルが生命線の町、福岡西部の明るい海岸線地区と、先程までの
唐津の印象など1日目だけでこれだけの感想が、53歳の私に残りました。

とくに僕の住む関西は、お江戸に対してはコンプレックスが有るいっぽう、地方に
対してはどうかな、と思うような行動や意識を感じます。異論もあるでしょうが、
大阪や関西には人情はあるけど、近年思いやりが薄いと、今回の旅を通じて反対に
感想を持ちました。それは運転マナーに現れる、「よそもの」へのまなざしです。

旅を急ぎましょう。
波佐見から嬉野に出ることにして、そこからついに高速道路を使いました。
下りたところは諫早です。長崎県諫早市は雲仙の有る島原半島の付け根です。

ここから本日の宿のある島原市まで、1時間くらいの見当をしましたが、
高速を使ったので、諫早市の混雑も思ったほどでなく、少し余裕があったので
諫早湾の干拓地を見てきました。





古い堤防とその内側には、広大な農地が広がっています。
何次にも渡って新田開発を広げてきたのは、江戸時代からの歴史と思います。
奥へ奥へと、車を走らせると、国道が遠ざかり、普通の人が入らない地域になり
今回の干拓事業に関する戸惑いを感じる立て札などが目に入ってきました。

一番奥地の車で行ける限度の所に着きました。



ここから先は、一旦閉めた防潮堤を開門して、水に戻すのか、大変難しい問題です。



最奥地の入植地には、記念碑が建っていました。近年立てられたもので
1963年に入植した、第1世代の労苦を讃えるというものです。
約50年前に、島原半島や長崎県の各地から応募した1期生の方達も、鬼籍に
入られるようになり、その功績を忘れないためにもと言う趣旨のようでした。

胸を張って、ここにきた人たち。その希望に燃えた時代が遠くなり、環境問題
など近年の社会は複雑です。いつの時代にも右往左往するのは、普通の人たち。
私はここを訪ねても良かったのかの、感想が残りました。



旅の疲れがたまって来る日の入りに、気楽に見学する場所でなかったでしょう。
国道に戻りしばらくいくと、古い時代の橋が残っている場所があったので
休憩しました。
その旧道の橋の上に立っていると、横を私鉄の島原鉄道が走っており、良い
シーンだなと思っていると、列車の汽笛が聞こえやがてレールのジョイント音が
聞こえてきました。運良く鉄橋を渡る列車が撮れました。



その後は10数キロ走り、宵闇の下りた島原に到着しました。
この夜のことは特筆するものでもないのですが、寒い夜に疲れていて
軽く飲んだだけが、体調を壊して、宿が寒かったこともあり散々でした。

寒夜の島原の夜景を何枚か写していますので、お目にかけましょう。



夜の魚屋。本当に静かな中に手を動かす音だけが聴こえてきました。



時が止まったような南島原駅。ここから博多や小倉に直通の急行も
かつては出ていました。



一駅だけ列車に乗り、宿の有る島原外港駅に戻りました。



この晩からよく朝にかけて、何だか精神的に凹んでいました。
体調が低下するので、一人の走りっぱなしの旅は、宿で回復できないと
いけないということが、よくわかりました。
食事も、大切ですね。


Posted at 2012/11/20 05:34:29 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域

プロフィール

「「自動車趣味人」38号に取り上げていただきました。」
何シテル?   06/14 14:37
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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