
きょうは高尚な話題である。
なんか書きにくいなあと思いつつ、チャレンジするのも
物書きの神髄であろう。
チャレ鉄というのもあった。
チャレンジ2万キロという国鉄末期の乗り潰し鉄に
取り憑かれた哀れな蒼氓の、ローカル支線の列車が
出る駅に着く度、スタンプ帳を握り、硬券入場券を
買い求め、駅名票の前で刹那に記念撮影し、右往左往する
者どもがまだ、後ろ指をさされる前に、山下鉄郎という
読み人知らずが、歌ったんだと思う。なんのこっちゃ。
はい、というわけで、きょうはなぜ、鉄道マニアがきもいのか
もとい、アイドルが好きなのかに着いて、論考しようと思う。
ここはみんから、自動車系SNSで、こういう話題を取り扱うのは
デリケートな面がある。しかし鉄道系のサイトで瞬間炎上しても
先に進めない。
鉄(てつ)というように、鉄道マニアが少し変わった人たちと
言われるようになり、カレコレ30年近い状況になる。
私が現役の頃は1980年代のはじめであった。
その前にSLブームがあった。1967ー75年くらいで、ピークは鉄道100年の
1972年である。
50歳も過ぎて、大人になると、こういうのはどこかに仕掛けをする人がいて
結局儲ける人もいたのだなというくらいの、想像ができる。
鉄道はヨーロッパでは第2次大戦後、すぐに斜陽の危機が来た。
戦後社会が戦争を放棄し、制空権の安全が図られるようになると、民間航空の
大いなる発達の時代が到来したからだ。
アメリカの鉄道衰退はもっと早く、自動車産業の躍進が原因で、1930ー40年代の
不況時に、都市交通の主役の座を奪われてしまった。
ヨーロッパでは1950年代末に、鉄道ルネサンスを目論んでTEE(Trans Europe Express)
という国際特急の合同プロジェクトが立ち上がった。
ちょうどその後に生まれた私の小さな頃は、鉄道の絵本に、ゴッタルドやラインゴールド、
ミストラルにシザルパン、そしてイタリアのセッテ・ベロという特急列車が色とりどりに
紹介され子供心に、大いなる鉄道好きを醸成されたものであった。
そんな私が大学に入った1970年代後半は、鉄道少年たちが成長し最高学府に
進学する時期に当たったのであろう。大学の鉄研(鉄道研究会)はどこも部員が多く、
私のいたサークルも現役会員数は70名を超えていた。
鉄道趣味と、自動車の趣味を、同列化することは、ひょっとしたら今日の方が
色分けの重なる部分が深い。昔は鉄道は、本好きの子供が、時刻表も読めるようになり
やがて外に出て、カメラを持てるようになり、実際に乗りに行くことも可能になり、
写真撮影や旅行などを自己実現する“ハウス”な趣味であった。
幼児プレイ(悪い意味でなく正統な意味で)の延長で、鉄道模型というホビーもあった。
僕らの小学生時代に「トミーのプラレール」という『発明』もあった。
それを卒業し、HOゲージやNゲージという、やや高級な本物志向というお金の掛かる
遊びもありました。
いっぽう自動車の世界は、いまはともかく、昔は体育会系でもあり、ある意味オンナに
モテようと言う軟派な雰囲気もあった。映画「若大将」シリーズで、かたき役の田中邦衛の
演じる青大将が、MGのオープンカーに乗って邪魔をする、あれである。
鉄は硬派である。研究者のふぜいのある実物研究派。そのまま電鉄に入って車両部に
配属になり、運転技術や、Sーミンデンやボルスターアンカの研究開発に、こよなく
魂の情熱を燃やしたりする学者肌も多い。山岳登山をものとしない、ある意味求道者の
ような広田尚敬を師と仰ぐ撮影派。旅行好きから、やや柔らかくなる。
模型好きはヘンな人か坊ちゃん。ここら辺は自動車のモデラーとかぶる。
体育会系の白洲次郎などに代表される、自動車好きのオイリーボーイと呼ばれる
汗をかいたスポーツマンな匂いと、鉄道マニアの脂ぎったO’タッキーな臭いが
どこから混在しはじめたのであろう。
笑い話をまじめに考えるのが、本論なのであるが、それは80年代くらいから
ではないか。
オタクという分類が出て来たのが、80年代前半で、対象になったのは、
当時生産性の無い趣味と呼ばれたアニメとか、アイドルとかであり、それに
時代遅れ感のある鉄道趣味も、不毛な趣味のように言われて、カテゴライズ
されかけていた。
どちらかというとSLブーム以降の鉄道好きは、大人しいタイプが中心になった。
SLブームの頃は、まだ学生運動の火が消えておらず、下火になった時代である。
文化系サークルの学生は、やたら理屈ぽかったのである。
ところがキャンパスライフの軟弱化(と、当時は言われた。今は当たり前)が
70年代の終わりより始まった。これは影では学生運動の骨抜きの策がとられた
と言われている。その後、訳の判らぬ女子大生ブームが来て「レジャーランド」と
呼ばれた時代もあった。
ここで、男性の趣味脳について、考えてみる。
私は「鉄道マニアは分類癖がある」というのが、持論だ。
身体を動かす趣味から、頭で楽しむ趣味の時代が来た。「おたく」と言うのは
そのハシリだったのではないかと、思う。
アイドルの時代は、私は1972年以降ではないかと思う。
音楽やレコードの耳から入る部分を、テレビや雑誌グラビアの目から入る
部分が凌駕した時に、化学変換が起きたのだと思う。
そうすると、人間は頭で趣味を構築する楽しみ方をおぼえた。
鉄道趣味は、非常に広範な趣味なのであるが、現在の主流は頭で楽しむ部分に
比重が移っている。もちろん従来型の楽しみを実践されている、昔ながらの
ベテランも多く残っていて良い。
「水と油」であったものが、次々とオーバーラップして行った80年代、
アイドルと鉄道を結びつける牽強付会に、抵抗意見も当然あった。
そこに私は、頭脳で楽しむ趣味が広がっていくことを感じていた。
70年代のアイドル歌手は、まだ「同級生的」な身近なスターであり、
『スター誕生』というオーディション番組の風靡のように、私は、
「上京列車」が、東京駅に入線するように、彼女らの出身地と在来線の駅名を
頭におぼえ、描いていた。
80年代に入ると、地方の色は年を追うごとに薄れて行った。新幹線も博多から
数時間で東京に着くのは当たり前。東北も、新潟も、新幹線交通圏になって
いった。
鉄道趣味は急速に日常と非日常の温度差が薄くなり、「地方を訪ねる」のに
辛苦を重ねることは、問う以前になったのではないか。
1980年代が終わる頃には、哀しいかな(私は、だが)もうアイドル歌手に
うつつを抜かす暇人は、ごっそりいなくなってしまった。レコード会社と芸能プロ
ダクションは、もっと儲かる金儲けに向かってしまったからである。
鉄道趣味も、ノスタルジックな夢に浸る趣味の時代に入ってしまっていた。
個人的に、子供の頃に名前を見た記憶のある、30歳くらい上の50年代や60年代の
「フロントランナー」たちがまだ現役で、企業戦士を引退しかけた彼らから、
「豊饒の時代の話」を聴くことに、私はひたすら浪漫に耽溺するようになった。
鉄道趣味は過去の話だけで良いと。
そんなわたしは、何をしてきたかというと、ご覧の通りのクルマの趣味である。
こっちをメインに据えて、他の趣味は、からかわれた時に、舐めちゃいけないよ、と
鋭い刃物を出す程度にしてきた。いつの間にか刃先は錆びて、使い物にならなく
なってしまった。
「ときどき」の方が今は土台が大きい。
こっちは、かなり身体を使ってやっていることもあり、頭の中の趣味は、こう
やって変な文章を書くときと、頼まれた時に解説をするくらいだ。
さあ、きょうは訳の判らない原稿になってしまった。どうまとめよう。
鉄道オタクの前原君と、「キャンディーズ命」だった石破さんの闘いでは
ないが、いよいよこういう世代の時代だなあと、感じることは多い。
最近は私のサイトは女性が殆ど読まないページになってしまったが、まあいいか。
大掃除をする日に手を止めて読んでくれている人もいるだろう。
今日は、これから「廃墟」の好きな人たちと、忘年会である。
そろそろ日も暮れかけているが、あたらしき発見もあればと思い、
これから出かける。帰ってきてから、中途半端な議論を、もう少し
続けてみようと思う。