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2013年01月19日 イイね!

種村直樹という生き方

種村直樹という生き方鉄道趣味の話を、今日も書いてみようと思う。

私は鉄道趣味は総花的に好きなので、それもできれば、さらに深く研究したい人間である。ただし雑誌の定期購読は、30年近く前にとめており、平成以降の鉄道知識は極端に取り入れていないことを、最初に断っておく。

私は趣味と言うものは総合的アプローチで考えるものと思う。鉄道趣味が嫌いになった訳ではないが、今日は対象物の方から、ファンに対してかなり譲歩している。それが今の鉄道が苦手になった、最大の原因。
いっぽうで、鉄道マニアが脱法行為でもしようものなら、袋叩きや村八分のような排他社会が、そこに存在する。
私が嫌いな非寛容の精神は見たくないし、キャラクター的に劣った人間がもがいたり、そこに入り込もうとして見苦しい場面が展開すること自体が厭だ。大体そんな理由で私が、鉄道趣味と距離を置きつつ、いつも何か書きたいと思っている最大の理由なのである。

自動車趣味と単純に比較は出来ない。ただ根っ子は繋がっている人も多い。社会存在的にみると、良い例が企画室NEKOの存在がある。ここのファウンダーの笹本健二という社主は元々、C62型SLのブームの頃(1970年前後)写真集を友人らと、自費で設立した会社を通じて発売。今で言うベンチャー起業の走りだったと思う。その後に、鉄道ブームが終わり、「ポスト」の仕事として車のマニアックな本を出し始めた。ここが偉い点で、いつまでも鉄道に未練を持たなかったのは、アメリカ社会の起業家の様で、私も評価する。

しかし自動車雑誌の経営が軌道に乗って来ると、再び鉄道の書籍の参入も目論んで、昔のネタを温め直して定期雑誌を出し今日に至ることは、周知である。私の文章を読んでくれている人に、説明することは、オリジナリティーの高い話が多い。だが、こういうのは、文化の中でもサブカルに近く、非常に扱いにくい話題ばかりである。

私を庖丁人に例えると、かなり変わった素材を集めて来て、そこから危なっかしく無茶な料理を作り出して、最後に読者子の感想を聞いて、おわり。そんな我が儘が出来るのは、私が企業体や特定のメディアに属さない、フリーの人間だからだろう。

きょうは種村さんのことを書く。同世代の鉄道旅行好きには、名の知られた「レイルウェイ・ライター」であったと思う。私から見れば20才以上、上の鉄道趣味の世界の人であるので、失礼の無いように一方的な評論にならないようにしたい。昨日ITジャーナリストの佐々木俊尚のトゥイートを読んでいたら、佐々木氏がこういう個人ブログを読んでいるのに、気が付いた。

佐々木俊尚も鉄なんだ、と納得。だいたい鉄は粘着質である。そこがオンナに持てない最大の理由。しかし集中力を発揮する仕事には、鉄は好適である。私の趣味に対するキチガイじみた造詣は、鉄道時代に深く広く吸収することこそ、本分であると、どんな趣味に対しても姿勢を形づくった。同世代の有名人鉄は、前原誠司とか、有栖川有栖とか、結構社会的に認知された人にも多い。しかしおめえらは、有名になるまでひょっとして、「隠れ鉄」してなかったかい。オラオラ(爆)。
で、本論の佐々木俊尚が読んでいるブログの主、仕事の作品等で、あ、あの人か、と合点がいった。

私も実は少し面識がある。このブログの最新記事でなく、人気の高い記事にこういうのがあり、私も丁寧に読みながら、様々な感想が湧いて来た。
http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20060924


こちらの土俵では、やはり多角形的に考えていきたい。自動車の世界しか知らない人のために説明すると、種村直樹、1936年生れ。滋賀県膳所高校から京都大学に行き、1959年毎日新聞社入社。70年前後のSLと鉄道ブームの頃頭角を現す。社内外に知られた、「鉄道のことに詳しい、独自の記事の書けるヤツがいる」ということだったのでしょう。彼の人生と転機に付いては、トレイン工房さんのブログをもっと読むも由し。ウイキでも偏見に満ちた(笑)意地の悪い解説がついております。私は贔屓でもなんでもないです。転機になったのは1973年に、毎日新聞を退社してからでしょう。毎日新聞は退社後の1977年に経営悪化で一度会社を整理、給与を大幅に下げて、新会社発足で乗り切り、今日に至っています。

さてと、NEKOの時にも書きましたが、出版というのは、それまでは専門技術の啓蒙や知識を得るために存在しました。初めてマニアサイドに立ったと言うといいのかな。というか、マニア(趣味人)というのは、一歩引いた位置から見ていて、本物(客体)に対して、変な意見は言わなかったものです。それは先日書いたレーサー風戸裕の世界や、当時のレーシングチームはガチの世界であり、ファンも命を掛けた聖闘士たちに、声援を送っていたのです。

僕はガチの世界だけが良いとも思いません。あの頃はベトナム戦争や学生運動があり、非日常と日常との狭間で、鉄道趣味に行く人は、センチメンタルな旅情派詩人が居たり、工学部で鉄道工学を学んで国鉄や私鉄の車両部門に行きたいと思う人もいたり、広田尚敬の鉄道写真に感銘を受けて135mm望遠レンズを買ってしまった医者の息子も、プラレールを卒業してKTMの鉄道模型が好きでそっちの世界から来た人も、様々でした。
ただ、まだオタクという存在は居なかったと思う。やおい(ヤマなし、オチなし、意味無し)は、もうちょっと社会が豊かになり、アニメあたりのファンが出て来てから、僕らが「え”っ!」と思うような価値観の持ち主が現れて来たと思います。それは客体の鉄道自体が衰退産業になり、存続のためにはなり振り構わず見せかけの努力をしなければいけなくなったからでしょう。

しかし僕が今の時代の鉄道に感じるものが少ないのは、社会全体が苛烈ではなくなりました。昔の蒸気機関車の運転なんて、ほんとうにすごいなあと思います。それと徹底したプロ意識なんて言葉以前に、昔の人は当たり前に、毎日仕事をしていた。

弛み切った私が1971年式の車に乗り、冬の東京まで苦しい旅をしようと思うのも、リア充の反対で、これぞ車を運転しているという実感が薄いからでしょう。さて種村さんの話に戻ります。種村さんは元々がジャーナリストでした。独立後も仕事は増えて順風満帆だったかと思います。1979年に私が大学に入り、鉄道サークルに所属した頃は、著書や鉄道ジャーナル、旅と鉄道誌などを通じた彼の読者は、取り巻きに近いサークルを作るようになっていました。

森博嗣さんという現代の作家がいます。決して目立ったり、論客や政治と無縁の書き手のようですが、この人が大学の先生から、脱サラして作家という生き方を選ぶ時に、ネットを利用したコメントの返信や、意見を言う人と徹底的に対話したことで、ファンという存在がつかめるようになったと、自著で著しています。ところが種村さんはアナログの手紙の時代に、それを徹底してやったということを知り、驚きました。あのファンたちは、それであそこまで種村さんを支持したのだなと、ようやく長年の謎がひとつ解けた気分です。

私が現役大学生の頃は、氏に対して、取り巻きの渦とも無縁でしたが、単純な旅情派の鉄道ファンらが、なぜあれだけ支持するのかというのが1点。鉄道趣味の切り口は、単なるそれだけではないのに、この世界を代表するような「口をきく」のがどうもなあと、思っていました。それは元ブンヤでジャーナリストという経緯もあったのでしょう。

彼の一番損した部分は、可愛い子分たちとの「王国」に溺れてしまったこと。実際、旅先で夜行列車の1台しか連結していない寝台車が、種村教の信者ら一行で準貸し切り状態になっていたことがあります。私の後輩が、よせばいいのに、近づこうと面会に言った所、取り巻きに追い返されて、自信喪失して座席車に戻って来たことがありました。まだインターネットどころでもない時代でしたが、そういった風評は走るものです。

年齢を重ねると、昔上手く言っていた人間関係が壊れることはよくあることです。鉄道趣味のサークルは、ちょっとしたことで大人げない人が、徹底的に相手を批判することがよくあります。完全にディベートと勘違いして、論破することが正義みたいな世代の人にも、よく遭遇しました。ジャーナリストと言うのはよく切れる刃物のようなものです。錆び付いたり、刃先が丸くならないためには、いつも感性を研いでいなければなりません。そんなこんなで、種村さんの著作は全く買ったことがありません。
敢えて宮脇俊三さんの、名前を出して見ることもあまり意味が無いのですが、鉄道旅行の社会的地位を高めたという意味では、宮脇さんの方が、後世の評価は高いでしょう。

さて、随分長い文になり見苦しいことをお詫びします。氏がもっと高い見地で鉄道論を語れたり、実証的な取り組みもされていたら、インターネットの時代になっても、例えば今の、モータージャーナリストの三本和彦氏のように辛口のご意見番として、「あの人に聞いてみよう」という存在に成れたと思うのです。もともと自動車界のジャーナリストの様に、買収や誘惑の少ないジャンルでありました。
今回色々な人の書いた物、ブログと言うより個人日記レベルですが、目を通してみると、国鉄時代のコネクションがJRになり、人脈が切れていったこと。これも真の実力があれば、それで退潮を迎えることはありません。
あとは、引き際を見誤って、いつまでもジャーナル社に書いていたのが、打ち切られることになり、恨み言を言っていた。引退して、年金暮らしが出来ないという台詞を真に受けた、迷解説もあり、早く脱サラし過ぎて年金を掛けていなかったというのは、本当かなと思いました。本当ならそれも脇の甘い所です。しかしそれは本質的な問題ではありません。

きょうのまとめです。一過的なブームで売れることは物書きライターの世界にはよくあります。現代の人たちは、もっと慎重に、もっと臆病に、執筆活動をしていると思います。
それでも、専門家とアマチュア、ガチの人と趣味でアプローチするやり方と、ひとえに趣味ジャンルと言っても、それで飯を喰う食い方は様々だと思います。僕は反対に失敗してもいいから、どんどんいろんな人に出て来てもらいたい。
いま、荻上チキという若い批評家がこういう本を出しています。いつまで駄目出し社会を続けるのだろうか、と。
私は種村さんのブームはとっくに終わってると思いますが、鉄道趣味の世界は、何十年経っても革新しない世界です。萌えやお宅の方に行くようになったのは、苦しさからの逃走だと思いますが、今からでも新しい乗り物好きは入って来ると思います。
ただ本質的なことは車であっても鉄道であっても、ものがあっての趣味だと思います。そのモノを歪めることの無い趣味を続けていくことは、本当に難しいことなのかもしれません。









Posted at 2013/01/19 15:30:48 | トラックバック(0) | 思うこと | 趣味
2013年01月19日 イイね!

【国鉄時代】 昭和52年2月6日 山陽本線厚狭駅周辺をゆく

【国鉄時代】 昭和52年2月6日 山陽本線厚狭駅周辺をゆく3日前の大雪は、首都圏の住人たちに取り、厳しい積雪の試練となったようである。

今日の記事は久しぶりに、懐かしい鉄道写真で、昭和52年(1977)年2月6日の日記である。調べてみると、日曜日にうまいこと、九州山口では珍しい大雪の朝になったようである。

当時の小生は高校2年の3学期だ。雪の鉄道写真が写せると、早朝から眼がさえて、いたのだろうか。いや、前夜から中学時代のポン友くんを誘い、雪が降ったら「撮り鉄」と決めていたのであろう。

当時の時刻表を出してきて、記憶の消えた部分を書き直してみよう。



日豊線小波瀬駅を2番列車の田川線直通後藤寺始発の2422Dに乗り、南小倉で友人合流。門司で鹿児島線下関行き224Mに乗り換えて、6:52下関着。ここから山陽線の7:05発徳山行き440Mに乗っている。下関駅で10分あるからきっと朝飯はホームの立ち食いうどんだろう。

厚狭着は7:41、ドアが開くや否や目の前を5レみずほが雪煙を上げて走り去っていく。1レのさくらと、3レのはやぶさは、残念ながら車内からも写せていない。
写真右 背景に呉線用のうぐいすいろの73系が写っている。



EF65500番台+14系分割14両編成食堂車付き。
発電用エンジン音高らかに走り去る5レの後姿(左)となりが私たちが乗ってきた440M。もう80系が減り、数年前まで急行に使われていた153系が入っており、快適さに喜んだものである。



続いて23分後に来る1001レ安芸を待つ。安芸は呉線回りの20系9両であった。カニを入れると10両。走り去るシーンしか写せていないが牽引機はEF58ではなかっただろうか。
新幹線改正後も残った呉線回りのブルトレであったが53年頃には廃止になっている。廃止の直前にどういうことか、新製の25型2段寝台になったのを見た記憶がある。



お次は30分ほど時間が空いて、名古屋発の電車寝台「金星」である。
その間に他のものも走ってくれば写している。
美祢線直通、小野田セメント宇部興産行きのDD51のセメントホッパー列車。



まだ健在であったキハ17系を含むローカル列車は、厚狭付近では結構本数がある。美祢線との共通運用だ。



金星の583系。(左) なんとあれから35年経つが、どうやら臨時きたぐにで残っていた583の運用が完全に終わったらしい。満身創痍と闘った昼夜兼行型の元の特急電車の引退に、ご苦労さんと言ってやりたい。

金星が行くとすぐ後ろから、西鹿児島行きの7レ富士(右)が追いかけてくる。広島発車で8分差。下関到着はわずか4分差である。富士は24系に置き換わっている。電源車つきの14両編成を65の509が頼もしげに雪道を疾駆する。この頃は線路脇にやたらとセイタカアワダチソウが多かったが、今朝は雲仙の樹氷のように凍っている。



厚狭通過は8:40付近、終着西鹿児島に着くのは、なんと10時間後の18:26だ。



この日は厚狭と言う山陽本線の駅前を、初めて歩いた日であった。
今思うと情緒のある昔の宿駅のようなところで、古い家が多かった。
椿の枝に積もった雪を、雪だまで落として、子供のように喜んでシャッターを瞬間切っている。



また撮影地へ向かう途中の川が雪景色で、とても綺麗であった。
鉄は普通フィルム1枚を惜しむものだが、わりと私は、こういう風景も撮るのが、少年時代から好きであったのだろう。



こんな厚狭の町も、今は急行や特急が1本も通ったり止まることも無くなり、寂れていくに任せるのみである。今は山陽小野田市といい、隣の町と合併した。
数年前のある夏に、私は1冊の厚狭の歴史を書いた古書を見つけ、懐かしさで購入し、少し紹介記事を書いてみた。

もう誰も知らない過去の話が載っていて、懐かしさに胸が少し熱くなった。

さて残りは「あさかぜ」2本である。先に来るのが9レで、これは20系A寝台個室つきの15両編成で、個室はナロネ22が2両、開放室のナロネ21が1両、A寝3両と食堂車の着いた、当時日本一の豪華編成であった。




通過時間は9:07付近。もう朝の雪も大分解け始めてきた。
デジタルの今日から考えると、これらの写真がどんな風に出来上がってくるのか、経験と勘だけである。それでもこの日は満足な写真が取れたと考えて、この後の13レ下関あさかぜ通過までは、あと1時間あるので、厚狭駅に戻ることにした。

雪の中の撮影で、寒さの方も若いとはいえ、限界に近かったのである。
厚狭駅に着いて、今日はこの後どうしようかと適当に決める。

美祢線に乗って、奥地の雪を見ようと、9:50発の宇部新川発長門市行きの2727Dに乗り込む。我々が乗り込んだ一番端の車両は、珍車キハユニ17である。
元々が勾配線区用として1954年に試作した2個エンジン車のキハ50と言う22m車を17系の断面で作ったため、物すごく長く見える。それを1961年に用途変更と格下げしたのだが、栄光の時代はキハ55の初期のような準急色に塗られて、関西本線の準急かすがに連結されて、加太越えに咆哮したのである。
2台のうちの1台はキハユニなって3年後の64年に、新潟地震で陸橋の落下で下になり、もとからアンガールズみたいな車両であったので、ぽっきり折れてご昇天。
残った1台は晩年を美祢線の厚狭よりに連結されていたというわけだ。



10:23に南大嶺に着く。当時はここから大嶺と言う1駅だけの盲腸線があった。
使われていたのはキハ20の両運転台車が1両で、1日に8往復していた。
残念ながら接続が無いので、乗れていないが、写真から雰囲気は伝わるだろう。
南大嶺駅の雪は、奥地だけに昼近くになっても結構残っていた。ホームの上には、駅員が作ったのだろうか、子供のいたずらのような大きな雪だるまが作られていた。



国鉄時代はこの後10年続く。もうこの頃もローカル線の存続問題は出ていたが、美祢線にもディーゼル急行は走っており、山陰線や山口線の列車と分割併結をくりかえす「あきよし」の名前は鉄道ファン以外にも有名であった。
日本は今よりずっと小エコノミーであったが、ローカル線はもっともっと華があったのである。

1時間半ほど南大嶺のあたりを歩いてみたり、青春前期の暇をこうやって、持て余していたのだと思う。それから長門市に出て、後は山陰線を下関に向けて戻るのだが、キハに飽きたのか、滝部あたりよりもう1本列車を遅らせて、最後はDF50の引く客レに乗り換えたような記憶がある。

この頃の山陰本線といえば、豊岡5:04発の門司22:52着の831レや、門司5:23発、福知山23:50着の824レといった、気の遠くなるような長距離ローカルが走っていたことで、古いファンには知られていた。
今思えば、鉄道の古きよき時代の最後の方だったのであろう。
雪が降っただけで、発作的に写真を撮りにいっても、これだけ好みの車両たちに遭遇できたのである。たまたま出合えた時代の運が良かったのであろう。

お仕舞いに、今回参考に出してきた時刻表の表紙裏の広告を、お目にかける。



彼女も水色のときでNHK朝ドラデビューし2年目が過ぎて、宮崎あおいのような、輝きがあった頃である。決して美人と思わないが、当時は可愛い女優さんの一人であった。映画「青春の門」でまさかの上半身ヌードに興奮した人も多かったのではないか。まさに悶々である。(笑)。
Posted at 2013/01/19 03:22:38 | トラックバック(0) | 鉄100% | 趣味

プロフィール

「変わり行く年に〜2025〜 http://cvw.jp/b/176891/48571345/
何シテル?   07/30 07:43
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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