
3日前の大雪は、首都圏の住人たちに取り、厳しい積雪の試練となったようである。
今日の記事は久しぶりに、懐かしい鉄道写真で、昭和52年(1977)年2月6日の日記である。調べてみると、日曜日にうまいこと、九州山口では珍しい大雪の朝になったようである。
当時の小生は高校2年の3学期だ。雪の鉄道写真が写せると、早朝から眼がさえて、いたのだろうか。いや、前夜から中学時代のポン友くんを誘い、雪が降ったら「撮り鉄」と決めていたのであろう。
当時の時刻表を出してきて、記憶の消えた部分を書き直してみよう。
日豊線小波瀬駅を2番列車の田川線直通後藤寺始発の2422Dに乗り、南小倉で友人合流。門司で鹿児島線下関行き224Mに乗り換えて、6:52下関着。ここから山陽線の7:05発徳山行き440Mに乗っている。下関駅で10分あるからきっと朝飯はホームの立ち食いうどんだろう。
厚狭着は7:41、ドアが開くや否や目の前を5レみずほが雪煙を上げて走り去っていく。1レのさくらと、3レのはやぶさは、残念ながら車内からも写せていない。
写真右 背景に呉線用のうぐいすいろの73系が写っている。
EF65500番台+14系分割14両編成食堂車付き。
発電用エンジン音高らかに走り去る5レの後姿(左)となりが私たちが乗ってきた440M。もう80系が減り、数年前まで急行に使われていた153系が入っており、快適さに喜んだものである。
続いて23分後に来る1001レ安芸を待つ。安芸は呉線回りの20系9両であった。カニを入れると10両。走り去るシーンしか写せていないが牽引機はEF58ではなかっただろうか。
新幹線改正後も残った呉線回りのブルトレであったが53年頃には廃止になっている。廃止の直前にどういうことか、新製の25型2段寝台になったのを見た記憶がある。
お次は30分ほど時間が空いて、名古屋発の電車寝台「金星」である。
その間に他のものも走ってくれば写している。
美祢線直通、小野田セメント宇部興産行きのDD51のセメントホッパー列車。
まだ健在であったキハ17系を含むローカル列車は、厚狭付近では結構本数がある。美祢線との共通運用だ。
金星の583系。(左) なんとあれから35年経つが、どうやら
臨時きたぐにで残っていた583の運用が完全に終わったらしい。満身創痍と闘った昼夜兼行型の元の特急電車の引退に、ご苦労さんと言ってやりたい。
金星が行くとすぐ後ろから、西鹿児島行きの7レ富士(右)が追いかけてくる。広島発車で8分差。下関到着はわずか4分差である。富士は24系に置き換わっている。電源車つきの14両編成を65の509が頼もしげに雪道を疾駆する。この頃は線路脇にやたらとセイタカアワダチソウが多かったが、今朝は雲仙の樹氷のように凍っている。
厚狭通過は8:40付近、終着西鹿児島に着くのは、なんと10時間後の18:26だ。
この日は厚狭と言う山陽本線の駅前を、初めて歩いた日であった。
今思うと情緒のある昔の宿駅のようなところで、古い家が多かった。
椿の枝に積もった雪を、雪だまで落として、子供のように喜んでシャッターを瞬間切っている。
また撮影地へ向かう途中の川が雪景色で、とても綺麗であった。
鉄は普通フィルム1枚を惜しむものだが、わりと私は、こういう風景も撮るのが、少年時代から好きであったのだろう。
こんな厚狭の町も、今は急行や特急が1本も通ったり止まることも無くなり、寂れていくに任せるのみである。今は山陽小野田市といい、隣の町と合併した。
数年前のある夏に、私は1冊の
厚狭の歴史を書いた古書を見つけ、懐かしさで購入し、少し紹介記事を書いてみた。
もう誰も知らない過去の話が載っていて、懐かしさに胸が少し熱くなった。
さて残りは「あさかぜ」2本である。先に来るのが9レで、これは20系A寝台個室つきの15両編成で、個室はナロネ22が2両、開放室のナロネ21が1両、A寝3両と食堂車の着いた、当時日本一の豪華編成であった。
通過時間は9:07付近。もう朝の雪も大分解け始めてきた。
デジタルの今日から考えると、これらの写真がどんな風に出来上がってくるのか、経験と勘だけである。それでもこの日は満足な写真が取れたと考えて、この後の13レ下関あさかぜ通過までは、あと1時間あるので、厚狭駅に戻ることにした。
雪の中の撮影で、寒さの方も若いとはいえ、限界に近かったのである。
厚狭駅に着いて、今日はこの後どうしようかと適当に決める。
美祢線に乗って、奥地の雪を見ようと、9:50発の宇部新川発長門市行きの2727Dに乗り込む。我々が乗り込んだ一番端の車両は、珍車キハユニ17である。
元々が勾配線区用として1954年に試作した2個エンジン車のキハ50と言う22m車を17系の断面で作ったため、物すごく長く見える。それを1961年に用途変更と格下げしたのだが、栄光の時代はキハ55の初期のような準急色に塗られて、関西本線の準急かすがに連結されて、加太越えに咆哮したのである。
2台のうちの1台はキハユニなって3年後の64年に、新潟地震で陸橋の落下で下になり、もとからアンガールズみたいな車両であったので、ぽっきり折れてご昇天。
残った1台は晩年を美祢線の厚狭よりに連結されていたというわけだ。
10:23に南大嶺に着く。当時はここから大嶺と言う1駅だけの盲腸線があった。
使われていたのはキハ20の両運転台車が1両で、1日に8往復していた。
残念ながら接続が無いので、乗れていないが、写真から雰囲気は伝わるだろう。
南大嶺駅の雪は、奥地だけに昼近くになっても結構残っていた。ホームの上には、駅員が作ったのだろうか、子供のいたずらのような大きな雪だるまが作られていた。
国鉄時代はこの後10年続く。もうこの頃もローカル線の存続問題は出ていたが、美祢線にもディーゼル急行は走っており、山陰線や山口線の列車と分割併結をくりかえす「あきよし」の名前は鉄道ファン以外にも有名であった。
日本は今よりずっと小エコノミーであったが、ローカル線はもっともっと華があったのである。
1時間半ほど南大嶺のあたりを歩いてみたり、青春前期の暇をこうやって、持て余していたのだと思う。それから長門市に出て、後は山陰線を下関に向けて戻るのだが、キハに飽きたのか、滝部あたりよりもう1本列車を遅らせて、最後はDF50の引く客レに乗り換えたような記憶がある。
この頃の山陰本線といえば、豊岡5:04発の門司22:52着の831レや、門司5:23発、福知山23:50着の824レといった、気の遠くなるような長距離ローカルが走っていたことで、古いファンには知られていた。
今思えば、鉄道の古きよき時代の最後の方だったのであろう。
雪が降っただけで、発作的に写真を撮りにいっても、これだけ好みの車両たちに遭遇できたのである。たまたま出合えた時代の運が良かったのであろう。
お仕舞いに、今回参考に出してきた時刻表の表紙裏の広告を、お目にかける。
彼女も水色のときでNHK朝ドラデビューし2年目が過ぎて、宮崎あおいのような、輝きがあった頃である。決して美人と思わないが、当時は可愛い女優さんの一人であった。映画「青春の門」でまさかの上半身ヌードに興奮した人も多かったのではないか。まさに悶々である。(笑)。