
熱心なブログの読者の方から、またまとまった
感想をいただいた。きのうはそんなこと考えて、
一日行動していた日でありました。
夕方の終わりに、所属しているアマチュア写真
サークルのグループ展のパーティーに行って来て、
作者トークの合間で、かなりハイレベルな作品質の
写真を撮られている方の、説明を聞いて、質問など
をして感じたことです。
写真の趣味は、銀塩と呼ばれるフィルム写真から、デジタルに
この10年間にほぼ移行しました。
といっても、私たちのサークルには100名以上の登録メンバーがおり、
まだフィルム現像や、プリント処理を従来方式でやっているのが好きという
人もたくさん残っています。
若い女性メンバーの中には、デジカメが先でアナログは写真教室で
覚えた「新しい」表現手段のような方も、います。
私は写真は好きで40年近いキャリアがありますが、普通の人のなかでは
上手いと言われても、写真サークルでは、意外な人くらいの存在で良いと
思っています。
デジカメになる以前のフィルムの時代、1980年代後半、オートフォーカスの
時代があり、さらに、それ以前には、カメラはようやく、絞りとシャッター速度が、
プログラムで測光してくれて、答えを計算で出す。TTLオートの時代がありました。
私はメーター類内蔵の、機械式1眼レフから、この趣味を始めた人類です。
TTLオートでさえ、退化とか堕落と平気で言える旧人なのです。
でもその前は、やっとレンズ交換が出来たり、1眼レフより前の、ファインダー
で見るカメラの方が主流でした。
それから測光方法も、内蔵でなく外付け式とか、露出計を別に持って撮るのが
プロっぽいとか、いや35mmじゃなくて、66版とか6x9の120フィルムを
使うのが、大判の良さだとか、いろんなことに写真界は挑戦できる面白さが、
ありました。
給料を自分で稼いで、生活できるようになり、妻に生活費を渡した残りで
今度は古いカメラを、次々購入して、カメラと写真の歴史を、調べるように
なりました。
主に20代後半から40代にかけての、一番充実していた年代です。
時代にすれば1980年代から2000年過ぎまで。
モノクロ写真サークルに入った時は、2005年頃です。
事情の判る人と、そうでない人と、両方に判るように書きましょう。
まず趣味には、タイミングがある。それから「旬」というやつがある。
自分の能力と、感性のエンジンが全開になれる年代がある。
50過ぎて“婚活”したって、もう春は終わっているわけですから(笑)、
「子供作って恋愛したってもう齢すぎるよ、じっちゃん、ばあちゃん♪」
(「man&woman」のリズムでこれを歌うと可笑しさが理解できる)
まあそういうことで、遊びを定年後に始めようと言う人は、大成どころか
楽しめないうちに人生終わってしまいます。
カメラも、流行を追わずに、中古カメラが、話題にもならなかった頃に
「おおこれは面白そうだ」「こんな世界があるのか」で開眼しました。
ライカやニコンのSPあたりに、山の高い頂きがあるなら、私はそれに登らず
自分の登る山から探すわけです。
クルマの趣味も同じことです。
基礎は、ある程度自分で学習しなければなりませんが、私は他人に付いて行った
ことがないので、最初すごく苦労しますが、その苦労は楽しいのです。
道に迷いながら歩いていると、ぱーっと開けたり頭の中で気付いたりすることが
あり、後から考えると、前段の苦労を遥かに凌駕する自由が得られるのでしょう。
多分この時に、教わったものだとしたら、私は師匠(先生)に一生頭が上がらない
と、負けず嫌いとへそ曲がり根性が、計算して、ひとに頭を下げないのです。
損もしますけどね(笑)。
さて昨日のカメラの話で、ハッセルにデジタルバッグ(バック)付けて、
コンピュータにも高度なソフトを入れて、DTP出力調整もやられてる
アマチュア(、、、、、)の人の作品には、感心しました。
誰かが「その機材だけで、外車が1台買えますよ」というコメントも、つけ加えて
くれました。
ところで、ノイズの問題と言うものが、アナログには付いてきます。
デジタルは、クリーニングされた価値観体系ですから、ノイズは原則ありません。
わざとノイジーな表現にする。
トライXなのか、Tーマックス系なのか、フィルムのラチュードと、粒子表現を
計算したソフトがある話も、詳しい人が突っ込んでくれて、勉強になりました。
私は、最近レコードに回帰して、ラックスマンのふるい真空管で聴いたりしています。
むかし昔の学生時代に、アンプ設計の勉強を、一人でしていた頃に、ネガティブ
フィードバックの理論や、逆干渉によってノイズを消すことも、理論で知りました。
アナログってなんだろう。趣味ってなんだろうと考えると、そのノイズと付き合う
ことも趣味の一つの味わいではないかと、ある時に考えるようになったのです。
NVH、ノイズ、ヴァイブレーション、ハーシュネスを減らすことが、近代のクルマ設計の
ひとつの努力目標であった時代が長く続きました。
まあ、プリウスなんか乗ったら、電気でスタートして走り出す数秒間なんて
「なんじゃろう」と考え込んでしまいます。
敷衍し過ぎですが、侘び寂びとか、茶道精神について、日本人の貧乏くささだという
暴論を先日して、遊んでいました。中国だったら寺院は、朱塗りでぺかぺかに
ペンキを塗ったみたいにする反対の例えです。
アメリカ車のレストアリングも、メッキだらけとか、塗装は太陽の下で殴りつけるような
色彩にするとか、日本人にはわからん感覚のこともあります。
ハイエンドな趣味がある一方、ローエンドってつまらないものだろうか、どうだろう。
負け惜しみをギリギリの所で昇華させるのは、一つの技では無いでしょうか。
省略っていうのもあるでしょうし、諦観とか、九鬼周造の書いた「いきの構造」とか
「花伝書」のようなテキストも、日本には昔からあります。
オーディオの時にも、ローエンドコストで、最大パフォーマンスの楽しみを引き出すと
80年代以前の日本人には、そう言った楽しみ方と気概があったと思います。
「ぼろは着てても心は錦」(古い!)では、ないのですが、迷える今の日本人に
日の丸より大事なのは、こっちじゃないか。
私の唱える「身の丈」論ですが、それには、ものごとの本質を、よく勉強しなければ、
ノイズを除去するのがよいのか、その加減が判らないのではないかと思うのです。