
もう、免許を取って30年以上の年月が経つ。
その間に、日本の社会も随分変わったように思えるが、
単純に比較できない部分もある。
最近、知り合うことが多いのは、免許を取り数年の
20歳台の若い輸入車乗りである。
私も27歳で、憧れの外車オーナーとなり27年。
今年の夏には、54歳になる。
20代の頃は、どんなことを考え、どんな夢を見ていた
のだろうか、少し振り返って見ることにしよう。
私は、1959年生まれで、二十歳になったのは、浪人して大学に入った夏である。
その当日は、原付の免許の更新期限であったが、故郷から同級生が来て、
山陰を4日間掛けて、キャンプ旅行していた最中だったので、後の更新手続きが
大変だった。いかにもアバウトな私らしいエピソードである。
私の20代というのは、ほとんどが、1980年代という時代に重なっている。
その頃の世相とクルマのことを、思い出してみよう。
私は学者では無いが、人一倍記憶力が良い。事実と観念で、物事を分類する。
1980年というのは、何か新しい時代が来たような気がしていた。
ソニーがウォークマンを売り出したのが1979年。何の発明かというと、
カセットテープに録音した音楽を携帯できる再生装置で、家の外でも聴ける
ようにしただけである。
それが3万円くらい発売当初はしたが、当時は爆発的に売れたのである。
私は当然流行にはアンチなので、30年間買ったことがない。
コンピュータゲームのはしり、インベーダーとか、電子音の音楽、YMOなどの
テクノミュージックもその頃である。山下達郎とかもその頃から売れ出した。
サザンにユーミンは70年代後半からだが、何もかも加速が付いたのは、80年代に
入ってからだ。
私が大学を出た83年には、任天堂のファミコンと東京ディズニーランドが
オープンする。
この間、松田聖子がデビューするのが80年春、小泉今日子や中森明菜が出て
来たのは、82年だ。
そういう時代の新しいうねりというものが、今は大変少ない。
第二次大戦が終わり爆発的に子どもが生まれた団塊世代がちょうどその頃は、
30代前半の一番元気な頃である。
そうしてクルマは、年々売れ行きを増し、品質も向上して行った。
今、若い人が、ネオクラシカルという80年代車というものは、その頃の時代の
要請で生まれたものばかり。
まだ未成だが、中身は成り上がり感のいっぱい詰まった、チャレンジ精神の塊
みたいな車が多いのが、面白いのだろうと、想像が付く。
かくして私のデビューは1974年の中古のランサーである。
一応排ガス未対策の昭和50年以前の車を当然選んだ。当時はそんな知識もネット
みたいな引出しが無いので、同級生たちの中には、昭和51年頃の最悪な車を買って
ぼやいている者もいた。
私立大学のお坊ちゃん学校と言っても、下宿して車を持てる身分は、かなり良い方だ。
同学年である紺の豚君みたいに、デビューが新車のゴルフなんて、医者の息子らしい
らしい話だと、つい、ほくそ笑んでしまう。その級友にはBMW633が居たと言うの
だからそれはもう、今のフェラーリどころでない雲の上の世界だ。
当時の若者が、車に夢中になったのは、まだ日本が今ほど豊かでなかったことがある。
家庭や建築事情がよく無かったので、個室を与えてもらったり、エアコン等の空調は
まだ応接室に1基だけというのが普通だった。
クーラーで冷房を入れるのは、客が来た時だけ、というのが笑い話のようで本当の事実
風景だった。
九州の私の家でも、夏にクーラーを入れることは風通しが良いので、まずなかった。
東京から従姉妹の3姉妹(全員昭和40年代生まれ)が遊びに来て、毎晩クーラーを
入れないと眠れないと、訴えられたときには、昭和2年生まれの母が目を向いて
「贅沢な」と怒っていた。
本当に今と違って、昔はその程度のことに一憂していたのである。
自動車のことだが、1981年を境に、日本の車は贅沢になる。
ソアラとピアッツアのデビューが与えたショックで、70年代の車は急速にみすぼ
らしく見えるようになったのである。
当時は自動車の寿命は短かった。今でも中古車業界は、消却期限を6年にして
いるのだろうか。
昔は、新車3年で査定価格は半値、6年経ったらゼロという決まりが通っていた。
だから私は80年に車を買う時に、6年落ちのランサーを探して来た。
実際錆びも随分出ていたので、私が乗るに当たって一番希望したのは、白から赤への
塗装変更である。
品質の向上は80年代に著しく、いや実際は70年代の石油ショック以降でも日本車は
国家の誇りの様に海外で、特に米国等で売れていた。
クルマの質と言うのは、部分等の各所やマテリアル、それと全体的な設計の良さは
区別して考える。
60年代のヨーロッパ車の質と言うのは、設計の良さである。
それは日本ではものすごくレアであったので、判る人にしか判らなかった。
今では考えられないが、家の中に輸入製品が一つでもあることは、自慢であった。
舶来と言い、家電製品は滅多になく、宝石や高級腕時計、それは関税が200%くらい
ついていたのである。
我家の自慢は、親父が海外出張で買って来たバーバリーのコート(今も私が着ている)
それに洋裁好きの母の為に買ったゾーリンゲンの鋏があった。
三船敏郎とジャガーEタイプである。このチンケな組み合わせが、昔の日本人の
究極のリア充だって、わかるかなあ。
前置きが大変長いのが、私の文章の特徴だが、とにかく昔は、30ー40年前の
ことだが、日本人社会は、ちっぽけで、横並びで、その中で幸福感が満ち溢れて
いた。新幹線や、特急「つばめ」に乗れる喜びって、90年以降生まれの若者には
まず判らないであろう。
雑誌を買ってきて、新しいことを知る喜びも、随分無くなってしまった。
いま、シムカラリーやランチア狭角V4フルヴィアの話題など、コンビニで売って
いるティーポにも載っている。僕は80年代当時からそろそろ知り始めていた。
2学年上の先輩らが「ギャランGTO MRかっそええ〜」(今で言う「かっけー」だな)
なんて盛り上がっている横で、「あ、俺70年当時にカタログもらっていますよ」
なんて、くそ生意気な発言で、知り立ての知識で騒いでいる年上に、水をかけ回って
いたのである。
さて、今の若い人が、輸入車に乗れるハードルは下がって来たが、それを単純に
幸せだとか、昔の方が良かった、面白かったという断定をするのは、適当でないだろう。
私が気にしているのは、情報が洪水のように増えて来た90年代後半の、インターネット
以降の日本人の考え方である。
むかし「シャコタンブギ」か何かのヤンマガ系雑誌で、改造車自慢している所に
旧車で乗り付けると「ええなあ」で盛り上がり、対抗して次々と旧車に乗り換えて
最後は、スバル360が登場して、みんなひっくり返るというオチがあった。
エンスー自慢で盛り上がった、NAVIの後半なんかもそうだろう。
高雄などの旧車ミーティングに行くとよく見かける、次から次に珍しい車を見せつけ
られると、自分が何ものだか判らなくなる、一種の覚醒状態だ。
私は辛い人間なので、そのクルマがあんたにとって何なの?と、いつも腹の中で
訊いている。
それは30年以上クルマと人間の生態を見て来た人間の、捉え方である。
あまり禁欲に過ぎると、世の中が回らなくなったりするけれど、回転が速いことは
度合いの問題であって、ちょうど良い、飛行機が落ちない程度の回転数で飛ぶことが
大事である。
ここでしばしば、B層問題のことを、取り上げてきたが、昔の人は、それこそが
単純な生き方だけで、生きて来れた人類である。
ただしB層に近いが、彼らは「そうだそうだ」と愚劣に不服を申し立てなくとも、
それぞれが固有の価値観と目標を持てたので、他人との比較はずっと小さかった。
それを美しいニッポンなどと、回帰志向するのも変だ。
情報の氾濫化は、停まることが無いであろう。
フィルタリングとか、メディアのリテラシーといった言葉で規制することも間違い
ではない。
必要な情報とは、いつの時代にも常に在るのであって、それをどう探して取り入れて
いくのであるか、問題点はそこだけであろう。
裏技とか近道めいたものを見せつけられると、人は弱い。巧くやっている人を
見ると、俺もと、誰しもが思う。
私は逆である。じゃあ、違う方法で行こうかと、まず考える。
今の若い人にとり、80年以前は前史に近いと思う。2000年以降の現実の中で育ち
そこで出来る範囲で、楽しみ方を探していく。どうせ世の中はこうだから、と
諦めているのは、比較的若くも無く、かといって、私の様に常にオリジナルでいこう
という発想もない人々では無いだろうか。
今日はこの辺で、筆を置く。