
18歳で助手席デビューして20歳で最初の
マイカーを持ち、クルマを実際に生活の一部に
してきた私は今年の7月で55歳になる。
最近、古い写真ばかり出してくるが37年間、
クルマを触ってきたのである。
いま健康で、80歳で車に乗られる高齢者は、結構いる。
しかしこれから25年後まで車に乗れることは、判りません。
だから私は、整理しながら、生きて行こうと思います。
高校3年間は、市内一の進学校に通ったが、私の親友は、中学時代に縁のあった工業
高校に通う1人の大人しい男である。
40年前、進学校の子はあまり活発でなく、1人だけ細野晴臣や大瀧詠一を聴いている
奴がいて、そいつとは中が良かったが、後の同級生は、勉強という餌で飼育される、
家畜と思っていた。
工業高校の生徒というのは、進学目標の勉強より、青春しに行ってるような子が
多かった。ただ奴は弱かったから、少し離れた町にある、選択肢の一つに過ぎない
地味な工業高校を選択した。
その男のことを思い出したのは、どうにも進んだ高校に馴染めなかった1年目の
1学期の初夏である。
学校の違いより、私は遊び相手に飢えていた。まずは中学時代の延長戦で、6月に
サイクリングに挑戦した。その後は釣りとキャンプである。
奴とは随分、いろんなことに取り組んだ。SL写真撮影で、中3から高校にあがる
春休みに、二人で鹿児島旅行したのが思い出を共有する始まりになった。
蒸気機関車無き後も、一緒に博多に遊びに行ったり、年に1回は夜行列車で旅をした。
行き先は大好きな南九州ばかりである。
16から18歳という年は大人の数年分以上の成長をする。その時にどんな体験を
するかで、その後の人生観の形成に大きく関わって来ると思う。
無難な先生に従順に従った子は、その後の人生に無理な冒険は避けるようになる。
私は逆だったから、面白いことが今でも好きだ。
私の出た高校は、頭の良い子は多い。しかし私は学校に隠して、バイクや旅行、
写真の撮影行などを繰り返していた、「隠れ行動派」だった。
当たり前の部活などやって、何が楽しいものか。体育会系などは軍隊だと思っていたし、
教師や教官の言うことは聞かない反抗児だった。
私の高校から朝日新聞やNHKに入る者は多いが、頭が良いだけならサラリーマンで
十分だ。
頭がある程度よく、かつ行動力がある人間が一番、ジャーナリストに進むのに
適しているのではないか。
私の行動力の原点は、高校時代に培った、友人との長距離旅行にルーツがある。
また、ジャーナリストっていう職業は、判断力だと思う。情報を類別するだけでなく、
最後は嗅覚のような判断力が要請される。
腐ったものを食べると下痢をする。大衆にこの政治家は腐っているか、その判断をする
力は人間としての底力だと思うが、最近は野生の感覚が濁った人が多い。
私の走り方を、“地道1000km、千本ノック”とうまい表現する友人がいるが、
今でもアルファロメオ75を乗り、ひと駆けで1600kmも走ってしまう。
きょうはそのあたりのことを書いてみたい。
今は違うかもしれないが、1975年頃は、工業系の高校に通う子は16になると
まず原付免許を取り、続いて自動二輪、18歳の高3時に普通運転免許を取るのが
当たり前だった。
農業系やそれから中レベルの公立高校も似たような傾向である。
これは学風でなく、家の仕事の手伝い等とバイトをして、早くお金を稼ぎ世に出たい、
遊びたいから、当然の流れである。
反対に偏差値の高いところにいくと、大学がまず人生の目標になる。
バイトは禁止でなくても、家が裕福な子が多いから大抵しない。
買ってもらえるのと、自分で買うのは大きな違いなのであるから、その差は大きい。
そう言う訳で進学校でも私は浮いていたが、自分なりの成長の仕方で懸命に
バランスをとっていた。
で、くだんの友人・ツレがやっぱり二輪に行き、自転車を卒業してしまった。
自分の高校では、お坊ちゃんたちがランドナーやロードにキャーと言っている横で、
パラレルに僕は工業高の生徒の生態を知っていた。
草食系男子(今で言うだが、まさに先を行っていた)のSが、旅の時は私が同い年
でも年長のようにリードしていたのが、あれよの間に原付から自動二輪小型に乗る
ようになった。
私は面食らったが、自分でも原付の試験を受けに行き免許を取得したが、事実関係を
理解してあっさり彼の70ccバイク、ヤマハ・ジッピーのリアシートに座るように
なった。
二人あわせて所持金500円の時代に、日曜になるとガソリン代を折半して二輪で
遠出した。行き先は福岡県と大分県の境にある野峠を越えて、耶馬渓側に降りて、
中津を通って苅田町の私の家に帰ってくる程度である。
宇佐や国東半島にも行った。西鉄の運転士の父を持つ彼の家は、二人の兄は成人して
家を出ていたから、彼はお母さんに大切に育てられていた。
初めての二人乗りは、尾崎豊まがいに工事現場で拾って来たドカヘルを、私は
被ったが、優しい彼の母がもう一つヘルメットを買ってくれたのだろう。
やがて彼がフルフェイス、私がお下がりのメットとなり、あっち行けこっち行けを
後ろから指示するようになった。
18歳になった彼は、高校を卒業時に普免を取りすぐに中古のスズキフロンテ71に
乗るようになった。
私は浪人して予備校に通いながら、今度は一緒にクルマの旅が始まったのである。
私が今、3児の親になったが、バイクは危ないとか、乗るなというものでなく、
乗りたかったら若者がきちんと大人を説得するべきと思う。
ヘルメットが足りてなく、配慮してくれた母君がいたから、私はこうしている
のだろうと理解する。
最初のドライブで四輪は二輪よりはずっと楽であることを、つくづく実感した。
そうして何度か乗ったフロンテであったが、時々アイドリングが下がらなくなる
欠点があった。今なら想像のつく難点だが、5万円で買った最初の友人の愛車は、
調子が悪いと言うことになり、1年乗らずに73年頃のホンダZを買い直した。
これはツインキャブで5速がついていた。エンジンは1万回転を越えるくらいよく
回ったが、リッター10km程度の燃費に、友人はいつも苦笑していた。
その頃私は浪人身分だが、地元の私立大に進んだ友人は大学生となり、高校時代より
遥かに自由の身となり、よく私を誘い出してドライブや軽い旅行をした。
1979年2月に私が大学に合格すると、3月に二人で軽自動車で九州一周をする
ことにした。
夜の8時に小倉を出発して、深夜の国道3号線を南下。八代から肥薩線に沿った国道を
ひた走り、明け方前に肥薩線のループのある駅、大畑まで一気に友人はホンダZを走らせた。
19歳の二人は、高速も無い時代に真夜中を500km以上、360ccの自動車で駆け抜けた。
深夜トラック以外走っておらず、マイカーで夜、旅する者は皆無だった。
コンビニも無い時代、自動販売機以外に夜間食べるものは全く売っていない。
それでも僕たちは、走り続けて目的地までたどり着いた。今思えば、冒険と危険は
一字違い。そうして数日間1000km以上の旅が始まった。
運転するのは免許を持っている連れだけである。旅の途中でやつが機嫌が悪くなって
気まずい空気に一度だけなった。荒い運転になり、一瞬「信じられん」と思ったが、
そこから降りて家に帰れる金も持っていなかった。
まあ、どうにでもなれ、の気持ちで、そのまま乗り続けたら風景が変わって
やつの精神状態も元に戻った。長い運転に疲れていたのだろう。
あれから35年経つが、あの時に覚えた旅する楽しさが、まだ私の体内に時を刻み
続けている。
いつまでこんな旅を続けるのか判らない。だが、まだ走り続けていることだけは、
クルマから降りていないので、確かなのだろうと思う。