
私は、やめジャーナリストである。
もう今の状況で、何を語れるのか。
おこがましいような気分だが、少しは読んでいただける
同志の方もおられるので、筆をふるうことにしている。
みんな怒ったりしなくなってきた。
諦めが早く、物わかりがよくなり、一見道理のようで、
疑義や疑問を抱くことはかっこ悪い。そんな世の中に
なってきた。
いつもマスコミのことを否定的に捉える人がいる。
社会構造のうち、今まで見えなかったことが、ネットという装置を使って
リフレクトさせると、いろんなことが、入って来るようになる。
そこで「そうだったのか」、「だまされていた」と感じる人は多い。
特に独占的な報道の仕事で、多くの収入を得ていたことは
時代がこのようになると怨嗟の対象になりやすい。
うすうす感じていた私は、いろんな考えがあり、ある時に会社を辞めた。
その後の当ても無く、今を生きており、暮らしは随分厳しくなった。
ひなた(生活の良い条件のところ)に居て、社会や正義を語ることは、
いつくらいから、言い難くなったのだろう。
それでも一日数本の原稿を書いて、高い収入にあずかっている人々は
編集委員などと呼ばれて、まだまだ世の中にいてる。
私はそうなれなかったので、勝ち組なんて、言葉とは無縁の人生になった。
今はそれより、一歩世の中から引退して、後ろから社会を眺めて
こういうところなどに記事を書いている。
命運というのは運命と似ているが、これからどうなるのかについて
書いて行く。
時代を眺めて考える時に、その時のキーワードがある。
例えば10年前の2000年代は、2001年の9.11があり、
遠い対岸のアメリカで、歴史に残る大事件が起きて、日本も否が応でも
イスラム社会のことを、考えざるを得なくなった。
それと北朝鮮の日本人拉致が、正式に歴史として判明した。
小泉時代は激動の時代であったが、5年間よく続投したものと思う。
今の政治権力者は、内閣を先日ようやく改造した。
10年前に戻ったようなスタッフの登用に、ようやく本音が見えて来た。
それから民主党のことを、厳しく批判する人はまだ残っているが、
健全な政治というのは、与党の動きを見張る対抗力が必要なのだが、
今の時代には無い。
それがこういう時代、空気になったことの原因の一つであることは、
判っている。
地震と津波が東日本を襲い、原発という日本が抱えていたタブーが破損した。
その時に誰が政権に立っていても、悪い結果は起きていたであろう。
市民運動あがりの政治好きが、前任からバトンタッチされて、ああいう
結果になり、日本は世界の笑い者になった。わずか3年前の話だが、
その時の現場責任者の吉田調書が、今ようやく情報公開されて、
東日本が吹っ飛ぶ寸前のクライシスだったことが、活字になった。
ところで、社会の情勢や空気と言うものは、別に今に始まったことでなく、
いつの世でも醸成されるものである。
朝日新聞というエスタブリッシュなカンパニーがある。
今は随分、影響力が下がった。
会社側にも、原因はあるが、そのことは、今回は目を瞑る。
どうしても、現政権には、前回の登板時の恨みがあるらしく、悉(ことごと)く
朝日新聞を押さえ込もうとして、掣肘を加えていることが、よくわかる。
そのことは誰でも知っているだろう。
野球のゲームに例えるのは、不謹慎だが、勝つチームのことだけを
見ているのは楽である。
日本人国民は、大多数が巨人ファンだと言うと異論があるが、それが
何となくの安心感につながるようなやり方が、与党政治だ。
戦後、1950年代後半から現代に至るまで、日本の社会構造の軸は
「巨人ファン」的な安定志向だった。
幻想と言うものを信じ込まされて、それが偶然成功モデルになる。
そうしたら大多数の人はそれを「真実」だと思う。
戦後の1958年頃から、ヒーローが登場して、巨人軍は日本の歴史の一部に
なり得た。
長島と王だけでなく、漫画の主人公やピンクレディーのヒットソングまで
大衆文化はうまく回転したのである。
今で言うと、それが“洗脳”教育に近いことは、判るが、当時は産業の一端
でもあったのである。
私は1977年に高校3年だった。
当時の九州に、栄光球団の「成れの果て」が残っており、
そこから、正しい野球史のことを学ぼうと、古い雑誌をめくって行った。
つまり野党のことも知らないと、政権与党の実在は、分からない。
口を開けて国民が、幸福と言う餌を撒いてくれるのを待つ時代は、遠ざかった。
ところが今の時代のお爺ちゃんお婆ちゃんは、今でも巨人と自民が好き
なのである。
ここが悩ましいことの最大の原因だ。
野党にやらしたら「ほら、『それみたことか』じゃないですか。あの鳩山、
菅、野田のときの政治」。
というのが、今の自民党を支持している人の気分だ。
嫌いなものは仕方ない。代案も無いときはどうすれば良いのだろうか。
それが権力監視のジャーナリズムの仕事だったのであるが、彼らも
長い間、良い給料を貰っていたので、実はかなり錆びていた。
今はフリージャーナリストの佐々木敏尚が、警鐘を書いていたので、
私もいつまでも会社に居続けることは、良くないと思うようになった。
わたしはそのことが退社の理由の大きな原因である。
しかし匹近な話題で申し訳ないが、我家はその後困窮した。
といってもどの程度のことなのか。
5年経ち、暮らしに精いっぱいな私に、妻から最後通牒が突きつけられて
いる。
そのことで、気落ちしても仕方がない。
私はブログに真実を書くことで、気を吐くしかないではないか。
女の人はすべて金だけなのだろうか、そんなことは無いと思いたい。
本論に戻ろう。
今の時代は、悪いニュースを見たくないと言う心理を逆手に取り
情報がコントロールされて、例えば権力者やお金持ちを守ろうとしている。
もう随分前から、長者番付をヤメてしまい、大阪府や東京都、日本一の
お金持ちが誰か、判らなくしてしまった。
庶民に必要の無い情報を流さぬ。個人情報令の施行も、その後ろ盾であろう。
そのことで、必要のない危険、誘拐とか強盗のことを理由にして、金持ちは
のびのびと、反対に誰にも判らぬように資産形成するようになった。
オブリジェ(義務)なき猟金活動があからさまになってきた。
また、政治も監視が弱まり、国民不在のハンドリングが可能になりかけている。
ざっと、こういうことなのであり、そこから時代の命運を考えてもらいたい。
実は昨日の記事を書きかけた段階では、「黒子のバスケット」事件の
ことを取り上げようと考えかけた。
社会の不平等を口にする主犯の主張が、長い口頭記述になったのが
読むことが出来、あまりにも痛々しいかった。
しかし彼は30代で、すべてを世の中のせいにしてしまった。
まだ私の齢まで20年あるのに、という感想も残った。
誰もが「成功者」にならなくても、目指さなくても良いではないか。
私はそうならなかった、なれなかったのか判らぬが、ここに自由に
書いている。
私の言いたいことは、そこなのである。
国民すべての幸福を、生活保護の法律みたいな基準思考でなく、
相対的な価値観の時代に移行していくには、何が必要なのだろうか。
遊びや趣味に、人生を投影できる人はまだ、生きる楽しみを見つけられる
方だと思っている。
今の社会について、何も起きぬから平和で安全なのだ、と考えるのは
危うい。
実は今年は起きているのである。マレーシア航空の2機の事件から
ウクライナとロシアの問題、そして世界情勢は、日本をどう見ているのか。
年末までの4ヶ月にまだ、かなり情勢はひっくり返ると思う。
やっぱり政治は新陳代謝しないといけないし、野党という言葉以外にも
何かは必要である。
きょうはこのあたりで筆を置く。